絵文字
絵文字、というものがある。
あの小さな記号だ。今や、文章の隅々にまで、当たり前のように紛れ込んでいる。
意外に思うかもしれないが、あれは、日本発祥の文化だ。
一九九〇年代、日本の携帯電話向けに作られたのが、始まりだと言われている。限られた文字数の中で、感情や状況を、手早く伝えるための工夫。それが、いつしか海を渡り、世界中に広まった。
面白いのは、英語圏でも、あれが「emoji」と呼ばれていることだ。
英語には、emotion(感情)という単語があるから、てっきり、そこから来た言葉かと思いきや——違う。「emoji」の語源は、日本語の「絵文字」そのものだ。「絵」と「文字」。それが、そのまま、世界共通語になっている。emotion とは、まったく関係ない。偶然、綴りが似ていただけの話だ。
絵文字が、面白いのは、あれが「言葉」ではない、ということだ。
「ありがとう」と打つ代わりに、「怒ってるよ」と書く代わりに絵文字を貼る。三文字も、五文字も、あるいはもっと長い感情の機微も、たった一つの記号に、圧縮してしまう。
考えてみれば、すごいことだ。
人類は、長い時間をかけて、言葉というものを発明した。世界を、細かく、正確に、分節するために。りんごを「りんご」と呼び、悲しみを「悲しみ」と名づけ、そうやって、混沌とした世界を、言葉で切り分けてきた。
なのに、僕たちは今、その言葉を、また記号に戻している。一つの記号に、無数の言葉を、畳んで、しまい込んでいる。
あれは、圧縮だ。
一度、丁寧に言葉で表現されたものを、みんなが共有できる形にまで、ぎゅっと縮めたもの。だから、笑顔の絵文字を見た誰もが、その中に畳まれた「嬉しい」や「大丈夫」や「照れ」を、一瞬で、解凍できる。
圧縮には、圧縮の効率がある。展開には、展開の速さがある。
——そして、それは、思考にも、同じことが言えるらしい。
昼休みの教室は、いつも通り、騒がしかった。
弁当を広げる者、購買のパンを頬張る者、机を寄せ合って喋る者。授業のあいだ張りつめていた空気が、この時間だけ、ゆるゆると弛緩する。
僕は、自分の席で、母の作った弁当を食べていた。その向かいに、椅子を逆向きにして跨がった夕弥が、購買の焼きそばパンを片手に、先日の実技の話をしている。
「いやー、それにしても前の実技、すごかったよなあ」
「またその話か。」
「だってさ、委員長との実戦、何回思い出してもゾクゾクするんだよ。あれ、どうやってんの?」
「知るか。」
「空だってやられただろ! 二秒で!」
「思い出させるな。」
夕弥は、けらけら笑いながら、焼きそばパンを一口かじった。
「そもそも、二秒であんなに思考術を何個も行使できる方がおかしいんだ。どんだけ思考速度早いんだよ。」
「でもさ、俺、思うんだけど。結局、イメージだと思うんだよな」
「イメージ?」
「そう! こう、頭の中で、ばーん! って絵を思い浮かべるんだよ。炎が、ぶわーっと広がって、それが、しゅわーって雨になる、みたいな。その絵が鮮明なほど、術も強くなる。俺はそんな感じ!」
夕弥の説明は、擬音まみれで、控えめに言っても、まったく理論的ではなかった。いわゆる感覚派なのだろう。だが、こいつの言うことには、時々、妙な説得力がある。実際、それでTQが他の人より高いのだから、文句は言えまい。
「ばーん、とか、しゅわー、とか。もう少し、言葉を選べ。」
「言葉じゃ足りないんだって! イメージなんだよ! イメージ!」
「まぁ、間違ってはいない。」僕は認めた。
「思考術は、思考のかたちを映す。頭の中のイメージが鮮明なほど、術も安定する。それは、確かにそうだ。」
「だろ!?」
夕弥が、得意げに胸を張った。こういうところが、こいつらしい。理屈は分からなくても、本質だけは、なぜか掴んでいる。
そのとき。
「それは、少し違う。」
静かな声が、割り込んできた。
いつの間にか、僕の隣の席に、玲が座っていた。分厚い本を閉じて、こちらを見ている。昼食は、もう済ませたらしい。彼女は、いつも、驚くほど早く食べ終える。
「違うって、何が?」夕弥が、口を尖らせる。
「イメージはあくまで補助。理論が一番重要。」
