第九話『自由を与えたくれた人』
「リュシエルは、勇者って何だと思う?」
「考えたこともない」
リヴェルは、あの救いのない地獄の中でも変わらず、リュシエルの面倒を見てくれている。
当初はあんなにも疎ましく、厄介に思っていたその気遣いも、自分を気にかけてくれる存在があるという事実が、いつの間にか冷え切った心の確かな支えになっていたらしい。
ロジーナからの嫉妬や陰湿な嫌味にも、自然と耐性がついていた。それもこれも、リュシエルには頭の中でいつも絶対的な味方たちが、温かい声を響かせてくれているからにほかならない。
「どうして僕たちは居るんだろうね」
「……そんなの、魔王を倒す為じゃないのか?」
本当のところ、今回の勇者候補の本命はリュシエルなどではなく、リヴェルだった。誰よりも立ち振る舞いは様になっており、魔力も剣術の素質も申し分ない。
彼こそが真に魔王を討てる器だと周囲は期待していた。
しかし、勇者選定の最終試験の日。リヴェルは、自らの手で命を絶ったと知らされる。今になって思えば、あんなにもリヴェルを盲目的に溺愛していたロジーナは、そのときひどく痛々しい様子で、何より片目を潰されていた。
シグは何の言わず、ただ次善策として転がり込んできたリュシエルに向かい、「まあ、頑張れよ」と他人事のように告げただけだった。
そうして彼女は、望んでもいない呪われた勇者の椅子へと、有無を言わさず引っ張り出されたのだった。
✲✲✲
パチパチと乾いた音を立てて燃え盛る王城の中で、リュシエルは反射的に両手で口を覆った。玉座の間には、王や宰相たちが冷たい骸と化して転がっている。
「な、なんで……」
「魔王が死んだからだろうな」
目の前の現実が脳内で処理しきれず、絶望に足元から崩れ落ちそうなリュシエルの身体を、レイスはまるで壊れやすい硝子細工でも扱うかのように、その腕で優しく抱え上げた。そして、業火に包まれた崩壊の只中を、散歩でもするかのような平然とした足取りで城の外へと歩き出す。
だが、一歩外へ踏み出した先にも、救いは微塵も存在しなかった。
かつては人々の活気と笑い声に満ちていたはずの広大な城下町は、不気味なほどの静寂に包まれていた。建物は黒く焼け落ち、逃げ惑った跡の残る街道の至る所で、人々がただ力なく、糸の切れた人形のように倒れている。
(なんということだ……)
絶句する脳内の声を聴きながら、リュシエルは周囲を見渡す。
「魔王が討たれたなら、魔族どもの勢力も衰えるはずなんじゃ……」
「リュシエル。魔族は群れではなく個で生きる。勝手に統治などと仕組みを作ったアレがおかしかっただけで、魔王一人の死が、他の強い魔族たちの行動に微塵も影響など及ぼさない」
「じゃあ、じゃあ……! じゃあ、俺が――勇者リュシエルが命を懸けて成し遂げたことは、ただ人間の滅びの引き金を引いて、その破滅を加速させただけだったっていうの……!?」
魔王の首を王城へ持ち帰ったとき、国王の顔面は青ざめていた。あれは、自分たちが辿る破滅の未来を予期していたからなのか。そして、リュシエルをあえて「次期魔王」の枠に当てはめたのは、残された魔族に対する何らかの防波堤を期待したからなのか。
だが、どれほど足掻こうとリュシエルはただのちっぽけな人間にすぎない。自分を縛る圧倒的な魔族から、逃れられるはずもなかった。酸欠のように呼吸が乱れ、細い身体が激しく震え始める。
(落ち着け、落ち着けリュシエル。お前は悪くない。何も悪くないんだ)
「だって、俺は魔王を倒して、世界に平和をもたらしたはずだろ……ッ! 皆は、リヴェルの犠牲はなんになるのっ!」
大人など信用していなかった。人間も、魔物も、魔族も、世界そのものが嫌悪の対象だった。ただ、あの地下で過酷さを共にした仲間たちだけは、わずかに信じることができた。
皆が死に絶え、最後に残ったのはリュシエル一人。シグをこの手で葬り、首輪を引きちぎったときには、もう何もかもどうでもいいと思っていた。
だが、世界そのものが破滅してほしいと願ったわけではない。
彼女は、どれほど不本意であろうと、曲がりなりにも「勇者」として選ばれ、戦い抜いたのだ。
たとえそれが大人たちの歪みねじ曲がった思惑に嵌められた結果だったとしても、いつか訪れるはずの平穏な日常を取り戻すために命を削り、その果てに自らの手で魔王を殺したのだ。
「……悲しいのか?」
俯き、拳を強く握りしめるリュシエルの顎を、レイスは冷やりとした指先でそっとすくい上げ、無理やり上を向かせた。
