第八話『終わりの始まり』
レイスとの暮らしは、これまで生きてきた中でも、穏やかな日々を謳歌していると思えるものだった。
朝、昼、夜と共に食卓につき、レイスと言葉を交わす。暇なときは魔族の読む本を借りるが、結局読めずにレイスに読み聞かせてもらう。あるいは、たまに遊びに来るレイスの友人・ブリキと話したりもする。
レイスと初めて出会った湖。水面に映る自分を眺めながら、ふと、平和だなと頭の中で呟いた。
(このまま、レイスの所で暮らすのも良いな)
(でも、まだ、太りきったリュシエルをレイスが食べる懸念はあるぞ)
「今日の晩御飯は何だと思う?」
水面に指先を浸しながらぽつりと零せば、脳内の声は一斉に口を閉ざし、深い溜息を落とした。
(ほら、リュシエルはもう飯の事しか考えられなくなってるぞ)
「だって、うまい飯に暖かなベット。どうせ、ずっといる訳じゃないんだし、後少しだけゆっくりするのも良いじゃないか」
(出ていく気はあるんだな)
「まあね。ここは、静かだし、きっとレイスが何かしら魔法をかけて人が来ないようなってるとは思うけど、……俺は海が見える場所に行きたいな」
(海? それは、今思いついたことか?)
リュシエルは細めた瞳の奥で、あの青く果てしないきらめきを思い返す。ひどく懐かしく、そしてどこか生臭い潮の匂い。魔王討伐の旅の途中、船を使う度に、リュシエルはあてどなく海を目で追っていた。
海の向こうを見つめていると、消えかかった両親の記憶の輪郭が、わずかに熱を持って蘇ってくるからだ。
「ずっと……ずっと、考えてた。海が見える場所で静かに誰にも邪魔されず眠りたいって」
『それは世で言うところの『帰巣本能』とやらですかな? 人間というのは生まれた土地から飛び出したがるくせに、最後は結局、自分が始まった場所で幕を引きたがります』
音もなく森の影から滑り出してきたブリキが、リュシエルの真横に立って見下ろしてくる。喋っていないときでさえ、全身の身体がキイキイと耳障りな音を立てる煩わしい魔族だ。
「人間だけじゃない。動物も、魔物も、だいたいそんなもんだろ。……魔族にはないのか、そういうの」
水面に触れた指先から視線を外さず、小さく動かすと、湖に浮かぶ青葉がゆらゆらと波に揺れた。
『ありませんとも。我々は産まれたときから、己という輪郭を確固として持ち合わせておりますゆえね。孤独であり、孤高である。それこそが魔族の持つ、いわば不文律というやつでございますよ』
「レイスは? あいつ、父親がいるだろ」
『ああ。あの方と、リュシエル殿が討ち取った魔王の間に、人間でいう血の繋がりなどはありません』
リュシエルは顔を水面から上げ、ブリキの方を見据えた。だがブリキは一度目を合わせただけで、スッとそっけなく顔を湖へと背けた。
(ほう……?)
