浮世絵
浮世絵と言えば、日本を代表する文化であり、作品の一つだろう。しかし、浮世絵は、はじめ、あまり人気がなかった。それこそ、有り余って、配送の際に緩衝材として、くしゃくしゃにされていたぐらいだ。
陶磁器を海外へ輸出するとき、割れないように包む紙。そのただの詰め物として、浮世絵は海を渡った。
ところが、だ。
それを受け取ったヨーロッパの人間たちが、包み紙の方に、目を奪われた。大胆な構図。平面的なのに、奥行きを感じさせる色使い。輪郭線で切り取られた、鮮やかな世界。彼らは、陶磁器そっちのけで、その「緩衝材」に夢中になった。
ジャポニスムと呼ばれる流行の始まりだ。モネも、ゴッホも、浮世絵に衝撃を受け、自らの絵に取り入れた。ゴッホに至っては、模写までしている。緩衝材だったものが、西洋美術の巨匠たちを揺さぶったのだ。
面白い話だと思う。
価値は、それを見る目がなければ、存在しないのと同じだ。同じ一枚の浮世絵が、ある場所では「くしゃくしゃの詰め物」で、別の場所では「芸術の革命」になる。絵は、何も変わっていない。変わったのは、それを見る人間の、目の方だ。
時代や場所が変われば、価値も変わる。今は無価値に見えるものが、いつか途方もない価値になるかもしれない。逆に、今、価値あるものが、ただのゴミになるかもしれない。
まぁ、結局、何が言いたいかというと——物の見方で、価値は変わる。決めつけは、良くない。何事にも、多角的な視点が求められる、ということだ。
高校二年生の後期、この時期で進路を決める人が多いだろう。僕らの学校も例外ではない。
今日の六時間目は、進路指導だった。
担任の音無先生が、教壇でプリントの束を掲げて、いつもの穏やかな声で言った。
「はい、今日は進路希望調査だ。一人一枚、紙を配る。第一希望から第三希望まで、書けるところまで書いてくれ。まだ決まってない人は、今の気持ちで構わない。あくまで、現時点での希望だからな」
紙が、前から後ろへ回されてくる。僕は一枚取って、後ろへ送った。
わら半紙みたいな、薄い紙。上の方に「進路希望調査票」と印字され、その下に、第一希望、第二希望、第三希望の欄。そして、右上に小さく、「現在のTQ」を記入する欄がある。
——ここにも、TQか。
進路希望を書く紙にまで、あの数字はついてくる。第一希望の大学名の隣に、自分のTQを添えて、初めてその希望が「現実的かどうか」判定される。TQが足りなければ、その希望は、ただの夢物語として処理される。この社会では、未来の希望すら、二桁の数字に採点される。
「時間は、十五分。じっくり考えなさい」
先生の声を合図に、教室が、しんと静かになった。
ペンを走らせる音。頬杖をついて悩む者。窓の外を眺める者。それぞれの、それぞれの未来。
僕は、少し考えてから、ペンを取った。
第一希望の欄に、迷わず、ある国立大学の理学部の名前を書いた。
理系。数学と物理を、もっと深くやりたい。それは、僕にとって、たぶん、本心だった。答えのない問いに、論理で挑む。世界の成り立ちを、根っこから考える。そういう学問が、僕には合っている気がする。
ただ——書きながら、少しだけ、ためらった。
TQ52。この数字で、その大学の理学部に、届くだろうか。学力の成績は悪くない。三位だ。だが、この社会では、学力よりTQが重い。特に理系は、思考術との相関が強いとされ、TQのボーダーが高い。
52という数字が、僕の希望の隣で、静かに、僕を採点している。
僕は、右上の欄に、52、と書いた。
書いてしまえば、それだけの話だ。数字は嘘をつく。僕は、それを知っている。でも、この紙の上では、僕は、ただのTQ52の生徒だ。
第二希望、第三希望も、似たような理系の学部で埋めた。ペンを置く。
