終わり良ければ
「終わり良ければ総て良し」
シェイクスピアの戯曲の題名であり、そこから広まった言葉だと言われている。過程がどれほど大変でも、結末さえ良ければ、それまでのすべてが報われる。——そういう意味だ。
僕は、この言葉が、あまり好きではない。
だって、そうだろう。結果さえ良ければ、途中は何でもいい、と言っているようなものだ。どんな汚いやり方をしても、最後に勝てば官軍。過程で誰かを踏みつけても、結末がハッピーエンドなら、チャラ。——そんな都合のいい話が、あるだろうか。
僕は、過程こそが大事だと思っている。
どう考え、どう選び、どう歩いたか。その一歩一歩の積み重ねが、その人を作る。結果なんて、時の運だ。同じ努力をしても、報われる者と、報われない者がいる。だから、結果だけで人を測るのは、間違っている。——TQという数字が、人の価値を測れないのと、同じように。
過程が良ければ、結果が悪くても、胸を張れる。
僕は、ずっと、そう信じてきた。
……信じて、きたはずだった。
その日が来るまでは。
その日の終わりが、あんなふうになるまでは。
放課後の、帰りのホームルーム。
その日は、何も、特別な日ではなかった。
いつも通りの、六時間の授業が終わり、生徒たちは、帰り支度をしながら、思い思いに雑談している。窓の外は、もう、夕暮れの色に染まりかけていた。十一月の日は、短い。そんなことをぼやっと考えていた。
「明日、前のテストの復習をやります。ちゃんとテスト持ってきてください。」
音無先生が、いつもの穏やかな声で、連絡事項を告げている。
僕は、鞄に教科書を詰めながら、隣の席の玲を、ちらりと見た。
玲は、いつものように、分厚い本を読んでいた。ホームルームの連絡なんて、聞いていない。あいつにとって、この時間は、ただの、読書の続きなのだろう。
「なあ、玲。今日、一緒に帰るか。」
「ん。」
短い返事。でも、拒否ではない。半年付き合って、それくらいは分かる。
その前の席で、夕弥が、大きく伸びをした。
「はー、今日も一日終わったー! 空、玲ちゃ……じゃなくて、畠谷さん、この後どっか寄ってく?」
「いや、まっすぐ帰る。」
「えー、つれないなあ。じゃあ俺、一人でゲーセン寄って帰るわ」
「一人でもいくのか。」
「一人でも楽しいのが、俺の強みだからな!」
夕弥は、けらけら笑いながら、そう言った。こいつの、その底抜けの明るさを、測れたことは、一度もない。
そういえばといったような顔で夕弥がこちらに顔を向けてくる。
「空はさぁ、過程と結果どっちが大切だと思う?」
「急にどうしたんだよ」
「いや~、なんとなく?」
「なんだそれ、ちなみにお前は?」
「そんなの、結果に決まってんじゃん」
即答だった。
「……結果か。」
「だってさ、」夕弥は、あっけらかんと続けた。「どんなに頑張っても、負けたら悔しいだろ? 逆に、テキトーにやっても、勝ったら嬉しいじゃん。人間、結局、最後がどうだったかで、気分決まるんだよ。終わり良ければ、総て良し、ってやつ」
「……お前は、そういう考えなんだな。」
「え、空は違うの?」
「僕は、過程派だ。」僕は言った。「どう頑張ったか。どう考えたか。それが大事だと思ってる。結果なんて、運みたいなもんだからな。」
「へー。空らしいな」夕弥は、にっと笑った。「でもさ、俺は思うんだよ。過程が大事だって言えるのは、結果が、まだ出てないうちだけじゃない?」
僕は、少し、驚いて、夕弥を見た。
「どういう意味だ。」
「だってさ、本当にヤバい結果が出たら、『過程が良かったからいいや』なんて、言ってらんないだろ? たとえば……うーん、全財産失って、そういうときにさ、『でも、過程は良かったから』なんて、言えるか?」
僕は、答えられなかった。
夕弥の言葉は、いつも、突然、本質を突いてくる。理屈じゃない。感覚で、いちばん柔らかいところを、掴んでくる。
「まあ、俺の場合は、そんなことになったことないから、分かんないけどさ。でも、たぶん、そういうときは、結果が全部なんじゃないかな。過程がどうとか、言ってる場合じゃないっていうか」
「……そうかもな。」
