第二話『首輪を壊した日』
勇者は、ついに魔王を討ち取った。王城へと続く大通り。凱旋する勇者を迎えるはずの歓声は、どこにも響いてはいない。
白銀の鎧をどす黒く染め上げた勇者は、右手に魔王の生首を無造作にぶら下げて歩いていた。
滴り落ちる黒赤が、磨き上げられた美しい石畳に点々と生々しい染みを作っていく。沿道に群がる民衆は、救世主の帰還に歓喜するどころか言葉を失い、波が引くように怯えて後ずさっていた。
招き入れられた玉座の間でも、その異様な空気は変わらない。豪奢な真紅の絨毯の上に、ゴトリと重い音が響く。放り出された魔王の首を見下ろす国王も、傍らに控える宰相も、明らかな恐怖で顔を引き攣らせていた。
(もっと、喜べばいいものを。大げさに怖がり過ぎてないかい)
(あの首が悪い。せめて、何か布で包んでくればよかったのに)
「別にいいだろ。もう、俺の役目もこれで終わりだ」
玉座の主が、上擦った声でひたすら称賛の言葉を並べ立てている。怯えを誤魔化すように大仰な身振りで『人類の勝利』を語り上げる声を、勇者は右から左へと聞き流した。ただ頭の奥で囁き続ける声にだけ向けて、小さく唇を動かす。
「皆の者! これで魔族に怯えて過ごす夜は終わった! 各大陸へ直ちに通達せよ! 我らが勇者リュシエルが、見事魔王を討ち取ったとな!」
虚勢に満ちた王の宣言が玉座の間に響き渡るのと同時に、勇者――リュシエルは笑った。
ニコリ、と。三百六十度どこから見ても完璧で、非の打ち所がない『爽やかな英雄の笑顔』を、顔の筋肉を精密に操作して作ってみせる。
だが、淀みのない笑みを見た近衛兵たちは、かえって武器を握る手をガタガタと震わせ、無言のままじりりと後退した。
自分が彼らの目にどう映っているかなど、リュシエルはとうに理解している。頭からつま先まで血に染まった人間が浮かべる完璧すぎる笑顔ほど、不気味なものはないのだから。
(コイツらが、自分たちの都合のいいように我々を『作って』魔王討伐へ行かせたくせにな)
(用が済んだら済んだで、今度は我々を化け物を見る目で見おって)
(ここにいても、お前は自由にはなれないよ。我々の『後ろ』にいる奴らを、どうにかしない限り)
いくつもの声が合唱を上げる。それでもリュシエルは、顔に貼り付けた『英雄の笑顔』を微塵も崩さない。ただ誰にも気づかれぬよう、奥歯を砕かんばかりの力でギリッと噛み締める。舌の上に、微かな鉄の味が広がった。
「長旅の疲れを癒していただきたい」
案内されたのは窓枠の装飾すら眩しい豪奢な客室。だが、外側からは重厚な魔導錠が掛けられ、牢獄にすぎなかった。
バタン、と外から扉が閉ざされた完全に一人になった途端、リュシエルは浮かべていた笑みを消し、音もなく開け放った窓枠を蹴り、夜の闇へと滑り落ちる。
(あそこを客室と呼ぶのは笑わせるな。我々を閉じ込めて、いつ処分するかを相談するための檻のくせに)
(リュシエル。地下室へ向かうのかい)
「ああ。首輪を外す算段はもうついている。だが、アッチがどう動くか……知りたい」
乱れた金髪が風に靡き、その合間から黒い首輪が覗く。
(アソコに幽閉されている、残りの『勇者候補たち』はどうするの?)
