最終話『閉じた世界で』
襲い来る鋭利な魔法の閃光を、レイスはわずかに身を躱すことで難なくやり過ごす。
そして、なおも殺意をむき出しにして斬りかかってきた術者の足元から、這い出た漆黒の影が唸りを上げて飛びつき、容赦なく肉体へと喰らいついた。
周囲の気配を品定めするように、レイスは瞳をゆっくりと巡らせる。正面から突っ込んできた凄まじい威力の魔法を、彼は素手であっさりと受け流す。
「こうも、同じ顔がいくつも並ぶ光景というのも、なかなかに壮観だな」
「魔族め……! 我々の、リュシエルの中に、どうやって入り込んできたッ!」
レイスを取り囲むのは、異様な光景だった。
ある者は地にまで届くほどの長い金髪を誇り、かつての白銀の鎧を身にまとっている。それは紛うことなき、魔王を討ち果たした「勇者リュシエル」の姿そのものだった。
かと思えば、別の者はそれよりもあどけなさが色濃く残る、かつて暗い地下牢で実験体にされていたころの、幼げなリュシエルの姿をして刃を向けている。
「悲しいものだな。俺の小屋で共に過ごしていた時は、お前たちも俺の存在にはわりと好意的だった筈だ……何も知らずに、俺の傍に居さえすれば、ずっと平和な日常が保証されていただろうに」
「……黙れ、黙れ、黙れッ! 元より我々は、全てから自由になりたかっただけだ! お前の傍にずっと縛り付けられるわけがないことくらい、少なからず察していたはずだ!」
無数の「リュシエル」たちの口から、怒りと拒絶の叫びが重なり合ってこだまする。しかし、レイスはその狂乱をまるで興味のないものを見るかのように、眺めるだけだ。
一人の「リュシエル」が鋭い踏み込みとともに迫ったかと思うと、それに呼応するように二人、三人、そして数えきれないほどの「リュシエル」たちが一斉にレイスへ向けて殺意の牙を剥く。
レイスは襲い来る刃や魔術を面倒臭そうにいとも簡単に見切り、足元から這い出た影で次々と呑み込んでいく。だが、影に沈めたはずの隙間から、まるで無限に湧き出す呪いのように、また別の「リュシエル」の姿が這い出てくるのだった。
苛立つ暇もないとばかりに、レイスは目の前を駆けた一人の「リュシエル」を漆黒の影で強引に掴み取り、肩口へと容赦なく牙を立てて噛み砕いた。
しかし、生々しい血肉の味は広がらず、捕らえられた「リュシエル」はまるで風船が破裂するかのように、パンッ、と乾いた音を立てて霧散するように消え失せた。
「お前の本当の目的は、やはりあの娘を我が物にして食らうことなのか」
消えゆく残影の代わりに、一歩前に出た別の「リュシエル」が、長く伸びた金髪を背後へ優雅に流しながら冷ややかな嘲笑を浮かべる。
「なんだ、今まで何を聞いていた。俺がリュシエルに抱いているのは、そんな陳腐な食欲ではない。――愛だと言っているだろう」
「あぁ、聞きたくもない。そんなもの、お前の自己満足に満ちた気持ちの悪い愛だ。彼女の魂に本当に必要なのは、さっき殺された神父のような、もっと優しくて温かな愛に決まっている」
周囲に群がっていた無数の「リュシエル」たちの姿が歪み、一人の中心に立つ「リュシエル」へと溶けるように吸い込まれていく。すべての残影を取り込んで実体を凝縮させた彼女は、目にも止まらぬ速さで地を蹴り、レイスの懐へと一気に潜り込んだ。
狙いは首元。一撃で首を刎ね飛ばそうと振り抜かれた剣の軌道に対し、レイスは微動だにせず、すんでのところで足元から滑り込ませた漆黒の影を盾のように絡みつかせ、鋭い刃をへし折ってみせる。
だが、追いつめられた幻影の攻防はそれだけで終わらない。折られた剣の破片が散るよりも早く、リュシエルは手のひらに魔力を収束させ、新たな剣をその場に創り出すと、そのまま流れるような動きでレイスの腕を深く切り裂いた。
「ほう……」
初めてまともに手傷を負わされたというのに、レイスの口元には焦燥の色どころか、むしろ奇妙な感心を覚えた笑みが浮かんでいた。
続けさまに、「リュシエル」は目くらましとばかりに強烈な光を解き放つ。
周囲が白銀の閃光に包まれた隙を突き、彼女は一瞬でレイスの背後へと回り込み、心臓を貫こうと剣を突き立てた。
――だが、捕らえたと思った瞬間。
レイスの背中から無数の異形の腕が不気味にうねりながら這い出し、襲い掛かる「リュシエル」の身体を容赦なくガッチリと掴みにかかったのだった。
「化け物めッ……!」
漆黒の腕に四肢を締め上げられながら、「リュシエル」は歯噛みし、憎悪を剥き出しにして吐き捨てる。彼女の身体を握りつぶさんと蠢く無数の影を、レイスは見上げるも。
その横をかすめるように、別の「リュシエル」が隙を突いて鋭い刃を振り抜いて襲いかかる。
