第四話『オンボロの中』
「此処かな」
(ボッロイ家だな)
(だが、不思議と窓から中は見えない)
濡れた服を手早く絞って着直し、血に汚れた鎧と刃こぼれした長剣をかき集める。魔族の青年が消えた薄暗い獣道を辿っていくと、やがて鬱蒼とした木々の奥に一軒の小屋が姿を現した。
蔦が這い、今にも崩れ落ちそうなほど傾いたあばら家だ。あれほど浮世離れした美貌の持ち主なのだから、さぞかし豪奢な城にでも住んでいるのだろう。
そんな身勝手な幻想は、腐りかけた板壁を前に打ち砕かれた。
リュシエルは赤錆のこびりついたドアノブを掴む。罠の可能性が頭をよぎり、ほんの一瞬だけ指の力が抜けた。だが、ここまで来て引き返す気力など残っていない。
(罠なら罠で、もうどうでもいいか)と、半ば投げやりに重い扉を押し開けた。
ギィギィ、と耳障りな軋み音を立てて足を踏み入れた先には、外観の惨状からは到底結びつかないほど、広々とした空間が広がっていた。空間拡張の魔術が編まれているのだろう。
壁際から床に至るまで、用途の知れない品々が乱雑に積まれている。だというのに、不思議と「散らかっている」という不快な生活臭は一切ない。
そこにあったのは、地獄のような戦場では絶対に嗅ぐことのできなかった。異国情緒を漂わせる静謐な空気と、ふわりと鼻腔をくすぐる芳醇で上質な茶の香りだった。
その不可思議な部屋の中央で魔族の男は一人、優雅にティーカップを傾けていた。
「遅かったな」
リュシエルは用心深く足を踏み入れ、背手に回した手で静かに扉を閉めた。
ふと視線を上げれば、煤けた天井の梁から、正体不明の果実のようなものがいくつも吊るされて干されている。
隣の歪な木棚には、琥珀色や紫色の得体の知れない液体が詰まったガラス瓶が、大小さまざま所狭しと並んでいた。
「果実酒だ。飲みたければ飲め」
そんなにじっと見つめていたつもりはないが、興味を引かれたと勘違いされたらしい。魔族はそう言って勧めてくれたが、人間の体に合うものか怪しいため、首を振って遠慮する。
「未成年だから遠慮しておくよ」
(へえ、グラスの中身は色んな層が複雑に混じり合っているな。赤に緑に、鮮烈な青まで……)
(こんな怪しげな液体、いったいどんな味がするのか、想像もつかないね。一口くらい試してみたくないか?)
頭の中の声は果実酒に夢中のようだが、リュシエルは涼しい顔のまま、ティーポットに入っているであろう温かな紅茶を要求した。
「俺にもその紅茶をお願いしても?」
「それよりも、先に湯浴みをしてこい。あの奥の扉の先だ」
視線で示された古ぼけた扉を横目でなぞり、それから再び、優雅にティーカップを置いた魔族へと目を向け、最後に、己の今の惨状をいやでも思い出す。
肌にまとわりつく湿った布地の冷たさ。髪からぽたぽたと床を打つ水滴。
うん、このまま濡れた服や髪のままで夜を明かせば、自分は十中八九、いや確実に風邪を引くだろう。
「気が利くね。魔族の癖に」
「着替えも用意してあるから、さっさと行け」
促されるままに奥の部屋へと向かい、きしむ蝶番の音を背後に聞きながら、冷え切った身体を湯の温もりに沈める。
こわばった筋肉がほぐれ、血と泥にまみれた汚れが洗い流されていく贅沢な時間。
だが、湯から上がり、用意されていた着替えを広げると、脳内の声との問答が始まった。
(……女が着るものだな)
「は? 俺も女だが」
(ならばさっさと着ればいい。何を戸惑っている)
「いや、その……いくらなんでも、これは俺には似合わないんじゃないか?」
躊躇いがちに持ち上げたのは、ふわりとした肌触りの良さそうな、ワンピースだった。
今までの凄惨な人生を思い返してみても、こんな『可愛らしい』と形容されるような服を着た試しはない。
地下の牢獄に囚われていた頃はただの薄汚れた白い貫頭衣だったし、勇者として引きずり出されてからは、あのエルフがあつらえた無骨で重い白銀の鎧だ。
泥と血の匂いが染み付いた自分が、こんなにも柔らかで無害な布を纏うことへの、得も言われぬ違和感がそこにあった。
だが、ここでいつまでも薄寒い脱衣所に裸のまま立ち尽くしていては、温まった身体が冷えてしまうだけだ。埒が明かないと小さく息をつき、リュシエルは諦めてそのワンピースに袖を通した。
肌を滑る布地の、驚くほど上質なふわりとした肌触りに、思わず内心で感嘆の声を漏らしながら、リュシエルは湿った髪を乱暴にタオルで拭き上げ、再び居間へと続く扉に手をかけた。
部屋に戻ると、先ほどまで茶器だけがあったテーブルの上に、所狭しと湯気を立てる料理が並べられていた。
予期せぬ豪勢な光景に、リュシエルは足を止め、警戒するように目を細めてじろじろと観察する。
「座れ」
魔族が短く命じると、足元から伸びた黒い影がするすると床を這い、リュシエルのための椅子を引いた。
勧められるまま無言で腰を下ろすと、香ばしく焼けた肉と香草の匂いが鼻腔をくすぐり、思わず腹の虫が小さく鳴った。
魔族は微かに響いた腹の音を気にする素振りも見せず、テーブルの中央に置かれた大皿から分厚い肉の塊を切り分ける。そして再び影を操り、リュシエルの手元へと皿を運ばせた。
「肉だ」
(まともな食事だな。お前はずっと、湿った草か渋い木の実しか食ってこなかった)
(でも、これは安全な肉なのか? 毒は?)