僕は、曖昧に頷いた。
そんな話をしているとホームルームが終わり、生徒たちが帰り始めた。
「畠谷さん、いる?」
教室の入り口から、音無先生が、顔を覗かせた。
「あ、いた。畠谷さん、悪いんだけど、ちょっと、職員室に来てもらえるかな。この前の話の、続きで」
玲は、本から顔を上げた。それから、僕を、ちらりと見た。
「先、帰ってて。」
「……ああ。」僕は頷いた。「終わったら、連絡くれ。待ってるから。」
「ん。」
玲は、本を鞄にしまい、立ち上がった。小柄な背中が、音無先生の後について、教室を出ていく。
——また、呼ばれた。
最近、玲は、本当に、よく呼ばれる。
音無先生は、昔、思考術の研究をしていた人らしい。だから、玲みたいに、思考術に深い興味を持っている生徒とは、話が合う。研究の話でもしているのだろう。一条は、そう言っていた。
たぶん、そうなのだろう。
でも、なぜか、その日は、いつもより、胸のざわつきが、大きかった。
去り際、玲が、一度だけ、振り返った気がした。何か、言いたそうな顔で。けれど、僕が気づいたときには、もう、その背中は、廊下の角へ、消えていた。
——後で、聞けばいい。
僕は、そう思った。
そういえば、
「お前、テストの復習はしたのか?明日やるって言ってただろ。」
「あ~、じゃあもう俺は行くから!また明日~!」
僕がそう言うと夕弥は明らかに目をそらし、ごまかすように帰ってしまった。
僕は、自分の席に残って、玲を待つことにした。すぐ終わるだろう。前も、そうだった。三十分もあれば、戻ってくる。
僕は、鞄から、読みかけの文庫本を取り出して、ページを開いた。
夕暮れの光が、少しずつ、藍色に変わっていく。
教室から、一人、また一人と、生徒が消えていく。
三十分が、過ぎた。
玲は、戻ってこなかった。
一時間が、過ぎた。
教室には、もう、僕一人だった。
——遅い。
スマホを見る。玲からの連絡は、ない。
いつもなら、終わったら、必ず連絡をくれる。「終わった」の四文字だけの、素っ気ないメッセージ。でも、あいつは、律儀に、それを送ってくる。
なのに、今日は、ない。
僕は、玲にメッセージを送った。
『まだかかりそうか?』
既読は、つかない。
五分。十分。
やはり、既読が、つかない。
胸のざわつきが、だんだん、大きくなっていく。
——おかしい。
玲は、スマホを、いつも手元に置いている。読書中でも、既読だけは、すぐつく。それが、つかない。
僕は、職員室に、向かうことにした。まだ、話が続いているなら、それでいい。取り越し苦労なら、それがいちばんだ。
廊下は、もう、薄暗かった。放課後の学校特有の、がらんとした静けさ。自分の足音だけが、やけに大きく響く。
職員室の前まで来て、僕は、中を覗いた。
——いない。
音無先生も、玲も、いなかった。
他の先生に聞くと、「音無先生? さっき、帰ったと思うけど」と言われた。玲のことは、知らない、と。
背筋が、冷たくなった。
先生は、帰った。玲は、いない。連絡も、つかない。
僕は、スマホを、握りしめた。
——どこにいる。玲。
そのときだった。
スマホが、震えた。
玲からの、通知。
僕は、飛びつくように、画面を見た。
だが、それは、メッセージではなかった。
位置情報。
ただ、位置情報だけが、送られてきていた。文字も、何も、ない。ぽつん、と、地図上のピンだけが。
僕の血が、一気に、冷えた。
玲は、絶対に、こんな送り方をしない。用件があれば、言葉で送る。位置情報だけ、なんて。
これは——「助けて」だ。
言葉を打つ余裕すら、なかったということだ。位置情報のボタンだけを、かろうじて、押した。
「玲!」
僕は、走り出していた。
ピンの場所は、学校の敷地の、いちばん奥。旧校舎の、さらに向こう。ほとんど使われていない、旧研究棟だった。
夕闇の中を、僕は、全力で走った。
身体強化を、無意識にかけていた。息が上がる。心臓が、警鐘みたいに、打っている。
——頼む。無事でいてくれ。
なんで、もっと早く、動かなかった。
三十分。一時間。僕は、のんきに、本を読んでいた。玲が、あんな目に、遭っているとも知らずに。あのとき、すぐ、追いかけていれば。玲が振り返ったあのとき、呼び止めていれば。