しかし、レイスは動じることなく、細い手首を素早く掴み取り、まるで優雅なダンスのステップを踏むかのように、くるりと身を翻して彼女の身体を完璧に制圧してみせた。
「埒が明かないとは思わないか、リュシエル?」
「ここは、我々の世界だ……! リュシエルの世界なんだ。お前のような邪魔者を排除するまで、我々は決して消えないッ!」
「……そんな複雑な心を持つお前たちも、愛おしいと思えなくはないが」
レイスは静かに微笑を深め、その整った顔立ちの輪郭を冷たい闇へと沈めていく。
「やはり、俺にとっては邪魔でしかないな」
瞬く間に、空間そのものがねじれるように歪み、レイスの顔があったはずの場所から、ありえないほど巨大な漆黒の口がぽっかりと口を開けて現れた。
「ひっ……!」
かつて見たことのない恐怖に駆られ、「リュシエル」は思わず小さな悲鳴を上げる。拘束された身体を必死に引き抜こうと魔力を爆発させようとするが、足元から這い上がる影はまるで生き物のように彼女の皮膚を伝い、内側へとじわじわと侵食していく。
少しの自由すらも許さない圧倒的な呪縛の前に、彼女の抵抗はみるみるうちに封じられる。
「消えない。我々は……私は、リュシエルはずっと、これからも私の傍に居続けるッ!」
消えゆく最後の残滓が、狂気と執念に満ちた絶叫を最後に、巨大な漆黒の口の中へと吸い込まれていく。
「お前たちの役目もこれで終わりだ。それにそろそろ、人形遊びを卒業する頃合いだ――そう思うだろう、リュシエル」
レイスが冷淡に言い放った瞬間、歪んでいた世界がパキリと音を立てて砕け散り、精神の深淵から現実の暗い小屋へと意識が引き戻された。
「あ……がっ……、はぁ、はぁっ……!」
激しい現実への還流に伴い、リュシエルはその場に崩れ落ちるように膝をつき、自分の頭を両手で強く抱え込んだ。
脳内をまさぐり、かつてそこに確かな温もりと共にあったはずの「声」たちを探す。しかし、いくら呼びかけても、帰ってくるのは自らの荒い息遣いと、耳鳴りのような、頭が狂いそうなほどの完全な無音。
「……っ、うそ……みんな……? どこに……っ、返事してよ……!」
彼女が作り上げ、何度も命を救われてきた友人たちの幻影は、文字通り跡形もなく消え去っていた。唯一の精神的支えを奪われたショックに、リュシエルは全身を痙攣させ、喉を詰まらせる。
そんな彼女の様子を、レイスは至福の余韻に浸るような眼差しで見下ろしていた。
精神の世界で無数の幻影を貪り食ったものの、実態のない思念の塊など腹の足しにもならないなとレイスは内心で冷静に分析する。
しょせんは幻の残滓にすぎないのだから当然だ、と納得しながらも、予定通り彼女の頭の中からそれらを完全に消去できたことには小さく息をついた。
この精神干渉の術を修得し、彼女の内側を自分だけの空間に染め上げるために、迎えに来るのが多少遅くなったのだ。
狙い通りに事が運んだことに免じ、レイスは冷えた床にうずくまる少女の身体を抱き寄せる。
「泣くことはない。お前には、これからずっと俺がいるのだから」
✲✲✲
鬱蒼と木々が繁る薄暗い森の中を、乾いた足音が規則正しく響く。サクサクと踏みしめられる落ち葉の音に混じって、カタカタ、キシキシと、関節が擦れ合うような奇妙な音が微かに漏れていた。
歩みを進めていたブリキは、頭上から微かに響いた羽音に気づき、ぴたりと足を止める。そして、音の出どころを探るように、三つの仮面をぎこちなく上へと向けた。
「――やっぱりぃ。その古くさい軋んだ木の音は、ブリキじゃあないですかぁ」
どこか気怠く、それでいて蜜のようにねっとりと甘ったるい声が降ってくる。
視線の先、頭上の枝葉の間に姿を現したのは、闇夜を映したような真っ黒なドレスをまとい、背中には漆黒の大きな翼を優雅に広げた少女。
鮮烈な真紅の長い髪が、重力に逆らうようにふわりと宙に揺蕩っている。
「夢魔ですか。これは、お久しぶりですね」
ブリキが芝居がかった調子で恭しく頭を下げると、夢魔の少女は気怠げに宙へ寝転がる体勢のまま、フワフワと漂って彼の頭上すれすれまで顔を近づけた。
ねっとりと湿った視線を這わせ、唇には厭らしい笑みが深く刻まれている。
「ねえ、今度一緒にぃ、私と濃厚で楽しい遊びをしましょうよぉ」
「遠慮しておきます。……それに、貴女の退屈な遊びに付き合わされている暇はありませんのでね」
ブリキがそう言い放って歩き出すと、夢魔は不満そうにふんと鼻を鳴らしながらも、ふわりふわりと宙を滑るようにその横へ寄り添ってついていく。
「もー、相変わらず塩対応なんだからぁ。つまんないのぉ。――あーあ、魔王サマがまだ健在だった時代は、人間なんてそこら中にうじゃうじゃいて、選び放題の遊び放題でいっぱい楽しめたのにぃ、今じゃすっかり減ってしまって今じゃ絶滅危惧種ですよぉ! そうそう、噂で聞いたんだけどさぁ、ある変り種の魔族は、『人間保護法』なんてお堅い法律をわざわざ造りだそうとしてるらしいの。知ってましたぁ?」
