第三話『湖畔の邂逅』
深い森の奥。木漏れ日が水面で揺れる、人目を避けた清涼な湖畔。
血に塗れた白銀の鎧を泥土の上に脱ぎ捨てたリュシエルは、冷たい水に素足を浸していた。
彼女の視界の端に垂れるのは、あの忌々しいエルフの手で手入れされていた地に届くほどの金髪。
リュシエルはその毛束をわし掴みにすると、昨夜の虐殺でひどく刃こぼれし、血脂がこびりついたままの長剣を乱暴に押し当てる。ブチブチ、と金糸が乱雑に噛み千切られる鈍い音が響いた。
「……なかなか、切れないな」
(炎の魔法で燃やしてしまえ。目の前に湖があるのだから、火傷はしないだろう)
「んー、……まあ、そっちの方が色々と早いか」
のんびりとした、どこか他人事のように、リュシエルは手に握った刃こぼれした剣の柄に力を込めた。
一拍の静寂の後、「おっ」と短い感嘆の声が漏れる。鈍い刃が太い金髪の束を一気に断ち切り、まとわりついていた重たい髪の毛が、ぼさりと音を立てて冷たい足元へと崩れ落ちた。
それを皮切りにするように、リュシエルは残された不揃いな髪の毛をも、ためらうことなく力任せに削ぐように切り落としていく。かつて地下牢の狂気と「勇者」としての虚飾を纏い続けていた名残を、自らの手で無惨に引き剥がすかのように。
やがて、ぐちゃぐちゃに短くなった髪から手を離すと、彼女は重苦しく身体にまとわりついていた鎧を無造作に脱ぎ捨て、澄み切った湖の水面へと迷いなく飛び込んだ。
静まり返った水面を割り、激しい水しぶきが白く弾け飛ぶ。広がる波紋が次第に静まっていくと、リュシエルは冷たい水の上に仰向けの姿勢のまま、プカプカと身体を委ねて浮かび上がった。
「頭が軽い」
(馬鹿みたいに長かったからな)
(碌に手入れもしていなかったしな)
冷たい水が、身体にこびりついた罪と血の臭いをゆっくりと洗い流していく。
木々の隙間から覗く青空を見上げながら、リュシエルは気怠げな声で呟いた。
「これから、どうしようか」
(十中八九、国を挙げての指名手配犯だろうな)
「面倒臭いなあ」
心の底からウンザリしたように息を吐くと、リュシエルは身を翻して湖の中へと潜り、魚のように悠々と泳ぎ始める。ひとしきり冷たい水の中で自由を味わった後、リュシエルはざばりと水面へ顔を出した。
「ぷはっ……」
肺の奥に溜まっていた澱みを吐き出すように、スッキリとした声を上げる。だが、岸辺に脱ぎ捨てられたままの服を思い出し、ふと間の抜けた声で零した。
「あ、着替えがない」
(太陽が上がってるあいだに、濡れた服も乾くだろう)
(あの目立つ白銀の鎧だけは捨てておけ。追手の的になる)
「乾くまで、濡れたまんまなの嫌なんだけど」
心底うんざりした様子でぼやきながら、上がろうと岸辺へ視線を向けた時――ふと、木立の間に『ひとつの影』が立っているのを見つけた。
向こうも水音に気付いたのだろう。静かにこちらへと瞳を向けている。
それは、息を呑むほど美しい青年だった。
もし百人に尋ねれば、百人全員が間違いなく「美しい」と答えるだろう。だが、その美貌には、生き物としての感情や執着がすっぽりと抜け落ちているような、どこか無機質な冷たさがあった。
(――魔族だな)
(我らの自由もここまでか)
(ほんの束の間の自由だったな……)
頭の中の声たちが、諦観に染まった声を落とす。
無理もない。水面に立つリュシエルの赤い瞳に映るその青年の姿からは、森の静寂を塗り潰すほどに異質で、底知れない『魔』の気配が静かに立ち昇っていたのだから。
(いや、待て。あの魔族……ひどく上質な服を着ている)
(アレを殺して、服を頂戴するというのはどうだ?)