後悔が、足を、重くする。
それでも、僕は、走った。
旧研究棟の、重い扉を、押し開ける。
中は、真っ暗だった。埃と、消毒液の、混じったような匂い。
「玲! いるのか! 玲!」
叫びながら、廊下を、駆け抜ける。
一番奥の部屋。ドアが、わずかに、開いていた。中から、青白い、機械の光が、漏れている。
僕は、その部屋に、飛び込んだ。
そして——見た。
時間が、止まった。
床に、玲が、倒れていた。
血まみれで。
「——れ、い……?」
声が、掠れた。
玲は、うつ伏せに、倒れていた。小柄な体の下に、赤黒い血が、広がっている。制服が、赤く、染まっている。黒髪が、その血に、浸っている。
その傍らに、もう一人。
数学の担当教師——音無先生ではない、若い方の——大澤先生が、壁に、もたれかかっていた。虚ろな目で、宙を見つめている。口の端から、涎を垂らして。ぶつぶつと、何か、意味の分からない言葉を、呟き続けている。
そして、二人のあいだに。
TQの測定器が、置かれていた。
半球状の、あの装置。モニターが、青白く、光っている。
そこに、表示された数字。
86。
僕の、頭が、真っ白になった。
「玲! 玲!」
僕は、玲に、駆け寄った。抱き起こす。ぐったりと、力が抜けている。でも——かすかに、息はある。浅く、速く、けれど、確かに。
「しっかりしろ! 玲! おい!」
「……そ、ら……」
玲が、うっすらと、目を開けた。
焦点の、合わない目。それでも、僕を、見つけた。
「……に、げ……て……」
「喋るな! 今、助ける!」
「おおさわ、せんせ、が……くすり……を……」
玲の視線が、かすかに、大澤先生の方へ、動いた。
大澤先生は、まだ、壁にもたれて、ぶつぶつと呟いている。虚ろな目。壊れた人形のような、無表情。
——薬。
僕は、床に転がっているものに、気づいた。
小さな、瓶のようなもの。
そして、その隣に、注射器のようなもの。
TQを、上げる薬。
音無先生が注意していた、あの薬だ。数時間、TQが跳ね上がる。副作用は、深刻。常用すると、思考に、深刻な障害が残る——
だが、大澤先生は、一度に、大量に使ったのだろう。空になった瓶と、注射器。過剰摂取。それが、彼の思考を、一気に、壊した。
そして、測定器の、86という数字。
僕の頭の中で、断片が、繋がっていく。
大澤先生は、あの薬を、使った。TQを、無理やり、引き上げるために。測定器の86は、その、増幅された数値だ。そして——薬の副作用で、思考に、障害が。理性を、失った。壊れた。
その、壊れた思考術が。
暴走して。
玲を——
「玲! 玲、しっかりしろ! 大丈夫だ、大丈夫だから!」
僕は、震える手で、玲の傷を、探した。
腹部。深い、裂傷。何か、鋭いもので——おそらく、暴走した思考術で、生成されたか、飛来した何かで、抉られている。
血が、止まらない。
僕の手の中で、玲の命が、こぼれ落ちていく。
「……そ、ら……」
玲の、掠れた声。
「……わたし、ね……」
「喋るなって! 助けを呼ぶ! 今すぐ——」
僕は、スマホを取り出そうとした。
でも、玲の、細い指が、僕の袖を、掴んだ。
弱々しく。けれど、確かに。
「……ありがとう……そら……」
玲の、袖を掴む指から、力が、抜けていく。
「玲! 玲!!」
まぶたが、閉じていく。
「玲!! 目を開けろ! おい!」
僕は、叫んだ。
その叫びは、誰もいない旧研究棟に、虚しく、響いた。
大澤先生は、まだ、壁の向こうで、ぶつぶつと、呟いている。
玲の、呼吸が。
浅く。
遅く。
止まって——
過程が、大事だと、僕は言った。
結果なんて、運みたいなものだと。過程さえ良ければ、胸を張れると。
——嘘だ。
嘘だった。
こんな結果、認められるか。
玲が、頑張って生きてきた過程が、どれだけ美しくても。あの、図鑑を読み続けた小さな背中が、どれだけ尊くても。
こんな終わりを、迎えるくらいなら。
そんな過程に、何の意味がある。
夕弥の言葉が、正しかった。
——本当にヤバい結果が出たら、過程が良かったからいいや、なんて、言ってらんないだろ?