玲は、短く言った。
「思考術は、イメージの鮮明さじゃなくて、理論の正確さで決まる。水を出すなら、まずは水の分子式、そしてそれをどう作るのか。大気中の水分を集めるのか、ゼロから生成するのか、空気を水に変換させたいのか——全部、理屈。イメージは、その結果としてついてくるだけ」
「うへぇ。難しい」
「難しくない。ふつう」
玲は、真顔で言い切った。夕弥が、うーん、と唸る。
「でもさ、畠谷さん。俺、理屈なんて全然分かってないけど、閃光術は使えるよ?」
「それは、光がどういうものか、感覚的に理解してるから。理論を、言葉にできてないだけで、頭の中には、ちゃんとある。ただ、それだと——応用が、利かない」
「応用?」
「あなたの閃光術は、たぶん、まぶしくするだけ。でも、光の理論を、正確に理解してたら。レーザーみたいに、収束させて、熱を持たせることもできる。回折させて、像を歪ませることもできる。……理屈が、深いほど、術の幅が広がる」
「レーザーなら出せるぜ!!」
「……そう。」
玲は、少しだけ、視線を落とした。どうやら、これ以上言っても無駄だと感じたらしい。
イメージ重視の夕弥と、理論重視の玲。
面白い対比だな、と、僕は思った。
どちらも、間違ってはいない。夕弥のやり方は、直感的で、速い。玲のやり方は、正確で、応用が利く。二人の思考術のかたちが、そのまま、性格の違いに、綺麗に対応している。
そんなことを考えながら、弁当を食べていると。
「あ、一条さんだ! おーい、委員長!」
夕弥が、大きく手を振った。
見ると、教室の入り口に、一条悠乃が立っていた。手には、書類の束。委員長として、何か仕事の途中だったのだろう。彼女は、夕弥の呼びかけに気づいて、こちらへ歩いてきた。
「なあに、千葉くん」
「委員長、ちょうどいいところに! 今、前の実技の話してたんだよ。どうやってあんな短時間で何種類も使えるの? やっぱり理論的に考えてる? イメージ?」
一条は、少し困ったように微笑んだ。
「どうやって、って言われても……。普通に、やってるだけよ?」
「その『普通に』が、普通じゃないんだって!」
夕弥の言葉に、僕も、内心で頷いた。
ずっと前から引っかかっていたことがある。
一条悠乃の、思考術の、行使の速さだ。
あの日の実技。開始から二秒で、彼女は三種類の術を組み合わせて、僕を封殺した。氷結、摩擦の除去、気流の生成。それを、ほとんど同時に。しかも、開始位置から一歩も動かずに。
思考術には、行使のために「考える時間」がいる。深く考えるほど、術は強くなるが、その分、準備の時間も長くなり、隙も大きくなる。だから実技では、動きながら、いかに速く思考をまとめるかが、勝敗を分ける。
なのに、一条には、その「隙」が、ほとんどない。
まるで、考えていないみたいに、術が発動する。
「なあ、一条さん。」
気づけば、僕は、そう口を開いていた。夕弥が「お、空から質問だ、珍しい」と茶々を入れる。
「一つ、聞いていいか。」
「うん。なあに?」
「なんで、あんなに術の発動が速いんだ。実技の時、開始二秒で三つの術を同時に使ってただろ。あれ、どういう仕組みなんだ。」
一条は、少しだけ、目を見開いた。それから、「ふふっ」と、納得したように頷いた。
「そういうことか。真渡くん、そういうの、気になるタイプなのね」
「まあな。」
「いいわよ、教えてあげる。……といっても、大した話じゃないんだけど」
一条は、近くの空いた椅子を引いて、腰を下ろした。僕と、夕弥と、玲。三人の視線が、彼女に集まる。
「まず、新しい術を覚えるとき。私は、はじめに、その術が発動する理論を、とことん調べるの。できるだけ細かく、隅々まで。」
「とことん?」
「そう。たとえば、氷結の術なら。水がどうやって凍るのか。分子の運動をどう抑えればいいのか。潜熱はどこへ逃がすのか。凝固点はどう変わるのか。……もう、これでもかってくらい、徹底的に、理屈を調べて、考える」
それは、玲のやり方と、似ていた。理論を、正確に理解する。玲が、ちらりと、一条を見た。
「だから、はじめは、遅いのよ」
「遅い?」
意外な言葉だった。TQ83、歴代最高の一条が、遅い?
