第五話『気味の悪い魔族』
卓上を埋め尽くすほど並べられていた料理が、次々と魔族の青年の胃の腑へ消えていく。
最後のスープを衣擦れの音すら立てずに優雅に飲み干すと、彼は木彫りのコップを手に取り、静かに喉を潤した。
(……健啖家というやつだな)
(あの細身の身体の、一体どこにこれほどの量が消えたのやら)
脳内に響く呆れ半分の声たちに、リュシエルも密かに同意する。
自身に与えられた分を残すのは申し訳ないと、スープをちびちびと口に運んでいたところを見かねられ、「無理なら寄越せ」という、彼の気遣いに、存分に甘えさせてもらったばかりだった。
青年が指先で摘んだ純白のナプキンでゆっくりと口元を拭い、満足げな吐息を零す。
その一連の所作が落ち着いたのを見計らい、リュシエルは膝の上で固く結んでいた指を僅かに緩め、おずおずと唇を動かした。
「あの……スープ。美味しかった。ありがとう」
(おお。我々が助言せずとも、自ら礼を口にしたぞ)
(今まで我々は少々リュシエルを甘やかし過ぎていたのではないか?)
頭の奥底で好き勝手に湧き上がる喧騒に、危うく「煩い」と言い出しそうになる。
すんでのところでその衝動を奥歯で噛み殺し、リュシエルはどうにか、引き攣ったような不器用な笑みを顔に貼り付けた。
「お前……」
(恩人に『お前』は失礼じゃないか?)
「じゃなくて、アンタ……」
(『アンタ』も馴れ馴れしすぎるだろう)
(『貴方』で良いだろう、貴方で)
頭の中で瞬時に飛び交う指摘に辟易し、リュシエルは気まずげに視線を彷徨わせる。幾度か言い淀んだ末に、どうにか言葉の先を絞り出した。
「……貴方の、名前を聞かせてくれないか。俺の名前は……リュシエルだ」
名乗りを聞き届けた青年は、指先に持っていたナプキンを静かにテーブルへと落とす。
表情ひとつ変えぬまま向けられた、深淵を思わせる底知れない白の瞳が、真っ直ぐにリュシエルの姿を捉える。
射抜くようなその視線に思わず気圧されながらも、リュシエルは誤魔化すように、にへらっと緩んだ笑みを取り繕う。
青年がゆっくりと唇を開きかけた、まさにその時だった。
ガラスを引っ掻くような不快な共鳴音が鳴り響き、室内の空間が唐突にぐにゃりと歪む。
何もない空中のただ中に、泥のように粘り気のある漆黒の穴がぽっかりと口を開け、生温かい風を伴って不気味な渦を巻き始めた。
『お久しぶりです! 我がご友人、レイス殿! 私と貴殿が離れ離れとなり、もう何百年が経ったでしょうか!』
這い出るような渦の奥底から、芝居がかった甲高い声が朗々と響き渡る。
『実は面白いネタを色々と仕入れて参りましたので、かくして参上つかまつった次第。お分かりですかな? 貴殿の友人、ブリキでございますよ!』
バツンッ! と鼓膜を弾くような強烈な破裂音とともに、黒い渦が一瞬にして霧散する。
残された空間には、耳を劈くような摩擦音とともに、一人の奇妙な『魔族』が降り立っていた。
仕立ての良い上質なグレーのスリーピーススーツを小粋に着こなし、手には滑らかな黒塗りのステッキ。だが、瀟洒な装いの首から上に乗っていたのは、およそ人間とはかけ離れた異形。
三つの異なる顔を象った、無機質な『ブリキの人形』。それぞれの顔には、木をえぐって形作られたような、感情の一切通わない不気味な笑みが深く刻み込まれている。
歯車が軋むような音を立てて、首の関節が有り得ない角度へと折れ曲がる。
カタカタ、キリキリ。不快な駆動音を伴いながら、ブリキの魔族は芝居がかった仰々しい身振りで室内をねめ回した。
まずは、悠然と席に座る魔族の青年——レイス。次いで、唐突な侵入者に身をこわばらせるリュシエルを。
『おやおやおやァ〜?』
低く響くのによく通る、ひどく耳障りな声が嬉々として空気を震わせる。
『まさか私よりも早くお客人がいらっしゃるとは。しかも、お人間様ではありませんかあ! いやはや、驚き桃の木ブリキの木というヤツですなあ!』