(確かに、レイスと魔王は似ても似つかぬ姿をしていたせいで、ブリキに聞かされるまではただの魔族だと思い込んでいた)
記憶の底から魔王の姿を引っ張り出す。そういえば頭に角があったような気もするが、レイスの頭には見当たらない。とはいえ、彼は人間に擬態していると言っていたから、隠しているだけで本当は角を生やしているのかもしれないが。
『もっとも、今となってはレイス殿の力が魔王を凌駕しておられましょう。ですが、若き日のレイス殿は敗北し、ある契約を強いられることになりました』
「契約?」
『血を媒体とする、魔族にとって最上の不可侵条約。それを結んだ者は、決して相手を傷付けず、裏切らず、殺すことも許されません』
持て成し、持てなされるを大事にするというルールがあるかと思えば、決して傷つけないという絶対の誓約まである。魔族の世界というのも、人間からすれば想像以上にややこしい仕組みで成り立っているのかもしれない。
「他人に首輪をつける趣味はありそうだけど、自分が付けられるのは死んでも嫌いそうな顔してる」
呆れたようなリュシエルの呟きに、ブリキはクスクスと笑い、『おや、リュシエル殿にはそう感じられるのですか』と含みを持たせてから、何事もなかったかのように話を続ける。
『若き日のレイス殿はどうにかしてその不条理な契約から逃れようと必死でした。……結果は、対策はことごとく空振りに終わり、失敗したときの不機嫌さといったら……あの人のせいで、周囲の魔族は常に胃が痛む思いをしていたものです』
「ハハッ。父親は人間から恐れられて、息子は魔族から恐れられてる。お似合いじゃん……で、そんな話を俺にした意味は? レイスには感謝をしてるけれど、だからって魔族とつるむ気にはならないな」
(……もう結構なペースで世話になってる気もするが)
短いながらも穏やかだった日々を思い出し、ぐちゃぐちゃだった髪を整えてもらった記憶が蘇るが、即座に、いや仲良くなってないと言い聞かせる。
『ええ、ただ……知っておくのも悪くないかと。あの人は、ご自身のことはまず語りませんからねえ』
「勝手に話すのはいいのかよ」
ブリキはそれに返事をせず、ただ嗤うように音もなく森の闇へ溶けていった。あとに残されたのは、切りそろえた髪をかすかに揺らす冷たい風だけ。
冷たい湖面に浸し続けていた手を引き上げると、指先はふやけてふっくらとしていた。その掌を一度きつく握りしめてから、空を見上げる。
「今日、レイスにここを出ていくと話すか」
(どういう気まぐれだ?)
「気まぐれじゃないよ。ブリキも言ってたろ、帰巣本能ってやつさ。それに勇者だし、自分が救った世界とやらを見て回るのもよくないか」
(ふむ。魔王を倒した、世界がどう変わったのか確認する価値はある)
(生き残りの魔族どもが、好き勝手に暴れている可能性も高い)
「いっそ、髪を真っ黒に染めて傭兵でもやるか。口の利き方も少しずつ直していけば、俺が勇者だなんて誰も気づかないだろ」
(ああ、そういえば我々はあの王国から次期魔王として指名手配を受けていたな)
(それこそ勇者なんて野暮な肩書は捨てて、どこかの村で普通の女として生きる道もあるぞ、リュシエル)
リュシエルは軽く息を吐いて立ち上がり、固まった背筋を伸ばした。頭上に広がる空は驚くほど青く、澄んでいる。
いつからだろう、空を美しいなどと感じるようになったのは。おそらく、あのレイスの小屋に転がり込んでからだ。
血塗られた過去を忘れ、朝に起きて、夜に眠る。そんな当たり前の日常が、今はやけに眩しかった。
「普通の女、なんてさ」
脳内の声が紡いだその響きに、自分で気恥ずかしさを覚えつつ、水面に目をやった。切り揃えられた髪に、どこにでもある衣服。
今の自分は、血みどろで魔王を屠った勇者というより、名もなき村の娘にしか見えない。
「……料理を覚えたりして、穏やかに暮らすのも、悪くはないのか?」
そんなことをぼんやりと考えていると、背後の草を踏みしめる音が響いた。振り返るまでもない。気配だけでそれと知れた。
案の定、振り返った視線の先には、レイスがいつものように音もなく、静かな足取りでこちらに近づいてきていた。
「リュシエル」
呼びかけられ、差し出された白磁のような手を、リュシエルはしばらく凝視したのち、結局は取らずに、すれ違うようにレイスの脇を通り抜けた。
ただ、すれ違いざまに彼の耳元へ、「大事な話があるんだ」とだけ囁いた。何となくまともに顔を合わせられず、リュシエルは小屋へと続く細道を踏み出した。だが。
「海が見たいのだろう」
背中越しに掛けられた言葉に虚をつかれ、リュシエルは反射的に振り返る。魔族の姿は相変わらず美しかったが、その双眸の奥は月の光のように冷たく凍りついていた。
「……ブリキと何か喋ったのか?」
「いや、今日アイツは俺の下に顔を出していない」
レイスはゆったりとした、しかし逃れようのない優雅な足取りでこちらに近づいてくると、拒絶する暇すら与えず、リュシエルの細い手首を捉えた。
不意を突かれたリュシエルは、わずかに腕を引いて踏みとどまろうと抵抗したが、涼しい顔をしたレイスの拘束は微動だにしない。
それどころか、逃げ出そうとする意志を封じ込めるように、手首を捉える冷やりとした指先に一層強い力が籠った。
逆らうことを許されぬまま案内されるがままに家へと戻り、いつもの定位置である椅子に座らされる。その目の前には、レイスが当然のように悠然と腰を下ろしていく。
ここ最近ですっかり見慣れてしまった、ふたりの日常の光景だ。
「魔王の息子というからには、アレは俺を次期魔王として勝手に見定めていたらしい」
席について早々、レイスはどこか他人事のように、ぽつりとそう切り出した。ブリキの言う通り、普段は聞き役に徹する彼が、一体何の気まぐれか自身の過去を語り出そうとするのは初めてだ。
異国めいた室内で、彼の白眼だけが静かに光を湛えている。
リュシエルは、これからの語らいが最後は穏やかに終わらないという予感があった。
次の言葉を待つなか、レイスは何処かつまらなそうに続けた。
「という訳でもない。アレは俺を制御したかっただけだ」
(どう言う意味だ?)