「うん。新しい術を覚えたばかりの頃は、私、たぶん、みんなと変わらない。むしろ、遅いくらい。だって、いちいち、全部の理屈を、頭の中で辿ってから発動してるんだもの。氷を作るのに、分子運動がどうの、潜熱がどうの、なんて、いちいち考えてたら、そりゃ、時間がかかるでしょう?」
「……確かに。」
「でも、それを、何度も、何度も繰り返すの。すると、あるとき、それを——記号化できるようになる」
「記号化?」
僕は、思わず、聞き返した。
その言葉が、なぜか、胸に引っかかった。
「うん。」一条は、頷いた。「一度、完全に理解した理論を、ぎゅっと、圧縮するの。分子運動がどうの、潜熱がどうの、っていう長い理屈を、たった一つの記号に、畳み込む。私の頭の中では、氷結の術は、もう、細かい理屈じゃない。ただの、一つの『記号』なの」
「そうすると、どうなると思う?」
一条が、いたずらっぽく、こちらを見た。
「……考える容量が、空く。」僕は、答えた。
「正解」
一条は、嬉しそうに微笑んだ。
「記号化した術は、もう、いちいち理屈を辿らなくていい。というか、あまり意識せずに、その理屈が頭を回ってる感じかな? 記号を一つ、思い浮かべるだけで、条件反射みたいに、発動する。だから、速い。しかも——」
彼女は、指を三本、立ててみせた。
「考える容量が、少なくて済むから。複数の術を、同時に使うことも、できるようになる。氷結と、摩擦の除去と、気流の生成。三つとも、記号にしてしまえば、頭の中の作業台には、余裕で、三つ、並べられる。だから、同時発動が、しやすいの」
僕は、ごくりと、唾を飲んだ。
複数同時発動。
それが、どれほど高度な技術か、実技をかじった人間なら、誰でも知っている。一つの術に集中するだけでも大変なのに、二つ、三つを、同時に、精密に制御する。それは、TQの高さだけでは、説明のつかない、別次元の技巧だ。
一条は、それを、「記号化」という一言で、事もなげに説明してみせた。
「つまり、」僕は、頭の中を整理しながら言った。「思考術の行使が速いのは、術そのものが特別なんじゃなくて。理論を、徹底的に理解した上で、それを記号に圧縮して、反射で撃てるまで、鍛えてる。そういうことか。」
「そういうこと」
一条は、頷いた。
「だから、私の強さは、才能っていうより、下ごしらえなの。地味な、下ごしらえ。みんなが見てるのは、完成した料理だけだけど。その前に、すごく長い、仕込みの時間があるのよ」
その言葉には、妙な実感がこもっていた。
完璧な優等生。歴代最高のTQ。世界トップレベルの思考術。その裏側に、「地味な下ごしらえ」があるのだと、彼女は言う。
「へー! なんか、分かったような、分からないような!」
夕弥が、腕を組んで唸った。
「要するに、委員長は、めっちゃ予習してるってことだろ?」
「……まあ、すごく雑にまとめると、そうね」
一条が、苦笑した。
「予習かあ。俺、予習とか、いちばん苦手なんだよなあ」
「「知ってる。」」僕と玲の声が、綺麗に重なった。
「なんで二人して即答なんだよ!」
教室に、小さな笑いが起きた。
僕は、笑いながらも、頭の中では、別のことを考えていた。
——記号化。
一条の話は、他人事ではなかった。むしろ、僕自身の話に、恐ろしいほど、近かった。
僕も、思考術を使うとき、似たようなことをしている。
新しい術を覚えるとき、まず、その理論を理解する。とことん、調べて、考える。そして、それを、なるべく反射的に発動できるようになるまで、練習する。頭で考えなくても、条件さえ揃えば、勝手に発動するくらいまで。
一条の言う「記号化」と、たぶん、同じことだ。
僕の思考術——浮遊、水分攻撃、相対位置の固定。あの三つは、もう、僕の中で、記号になっている。だから、いちいち考えなくても、撃てる。
違うところと言えば——
「真渡くん?」
一条の声で、僕は我に返った。