(我々が帰還したのだ。既に用済みと始末されている可能性が高いな)
(いや、魔王の首を持ち帰ったのは昨日の今日だぞ。まだ生かされているかもしれん)
(それに、アイツはどうするんだ)
脳内の喧騒をよそに、リュシエルは月明かりを巧みに避け、王都の屋根から屋根へと影のように駆け抜ける。目指すのは、人気のない路地裏にぽっかりと口を開ける、暗く淀んだ下水道の入り口。
鼻をつく腐臭と汚水が渦巻く地下道へ、リュシエルは躊躇いなく飛び降りる。
「勇者候補は、誰かに頼るとか……子供じゃないんだしさ」
(お前にそんなツテがあるのか? たった一人で魔王討伐へ向かった時、どうせ死ぬだろうと誰一人として手を差し伸べなかったというのに)
暗闇の奥から、地下の魔物たちが次々と飛び出してくる。だがリュシエルは歩みを止めることすらなく、片手に提げた長剣を、ただ作業のように振るい続けた。
魔物の分厚い肉を断ち、骨を砕く鈍い音が狭い水路に連続して響く。返り血や汚水を頭から浴びながらも、リュシエルの呼吸は一つとして乱れない。
「東の……小さな村の神父。彼はどうだろうか」
(……ああ、あの平凡そうな男か。確か、アイツだけは我々に温かいスープを恵んでくれたな)
暗闇の中、次々と襲い来る魔物の死骸を蹴り退けて進む。やがて水路の突き当たりに、古びた鉄の梯子を見つけた。赤錆の軋む音を立てて上へ上へと登り、天井に偽装された隠し扉を力任せに押し上げる。
埃っぽい空気とともに視界に広がったのは、床から天井に至るまで、おびただしい量の禁書や研究資料が所狭しと積み上げられた乱雑な部屋。
その場を抜け、リュシエルは一切の足音を殺して歩んでいく。
やがて薄暗い通路の先で、数人の屈強な護衛を引き連れて歩く『見知った背中』を視界に捉える。
刹那、リュシエルの身体が弾かれたように駆けた。護衛たちが異変に気付き、剣に手をかける暇すらない。すれ違いざまに数人の首を鮮やかに刎ね飛ばす。生あたたかい血飛沫が舞うよりも早く、中央にいた標的の膝裏を強烈に蹴り砕いた。
崩れ落ちた男が息を呑むと同時、その後ろから回された剣の切っ先が、ねっとりと濡れた刃を首筋へぴたりと押し当てていた。
「あーあーあーあー、こうなるから事前に対策しようと思っていたんだが……お前の方が少しばかり早かったらしいな。『1425番』」
冷たい石の床に這いつくばらされながらも、白衣を着た男は一切悪びれる様子もなく、ただの予定不調和をぼやくように口を開いた。
「俺を自由にする気はあるか。無いなら殺す。あっても殺す。お前にかける慈悲はない」
「無いな」
即答だった。リュシエルは感情の抜け落ちた赤い瞳で、かつての自分の創造主を見下ろす。
「そうか……なら、此処に残っていた勇者候補たちは──」
ぞわり、と。
背後から突如として膨れ上がった殺気に、リュシエルは咄嗟に首を沈めた。
銀色の鋭い刃風が真上を通り抜ける。リュシエルは足元の男から視線を一切外さないまま、背後の刺客の鳩尾めがけて容赦のない後ろ蹴りを叩き込んだ。
ゴキリ、と鈍い骨の砕ける音が響き、何者かが壁に激突して力なく崩れ落ちる。
「なるほど」
背後に倒れ伏した襲撃者の様子を横目で一瞥し、リュシエルは冷めた声で呟いた。
(我々を殺すように洗脳されたか)
(最悪の結末というやつだな)
血溜まりの中でピクピクと痙攣しているのは、リュシエルと同じように虚ろな瞳をした、屈強な身体をした金髪の青年だった。
かつて共にこの地獄のような施設で生き、過酷な実験を耐え抜いた勇者候補の一人。
「彼らの洗脳を解く気はあるか?」
リュシエルは一切の抑揚がない声で問いかけながら、足元で這いつくばる男の腹部へ、躊躇いなく剣を突き立てた。
「ぐっ、がぁ……ッ!?」
