第一話『リュシエルという名の勇者』
斬って。斬って。斬って。斬って――斬り捨てた。
血脂で刃こぼれした長剣が、魔族の硬い皮膚と骨を断つ。腕に伝わるのは、ただ鈍く嫌な手応えと、咽せ返るような鉄錆の匂いだけ。
(後ろから来ているぞ)
(後ろのを処理したら、次は前方の三体)
(魔力が戻った。一気に片付けろ)
脳内の内側をひしめく複数の『声』が、冷酷な演算のように的確な指示を下す。それに従い、リュシエルは返り血に染まった虚空へ掌をかざした。
瞬時に満ちた魔力が、凍りつくような熱を帯びる。暗くじめついた石造りの回廊に、目も眩む白き光の雨が降り注いだ。
「消えろ」
ただ一言で、群がっていた魔族の叫びは光に呑まれ、不快な煙を上げる肉塊へと変わる。
グチャリ。炭化した死骸とぬるい血溜まりを、どす黒く汚れた白銀のブーツが躊躇いなく踏み砕いた。視線を上げる。赤く濁った瞳が真っ直ぐに見据えるのは、螺旋の最奥にそびえる魔王の玉座。
(その無駄に長い髪を整えろ)
(笑顔はちゃんと浮かべられているか? お前は勇者なのだから)
『勇者』と呼ばれたその人物――地下牢から引きずり出されたときから手入れすら許されず、地に届くほど伸びきった金髪を重たく引きずり、赤く濁った瞳をすえたまま、暗い回廊で歩みを止めた。
血脂に濡れた冷たいガントレットの指先を自らの頬へ当て、皮膚をぐいと無理やり持ち上げる。
「どうだ。ちゃんと、笑えているか?」
(……)
「おい、何か言いなよ」
(我々はお前の頭の中にしかいない。だから、お前が笑えているかは分からない。……だが、筋肉が引き攣っているのは伝わってくる)
(笑顔はもういい。大事なのは口上だ。これから魔王との決戦なのだからな)
(それから、今持っている剣も新しいものに取り替えろ)
頭の奥でひしめく指示に従い、脂と肉片にまみれて刃こぼれした剣を手放すと、甲高い金属音が、冷たい石畳に虚しく反響した。
「口上なんて、今まで一度もやってこなかったじゃないか」
乾いた声で呟きながら、足元に転がる魔族の死骸からまだ刃の生きている長剣を拾い上げる。鞘を探して収める気すら起きず、抜き身のまま血の滴る刃を、だらりと垂らした。
(『我、勇者なり。お前を倒しに来た』でいいんじゃないか)
果てしなく続く螺旋階段を一段、また一段と上る。甲冑の重い足音が冷たい石壁に反響し、やがてその響きが途切れた先――豪奢な装飾が施された、身の丈の何倍もある重厚な大扉が立ちはだかっていた。
赤く濁った瞳が、感情の抜け落ちた硝子玉のような光を宿して扉を見据える。
「我、勇者なり……我、勇者なり。んー、やっぱり言わなくてもいいんじゃないか?」
(さあな。それはお前の好きにしろ)
(いや、口上は必要だ。これが最後にして最大の晴れ舞台なのだから)
繰り広げられる無益な脳内会議をBGMに、勇者は首をゴキリと鳴らし、凝り固まった両腕をぐうっと頭上へ伸ばして深い息を吐き出した。
この分厚い扉の向こうには、世界を混沌の底へと突き落とした元凶――魔王が待ち構えている。だというのに、勇者の赤い瞳には恐怖も、昂揚も、使命感すらも。微かな緊張の欠片さえ浮かんでいなかった。そこに淀んでいるのはただ、永すぎた旅への怠惰な徒労感だけ。
腕を下ろし、拾ったばかりの長剣の柄をガントレット越しに強く握りしめる。そして一切の躊躇いなく、扉の中心目掛けて分厚い白銀のブーツを容赦なく叩き込んだ。
鼓膜を劈く破壊音とともに、何重にも施されていた強固な封印ごと、重厚な扉が内側へと踏み荒らすように跳ね飛ばされる。吹き抜ける冷気と、玉座を覆う淀んだ暗闇に向かって、勇者は声を張り上げた。
「我、勇者なり! お前を殺して、ようやく! 私は、自由になる!!」
その顔には、先ほどまでの不器用な作り笑いなど微塵もない。長すぎる鎖を引きちぎった野獣のように、狂気を孕むほどに歪で、底知れぬ歓喜に満ちた『本物の笑顔』が、その美しい顔面にべっとりと貼り付いていた。
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