「どうしたの、急に黙って」
「……いや。」僕は、首を振った。「参考になった、と思ってさ。ありがとう。」
「ふふ、どういたしまして。真渡くんも、記号化、意識してみたら? そうしたら、もっと術の発動、速くなるかもよ」
「そうだな。試してみるよ。」
「真渡くんは、良い眼を持ってるからね。」
「どういうことだ?」
「あの実戦中に、三つも術が行使されてるのが、分かったんでしょう?」
「……たまたまだ。」
「ふふっ、そういうことにしといてあげる。」
一条は、そう言って、悪戯っぽく笑った。追及するでもなく、疑うでもなく。ただ、見えているものを、見えていると認めた上で、こちらの言い分を、そっと横に置いてくれる。
「そういえば、」
それまで黙っていた玲が、ふと、口を開いた。
「空は、昔、いろんな思考術を考えてた」
「え?」
僕は、玲を見た。夕弥と一条も、興味津々の顔で、玲に注目する。
「へえ、空が? どんな?」夕弥が、身を乗り出す。
玲は、少し、懐かしそうに——といっても、無表情なので、僕にしか分からない程度の、かすかな柔らかさで——語り始めた。
「小学生の頃。空は、変な術ばっかり、考えてた」
「変な術って、なんだよ。」僕は、嫌な予感がした。
「たとえば、砂糖と塩を、判別する術」
夕弥が、ぷっと、噴き出した。
「砂糖と塩!?」
「そう。」玲は、真顔で続けた。「見た目が同じで、区別がつかないから。舐めなくても分かる術があれば便利だ、って。空は、そう言って、結晶構造の違いを、思考術で読み取ろうとしてた」
「……それは、忘れてくれ。」
僕は、頭を抱えた。確かに、そんなことを、考えていた時期があった。母が、料理中に砂糖と塩を間違えたのを見て、それを解決しようと、大真面目に、判別術を研究していた。小学二年生の頃だ。
「あと、洗濯物を、たたむ術」
「洗濯物!?」夕弥が、爆笑した。「なんだそれ、地味すぎるだろ!」
「空は、家事の手伝いが嫌いだったから。」玲が、淡々と暴露する。「シャツを、思考術で、勝手にたたませようとしてた。物体の相対位置を、順番に固定していけば、理論上は、たためるはずだ、って。……結局、シャツが、変な形に丸まって、失敗してたけど」
「玲、それ以上は言わなくていい。」
一条が、こらえきれずといった形で笑っていた。
「なにそれ、可愛い! 真渡くん、そんなこと考えてたの?」
「子供の頃の話だ。誰にでも、黒歴史はある。」
「でも、」玲は、笑っている二人には構わず、僕を、じっと見た。「わたしは、あの頃の空の術、好きだった」
教室の、笑い声が、少しだけ、遠のいた気がした。
「役に立つとか、立たないとか。強いとか、弱いとか。そういうの、関係なくて。空は、ただ、『こういうことができたら、面白いな』って、考えてた。誰かのために、便利だったらいいな、って。……砂糖と塩の術も、お母さんが困ってたから、でしょう?」
僕は、答えられなかった。
玲は、覚えていた。
あの頃、僕は、確かに、そう思っていた。思考術は、面白いものだと。誰かの役に立つ、楽しいものだと。強さとか、TQとか、そんなことは、考えていなかった。ただ、世界を、少しだけ便利に、少しだけ面白くするための、道具だと思っていた。
いつから、僕は、それを、忘れたのだろう。
否、僕は新しく思考術を作るのをやめたのだ。あの思考術を作ってから。
玲は、気づいている。
はっきりとではないにせよ、感じ取っている。昔の僕と、今の僕の、違いを。あの頃、あんなに自由に思考術を考えていた僕が、今は、一般的な術しか、使わないことを。
まるで、何かを、抑えているみたいに。
「……昔は、暇だったんだよ。」
僕は、なんとか、そう誤魔化した。
「今は、受験だの、進路だの、考えることが多いからな。くだらない術を考えてる余裕は、ない。」
「そう。」
玲は、それだけ言った。
でも、その「そう」が、蓋をした一音であることを、僕は、聞き分けてしまった。