「んー、採用!」
死の予感よりも目先の着替えを優先し、リュシエルは無邪気な笑顔で頷いた。
そして、岸辺に立つ青年へ向けて迷いなく掌をかざす。膨れ上がった魔力が、森の薄暗がりを白飛びさせるほどの強烈な閃光を放った。
ただの目眩ましの光。視界を奪った一瞬の隙に、リュシエルは音もなく湖の底へと潜り込み、岸辺へと急速に接近する。
水面下から水際の影を捉え、水面を割って追撃の魔法を放とうとした時だった。
大きな、水柱が上がる。
水中に潜っていたはずの身体が、見えない『何か』に鷲掴みにされ、すさまじい力で空中の高くへと乱暴に引きずり上げられたのだ。
「っ……!」
それでもリュシエルは身をよじり、水面から手が出た瞬間に相手の急所を狙って攻撃魔法を撃ち放つ。
だが、必殺の一撃は青年の眼前で蠢く『黒い影』のようなものに易々と飲み込まれ、音もなく霧散してしまった。
(剣が欲しいな。お前は魔法があまり得意ではない)
(そんなことより、空中で身体を拘束しているこの気味の悪い力は何だ?)
空中に吊るされたリュシエルを拘束しているのは、黒く大きな『手』のようなものだった。それは、岸辺に立つ青年の足元から伸びた影そのものだ。
(影なら、もう一度強烈な光魔法を放てば振り払えるかもしれないが)
(ふむ。ここは一つ、『可愛げ』を見せて油断を誘ってみるというのはどうだ?)
(正気か? 我々に可愛げなんてものがあると思っているのか。それに、見せるならいきなり攻撃する前に見せなくちゃ遅いだろう)
(だが、向こうも油断するかもしれないよ。なにせ、我々の性別は一応『女性』なのだから。か弱き乙女の正当防衛という体でいけるぞ、リュシエル!)
(あの惨々たる血塗れの鎧と剣が転がっているせいで、マイナスポイントからのスタートだがな)
脳内会議の無責任な提案に背中を押され、リュシエルは空中で引き攣った笑みを隠しながら、必死に声を張り上げた。
「いきなり攻撃してしまってすまない。俺は……その、こんな口調でガサツだが、一応性別は女性なんだ。だから、森の奥で出くわして、怖くて……!」
(……自分で言っていて寒気がするな)
(でも、生き残るためだ。なりふり構っている暇はない!)
「それに、貴方はほら……その、魔族だろう? 恐ろしい魔族に襲われるかと思って」
「……人間に擬態はしているつもりだ。そうそう魔族だとバレることはないはずだが」
(あーあ、終わりだ終わり)
「と、とにかく貴方は男性だ! そう、俺は男性が怖いんだ! か弱き乙女の防衛本能だと思って許してくれ!」
半ばヤケクソ気味に叫ぶリュシエルに対し、青年は微塵も表情を変えないまま、岸辺に散乱する凄惨な痕跡へと視線を滑らせた。
「こんな場所で、血に塗れた鎧と、刃こぼれした剣と、乱雑に切り捨てられた大量の髪の毛を見つけた、俺の方がよっぽど怖い」
至極真っ当な正論が、森の静寂に虚しく響いた。それを聞いた、リュシエルは無の顔になって。
「……降ろしてくれませんか。もう抵抗はしません」
しおらしく懇願してみた。すると、身体を拘束していた黒い影は、あっさりとリュシエルを岸辺の地面へと解放される。
(お前の剣は、あの魔族の背後だな)
(流石に、手の届くところには降ろしてくれないか)
武器を奪われた丸腰の状態で、リュシエルは無表情で見下ろしてくる青年の顔を見上げた。
「……何だよ」
「女だと言い張りながら、そんな無防備な姿で湖に入っていたのか」
最もな指摘に、リュシエルは自身の姿を一度見下ろし、そして、誤魔化すようにざばりと湖の中へと戻ると、岸辺の泥に肘をついて顔だけを出す。
「お前を追い剥ぎしようとした、か弱い俺に服を恵んでくれないか。あの鎧は棄てるつもりだが、今ある服がこのずぶ濡れのやつだけで、替えがないんだ」
