第十話『崩れ落ちるのは一瞬』
東の楽園と呼ばれる、人間の残された最後の生存権。
リュシエルは今、この地で自らの特徴的な赤い瞳を無骨なゴーグルで覆い隠し、「リュー」という偽名を名乗りながら、周辺区域に巣食う魔物の討伐を日課としてこなしていた。
この世界の他の町や村は、すでに強大な魔族たちによって蹂躙され尽くしている。人間を奴隷として虐げる者もいれば、もはや人間の存在など歯牙にもかけず、自分たちの気まぐれな縄張り争いに明け暮れる者もいる。
そんな絶望的な状況下で、東の楽園だけがかろうじて保たれていた。
「ああ、おかえりなさい。リュシ……リューさん」
「ん、ただいま」
魔術と卓越した治癒術の双方を完璧に使いこなすリュシエルは、この安全圏において実質「最強の存在」として認識されていた。そのため、危険な魔物の討伐にはいつも単身で赴くことが多かった。
その圧倒的な強さと素性の怪しさに、影で彼女を警戒し、疎む者がいないわけではない。だが、群がる脅威から我が身を守ってくれる盾が一人でも多く欲しいがゆえに、人々は誰も追及の声を上げない。
お陰で、彼女は余計な詮索をされることもなく、静かに日々の平穏を紡ぐことができていた。
そして、この小さな楽園の中で、ただ一人だけ。彼女の偽名や隠された素性を知り、彼が勇者であると確信している男がいた。
それは、あの血塗られた魔王討伐の旅の最中、孤独の淵に沈むリュシエルへ迷わず救いの手を差し伸べてくれた、若き神父アックスだ。
「外の世界は、今どのような状況なのでしょうか」
「何も変わらないよ。魔族は相変わらず、気まぐれに同族同士で殺し合っている」
(魔族たちの興味や執着の矛先が、基本的に己より強い者だけにしか向かないのは、本当に不幸中の幸いというやつだな)
(それのお陰で、我々のような人間は、せいぜい野良の魔物の対処だけに追われるだけで済んでいる)
頭の奥底で重なり合う彼らの冷静な分析に、リュシエルは内心で小さく頷きながら、手頃な大きさに解体した魔物の肉を神父へと差し出した。
神父は少しばかり顔を引きつらせ、複雑な笑みを浮かべながらも、それをありがたく両手で受け取る。
「血抜きはそっちでしなよ」
「ええ、リューさんがこうして頻繁に新鮮な魔物を狩ってきてくれるので、日々の食料には困らないのですが……どうにも調理法が単調で、味付けはいつも同じになってしまいますね」
「……そういえば、ここからすぐ外へ出たところにある崖の上に、赤い実がたくさん実っているのが見えたよ」
「それはおそらく、この周辺の気候でしか育たない特産の木苺に違いありません」
「なら、今度ついでに取ってきてあげようか」
リュシエルは少し照れを隠すようにぶっきらぼうな口調で提案した。しかし、神父は顔をほころばせると、感極まったようにリュシエルの両手を力強く握りしめる。
「本当ですか!? ああ、いえ、しかし……若い女性である貴女ばかりに、そんな危険な崖の上の採集まで負担させるわけにはいきません。崖の上であれば、私や他の男手でも十分に採ることはできますよ」
「この辺りにはまだ強い魔物がうろついているかもしれないし、危ないでしょ。おれ……ううん、わたしに任せなよ」
(おいおい、一人称が混ざっているぞ)
(いや、それよりも随分と口調が落ち着いたものだな。すっかり頼もしいお姉さんぶっちゃってさ)
頭の奥底でやんやと茶化すような声たちに、リュシエルは舌打ちをしたい衝動をぐっと抑え込む。それよりも、神父の真剣な瞳に気圧され、彼女は未だに自分の両手を包み込んでいる神父の大きな掌へと視線を落とした。
視線に気づいた、神父はハッとしたように顔を真っ赤に染め上げ、慌てて両手をパッと離した。そして、気まずそうにごそごそと食料の袋を抱えなおす。