玲は、僕の誤魔化しを、信じていない。
分かっていて、あえて、引き下がったのだ。
「いやー、でも、面白い話だったな!」
夕弥が、場の空気を、いつものように、明るく塗り替えた。
「みんな、それぞれ、やり方が違うんだな。俺はイメージ、畠谷さんは理論、委員長は記号化。で、空は……昔は変な術ばっかり」
「最後のは、余計だ。」
「あはは! でもさ、こういうの、話してると楽しいよな。思考術って、奥が深いわ」
夕弥の、屈託のない笑顔に、僕は、少しだけ、救われた。
こいつは、いつも、こうだ。深刻になりかけた空気を、一瞬で、軽くしてしまう。
そのときだった。
「畠谷さん、いる?」
教室の入り口から、声がした。
見ると、音無先生が、顔を覗かせていた。いつもの、穏やかな笑み。だが、その視線は、まっすぐに、玲を捉えていた。
「畠谷さん、ちょっと、いいかな。職員室まで、来てもらえる?」
玲は、一瞬、間を置いてから、頷いた。
「……はい。」
彼女は、静かに立ち上がり、分厚い本を鞄にしまうと、先生の方へ歩いていった。小柄な背中が、教室を出て、廊下へ消えていく。
「畠谷さん、また呼ばれてるな」
夕弥が、何気なく言った。
「また?」僕は、聞き返した。
「うん。最近、多くない? 畠谷さん、音無先生に呼ばれること」
言われてみれば、確かに、そうだった。
最近、玲は、よく、音無先生に呼ばれている。今週だけでも、二回。先週も、何度か。放課後や、昼休みに、職員室へ。
進路の相談だろうか。玲は成績優秀だから、教師と話すことも多いのかもしれない。そう、思おうとした。
でも。
——なんで、玲なんだ?
進路の相談なら、他の生徒だって、しているはずだ。なのに、玲だけが、こんなに頻繁に呼ばれるのは、なぜだ。しかも、音無先生に。
音無先生。
僕らの、担任。
「空? どうした、また難しい顔してるぞ」
夕弥が、覗き込んでくる。
「……いや。」僕は、首を振った。「なんでもない。」
なんでもない、なんて言葉を、玲みたいに、蓋をするために使っている自分に、気づいた。
「なんでもない、って顔じゃないけどなあ」
夕弥は、それ以上は追及しなかった。ただ、心配そうに、僕を見ている。こいつは、いつも、こうだ。ふざけているようで、いちばん最初に、他人の異変に気づく。
「真渡くん。」
黙って聞いていた一条が、ふと、口を開いた。
「畠谷さんのこと、心配?」
「……別に。」
「ふふ。今の、畠谷さんの真似?」
一条が、くすりと笑った。
「あなたたち、ほんと、似てるわね。二人とも、大事なことほど、言葉にしない」
その言葉に、僕は、どきりとした。
一条は、僕たちのことを、よく見ている。悪意もなく、打算もなく、ただ、正確に。彼女の観察は、いつも、的を射すぎていて、少し、怖い。
「一条さんは、」僕は、話を逸らそうと、口を開いた。「音無先生が、玲を頻繁に呼んでる理由、知ってるか。委員長なら、何か、耳に入ってるかと思って。」
一条は、少し、考えるような顔をした。
それから、慎重に、言葉を選ぶように、言った。
「……詳しくは、知らないわ。でも」
「でも?」
「音無先生って、昔、大学で、思考術の研究をしてた人なのよ。知ってた?」
僕は、息を、呑んだ。
「……思考術の、研究?」
「うん。かなり、有名な研究室にいたらしいわ。今は、教師をしてるけど。だから、玲さんみたいに、思考術に深い興味を持ってる生徒とは、話が合うんじゃないかしら。研究の話とか、してるのかもね」
思考術の、……研究。
「真渡くん?」
一条が、僕の顔を、覗き込んでいた。
「顔色、悪いわよ。大丈夫?」
「……ああ。大丈夫だ。」
僕は、なんとか、笑ってみせた。うまく笑えたかは、分からない。
一条は、しばらく、僕を見ていた。あの、静かで、探るような目で。それから、ふっと、視線を外して、立ち上がった。