リュシエルは拒絶するように顔を歪め、目の前の魔族を真正面から睨めつける。
「魔族同士で、勝手に殺し合っていろよ……。お前たちの私利私欲の闘争に、俺たち人間を勝手に巻き込むなッ!」
「ふむ……ならば、今度はリュシエルが魔族を統治するか?」
リュシエルは固く目を閉ざし、何度も首を横に振る。
「……何を、急にふざけたことを言っているんだよ、お前は……っ」
「冗談ではない。アレがやっていたように、今度はリュシエルが魔族をその手で統治し、管理すればいい。……ああ、我ながら実にいい案だ。そうすれば、お前は人間たちを魔族の被害から守り続けることができるし、俺は、お前の邪魔をする不心得な魔族を片端から食ってやろう」
あまりに身勝手な提案に、リュシエルは完全に言葉を失った。レイスは瞳を眇めて彼女の頬へと指を這わせた。それから、逃げ場を塞ぐように、蒼白く震える唇へと自身のそれを重ね合わせる。
瞬間、頭の声たちが、一斉に悲鳴をあげてざわめき立った。それはまさしく、今まさにリュシエル自身が感じている耐えがたい嫌悪そのものであり、頭の中の彼らは我が事のように狂ったように叫び声をあげ続けていた。
拒絶しようと身じろぎするも、身体に回された腕は鉄の枷のようにびくともしない。
「っ……もう、嫌だ……。離せよ、離して……!」
必死に声を枯らして訴えるリュシエルの耳に、レイスの甘やかな、しかし逃れられない呪縛のような囁きが落ちる。
「リュシエルは確かに偉大な勇者だが、その中身は結局のところ、脆く儚い一人の人間にすぎない。それに、あんな醜悪な裏切りを知ってしまえば、もう戦う意思などお前には残っていまい。そんな無防備なお前が、この壊れかけた世界へ一人で放り出され、俺の庇護の中から出ていこうものなら――あっという間に飢えか何かで死んでしまいそうだ」
真っ白な瞳が、底知れぬ暗い独占欲を帯びてリュシエルを捉える。
「せっかく俺を退屈な呪縛から自由にしてくれた命の恩人が、そんなみすみす犬死にする姿など、俺は見たくない」
(リュシエル。一か八かだ。魔力を練るんだ)
頭の中で響く声に背中を押されたリュシエルは、気圧されまいと不敵な笑みを浮かべながら、即座にレイスの端正な顔を力強く手で覆う。
「はッ! そんなの、クソ食らえだ……っ。魔族に守られるくらいなら、死んだほうがマシに決まってる!」
戯れのような慈悲も、狂気を孕んだ愛執も、すべてを真っ向から拒絶し叫び声を上げると、リュシエルは残された体内の魔力を限界の極限まで引き絞った。
自らの肉体ごと、このふざけた運命のすべてを吹き飛ばす覚悟で、ありったけの魔力を一点に集中させ、掌の中で一気に暴発させたのであった。
✲✲✲
世界を焼き尽くしていた業火がようやく落ち着きを見せ、灰色の空の切れ間から、冷たく白々しい朝の太陽がゆっくりと昇ってきたころ。
瓦礫の山に転がる無数の死体の足元から、不気味に蠢く闇が這い出してきた。それはおぞましい脈動を打つと、おびただしい数の巨大な腕がドロドロと地を這うように生えてくる。
周囲の建物の影を飲み込みながら、影の塊はみるみるうちに膨張し、いくつもの腕が一つへと融解するように絡み合い、やがて巨大な黒い人影へと変貌を遂げた。
背中からはおぞましい無数の腕がうねり、顔のありべき場所には、感情の読めない異質な真っ白な瞳がぽっかりと浮かび、冷ややかに死せる世界を見渡している。
その異形の化け物の足元へと、一歩、また一歩と、塵一つ汚れていない足取りで近づいていく影がある。――ブリキだ。
「おやおや。その悍ましくも懐かしいお姿を見るのは、いったい何百年ぶりでしょうか……レイス殿」
白い瞳は、足元に佇むブリキを感情の窺えない目で一瞥した。次には、悍ましい質量が音もなく縮小していき、虚無を纏ったような美しい青年の姿へと、鮮やかに形を戻していく。
「リュシエルは?」
「東へ逃げて行きましたよ。いやはや驚きました。彼女も流石は長年の死線を潜り抜けてきた生粋の勇者、その治癒能力は化け物じみている。身体の半分が自身の凄まじい自爆によって吹き飛ばされながらも、一瞬にして肉体を再生させ、そのまま逃げ延びてみせましたからね。……正直なところ、何故あんなにも強大だった魔王が、たかだか人間の娘ごときに敗れ去ったのか些か疑問でしたが、あの異常なまでの治癒能力を目の当たりにすれば、さもありなんといった所でしょうか」
ブリキは不敵な笑みを浮かべ、感心したように肩をすくめて見せた。レイスは風に揺れる髪を整えながら、ふっと小さく息を吐き出す。