その通りだ。
僕は今、過程なんて、どうでもいい。
結果を、変えたい。
この、終わりを。
「ははっ、真渡くん。見たまえ、この思考術を」
不意に、掠れた声がした。
大澤先生が、こちらを、見ていた。虚ろだった目に、ぎらついた光が、戻っている。壊れた顔に、歪んだ笑みを、貼りつけて。
「大澤先生、なんで、こんなことを。」
「私は、あの一条くんも超えたTQを、手に入れたんだよ、はははは!!」
そう言って、大澤先生は、高笑いした。
支離滅裂。もう、まともな会話は、できそうにない。
「ははっ、真渡くん。畠谷くんと交際していたのだろう? なのに、まるで、悲しそうじゃない。つまり、彼女への思いは、その程度ということかな? それとも、そんな思いは、最初から、なかったのかな? まぁ、そんなことは、どうでもいい。この薬は、素晴らしいよ。思考が速いことが、よく分かる。直近の私のTQは、60前後だった。なのに今は、80を、優に超えている。君も、これを使えば、TQに困ることも、なくなる。使いたいか? 使いたいだろう? ははははは!」
大澤先生は、物凄い早口で、まくし立てるように、しゃべる。一応、こちらを認識しているらしいが、こちらの話は、聴いていないようだ。
言葉の一つ一つが、上滑りしている。速すぎる思考が、行き先を失って、暴走している。TQが上がった、思考が速くなった、と本人は喜んでいるが——あれは、思考ではない。ただ、脳が、空回りしているだけだ。
薬が見せる、まがいものの万能感。
その代償に、この人は、人間としての何かを、根こそぎ、失った。
——悲しそうじゃない、か。
僕は、心の中で、答えた。
悲しくないわけが、あるか。
胸の中は、今にも、張り裂けそうだ。玲の血の温もりが、まだ、この手に残っている。叫び出したい。泣き喚きたい。地面を、殴りつけたい。この壊れた男の胸ぐらを掴んで、なぜだ、と、問い詰めたい。
でも、僕は、泣かない。
なぜなら、僕は、もう、決めているからだ。
悲しむより、先に、やることがある。
この結末を——なかったことに、する。
普通の人間なら、大切な人が死ねば、そこで、終わりだ。泣くしか、ない。嘆くしか、ない。取り返しのつかない結果を、受け入れるしか、ない。時間は、誰にとっても、一方通行だから。
でも、僕は、違う。
僕には、それを、覆す力がある。
だから、僕は、泣かない。
泣いている暇があるなら…
涙は、玲を助けてから、いくらでも流せばいい。
「大澤先生。」僕は、静かに言った。「あなたのことは、どうでもいい。」
「……なに?」
「あなたが、なぜ薬に手を出したのかも。どこで手に入れたのかも。今の僕には、どうでもいい。あとで、いくらでも、考えてやる。」
大澤先生の、歪んだ笑みが、わずかに、固まった。
「今、大事なのは、一つだけだ。」
僕は、玲を、そっと、床に横たえた。冷たくなっていく体を、できるだけ、丁寧に。まるで、壊れ物を扱うように。
そして、立ち上がった。
——ふぅ。
僕が、本気で思考術を使うには、いくつか、条件がある。
そもそも、術の難易度が、異常に高い。理屈も、クソもない術。たまたま、幼少期に、できてしまった術だ。なぜできるのか、僕自身、説明できない。ただ、できる。それだけの、力。
もちろん、思考のキャパは、いつも、ギリギリだ。だから、術を使うときには、いつも、同じことをする。
ルーティン、というより、パブロフの犬のようなものだ。一条の記号化に、少し似ている。ただ、記号を撃つためではなく、より深く、思考を促すための、条件づけ。この動作を踏むことで、僕の脳は、ようやく、あの領域へ、潜っていける。
一つ。
僕は、その場に、立ち止まった。
