第六話『彼女の為の声たち』
リュシエルによる、リュシエルのための、リュシエルだけの幻影たち。
それは頭の中の友人であり、あるいは引き裂かれた別の人格であり――過酷な現実から精神を守り抜くための、脆くも強靭な最後の砦だった。
記憶の輪郭は酷く朧気だが、かつて自分にも、ごくありふれた温かな家庭があったことだけは覚えている。
『リュシエル』という忌まわしい名でもなく、家畜のように刻印された番号でもなく、親の慈愛とともに授かった、本当の名前があった。
けれど、そのささやかな幸福すらも、唐突な魔族の襲撃によって無残に蹂躙され、炎と血の中にすべてを喪った。
意識が浮上した最初の光景は、カビと鉄錆の臭いが充満する薄暗い地下牢。
壁際の湿った石畳には、似たような年頃の金髪の子供たちが身を寄せ合い、ただひたすらに震えていた。
リュシエルという名を押し付けられる前の、ただの無力な少女もまた、暗がりの中で膝を抱えて涙を流していた。
そんな絶望のどん底にあって、ただ一人、怯える子供たちの背中を静かに撫でて回る者がいた。
『1449番』。後にリヴェルという個体名を与えられることになる、子供だ。
彼の眼差しだけが、この狂気の底でひどく澄んでいたのを覚えている。
やがて、重々しい鉄格子が開く音が響き、大人たちが地下牢へと足を踏み入れた。
彼らは無機質な声で、よく分からない説明を早口で並べ立てる。勇者、魔王、世界の存亡。
理解の範疇を超えた言葉の羅列に、子供たちは怯えきった瞳でただ身を縮めることしかできなかった。
先頭に立っていた大人の一人が、『何か』を石の床へと放り投げたのだ。硬質な金属がぶつかり合う冷たい音が、牢内に鋭く響き渡る。
『行っちゃだめだよ』
恐怖に呑まれた子供たちが反射的に悲鳴を上げ、部屋の隅へとすくみ上がる中、リヴェルだけは周囲の子どもたちに声をかけていた。
それでも、怯えきった何人かの子供たちが恐る恐る歩み寄っていく。
『――この中には、六十人の子供がいます。それを今から、半分の三十人にまで間引きます』
大人の男は、まるで市場で家畜の数を数えるかのような退屈そうな声音で残酷な規約を告げた。あの日のリュシエルは、周囲の空気がいやらしく、重く淀んでいく気配を肌で感じていた。
『やり方は、分かりますね?』
誰ひとり言葉を発せず、気配すら殺したように微動だにしない。まるで世界から時間そのものが剥ぎ取られたかのようだった。
だが、そんな硬直した均衡など、誰かの一歩で容易に崩れ去る。
そして、忘れたくても、決して脳裏から剥がれ落ちない惨劇の幕を開ける。
きっかけは偶発的なものだった。隅に蹲っていた子供が、張り詰めた無言に耐えかねて泣き声を上げたこと。リヴェルが反射的にそちらへ顔を向けたこと。そして、そのわずかな視線の逸れを狙い、一人の子供が床にこぼれた『何か』へ足を踏み出してしまったことだった。
そこからは、転がり落ちるように地獄は広がっていく。我さきにと、賢い子どもたちは走って行き、大人たちが用意した何か——武器を手に取り、生き残る為に殺し合いを初めてしまった。
異常な光景を前に、リュシエルの幼い思考は完全に凍りついていた。隙だらけの弱者から順に、狂気へと呑まれた者たちの餌食となっていく。
奇跡的に、あるいはひどく呪わしくも、リュシエルは折り重なるように倒れた他の子供の亡骸の影にすっぽりと隠れる形となり、死神の目から逃れることができた。
温かな両親の顔を思い浮かべ、助けてほしいと声も出さずに泣きじゃくった。ただひたすらに、死にたくないと祈った。
今になって思えば、あの暗がりで無力に泣き震えていた『リュシエルになる前の少女』は、いっそあそこで肉の塊に成り果てていた方が、どれほど幸せだっただろうか。
『ひっ……うぅ……』
漏れ出た微かな嗚咽が、死の帳を引き寄せる。