「す、すみません! 急に手を握ったりして……っ」
「ん、別にいい、けど……」
慌てふためく青年神父の初々しい姿に、リュシエルは少しだけ居心地の悪さを覚えつつも、不覚にも胸の奥が微かに温かくなるのを感じていた。
今では肩にも届かないほど短く揃えられた毛先を指先で無意識に弄りながら、リュシエルは恥ずかしさを隠すようにそっぽを向いた。
「それじゃあさ……今度、二人で採りに行こうよ」
ぽつりと零された提案に、神父は宝物を貰ったかのように、それはそれは嬉しそうに何度も激しく首を縦に振った。
「ええ、是非! 二人で行きましょう!」
輝く笑顔で快諾する青年に、リュシエルはわずかに頬を赤らめつつも、小さく頷いてその場を後にしたのだった。
✲✲✲
神父と別れ、集落の端に用意された自分用の小さな小屋へと足を踏み入れる。リュシエルは愛用の武具を音を立てて床に下ろし、顔の半分を覆っていた無骨なゴーグルを外した。
冷たい鉄の枷から解放されたように、露わになった赤い瞳が一瞬だけ微かに細められる。
そのまま彼女は、ベッドへどさりと身体を横たえた。周辺の危険な魔物を一手に引き受けて討伐してくれているという功績から、集落の住民たちが彼女のためにと特別に用意してくれた、贅沢な一人部屋だ。
薄暗い天井に浮かぶ不規則なシミを虚ろな瞳で見つめながら、リュシエルはゆっくりと自分の左手を、胸元へと重ね合わせた。
トクン、トクンと、生々しい熱を帯びた鼓動が手のひらに伝わってくる。
「神父と話してると、胸が煩い」
静けさに満ちていたはずの脳内が、彼女の一言をきっかけに、まるで蜂の巣を突いたような賑やかさを取り戻した。
(我々はこの感情を、過去の記憶からしっかりと理解しているぞ)
(あぁ、もしも世界がもう少し平穏で、置かれた状況がこんなにも残酷でなければ、今すぐにお前を背中を押し出して、「神父にアタックしてこい」と熱く助言してやったところだな)
(せっかくリュシエルが、一人の女性としてのささやかな幸せを掴み取れる貴重なチャンスなのだから、無駄にはしてほしくないものだが……)
(けれど、現実はそう甘くはないわね。このかりそめの平穏が、いつまで持ちこたえるというのか。明日にも、いや今夜にも、魔族たちがこの楽園に目を付けるかもしれない。それに……忘れちゃいけないわ、あの魔族のことを。――レイス。あの底知れない魔族の噂は、一切聞こえてこないけれど、影で何を企んでいるのやら)
頭の奥底で代わる代わる響き渡る、勝手気ままに未来を憂う声たち。澱んだ思念の中に、ふと混ざり込んだ「あの名前」を耳にした瞬間。
ピクリとリュシエルの背筋が凍りついたように硬直した。
「――っ」
先ほどまでの心地よい気だるさや、胸をざわつかせていた淡い熱は、一瞬にして恐怖と激しい不快感へと塗り替えられる。
ガバッと勢いよく上半身を起こしたリュシエルは、頭をかきむしりたい衝動に駆られながら、うめき声を漏らすように歯を食いしばった。
「……アイツの名前を出さないで」
脳裏にこびりついた、忌々しい名を塗りつぶすように、リュシエルは必死に意識を別の場所へと引き剥がす。
この東の楽園で手に入れた、数少ないあたたかな記憶の数々を必死にかき集めた。
無邪気な子供たちと土埃にまみれて笑い合った日のこと。頑固な鍛冶屋の男が誇らしげに、新しい相棒となる剣を差し出してくれた日のこと。神父と並んで素朴な食事を囲み、他愛のない言葉を交わした穏やかな時間。
そして、先ほど見せた、神父の照れくさそうな笑顔。
小さな思い出たちは確かに、彼女にとっての救いであり、代えがたい宝物。
なのに、どれほど眩しい光を思い出そうとしても、輪郭はすぐに、底知れぬ深瞳と、ぞっとするほど甘やかな声色に飲み込まれていく。
短いながらも、血を流さずに過ごせた本当に平和な日々。