呼吸を、整える。目を、閉じかけて、また、開く。周りの音が、遠のいていく。玲の呼吸も、大澤先生の呟きも、すべてが、水の底に沈むように、静かになる。
二つ。
両手の、五本の指を、ゆっくりと、合わせる。左右の指先を、一本ずつ、正確に、重ねていく。親指、人差し指、中指、薬指、小指。五本。五日分。
大澤先生の、狂った目が、その動作を、追っていた。
三つ。
僕は、今から使う術を、口にする。声に出すことで、思考が、輪郭を持つ。
「今から使うのは、僕のオリジナルの術。——回帰術。」
「……回帰、術?」
「回帰できるのは、最大五日。合わせている指の本数の、日数分、時間を戻す。」
僕は、合わせた五本の指を、大澤先生に、見せつけた。
「思考プロセスは、単純だ。その日数分の記憶を、完璧に、頭の中に映し出し、起こった出来事を、正しく理解し——逆再生する。」
「時を、戻すだと!? そんなこと、できるわけが——」
そのとき。
床に転がっていた、TQの測定器が、光り出した。
半球状の装置が、僕の思考に、反応している。数値が、駆け上がっていく。
60。
70。
80。
「……なっ、」
90。
まだ、上がる。
そして——測定器が、ぶるり、と震え、モニターに、赤い文字が、点滅した。
『MEASUREMENT ERROR』
測定、範囲外。
数値が、出せない。この装置では、測りきれない。
「バカな!」大澤先生が、叫んだ。「測定器が、壊れている! 倒れたときに、故障したに違いない! そうだ! そうじゃないと、説明がつかない! こんなガキに、こんな数値が、出せるわけがない! 日本中、いや、世界でも、測定器を振り切るやつなんか、見たことない! 嘘だ! 嘘だあ!」
大澤先生が、取り乱しながら、絶叫する。薬で手に入れた、80そこそこのTQ。それを、この世の頂点だと、信じ込んでいた男。その頂点を、平凡な生徒であるはずの僕が、あっさりと、飛び越えていく。彼の、まがいものの万能感が、音を立てて、崩れていく。
僕は、それを、聞き流した。
測れなくて、結構だ。
僕の力は、あんな二桁の数字に、収まるものじゃない。ずっと、そう感じていた。だから、隠してきた。だから、抑えてきた。
冷たい石の上に、座り続けるように。
考えてはいけない。目立ってはいけない。普通でいなければいけない。そう、自分に言い聞かせて。
——でも、もう、いい。
そんな理由が、今、何の意味がある。
玲が、死ぬくらいなら。
僕は、目を閉じた。
——回帰。
僕は、直近の五日を、思い返した。
朝、家を出た。夕弥と、玲と、いつも通り登校した。授業を、受けた。テストが、返ってきた。TQ測定を、受けた。ラ・フランスを、半分こした。実技で、一条に、負けた。昼休みに、絵文字の話を、した。進路希望を、書いた。ホームルームで、過程と結果の話を、した。玲が、呼ばれた。連絡が、来なかった。位置情報が、送られてきた。走った。そして——ここに、辿り着いた。
全部、覚えている。
一秒残らず、覚えている。
理解している。
一つ一つの出来事が、なぜ起きたのか。誰が、何を、言ったのか。その順序も、その意味も。僕の頭の中で、五日間が、ひとつの、長い糸として、ぴんと、張られている。
その糸を、たぐって、逆に、辿る。
五日。
僕が、戻れる、最大の日数。
——五日前。
あの日から、やり直せば。玲が、まだ、この件に、深く関わる前から。何かを、変えられるかもしれない。
僕は、五日前の、記憶を、手繰り寄せた。
あの日。テスト返却の日。TQ測定の日。玲が「測定、ちゃんとやってね」と言った、あの日。ラ・フランスを、半分こした、あの帰り道。分かれ道で、玲が、「なんでもない」と言った、あの夕暮れ。
全部、覚えている。
——戻れ。
『回帰』。
僕の中で、それが、発動した。