一人の子供が、か細い音に気付いて立ち止まった。
血に濡れていない真新しいナイフを両手で白くなるほど強く握りしめたその子は、自身も恐怖に顔を歪め、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、リュシエルの華奢な首筋へと刃を振り下ろそうとした。
死ぬ。きつく目を閉じた瞬間、温かい飛沫が頬を叩いた。
恐る恐る見開いた視界には、ぐらりと糸が切れたように崩れ落ちる子供の身体と、その後ろに立つ子供の姿。
返り血を浴び、半分赤く染まった顔でこちらを見下ろすリヴェル。
彼は怯えるリュシエルと目が合うと、恐怖に震える地獄の底にいるとは思えないほど――まるで、迷子の妹を優しく見つけた兄のように、酷く甘い笑みをふわりと浮かべた。
『――はい、三十人になりました』
大人の無機質な声が、冷たい石壁に反響した。
ガチガチと、自分の歯が噛み合う音がする。リヴェルは手元のナイフを床に放り出し、深く息を吸い込んでから、リュシエルと同じ高さに視線を合わせるように膝を折った。そして、手を差し伸べてる。
『大丈夫? 立てるかい?』
✲✲✲
「度重なる訓練や実験の果てに、気がついたらいつの間にか頭の中にこいつらがいた。俺が気づかない危険を教えてくれるし、何より……長い一人旅には、丁度いい話し相手だったからな」
自嘲気味に肩をすくめるリュシエルに、ブリキの魔族がカシャカシャと首を回して楽しげに同調する。
『勇者は造り出されるものだと聞き及んではおりましたが……いやはや、精神が引き裂かれるほどの苛烈なものでしたか』
「口調は?」
レイスが疑問を口にした。彼は、リュシエルを興味深さそうに細めて観察する。
「お前は女だろう。なぜそんな喋り方をする」
「……これも矯正させられたんだよ」
リュシエルは自らの喉元を指先でなぞりながら、冷めた声で吐き捨てた。
「『勇者とは古来より男であるべきだ』とな。だから女の候補体はみな、男のように振る舞い、男のように喋るよう徹底的に躾けられた」
✲✲✲
あの日、血の海から生き残った三十人の子供たちは、二つの班に分けられた。
半分を任されたのは、後にリュシエルがその首を刎ねることになるエルフの男、シグ。
そしてもう半分を引き受けたのが、ラジーナという名のダークエルフの女。
『俺が担当で良かったな』
かつてシグが投げやりにつぶやいた言葉があった。その真意を後になって理解したとき、こんなことを思うべきではないと分かっていながらも、羨ましく感じてしまった。
ラジーナが引き受けた十五人のうち、生き残ったのはたった一人。リヴェルだけだった。
シグの元で行われたのは、地獄のような実験と訓練。
中でも子供たちを死に追いやったのは、魔法の適性実験だ。本来、人間が先天的に魔力を持つことは稀である。
そのため彼らは、勇者の証たる『光魔法』を操れるよう、無理やり外部から高濃度の魔力を身体に注ぎ込まれた。
焼けるような激痛とともに血管を駆け巡る異物に、身体が適合できなければその場で絶命する。
運よく適合の兆しを見せても、限界を超えて注がれる魔力量に身体が耐えきれず、結局は内側から破裂して死んでいく。
「おーおー。今回の子供は随分と優秀だな」
冷たい石の床で子供たちが血を吐いてうずくまる中、シグはどこ吹く風で記録板に視線を落としていた。
そこへ、ヒールの高い靴音を響かせて一人の影が近づいてくる。
「あらあら、そっちは随分と生き残っているのね」
甘ったるく、しかし毒を含んだ声。漆黒の肌を持つラジーナだった。
「こっちに来るなんて珍しいな、ラジーナ。何の用だ?」
シグが面倒そうに片目を向けると、彼女は恍惚とした笑みを浮かべて頬に手を当てた。
「リヴェルがとっても頑張っているから、何かご褒美をあげたいと思ってね」
「……もう名前を与えたのか」