「私、そろそろ、これ、届けに行かなきゃ。」
彼女は、書類の束を、抱え直した。
「今日は、いろいろ、話せて楽しかったわ。またね、真渡くん、千葉くん」
「おう、またな委員長!」
一条が、教室を出ていく。まっすぐな背筋が、廊下の光の中に、消えていった。
残されたのは、僕と、夕弥。
夕弥は、焼きそばパンの最後のひとかけらを、口に放り込むと、うーん、と伸びをした。
「なんか、今日は、いろいろ考えさせられる昼休みだったなあ」
「お前が、考えることなんて、あるのか。」
「失礼な! 俺だって、たまには考えるんだよ!」
夕弥は、頬を膨らませてから、また、けらけらと笑った。
「でもさ、空。俺、思ったんだけど」
「ん?」
「委員長も、畠谷さんも、みんな、すごい理屈で、術を使ってるじゃん。記号化とか、理論とか。でも、俺、あれ聞いてて、なんか、ちょっと、もったいないって思っちゃったんだよな」
「もったいない?」
意外な言葉だった。
「うん。だってさ、」夕弥は、窓の外を見た。「昔の空の術、いいなあ、って思ったんだよ。砂糖と塩を判別する術とか、洗濯物をたたむ術とか。役に立つとか、強いとか、そういうの関係なくて。ただ、『あったら面白いな』『誰かが助かるな』って、そういう術。俺、そういうの、好きだな」
僕は、夕弥を見た。
こいつは、時々、こうやって、まっすぐな球を、投げてくる。
「今の思考術って、なんか、みんな、『強くなるため』とか『TQ上げるため』ばっかりでさ。それって、なんか、つまんなくない? 昔の空みたいに、『面白いから』『誰かのため』に術を考える方が、俺は、いいなあって、思うんだよ」
「……夕弥。」
「あ、なんか、偉そうなこと言っちゃった? ごめんごめん、忘れて!」
夕弥は、照れ隠しみたいに、頭をかいた。
でも、僕の胸には、その言葉が、深く、残った。
——「面白いから」「誰かのため」に、術を考える。
そうだ。昔の僕は、そうだった。
砂糖と塩の術は、料理で困る母のため。洗濯物の術は……まあ、あれは、自分が楽をするためだったけれど。でも、少なくとも、あの頃の僕は、思考術を、「隠すもの」だとは、思っていなかった。
自由に、面白がって、考えていた。
いつから、僕は、考えることを、恐れるようになったんだろう。
いつから、自分の思考術を、抑え込む、鎖のようなものだと、思うようになったんだろう。
「なあ、夕弥。」
「ん?」
「ありがとう。」
夕弥は、きょとんとした。
「なんで、礼?」
「なんとなくだ。」
「なんだそれ! 気持ち悪いなあ!」
夕弥は、笑いながら、僕の背中を、ばしんと叩いた。
その痛みが、少しだけ、僕を、現実に引き戻した。
昼休みの終わりを告げる予鈴が、鳴った。
生徒たちが、それぞれの席へ、戻っていく。喧騒が、少しずつ、収まっていく。
僕は、弁当箱に、蓋をした。
——玲は、まだ、戻ってこない。
職員室で、音無先生と、何を話しているのだろう。
進路の相談。研究の話。それだけなら、いい。それだけなら、僕が、こんなに、もやもやする理由はない。
でも。
僕の中の、勘が、告げていた。
——それだけじゃない。
音無先生。思考術の研究者。頻繁に呼ばれる、玲。最近、頑なに、部屋に入れてくれなくなった、玲。
そして、玲が、僕に告白してきたのは、半年前。
僕は、自分の席で、頬杖をついた。
窓の外では、イチョウが、風に揺れている。銀杏の匂いが、今日は薄れていた。もう秋も終わりだろうか。
——絵文字。
一条の話を、僕は、もう一度、思い返していた。
長い理論を、一つの記号に、圧縮する。それが、記号化。展開すれば、そこには、膨大な理屈が、畳まれている。
僕の中にも、そういう「記号」が、あるのかもしれない。
五時間目の始業チャイムが、鳴った。
玲は、まだ、戻ってこない。
僕は、開いた教科書を、見つめながら、その、空いたままの、隣の席のことを、ずっと、考えていた。