いつだったか、彼女の髪を、レイスが手慣れた仕草で整えてくれたこと。誰もいない静まり返った部屋で、退屈凌ぎにと彼が低い声で古い物語の本を読んでくれたこと。
獣の生肉ではない、温かい料理の味。冷え切った身体を包み込んだふかふかのベッド。外界の喧騒から切り離された、圧倒的な静寂。
薄暗い小屋の中で、リュシエルは自分の肩をきつく抱きしめた。
忘れたいと願えば願うほど、あのぬるま湯のような日々の記憶が、毒のように心を満たしていく。あたたかさと冷たさの境界が曖昧になっていく感覚に、彼女は喉の奥で小さく息を詰まらせる。
そんな、思考をかき乱す悪夢のような記憶を断ち切るように、ふと、部屋の扉を叩く乾いた音が響いた。
コン、コン、と控えめなノック。
「……誰だ」
身構えながら声を返すと、返ってきたのはノックの音。
ゆっくりと身を起こし、来訪者として思い当たる人物の名を口にした。
「――神父?」
「ええ。夜分遅くにすみません、少しお話がありまして」
(もしかして、さっきの木苺採りのデート相談じゃないのか?)
どこか茶化すように浮かれた脳内の声に、リュシエルは引きつった笑みを零しながら、「デートって、そんなんじゃないし……」と小声で呟く。
だが、扉の向こうにいるのが彼だと分かっただけで、さきほどまで背筋を這い回っていた嫌な冷たさがスーッと引いていくのを感じた。
こんなにも先が見えない残酷な日常だとしても、神父の真っ直ぐな笑顔を思い出すだけで、まだもう少しだけ踏ん張っていられる気がする。
リュシエルは軽く髪を梳かし、呼吸を整えると、ドアノブに手を掛け、扉をゆっくりと押し開いた。
「ああ、ようやく見つけた、リュシエル」
しかし。そこに立っていたのは、神父などではなかった。
月の光を遮るように佇む、漆黒の魔族。
そして、背後にひっそりと控えているのは――なぜか、先ほど別れたばかりの神父の顔を貼り付け、薄気味悪い笑みを浮かべるブリキの姿だった。
「……っ!」
背筋が凍り付くどころの騒ぎではない。暗闇に溶ける、おぞましい気配を認めた瞬間、リュシエルの身体が反射的に動き、扉を力任せに閉めようとした。
しかし、それよりも数秒早く。
足元の床から這い出た漆黒の影が、蜘蛛の巣のようにリュシエルの四肢を絡め取り、逃げ場を完全に奪い去る。そして、抗う間もなく引き寄せられた身体は、レイスの腕の中へとすっぽりと閉じ込められてしまう。
「迎えに来るのが遅くなって、すまない」
息が詰まるほどの力と、魔族特有の温度を感じさせない気配がリュシエルを包む。
けれど今の彼女は、レイスよりも、その背後に佇む存在に目を奪われていた。神父の顔をした、ブリキに。
「神父に……アックスに、何をしたんだッ!」
リュシエルと、あたたかな言葉を交わし、自分の名前を呼んでくれた青年の面影が、仮面のようにそこに貼り付けられている。
「おや、気になりますか? なに、ほんの少しばかり彼の声と面影をお借りしただけですよ」
ブリキは薄気味悪い笑みを崩さぬまま、恭しく優雅にお辞儀をしてみせた。次の瞬間、彼は手品でも見せるかのようにどこからともなく、ぐったりと脱力した神父の身体を宙へ出現させ、足元へとぽとりと落としてみせる。
彼の首は不自然に傾げられ、胸の微かな上下動すら見当たらない。さらに不気味なことに、彼の顔には口も鼻も、目すらなかったのだ。
「嘘……そんな、神父……!」
頭が真っ白になり、心臓を踏みつぶされたような激痛が走る。リュシエルは必死にレイスの腕から抜け出そうと、全力で暴れた。
しかし、レイスは億劫そうに、ため息を吐いただけで、抱きしめる腕の力を一段と強く締め上げる。
「暴れるな」
それどころか、指先をかすかに動かし、足元の影をうねらせた。