「ええ。彼は今までの勇者候補の中でも、文句なしの最高の作品よ。私のリヴェルなら、何でもできるわ」
熱に浮かされたように語るラジーナの瞳が、ふいにスッと細められ、床で喘いでいたリュシエルを射抜いた。
「……で? 赤い目をした子供って言うのは、この子かしら」
「ん? ああ」
シグは顎でリュシエルをしゃくり、鼻で笑う。
「コイツがどうした。言っておくが、1425番は今の生き残りの中でも、技量も魔力も最低の出来損ないだぞ」
「リヴェルがね、この子の事が気になって気になって仕方ないみたいなの」
ラジーナはゆっくりと歩み寄り、リュシエルの前で身を屈めた。瞳には、明確な殺意と昏い嫉妬が渦巻いている。
「元気にしているか、ずっと心配しているのよ。……ねえ、アナタ。リヴェルの、何かしら?」
じっとりと絡みつくような悪意に、リュシエルは息を詰まらせた。しかし、その張り詰めた空気を、シグの底意地の悪い嘲笑が消していく。
「いい歳した女が、何百も歳下の餓鬼に嫉妬してんのか? 気持ち悪いな」
「……エルフの癖に、相変わらず口が汚いわね。国宝さん」
ラジーナは忌々しげに吐き捨てると、シグの嘲りを背中で受け流すようにヒールを鳴らして踵を返した。
「これから私のリヴェルに会うのだから、身なりくらいは整えさせてよね」
血を吐くような訓練と実験。何故か最も優秀なリヴェルからは気にかけられ、その彼を狂信的に愛するラジーナからは常にねっとりとした殺意を向けられる日々。
終わりの見えない暴力と悪意の板挟みになり、幼い『1425番』。リュシエルの精神と肉体は、すでに致命的な限界がきていた。
頭の中に『声』が響き始めたのは、まさにそんな頃だった。
その日の訓練は、飢えた魔物との実戦の日。
真新しい剣を一本だけ持たされ、生臭い獣臭が充満する薄暗い鉄檻の中へと蹴り落とされる。
殺さなければ、殺される。
生き残るための絶対条件を頭では理解していても、リュシエルの身体には、もう指先一つ動かす気力すら残っていなかった。
どうせ自分は、勇者候補の中で一番の出来損ないだ。ここで惨めに食い殺されたところで、誰も困りやしない。
むしろ、この永遠に続く理不尽な苦痛から解放されるなら、いっそ――。
腐肉の臭いを纏った魔物が、獰猛な咆哮とともに地を蹴った。
迫り来る巨大な牙を前に、リュシエルは静かに目を閉じ、抵抗することなく己の命を投げ出そうとした。刹那。
(避けろ。避けろ。避けろ。我々も、そしてお前も、まだ死にたくない)
(右に避けて。それから、掌に魔力を込めるの)
リュシエルは弾かれたように固く閉じていた瞼を見開くと、頭の中に響く声に操られるように、無我夢中で右へと身体を転がした。
直後、先ほどまで彼女がいた場所を魔物の巨大な顎が通り過ぎ、空を切った牙が石畳を削る凄惨な音が檻の中に響き渡る。
「は、ぇ、……なに……」
荒い息を吐きながら、リュシエルはへたり込んだまま呆然と呟いた。自分の意思で動いたはずなのに、まるで誰かに背中を突き飛ばされたような奇妙な感覚。
(魔力を込めるのを忘れるな)
(我らはまだ幼い。まずは避けられた事を褒めるべきだ)
(褒める前に死ぬぞ。ほら、次が来た。剣をしっかり持て。我々は魔法の扱いは酷く不出来だが、剣術については幾分か才能があるやもしれないからな)
矢継ぎ早に脳内を飛び交う、年齢も性別もバラバラな複数の声。
「誰……ほんとに、だれなの……」
混乱と恐怖に歯の根を鳴らしながらも、リュシエルは震える指先で、床に転がっていた刃こぼれした剣をきつく握りしめた。
その時、冷え切った脳髄の奥底で、何かがカチリと音を立てて繋がった。
(今は我々を信じろ。誰も救いになど来ない。だが――我々だけは、決してお前を裏切らない)
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