「随分と態度が一変したな。お前が圧倒的に不利な状況であることは変わっていないはずだが。……服なら、それを洗って干せばいいだろう」
「誰も居ないとは言え、その間は裸だぞ? なら、上質な服を着ているお前を追い剥いだ方が手っ取り早いと思ってな」
(だが、相手の実力を見誤ってあえなく失敗、と)
(さあ、どう立て直すんだ。見たところ、話は通じる相手のようだが)
頭の中で好き勝手にはしゃぐ声を聞き流し、泥に沈めた肘に少し体重を預ける。リュシエルは水面から顔だけを出したまま魔族を見上げ、どこかおだてるように緩く口角を上げた。
「お前は魔族なのに、意外と話が通じるね」
「そういう貴様は、人間の癖して話が通じないな」
(無理もない。まともな人間と対話なんて、ほぼしてこなかったからな)
(今まで一番長く会話した相手といえば、昨日殺したあのエルフくらいだ)
ふいに脳裏へ蘇りそうになった、あのいけ好かない男の顔。ぞわりと這い上がってくる不快な記憶を乱暴に振り払うように、水中の足を蹴り上げる。
バチャッと跳ねた冷たい飛沫が、木漏れ日を散らして水面へと落ちた。
濡れたまつ毛を瞬かせ、悪びれる様子もなく要求を連ねる。
「で、服は恵んでくれるのか? くれないのか? もしくれるなら、ついでに何か食べ物も欲しい。あと金。それと、ゆっくり眠れる安全な場所。……無理なら、さっさと消えてほしいんだけど」
立て続けに図々しい要求を並べ立てた後、リュシエルはどうせ無理だろうと諦めをつけ、ふいっと顔を横に向けた。
このまま、あの影に引き裂かれて殺されるのだろうか。
そう思うと、「本当にクソみたいな人生だったな」という乾いた感情だけが込み上げてくる。リュシエルは水辺に生えている雑草を無造作に引きちぎると、八つ当たり気味に魔族の足元へと放り投げた。
「はあ……」
森の静寂の中、魔族の青年から、疲労を孕んだため息がこぼれ落ちた。
直後、彼の足元からどろりと黒い影が蠢き出す。
(我々もこれで終わりだな)
(魔王を倒した勇者の最期にしては、呆気ないものだ)
「ま、こんなものだろ。この年まで生きているのが、奇跡みたいなものだったんだからね」
乾いた自嘲の呟きは、冷ややかな湖面に落ちてすっと溶けていく。ふと意識の底に蘇ったのは、自分よりも先に逝ってしまった、みんなの顔。
魔王討伐という偉業の果てに待っていたのは、生き残れば必ず復讐に来るだろうと恐れた者たちの手で洗脳され、リュシエルを殺すための刃と化した生き残りの姿。
「あーあ、これで終わりかあ」
苦笑し逃れられない終わりを悟り、リュシエルは静かにまぶたを下ろして、迫り来る破滅の衝撃に身を委ねる。
バイバイ、と。頭の中のみんなにさよならを告げる。
しかし。予想に反して、肉体を切り裂くはずの激痛は訪れなかった。身体はふわりと見えない影に水面から掬い上げられ、岸辺の乾いた地面へと放り出される。
乱暴な扱いの割には、冷たい土の感触を背中に受けただけで、不思議とどこにも怪我はなかった。
驚いて目を開けると、青年はすでに踵を返し、鬱蒼とした森の奥へと歩き出しているところだった。
殺されなかったことに呆然としながら、遠ざかる背中を見送っていると、ふと青年が足を止め、肩越しにこちらを振り返る。
純白の瞳には、手に入れた珍しい玩具を品定めするような静かな興味の色が浮かんでいた。
「俺の所へ来い」
その言葉だけを残し、美しい魔族の姿は森の暗がりへとふっと溶けるように消えていった。
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