世界が、白く、染まっていく。
時間が。
巻き戻り始める。
玲の血が、床から、傷へと、吸い戻されていく。倒れた体が、起き上がっていく。大澤先生の絶叫が、逆再生されていく。青白い測定器の光が、消えていく。
夕暮れが、昼に戻り、朝に戻る。
一日が、逆流する。
二日。三日。四日。
僕は、その激流の中で、玲の顔を、思い浮かべていた。
無表情で。何を考えているか、分からなくて。でも、ラ・フランスの皮を剥くのに、本気になって。「ズルい」と言って、赤くなって。
——待ってろ。
必ず、助ける。
こんな終わりは、認めない。
五日。
世界が、眩しく、弾けた。
——ピンポーン。
聞き慣れた、家のインターホンの、音。
僕は、自分の部屋の、ベッドの上で、目を、開けた。
天井が、見える。自分の部屋の、見慣れた天井。カーテンの隙間から、柔らかな、午後の光が、差し込んでいる。
その光が、やけに、眩しかった。
——痛い。
頭の奥が、割れそうに、痛んだ。
こめかみの内側を、鈍い金槌で、直接、殴られているような。ずきん、ずきん、と、脈打つたびに、視界が、白く、明滅する。
「……っ、」
僕は、思わず、頭を、抱えた。
こんな頭痛は、初めてだった。ただの頭痛じゃない。脳そのものが、限界まで、酷使されて、悲鳴を上げている——そんな、内側からの、痛み。
考えてみれば、当然かもしれない。
五日分の記憶を、一秒残らず、完璧に頭の中に映し出し、その因果を、正しく理解し、逆再生する。人間の脳が、本来、決してやらないことを、無理やり、やらせたのだ。その負荷が、代償として、返ってきている。
つう、と。
鼻の下を、生温かいものが、伝った。
指で、拭う。
——赤い。
鼻血だった。
僕の指先を、赤黒く、汚している。ぽたり、と、一滴、シーツに落ちて、赤い染みが、じわりと、広がった。
回帰の、代償。
脳を、使いすぎた、証。
僕は、震える手で、枕元の、ティッシュを、掴んだ。鼻を押さえながら、なんとか、呼吸を、整える。頭痛は、まだ、引かない。ずきずきと、脳を、内側から、蝕んでいる。
——この程度の痛みが、代償なら。
安いものだ、と、僕は思った。
こんな痛み、玲の命に比べれば、何でもない。頭が割れようが、鼻血で倒れようが、玲が生きて返ってくるなら、いくらでも、払ってやる。
でも。
もし、救えなかったら。もう一度、回帰したら。そのとき、脳は、どうなる。この痛みは、二回目、三回目と、増していくんじゃないか。何度も繰り返せば、いつか——脳が、壊れるんじゃないか。
大澤先生の、あの、壊れた顔が、脳裏を、よぎった。
薬で、脳を、酷使して、壊れた男。
僕がやっていることも、方向は違えど、脳を、限界まで、酷使している。回帰を、繰り返すたびに、僕は、あの人に、近づいていくのかもしれない。
——それでも。
僕は、血の付いた指を、握りしめた。
やめる、という選択肢は、ない。
何度、この頭が割れても。何度、この鼻から血が流れても。玲を、救うまで、僕は、考えることを、やめない。
僕は、枕元のスマホを、掴んだ。
日付を、確認する。
——日曜日。
事件の、五日前。
戻っている。
戻ってこられた。
回帰術は正常に発動したようだ。
あの、血まみれの金曜から、ちょうど五日。休日の、なんでもない、日曜の午後だ。壁の時計は、二時過ぎを指している。窓の外の、光の柔らかさまで、あの日の、この時刻と、寸分違わない。
僕は、震える手で、自分の掌を、見つめた。
血は、ついていない。
玲の血は、どこにも、ない。
回帰した。僕は、時間を、五日、遡ったのだ。
——ピンポーン。
もう一度、インターホンが、鳴った。
僕は、その音に、記憶を、揺さぶられた。
そうだ。この日曜の午後。この時間に、うちに来た人物が、一人だけ、いた。