「客ではない」
『おやあ、では……非常食というやつですかな? 人間の肉は好き嫌いが分かれるとよく聞きますが』
カクン、と首が不自然に傾ぎ、三つあるうちの側面の顔が、値踏みするように リュシエルをねっとりと覗き込んだ。
だが興味は長く続かなかったのか、すぐに首をグルンと乱暴に回転させ、正面の顔を再びレイスへと向ける。
『まあ良いでしょう! 今は私のご友人に至急お伝えしたい重大事がありますゆえ、この人間については後で詳しくお聞かせいただくと致しましょう』
(声が煩いな)
(存在そのものがやかましい)
脳内に響く的確な非難にひっそりと同意しつつ、リュシエルは肺の底から細く息を吐き、身体の余分な力を抜いた。
「……で? 態々来たのなら、ついでにそこの食器でも片付けていけ」
『それはご自分でなさって下さい。それよりも、悲報か吉報か――つい先日、貴殿のお父上がお亡くなりになりましたよ』
その言葉が落ちた瞬間、コップを傾けようとしていたレイスの動きが、ピタリと静止した。
ひりつくような数秒の静寂。やがて彼は純白の瞳をわずかに見開くと、「はっ!」と冷笑とも歓喜ともつかない、乾いた声を張り上げて嗤い出した。
「ようやく死んだか、アレも。まあ、契約が途切れた時点で嫌でも感じていたが……」
美しい顔に浮かんでいたのは、親の死に対する悲劇性など微塵もない。長年自分を縛りつけていた忌々しい鎖がちぎれ飛んだことに対する、底知れない解放感と狂喜の光だ。
「で、人間も魔物も等しく統治するなどと大言壮語を吐いていたが、結局のところ、まともにできていたのか?」
『少なくとも、ここ三百年の間はご友人の父君の天下でございましたよ。あの方の強権的な統治の元で、我々魔族は随分とうまい汁を啜らせて頂きました……今後はどうなるやら。楽しみでございますよ』
「興味ないな。それで、どうやって死んだ? あの玉座へと続く無駄に長い螺旋階段から、足でも滑らせて転がり落ちたか?」
(親が死んだと聞いてもあの態度か)
(実に魔族らしい)
(……それにしても、死んだ『三百年間統治していた父親』とやらに、ひどく嫌な予感があるのは俺だけか?)
頭の中の誰かがそうこぼすと、即座に『私もだ』『我もそう思う』と、脳内のあちこちから同意のざわめきが波紋のように広がっていく。
リュシエル自身もまた、その嫌な予感の正体に薄々勘付いていた。ズキリと痛むこめかみを押さえるようにテーブルへと肘を突き、深く頭を抱え込んで小さな声でぼやく。
「……名前を教えたのは、さすがに軽率だったかな」
『魔王様は、勇者リュシエルに首を刎ねられて殺されました』
「勇者リュシエル……ほう」
面白くてたまらないといった風に、レイスの純白の瞳が酷く意地悪く細められる。彼はまるでリュシエルの真似をするように、わざとらしくテーブルへ肘を突いた。
「そこの人間は今先程、自らの事を『リュシエル』と名乗っていたぞ」
(ほら、来たぞ)
『おやおやァ? 勇者というものは男性にしか王国から神託が降りないと聞きかじっておりましたが……』
ブリキの首がカタカタと軋んだ。三つの顔を持つそれは、大仰な動きでクルクルと回転し、一つ、また一つと異なる表情でこちらを検分してくる。
(ここは、本物のリュシエルに助けてもらい、憧れてその名前を名乗っていると言うのはどうだ)
「あー、彼に助けて貰ってね。それで、勇者のようになりたくてさ」
ブリキは嘲るように、即座に首を振ってそれを切り捨てる。
『それは有り得ませんなあ。今までの勇者が魔王を討伐出来なかったこともあり、既に人間どもは勇者という名にさして価値を見出しておりません。おまけに、今代の勇者は独り言が多くて薄気味悪い。そして何より――非常に獰猛だと評されておりますゆえ』
(ひどい言われようだな)
(なあ、コイツ殺さないか?)
