第三章 おかえり
午後六時三十分。
ロイド・ハリスは、自宅の玄関を開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
奥からエミリーの明るい声が聞こえた。
彼女はエプロン姿でキッチンから顔を出すと、ロイドのもとへ駆け寄った。
「お疲れさま。今日は早かったのね」
「ああ。検査も報告も終わったからな」
「そう。よかった」
エミリーは微笑み、ロイドの頬に軽くキスをした。
「夕食、もうすぐできるわよ。今日はあなたの好きなものを作ったの」
「ありがとう」
ロイドは笑った。
妻の笑顔を見るのは、久しぶりだった。
宇宙にいる間も、通信越しに彼女の顔を見ることはできた。しかし、画面の向こうにいる彼女と、こうして同じ場所に立っていることは違う。
彼女の体温。
声の響き。
何気ない仕草。
そのすべてが、帰ってきたことを実感させてくれた。
「どうしたの?」
エミリーが尋ねた。
「いや。やっぱり、家はいいなと思ってさ」
「ふふ。宇宙はそんなに大変だった?」
「大変だったよ。食事は単調だし、寝るのにも気を使うし」
「帰ってきたんだから、しばらくはゆっくりしてね」
「ああ」
エミリーは満足そうにうなずき、キッチンへ戻っていった。
ロイドは玄関に立ったまま、しばらく妻の後ろ姿を見ていた。
何も変わらない。
家の中も、妻も、何も変わっていない。
それなのに、なぜだろう。
ほんの一瞬、胸の奥に違和感が走った。
自分は、今までこんなふうに彼女を見ていただろうか。
いや、考えすぎだ。
ロイドは鞄を置き、リビングへ向かった。
夕食の席では、エミリーが宇宙滞在中の出来事を尋ねた。
「船外活動はどうだった?」
「予定どおりだよ。設備の点検も問題なかった」
「宇宙から見た地球、また写真を見せてね」
「もちろん」
ロイドは料理を口に運んだ。
懐かしい味だった。
妻が作る料理を、何か月も食べていなかった。
「おいしいよ」
「本当?」
「ああ。やっぱり、君の料理が一番だ」
エミリーは嬉しそうに笑った。
「よかった。帰ってきたら何を作ろうか、ずっと考えていたのよ」
「ありがとう」
二人は他愛のない話を続けた。
近所で新しい店が開いたこと。
エミリーが休みの日に見た映画のこと。
帰還後の休暇をどう過ごすか。
どれも、ありふれた話だった。
ロイドは笑い、エミリーも笑った。
その時間は、穏やかだった。
しかし、食事の途中で、ロイドの手が止まった。
「……ロイド?」
「ん?」
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
ロイドは妻を見た。
彼女は心配そうに自分を見つめている。
その表情を見た瞬間、ロイドは不思議な気持ちになった。
なぜ、そんな顔をするのだろう。
自分は帰ってきた。
身体にも異常はない。
仕事も終わった。
何も問題はないはずなのに。
「疲れているの?」
「ああ、少しだけ」
「無理しないでね」
エミリーは優しく言った。
ロイドは微笑み返した。
「分かってるよ」
その言葉を口にしたとき、彼は自分の声に妙な違和感を覚えた。
いつもどおりの声だった。
だが、どこか遠くから、自分の声を聞いているような感覚があった。
一瞬のことだった。
すぐに、その感覚は消えた。
ロイドは食事を続けた。
その夜。
エミリーが先に寝室へ向かったあと、ロイドは一人でリビングに残っていた。
テレビをつけていたが、番組の内容は頭に入ってこなかった。
画面の中では、ニュースキャスターが世界情勢について話している。
紛争。
経済危機。
災害。
人々の苦しみ。
ロイドは、それらをぼんやりと眺めていた。
宇宙にいたころも、地球のニュースは見ていた。
人類は、地球の外へ活動範囲を広げている。
それなのに、地上では相変わらず争いが続いている。
どうして人間は、こんなにも多くのことで苦しむのだろう。
そんな考えが浮かんだ。
ロイドは眉をひそめた。
自分らしくない考えだった。
いや、そうだろうか。
人類が宇宙へ進出したからといって、人間そのものが変わるわけではない。
人間は昔から、同じように悩み、争い、傷ついてきた。
それを不思議に思うこと自体、別におかしくはない。
ロイドはテレビを消した。
静寂が訪れた。
窓の外では、街灯が道路を照らしている。
ロイドは窓辺へ歩み寄り、夜空を見上げた。
地上から見える星は少なかった。
それでも、宇宙にいたときの光景を思い出すことができた。
広大な暗黒。
無数の星々。
そして、あの眩しさ。
ロイドの表情が変わった。
あのとき、確かに何かを見た。
ただ目が眩んだだけではない。
そう思った瞬間、彼は自分の考えを打ち消すように首を振った。
「……疲れてるんだ」
小さく呟く。
そうだ。
疲れているだけだ。
医師も異常はないと言っていた。
マックも、これ以上は調べようがないと言っていた。
それなら、もう考える必要はない。
ロイドは寝室へ向かった。
ベッドに入ると、エミリーが寝返りを打った。
「ロイド?」
「起こしたか?」
「ううん。まだ起きていたの?」
「ああ。少し考え事をしていた」
「何を?」
ロイドは答えようとして、やめた。
何を考えていたのか、自分でもよく分からなかった。
「仕事のことだよ」
「そう」
エミリーは目を閉じた。
「もう仕事のことは忘れて、ゆっくり休んでね」
「……ああ」
ロイドは妻の横顔を見つめた。
そして、目を閉じた。
部屋は静かだった。
呼吸音だけが、ゆっくりと重なっていく。
ロイドは眠りに落ちる直前、ふと妙な感覚を覚えた。
自分の頭の奥に、何かがある。
それは痛みでも、かゆみでもなかった。
自分ではない何かが、そこに存在しているような感覚。
だが、目を開けることはなかった。
眠気が、すべてを包み込んでいった。
その夜、ロイドは久しぶりに深く眠った。
そして翌朝。
彼は、以前よりもずっと軽い気持ちで目を覚ますことになる。
まるで、長いあいだ抱えていた何かが、きれいに消え去ったかのように。
彼自身は、それを休息の効果だと思うだろう。
妻も、そう考えるだろう。
しかし、彼の脳の奥では、すでに変化が始まっていた。
その何かは、ロイドの幸福を理解しようとしていた。