僕は、ベッドから、転がるように、降りた。階段を、駆け下りる。玄関の、すりガラス越しに、小柄な人影が、見える。
僕は、震える手で、鍵を開け、ドアを、開けた。
そこに、立っていたのは。
玲だった。
「……ん。急に、ごめん。」
いつもの、無表情。分厚い本を、脇に抱えて。制服ではなく、私服の、休日の玲。
生きている。
血に染まってもいない。冷たくも、なっていない。すぐ目の前で、いつもの、素っ気ない顔で、僕を、見上げている。
「借りてた本。返しに来た。近く、通ったから。」
そう言って、玲は、抱えていた本を、差し出した。
僕は、その本を、受け取ることも忘れて、ただ、玲を、見つめていた。
その、小さな体。その、艶やかな黒髪。その、生きて、動いている、瞳。
——生きてる。
僕は、その事実に、その場で、崩れ落ちそうになった。
膝の下から、力が、抜けていく。目の奥が、熱くなる。
ついさっきまで、腕の中で、冷たくなっていった、あいつが。今、こうして、僕の家の玄関先で、平然と、本を返しに来ている。
「……空?」
玲が、わずかに、首を傾げた。
そして、次の瞬間。
その無表情が、はっきりと、崩れた。
「——鼻。血、出てる。」
え、と思う間もなく、玲が、一歩、踏み込んできた。抱えていた本を、玄関の靴箱の上に、放るように置いて。両手で、僕の顔を、下から、覗き込む。
「顔、真っ青。汗も、すごい。……いつから?」
「いや、これは——」
「ふらついてる。立ってるの、やっと、でしょ。」
玲の指摘は、正確だった。
言われて、初めて気づく。玄関のドアに、無意識に、手をついていた。そうしないと、立っていられなかったのだ。回帰の代償。割れるような頭痛と、鼻血。それは、まだ、引いていない。
玲は、僕の腕を、掴んだ。細い指なのに、驚くほど、強い力で。
「座って。今すぐ。」
「……大げさだ。ただの、鼻血で——」
「大げさじゃない。」
玲が、僕を、遮った。
いつもの、平坦な声。でも、その奥に、確かな、切迫が、滲んでいた。
「鼻血だけなら、いい。でも、青ざめて、汗をかいて、ふらついて、鼻血。これ、全部そろってるの、ただ事じゃない。脳貧血か、もっと悪いか。……病院、行った方がいい。」
——脳。
玲が、口にした、その一言に、僕は、内心で、どきりとした。
正解だ。まさに、脳を、酷使したせいだ。玲は、症状だけを見て、原因の在り処を、正確に、言い当てている。相変わらず、恐ろしい観察眼だ。
でも、僕は、それを、言えない。
「回帰術の、代償だ」なんて、言えるわけがない。
「……本当に、大丈夫だ。」僕は、なんとか、笑ってみせた。「ちょっと、寝不足なだけだよ。昨日、遅くまで、起きてたから。」
玲は、しばらく、僕を、じっと見ていた。
その目が、僕の言葉の、嘘を、探っている。半年——いや、十年以上、隣にいた僕には、分かる。あいつは、今、僕の説明が、症状と、釣り合っているかどうかを、頭の中で、検算している。
「……嘘。」
短く、玲が、言った。
「寝不足で、こんな鼻血、出ない。」
「玲——」
「言いたくないなら、言わなくていい。」
玲は、僕の腕を掴んだまま、視線を、少しだけ、落とした。
「でも、隠すのは、やめて。……体のこと、くらいは。」
その言葉に、僕は、言葉を、失った。
玲は、何も知らない。僕が、五日後の未来を見てきたことも。回帰術のことも。玲自身が、五日後、あの旧研究棟で、命を落とすことも。何一つ、知らない。
なのに、こいつは。
僕が、体を、蝕んでまで、何かを、抱え込んでいることだけは、一瞬で、見抜いてしまう。
そして、それを、責めるでもなく、問い詰めるでもなく。ただ、「体のことくらいは、隠すな」と、言う。
——ずるいな。