頭の中で、声たちが疑問を口にする。魔王の息子、すなわち次期魔王候補。そう考えるのが当然だと思えたからだ。
「そもそもアレがなぜ、人間を絶滅させずに『統治』という手法を選んだか分かるか?」
「……」
リュシエルは口を閉ざす。急に話題が変わった戸惑いもあるが、それ以上に、頭の中に答えなど微塵も浮かばなかったからだ。何よりも、魔王が何のために人間を統治していたなどという疑問を、抱いたことすらなかった。
人間を苦しめる巨悪の根元。だから、それを倒す為に勇者の力が必要。それだけを、教えられてきた。
「人間が滅びることで、後に起こる魔族同士の果てしない内乱を危惧していたからだ」
発せられた物騒な言葉に、リュシエルはわずかに眉をひそめた。
「内乱?」
「あぁ。魔族の多くは血の気が多く、その強大な力を誇示することと、底なしの支配欲だけで動いている。だからこそ、野放図な暴走を防ぐために、面倒なルールや掟が無数に作り出された。もっとも、大半の連中はそんなもの鼻で笑って破っているようだがな」
(……持て成し持て成されることを重んじるのも、荒ぶる本能を縛るために作り出されたルールの一つなのだろうな)
しかし、レイスが言うには、そうした戒めの大半は形だけであり、誰も守ってはいないとのことだ。
魔族という種族は理性ではなく、剥き出しの闘争そのものに重きを置いて生きているらしい。
「それが、魔王の統治とどう繋がるって言うんだよ」
「このまま同族同士で潰し合えば、魔族の全滅は避けられない。だからアレは、魔族の闘争本能の矛先を、同族ではなく人間に向けさせた」
「……はあ?」
「だが、人間と魔族の間には本来、どうしようもない圧倒的な力の開きがある。好き勝手に蹂躙させれば、人間などすぐに滅びてしまう。それでは都合が悪い。だから、アレは人間どもの為政者と手を結び、こう提案したのさ」
人間側に脅威となる偽りの敵を演じる。その代わり、邪魔な魔族を定期的に間引かせるための「英雄」をそちらで量産し続けろ、と。
頭の中が真っ白になり、リュシエルは言葉を無くす。つまり、魔王が勇者を作るように人間側に働きかけたと言うのか?