「アレの最大の誤算は、度重なる謀略と勇者計画の裏で、完全に自分の手から離れきった――『本物の勇者』を、知らず知らずのうちに造り上げてしまったことだろうな」
呟きながら、レイスはふと自分の腹部を抑えた。先ほどのリュシエルの凄まじい自爆からの復活の為、久方ぶりに大量の魔力を使った反動なのだろうか。
体内で微かにうねる飢餓感に、彼の端正な眉がわずかに顰められる。
「……やはり、あの姿は燃費が悪いな。すぐにでもあの頑固な勇者を迎えに行きたいところだが、……ふむ。近くに魔族どもはいないのか」
「ええ、ちょうどいい食材がありますよ。ここから3キロほど離れた廃墟の街で、魔族どもが群れて集まっていました」
その報告を聞き届けたると、たちまちレイスの腹の底から、底知れぬ空腹を告げる不気味な音が小さく響いた。彼は艶やかな唇を舌先でゆっくりと舐め上げ、冷たい双眸を狂喜の色に染め上げる。
「ああ、何百年ぶりの馳走だろうか」
「相も変わらず悪趣味でございますねえ」
ブリキは呆れたように片手をひらひらと振ってみせたが、レイスの思考はすでに、遠くを駆ける人間の少女へと向けられていた。
「そうだ。幾分か上等な魔族を残しておいて、あとでリュシエルにも食わせてやろうか。アイツもここ最近は、あの味気ないスープばかりではなく、きちんと血の通った肉も食えるようになったからな」
「……人間が魔族の肉を口にするなど、消化器官に聊か重すぎやしないでしょうか。それにしても、生まれて初めて聞きましたよ」
ブリキはカタカタと音を立てて、ふっと小さく笑った。
「貴方が、自らの好物を誰かに分け与えようなんて言葉を口にされるのは」
ブリキの軽口を耳に入れながらも、レイスは返答をせず獲物を狙う獣の如くわずかに瞳を輝かせた。そして、静まり返った大地を片足で力強く踏みしめる。
瞬く間に彼の足元から、地を裂くような黒い影が尋常ではない速度でうねり、周囲の闇をすべて飲み込みながら、どこまでも果てしなく伸びていく。
「あの、人間の娘である勇者が、それほどレイス殿にとって特別なのですかな」
投げかけられた問いに、レイスは振り返る。足元から滑らかに伸び広がっていく漆黒の影が、獲物の気配を探るように地面を這いずる感触を肌で感じながら、彼はブリキを一瞥して、ふっと妖しく微笑んだ。
「世界を救った勇者には、ちゃんと相応の褒美をやらなくてはいけないからな」
「まさか、自身がその『褒美』だとでも言うおつもりですか」
呆れたようにため息をついたブリキは、手にした古びた杖の石突に力を込め、カツ、カツと硬質な音を立てて大地を二度ほど強く突いた。
「だいたい、あの小娘がやったことは結局は『世界を救った』などではなく、この世界の秩序を根底から『壊した』の間違いではありませんか」
「いや、救ってくれたさ」
微塵の迷いもない声音で、レイスは即答した。その瞳には、底知れぬ歓喜の光が揺らめいている。
「長年、退屈と虚無に塗りつぶされていた俺の世界に、あいつは鮮やかな『自由』を与えてくれただろう。……お前だって文句は言えまい、ブリキ。お前がこうして俺の所へ赴き、言葉を交わせるようになったのも、すべてはあのリュシエルが、アレをその手で殺してくれたおかげなのだからな」
「ふむ……それは確かに、その通りですね。レイス殿が長年不在だったこの世界は、あまりにも退屈で、酷く平坦に満ちていた。それを慮るならば、リュシエル殿に感謝をするのも、確かに道理というものですな」
ブリキが乾いた笑みを漏らした、直後。
遥か彼方から、何重もの悍ましい絶叫と、肉を引き裂く凄まじい地響きが重なり合って響き渡る。
数秒もしない内に、漆黒の影に四肢を絡め取られ、身体を引きずられた数体の魔族たちが、レイスの足元へと放り出されるように転がり込んできた。
這い出してきた魔族たちは、目の前に立つ魔族の威圧感を肌で感じ取り、恐怖に顔を青ざめさせながらレイスを仰ぎ見る。
そして、命が惜しさと圧倒的な格の違いの前に、その場でひれ伏し、額を地面に擦り付けながらみっともなく命を乞い始めた。
群がり命を乞う獲物たちの醜態を、レイスは狂喜の色を帯びた瞳で見下ろす。潤んだ唇を舌先で名残惜しそうに舐め上げると、まるで食事前の子供のように、小さく静かにこう呟いた。
「――いただきます」
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