こっちは、こいつを、救うために、隠しているのに。その隠しごとの、いちばん外側の、体の異変だけを、こいつは、こんなにも、まっすぐに、心配してくる。
「……悪い。」
僕は、素直に、頭を下げた。
「心配、かけたな。」
「ん。」
玲は、それだけ言って、少しだけ、ほっとしたように、腕の力を、緩めた。それから、放り投げた本を、靴箱の上から、取り直して、僕の手に、そっと、握らせる。
「本。ちゃんと、返した。……あと、これも。」
そう言って、玲は、私服のポケットから、小さな包みを、取り出した。
「のど飴。……鼻血には、関係ないけど。舐めると、少し、落ち着く。かもしれない。」
差し出された、その小さな包みを、僕は、受け取った。
なんの根拠もない。鼻血に、のど飴が効くはずもない。でも、それは、玲なりの、精一杯の、看病だった。理屈が通らないことを、承知の上で、それでも、何かしたくて、差し出したもの。
その、不器用な優しさが。
さっきまで、腕の中で、冷たくなっていった、あいつの温もりと、重なって。
僕は、危うく、玄関先で、泣きそうになった。
「……ありがとう。」
僕は、鼻を、押さえながら、なんとか、それだけ、言った。
生きている。
だが
安心するのは、早い。
五日前に戻っただけだ。何もしなければ、また、同じ五日後が、やってくる。次の金曜、玲は、また、あの旧研究棟で、倒れる。大澤先生は、また、薬に手を出す。位置情報だけが、送られてくる。あの、血の海が、また、繰り返される。
同じ結果を、繰り返さないために。
僕は、この五日で、何かを、変えなければならない。
大澤先生を、止める。あの薬を、突き止める。玲を、あの場所に、行かせない。
——考えろ。
僕は、本を受け取った手を、握りしめた。
玄関の外。日曜の、午後の空。
イチョウの、黄色い葉が、風に、揺れている。銀杏の、あの匂いが、かすかに、流れてくる。五日前の、なんでもない、日曜の、午後。
嫌な匂いだと、みんなは言う。
僕は、そうは思わない。
なぜなら、この匂いがするということは。
玲が、まだ、生きている、ということだから。
「……玲。」
「ん。」
「また明日な」
玲は、少し、驚いたように、まばたきをした。僕がこんな風に言うのは、珍しいからだろう。
「ん。」
——待ってろ、玲。
僕は、心の中で、呟いた。
絶対に、あんな終わりには、させない。
僕は、この物語の、終わりを、変えてみせる。
玲の顔を、見つめていると様々な問いが、胸をよぎった。
そもそも、僕は、まだ、何も知らない。
大澤先生が、なぜ、あの薬に、手を出したのか。あの薬を、いったい、誰が、どこで、彼に渡したのか。そして——玲は、なぜ、次の金曜、あの旧研究棟へ、向かったのか。音無先生と、何を、話していたのか。あの日、去り際に、玲が、言いかけた言葉は、何だったのか。
分からないことばかりだ。
分からないまま、闇雲に動いて、変えられるだろうか。
一度、回帰したからといって、次で、必ず救えるとは、限らない。むしろ、僕の下手な介入が、事態を、もっと悪い方へ、転がすことだって、あるかもしれない。
でも、と、僕は、思い直す。
分からないなら、考えればいい。
一つずつ、糸を手繰り、前提を疑い、組み立てていく。それが、僕にできる、ただ一つのことだ。
目の前の、玲を、見る。
生きている、玲を。まだ、何も、失われていない、この五日間の、始まりを。
——もう、二度と。
あの終わりには、辿り着かせない。
人間は、考える葦である。
弱く、頼りない。風が吹けば、折れてしまう。それでも、考えることを、やめない。
考えることを、やめない。
玲を、救うために。
たとえ、何度、この五日を、繰り返すことになっても。
この結末を覆すための、最初の一手が、始まる。