「これ、なんの肉?」
疑念を拭いきれず、リュシエルは行儀悪く皿を両手で持ち上げ、鼻を近づけてくんくんと嗅ぐ。獣のように匂いを探る姿を、魔族は何も言わずリュシエルの疑問だけに答えていく。
「魔狼だ。毒はない」
「へぇ、俺はあまり食べたことないかも」
黒い影の手がリュシエルの持つ皿を取り上げ、ことりとテーブルに置き直した。
そして、戸惑う彼女の手に銀色のフォークとナイフを握らせる。
(使い方は一応教えられたな。だが、実際の旅でこんな上等な食器を使ったことなどなかったが)
(我々は血生臭い野宿しかしてこなかった)
(……いや、あの東の神父の所で、一度だけスプーンを使ってスープを飲んだな)
脳裏に蘇るのは、粗末な木皿で出されたあのスープの記憶だ。具もほとんどなく、塩気すら薄かったが、リュシエルにとってはあれが生涯で一番美味しいと感じた食事だった。
手元の銀器の重さに戸惑いながらも、目の前の濃厚なブラウンソースがかかった肉を見下ろす。ぎこちない手つきでフォークとナイフを操り、肉を小さく切り分けて一口食べた。
「……味が、濃い」
(ずっと粗食だった今の身体には、この味は少しきつくないか?)
(だが肉だぞ。ここで食わなければ、この先二度と食えないかもしれないんだ)
(狩りぐらい我々でも出来るだろうに……貧乏性め)
強すぎる旨味と脂に眉をひそめて咀嚼の手を止めたリュシエルを見て、魔族は小さく首を傾げた。
「口に合わなかったか」
魔族が短くそう言うと、黒い影がテーブルの奥から大きな鍋を運んできた。
蓋を開けると、ふわりと柔らかな湯気が立ち昇り、先ほどの肉皿の代わりに、琥珀色のスープがなみなみと注がれた深皿がコトリと置かれる。
「スープ!」
ぱっと目を輝かせるリュシエル。彼女にとって、スープだけはどこか特別な料理に思えた。
深皿に大きく切られた根菜類と、よく煮込まれてほろほろになった肉の塊がごろごろと沈んでいる。
再び黒い影の手から新たに銀のスプーンを受け取ると、リュシエルは今度こそ迷いなく野菜を小さく崩し、熱いスープと一緒に掬って口へと運んだ。
じんわりと広がる優しい旨味。塩気と出汁の温かさが、冷え切った内臓を通り、全身の神経をじんわりと潤していく。
「……おいしい」
気づけば、喉の奥がキュッと熱くなっていた。あの、神父以来だ。他人が自分のために用意してくれた、食事を口にしたのは。
温かいスープで安堵の息をついたタイミングで、傍らの黒い影が、手元の木彫りのコップへ鮮やかな紫色の液体をトクトクと注いでいった。
(先ほど天井から吊るされていた果実の酒……いや、ジュースか?)
リュシエルは得体の知れないそれを警戒するように片目で見つつ、ひとまずは手元の肉を口へと運んで咀嚼する。
(毒はないだろう。飲んでみればどうだ)
促してくる頭の中の声。リュシエルはコップの中で揺れる紫色の飲み物と、向かいの席で優雅に寛ぐ魔族の青年を交互に見比べる。
やがて青年が自身の前にある同じコップを手に取り、静かに口をつけたのを確認してから、リュシエルも恐る恐る両手でコップを持ち上げ、ちびちびと小鳥のように一口啜った。
「うまい」
(果実の甘み……これが濃厚というやつだな)
舌の上でとろけるような芳醇な甘みとほのかな酸味に、赤い瞳がパチリと丸く見開かれた。
昼食と呼ぶには遅く、夕食にはまだ早い、中途半端な時間。ずっと粗食ばかりだったリュシエルの縮んだ胃は、濃厚な肉とスープを半分ほど腹に入れたところで、早々に限界を迎えていた。
カチャリと銀の匙を置き、ふう、と小さく息をつく。手持ち無沙汰になった視線は、自然と向かいの席で食事を進める魔族の青年へと向かった。
(改めて見ても、不気味なくらい整った顔だ)
スッと通った滑らかな鼻筋に、見たこともないほど澄み切った純白の瞳を縁取る、涼やかな切れ長の目元。
それとは鮮やかな対照を描く夜闇のような黒髪は、前髪が重くかかり、うなじを這うように襟足の先までしなやかに伸びている。
(これまで数多くの人間社会に紛れ込む擬態の魔族を見てきたけれど、目の前の魔族は……造形があまりにも整いすぎていて、見ているだけで得体の知れない恐怖と気味の悪さを覚えてしまうな)
木製の卓を挟み、目の前に座る青年の人間離れした美貌を、リュシエルは油断なく、しかしどこか見入るようにまじまじと観察する。
「……魔族の美的感覚ってどうなってるんだろ」
「何か言ったか?」
食事を進めていた青年は、動作をピタリと止め、怪訝そうに純白の深淵のような瞳をこちらへと向けた。その底知れず冷たい視線に射抜かれ、リュシエルは微かに息を呑む。
「いや、別に何でもない。独り言だ」
気まずさを誤魔化すように、リュシエルはすっと視線を逃がし、卓の端に置かれたグラスへと手を伸ばす。そこに満たされていたジュースを、現実逃避するようにちびりと啜るのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
よろしければ、ブックマークや評価などで応援していただけると嬉しいです。
次回もよろしくお願いいたします。