そして直ぐに脳裏へと過ったのは、あのとき、ブリキが何気なく零したもの。
『勇者は造り出されるものだと聞き及んではおりましたが——』
あの時は気にも止めなかったが、勇者計画は、王国の一部しか知らないものだ。
国民の誰もが、勇者は神託にて選ばれたものと信じていた。だから、敵対する魔族のブリキが勇者が造り出すのを知っているのは可笑しい筈なのに。
世界の基盤そのものが音を立てて崩れていくようなめまいに襲われ、リュシエルは乱暴に自分の髪をクシャりと掴んだ。
肺から空気がごっそりと奪われ、激しく波打つ心臓の音に耳が鳴る。酸欠のように荒く乱れていく息を必死に整えようとしながらも、彼女は恐怖をねじ伏せるように、震える声をレイスへと絞り出した。
「じゃ、……邪魔な魔族って、なに」
「ルールを乱す者、そして俺のように不規則に個体を減らす者だ」
返ってきた答えに、リュシエルは底知れぬ泥沼に足元から引きずり込まれるような、全身が崩れ落ちるほどの眩暈を覚えた。考えたくもない。
いや、考えたところで絶望しか待っていない。それなのに、パズルが次々にはめ込まれて、最悪の一つの答えへとたどり着いてしまう。
「……俺があの旅で滅ぼした魔族は、全て魔王が用意したもの?」
(……過去の勇者たちも、みんな同じように、知らず知らずのうちに掌の上で踊らされていたのか)
(我々が命を懸けて戦い、血を流し、傷つきながら勝ち進んだあの旅路はすべて――魔王と、それに乗っかった人間が仕組んだ、最初から結末の決まった茶番劇でしかなかったのか)
張り詰めていた思考の糸がプツリと音を立てて切れた。
怒りと絶望に我を忘れたリュシエルは、理性をかなぐり捨てて音もなくレイスへ向き直る。殺意をこれでもかと乗せ込んだ眩い光魔法の奔流を、その手から真っ直ぐに放った。
しかし、命を削る思いで放たれた一条の光の矢は、レイスに届くことすらなかった。彼の足元から蛇のように這い出た底無しの影に触れた瞬間、すべてが無慈悲に呑み込まれ、かき消されていく。
「そんな出鱈目を、俺に信じろってのかよ」
「アレが勝手に喋ってきたことだ。人間と魔族の均衡を保っているのは、互いの全滅を防ぐためだとな」
「そのために、どれだけの名前すらない子供たちが、勇者という名の生贄として使い捨てにされてきたと思ってる!」
「人間が数千単位で死ねば国家の統治基盤が揺らぐだろうが、数十年ごとに数十人の犠牲が出る程度、あいつにとっては政を円滑に進めるための些細な瑣末事に過ぎなかったようだな」
「ふざけ……るなっ!」
リュシエルがさらに両手を振りかざすと、空気中から魔力が引き絞られ、幾重もの眩い光の矢がレイスを取り囲むように出現する。
今度こそ貫くという殺意のままに放たれたそれらは、しかしレイスの足元から奔流のように這い上がった漆黒の影に一瞬で捕らわれた。冷たい影の腕がリュシエルの四肢を縛り上げ、容赦なく魔法の光を根こそぎ消し去っていく。
抵抗の手段をすべて奪われ、荒い息を吐くリュシエルの耳に、優しい声が落ちた。
「海へ行きたがっていたな、リュシエル」
動けない彼女の前にいつの間にか歩み寄っていたレイスは、冷たい指先でその頬を柔らかく包み込むように撫でた。
そして、怒りと絶望に歪む瞳からこぼれ落ちた一粒の涙を、まるで宝物を掬い上げるように指先ですくい上げ――そのまま、自らの艶やかな舌先へと優美に乗せた。
「人間の涙がこんなにも酸っぱいとはな」
「……拘束を解け。レイス、貴方には世話になった。それは本当に、心から感謝している。おかげで久しぶりに平和というものを味わえた気もするよ」
「ならば、その平和がこの場所にしか存在しないと言ったら、お前はどうする?」
(何が言いたいのだ、この魔族は)
(――リュシエル。嫌な予感がする)
嫌な予感を裏付けるように、冷たい汗が一筋、リュシエルの背筋をタラリと伝い落ちた。彼女の知らないところで、取り返しのつかない巨大な歯車が音を立てて回り始めている。
抗議の声を上げる間すら与えず、影の束縛に縛られたまま、リュシエルはレイスの頑丈な胸元へと引き寄せられた。
直後、胃の腑がひっくり返るような、内臓がせり上がるほどの強烈な浮遊感が全身を激しく襲う。
激しい目眩のあとに眩しさでそっと目を開けると、そこは地表をはるかに見下ろす、果てしない空の上だった。
あまりの気圧の変化に息が詰まる中、混乱に全身を硬直させる彼女のすぐ傍で、レイスのどこか心地よさげな穏やかな息遣いだけが耳朶を打つ。
「ほら、目を凝らして見てみろ」
促されるまま視線を向けたリュシエルの瞳に、言葉を失う光景が飛び込んでくる。そこにあったのは、かつて自分を道具として使い潰し、いまや混乱の底にある。
業火に呑み込まれ、赤々と燃え盛る王国の姿だった。
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