男の苦悶の叫びを完全に無視し、無表情のまま刃をねじり込み、引き抜き、そしてまた別の箇所へと突き立てる。
(おいおい、洗脳を解く方法を喋る前にアイツが死ぬぞ)
頭の中の声が忠告をするが、リュシエルは返り血に濡れた顔で歪な笑みを浮かべた。
「大丈夫、まだ殺さない。それに、俺には便利な『回復魔法』があるからね」
それは勇者に与えられた、傷ついた仲間を癒すための神聖な力。
リュシエルは男の腹からねっとりと血を引いて剣を引き抜くと、空いた左手をどす黒い血溜まりへと押し当てた。
淡く優しい聖なる光が男の身体を包み込み、致命傷だったはずの臓器の損傷を強制的に塞ぎ、肉を繋ぎ合わせていく。
「ごホッ……あーあー。俺はとんだ化け物を作ってしまったらしいな」
臓腑からこみ上げた血を床に吐き出しながら、男は皮肉げに口角を歪める。
「うん。だから、責任を取って俺に殺されような」
無邪気な子供が遊びをねだるような甘い口調で返し、リュシエルはせっかく回復させたばかりの男の傷口へ、再び容赦なく剣を突き立てた。
ぐちゃりと肉が裂ける音。男の苦悶の表情など見てもいない。彼女の赤い瞳に映っているのは、あの暗い地下牢で理不尽に命を奪われていった子供たちの亡霊だ。
「ぐっ……これでも、俺なりにお前たちには情を割いていたつもりなんだがな……」
腹を抉る刃の激痛に顔をしかめ、冷や汗を流しながらも、白衣の男は皮肉げな薄笑いを崩さない。
「洗脳を解く気は?」
「彼らに洗脳を施したあのダークエルフは、いち早く逃げたよ。残念だが、あの子らを殺すしか……もう、お前には道がない」
(ダークエルフ! あの女! 先に逃げたというのか!)
頭の中で響き渡る憤怒の叫びをよそに、リュシエルはただひどく冷ややかに目を伏せた。
「……そうか。彼女にも、たっぷりと『お礼』をしたかったのに」
心の底から残念そうに呟きながら、リュシエルは血に濡れた手で、顔にかかった長い金髪を煩わしげに後ろへと流す。
そしてそのまま、自身の首に填められた重厚な『首輪』を鷲掴みにした。
膨大な魔力が指先から首輪へと直接流し込まれ、強引すぎる負荷によって呪縛の金属が悲鳴のような軋みを上げる。
リュシエルは表情一つ変えず、そのまま力任せに首輪を引きちぎり、石の床へと投げ捨てた。
絶対の支配を意味していたはずの魔導具が破壊されたのを見て、白衣の男は「だろうな」と悟ったように、微かに満足げな笑みを零す。
己を縛り続けてきた全ての鎖からついに解放された勇者は、静かに、そして確かな殺意をもって血濡れた剣を高く振り上げた。
「勇者リュシエル。せめてお前の行く末が、穏やかなものであると祈るよ」
それは、身勝手な創造主が最期に残した、祈りという名のひどく呪わしい遺言だった。
明くる日の朝、王都は未曾有の混乱と悲鳴に包まれていた。
表向きは『城で手厚く保護されている』はずだった十数名の子供たち――その実、地下に幽閉されていた勇者候補たちが、一人の生存者もなく死骸となって発見されたのだ。
さらに王国を震撼させたのは、地下での凄惨な光景だった。
全身をズタズタに切り裂かれて死んでいた、あの男。彼は、この世界で最後のエルフの血を引く希少な存在であり、王国の『国宝』として崇められていた不世出の天才だったからだ。
そして何より――魔王の首を持ち帰った英雄を案内したはずの豪奢な客室はもぬけの殻。
開け放たれた窓から朝の風が吹き込むばかりで、城内のどこを探しても金髪の姿はない。
事ここに至り、王国は直ちに全土へ通達を出した。
魔王を討伐し、世界に平和をもたらしたはずの『勇者』は、たった一夜にして、世界に仇なす最悪の罪びとへとその名を落としたのだった。
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