黒い泥のような闇が這い上がり、ぐったりとした神父の身体を、まるで底なし沼へと引きずり込むように容赦なく呑み込んでいく。
「やめっ……やめろ、レイス……!」
「ようやく、こちらを見たな」
絶望に染まるリュシエルの顔を、レイスは満足げに見据え微笑みを深く浮かべた。
「ほっといてよ……! もう、ほっといてよ!」
涙で滲んだ赤い瞳を血走らせ、彼女は腕の中で暴れだす。
「アンタは、もう自由になったんだ! だったら、いまさら俺に構う必要なんてないはずだろ! この終わった世界で、この……勇者が壊した世界で、好きに生きればいいじゃないかッ!」
「好きに生きているからこそ、こうしてお前を迎えに来た」
すうっと顔を寄せたレイスは、絶望に震えるリュシエルの唇へと、冷たいキスを落としていく。
抵抗も許されぬまま、濃厚な口づけを受けている最中。背後で気配を消していたブリキが、面白がった声をひそかに零す。
「おや……邪魔者はそろそろ退散するとしましょうか」
その言葉を合図に、ブリキの姿は泡のようにすっと闇の中へと溶けて消えていった。周囲から完全に人の気配が断たれ、レイスとリュシエルの二人だけの閉ざされた空間が作り上げられる。
ゆっくりと唇を離したレイスは、爛々と輝く子供のような瞳で、彼女を見据え告げる。
「愛してる。リュシエル」
あまりにも歪み切った、逃げ場のない独占欲の言葉に、リュシエルは全身の血が凍り付くのを覚える。
「……狂ってる、アンタは……頭がおかしいよ……っ!」
「俺をここまで狂わせたのは、他でもないお前だ」
耳元で囁かれる甘い囁きに、リュシエルは吐き気に襲われながら、必死に首を横に振った。
「ふざけるな……喋るなよ。お前の声なんて、もう二度と聴きたくもない……っ!」
(リュシエル。再び肉体に甚大な痛みを伴うが……いいか、もう一度、体内の魔力を限界まで練り上げるんだ)
頭の奥底で響いたのは、一度レイスから逃げる事が出来た、あの自爆技の進言だった。
だが仮に、ここで奇跡的に逃げ延びたとして、その先に何があるというのか。
あたたかな居場所も、ささやかな日常も、彼女を人間として見てくれた青年も、すべてはこの魔族の手によって踏みにじられ、闇の底へと沈められた。
逃げたところで、また終わりのない逃避行の果てに捕らえられ、絶望を味合わされるだけではないのか。
ようやく見つけたはずの東の楽園は、レイスという名の悪夢によって、ほんの一瞬で跡形もなく消し去られてしまったのだから。
(リュシエル……)
逃げる気力も、生き残る意味すらも急速に削ぎ落とされていく彼女の心を察知してか、脳内の声がどこか寂しげに、優しく彼女の名前を呼んだ。
(我々はずっとお前と一緒だ。お前を一人になんてしない)
不器用な慰めの声に、リュシエルは切ない笑みを零す。しかし、レイスは彼女の諦念すらも、容赦なく踏み荒らしていく。
「そういえば、リュシエル。お前の頭の中に巣くう、声たちだが……これからは俺が傍にいるんだ。不要な雑音など、そろそろ消え失せるべきではないか」
その言葉の真意を測る間もなく、レイスはリュシエルの額へと、指先を押し当てた。
神父を奪われ、ささやかな日常を踏みにじられ、生きることを諦めかけたリュシエルには、流れ込む魔力に抵抗する気力は残っていなかった。
(来る――アイツが入ってくる!)
彼女の脳内で、今まで主を守るように寄り添っていた声たちが、一斉に恐怖の悲鳴をあげる。
しかし、どれほど声を枯らそうとも、レイスの指先から濁流のように流れ込んだ圧倒的な魔力は、彼女の精神世界へと容赦なく踏みにじり入っていく。
冷たい絶望の底で、リュシエルの意識はゆっくりと、暗い水面の下へと沈んでいった。
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