「おやおや。近頃の世情は、そのように面白いことになっておられるのですか」
カタカタと乾いた関節音を鳴らしながら、ブリキは軽妙な相槌を打つ。ふたりがそんな他愛のない、しかしどこか血の匂いの漂う世間話に興じながら木々の間を抜けていくと、鬱蒼とした緑のカーテンがふっと途切れ、視界が一気に開けた。
目の前に広がっていたのは、白波を立ててどこまでも水平線へと続く、どこか寂寥感を帯びた冷たい海だ。
潮風に身体をさらしながら、ブリキがしばらくその壮大な海の光景を眺めていると、横を飛んでいた夢魔が「あ」と間抜けな声を上げ、ふっと細い指をある一点へと指さした。
「ねぇ、ちょっと見てくださいよぉ。あそこにいるのって……」
夢魔が指し示した先、波打ち際の白砂の上に、ぽつんと佇む二つの影があった。荒涼とした景色の中、そこにはレイスと、彼の腕の中に囚われた少女が静かに海を見つめて立っている。
夢魔は宙に浮かんでいた身体をスッと下ろして砂浜に降り立つと、黒いドレスの裾を優しく払い、整えながらポツリと哀れむような声を漏らした。
「それにしても……あの勇者ちゃんも、本当に救いがないというか、お気の毒だねぇ」
「おや、珍しい。貴女のような快楽主義の夢魔にも、他者を気遣う『憐憫』という感情を持ち合わせていたのですか」
「だってぇ、流石の私もあの子の境遇を聞かされたら同情くらいしますよぉ。だってそうでしょう? 人間に言われるがままに仕立て上げられた『勇者計画』なんてものは最初から最後までまるごと茶番で、命がけで魔王を討ち果たしたところで世界は一向に救われやしない。それどころか、結果として人間の破滅を加速させる引き金になっちゃったんだからぁ。挙句の果てには、よりによってあのレイスさんに気に入られ、精神をぐちゃぐちゃにされて囲われるなんて……。あの子、いったい前世でどんな大罪でも犯したんですかぁ?」
「ふむ……。強いてその不条理な因果の理由を挙げるならば、魔王をその手で討ち取り、結果としてレイス殿の足枷を外して『自由』にしてしまったことでしょうかね」
ブリキの乾いた皮肉めいた返答に、夢魔は目をぱちくりと丸くさせたかと思うと、やがて耐えきれなくなったように腹を抱えてケラケラと笑い声を上げた。
「あははっ、それは確かに言えてますぅ! だって、レイスさんといえば、誰も手に負えない生粋の大罪人ですものねぇ。そもそも、亡くなった魔王サマが生涯に残した数少ない功績をあげるなら、あんな面倒くさい同族崩れのレイスさんに、『首輪』をかけて外界へ野放しにしないでおいたことくらいなんですものねぇ」
ひとしきり笑った後、夢魔はふっと妖艶な笑みを浮かべながらブリキの硬質な腕に自分の腕をからりと絡ませ、甘ったるく囁くように言葉を重ねる。
「魔王の側近であるキミとしては、気まぐれなあの化け物に、これ以上ないほどお似合いの『生贄』をうまく見繕ってやれたってところで、内心は万々歳ってところなんじゃないですかぁ?」
「……いいえ、そんな物騒な言い方は控えていただきたい。私はただ、レイスさんがようやく誰かを特別に想い、大事にする心を持ってくださったことに対して、素直に喜ばしいことだと思っているだけですよ」
「ふふ。……ってことはつまり、そこに残された勇者ちゃんの人権や意思なんてものは、ハナから存在しないってことですねぇ……。あぁ、なんて残酷で、かわいそうに。――本当にお気の毒にねぇ」
ブリキはカタカタと首を鳴らし、波打ち際に寄り添う二つの影を静かに見下ろした。
この世界は、ゆっくりと終わりへと向かっていく。
それこそ、仕立て上げられた偽物の勇者などではなく、本物の勇者でなければ、世界を真に救うことなどできやしないだろう。
すべてを奪われた少女が、遠く焦がれた海原へと弱々しく手を伸ばす。しかし冷えた指先を、血の通わない硬質な手が、まるで逃がさないように上からしっかりと絡めとる。
「俺だけの勇者」
誰の介入も許されない、閉じられた二人だけの世界は、おぞましくも、美しく完成したのだった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
リュシエル視点ではバッドエンドですが、レイスから見るとまごうことなきハッピーエンドです。
書いていて、とても楽しかったです。
また次回作も書く予定ですので、今後も読みに来てくれると嬉しいです。
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次回もよろしくお願いいたします。