呆れ返る声と、物騒な声。
リュシエルはテーブルに置かれたナイフの柄を視界の端に捉えながら、裏返った笑いを溢した。
自分で自分を弁護するのも妙な話だが、せめて獰猛という汚名だけは雪ぎたい。抗議のために息を吸い込み、反論のために唇を開きかけたが。
『更に面白いのはここからです! 勇者リュシエルは魔王の首を持ち帰ったその日の夜に、王国の国宝と言われていたエルフ『シグ』を惨殺した事によって――今や次の魔王と呼ばれ、王国から指名手配をかけられておりますよ!』
赤い目が見開く。そして、自嘲気味に呟いた。
「……次の魔王。そんな事になってるんだ」
(さもありなん)
(先に自暴自棄となったのは、我々だからな)
俯いた彼女の視線の先――手元の木彫りのコップを握り込む手だけは小刻みに震え、ギリギリと無意識のうちに恐ろしいほどの力がこもっていく。
乾いた鈍い破砕音とともに、分厚い木のコップがリュシエルの手の中で呆気なく砕け散った。指の隙間から、どす黒い血にも似た紫色のジュースがボトボトと零れ落ち、無残にもテーブルを汚していく。
自らがしでかした破壊の痕跡を呆然と見下ろしていると、視界の端からすっと影のような黒い手が伸び、タオルが差し出された。
「これで、手を拭け」
『おやまあ、お優しい!』
リュシエルは無言のまま、影の手からタオルを受け取った。紫に染まった指先をゴシゴシと乱暴に拭いながら、再び頭の中で騒ぎ立て始めた声たちへ静かに意識を向ける。
(あのエルフ――シグを直ぐに始末したのは、些か早すぎたのかもしれないな)
(しばらくの間、アイツの元で大人しく従順なふりをしていた方が無難だったか?)
ぐちゃぐちゃと湧き上がる自責の念ごと拭い去るように、紫に染まった指の股まで執拗にタオルで擦る。
リュシエルは苦虫を噛み潰したような顔になり、そのままテーブルに広がるジュースの海も乱暴に拭き取っていった。
「それなら、いっそ舌を噛みきって死んだ方がマシだよ。はあ、首輪の解呪が出来た時点で、とっとと逃げればよかったのかな。何で、わざわざ魔王討伐なんてしちゃったんだろ」
ぽつりと零した愚痴には、深い徒労感とやり切れない怒りが滲んでいた。
「魔王を討伐しろ」
あの日、身一つで放り出された王国から魔王城までの道のりは、絶望的に遠かった。
地図を持たされたとはいえ、地の果てまで届きそうなほど長い金髪と不吉な赤い瞳を持つリュシエルを、出会う人々は化け物のように忌避した。
向けられるのは「どうせまた失敗するだろう」という無責任な嘲りと、無遠慮な哀れみの目ばかり。
それでも、魔族や魔物が絶え間なく湧き出す地域を通り抜けるたびに、それらを殺して、殺して、殺し尽くしながら、ついぞ魔王城まで辿り着いてしまったのだ。
忌まわしい首輪の解呪法についても、道中の凄惨な戦闘と魔力操作の極限状態の中で、血反吐を吐きながら自力で辿り着いた。
けれども魔王を倒し、その首を提げてアイツらの元へ戻ってしまったのは――心のどこかで「誰かに自分を認めて、褒めてほしかった」という、幼く浅ましい欲求が、捨てきれずにいたからなのだろうか。
(欲を出しすぎたな。アイツらが我々を一人の人間として認めることなど、永遠にないというのに)
「本当に最低な奴ら。あのエルフも、あの計画を良しとしてた国も」
『いやはや、独り言が多いと言う噂は本当だったのですねえ』
唐突に背後から、ギギと木材の軋む音が鼓膜を撫でた。足音ひとつ立てず、ブリキの魔族が面白がるように三つの顔をカシャカシャと回転させながら、すぐ背後まで迫っていたのだ。
『けれど、傍からみればただの独り言というよりかは……貴方の頭の中にいる『誰か』と会話をしているように見受けられますな』
「妖精の類でもないな」
向かい側から、冷ややかな声が会話に割って入る。レイスだ。
『妖精はとうの昔に絶滅しておりますよ』
「ああ、それは重畳。アレらは存在しているだけで目障りで、不愉快で、ひどく煩わしかったからな」
鼻先でふっと嗤い、レイスはテーブルの上で優雅に両手の指先を合わせた。そして、底知れぬ深淵を湛えた純白の瞳で、リュシエルを真っ直ぐに射抜く。
「お前のことが非常に気になってきた。……勇者リュシエル殿?」
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