——さて。
顔を上げると、隣の席で、夕弥が、大変なことになっていた。
紙の上に、ペンを持ったまま、完全に固まっている。第一希望の欄は、まだ真っ白。眉間に、これでもかというほど皺を寄せて、うんうん唸っている。
「……夕弥。」
「ん゛〜〜〜」
返事にならない返事が返ってきた。
「固まってるぞ。」
「いや、これがさ、書けないんだよ……」
夕弥は、ペンを机に置いて、頭を抱えた。いつもの、へらへらした顔は、どこにもない。心底、困り果てた顔をしている。珍しい。こいつが、こんなに真剣に悩んでいるのは。
「進路、決まってないのか。」
「決まってないっていうか、」夕弥は、ぐしゃぐしゃと髪をかき回した。「やりたいこと、多すぎて、絞れねぇんだよ! 俺、いろんなことに興味あるからさ。あれもいいな、これもいいな、ってなって、結局、決まらない」
なるほど。それは、夕弥らしい悩みだった。
やりたいことがなくて悩むのではなく、やりたいことが多すぎて悩む。前向きすぎる悩みだ。でも、本人にとっては、切実なのだろう。第一希望を一つに絞るというのは、他の全部を、諦めるということでもあるのだから。
「なあ、空。」
夕弥が、すがるように僕を見た。
「お前、なんで理系にしたの?」
「僕か。」
僕は、少し考えてから、答えた。
「夕弥は暗記は好きか?」
「質問に質問で返すなよ! ちなみに暗記は嫌いだよ!!」
「僕も暗記は嫌いだ!!」
「空は暗記科目でも点数良いじゃん!!」
「好き嫌いと得意不得意に相関はあるかもだけど、嫌いだから不得意とは限らないだろ。」
僕がそう言うと、夕弥は頭を悩ませているようだった。
「結局何が言いたいんだよ!!」
「理系は暗記が少ないだろ。ツールを何個か持って、それで工夫して解に持っていく。そういうのが好きなんだよ、僕は。」
「へ〜。」夕弥は、感心したように頷いた。「空って、そういうの、好きなんだな。ずっと難しい顔してる理由、ちょっと分かったわ」
「難しい顔は、関係ないだろ。」
「あるある。お前、考えごとしてるとき、めっちゃ怖い顔してるもん」
僕は、少し笑った。
「まぁ、とにかく。」僕は続けた。「僕は、好きなことの、工夫の仕方を、もっと深く知りたいから、理系にした。それだけだ。参考になるかは、分からないけどな。」
「うーん……」
夕弥は、まだ、腑に落ちない顔をしていた。
「好きなこと、か。俺、好きなことは、いっぱいあるんだよなぁ。でも、『深く知りたい』ってほど、一個に絞れないんだよ」
それも、また、夕弥らしかった。広く、浅く、たくさんのものを愛する。それは、欠点ではない。むしろ、この男の、いちばんの美点だ。だからこそ、誰とでも仲良くなれる。誰のことも、切り捨てない。
「玲は?」
夕弥が、ふと思いついたように、前の方の席を見た。
進路希望調査票を、とっくに書き終えたらしい玲が、いつものように、分厚い本を読んでいた。周りが悩んでいる中、一人だけ、別の時間を生きているみたいだ。
「畠谷さーん!」
夕弥が、小声で呼んだ。玲が、本から顔を上げて、こちらを見る。
「進路、どうすんの? やっぱり理系?」
玲は、少し、間を置いた。
その間が、僕には、やけに長く感じられた。
「……そう。」
それから、静かに、そう答えた。
「やっぱりか〜。畠谷さんは良いよな〜。逆に悩まなくて〜」
夕弥は、あっさりと納得して、また自分の白紙の調査票に向き直った。当然だ。誰が聞いても、それは、いつもの畠谷玲の返答だった。無表情で、最短で、余計なものを一切含まない答え。
でも。
——なんか、変だ。
僕は、玲の横顔を、じっと見ていた。
いつもの無表情。いつもの、短い答え。何も、おかしなところはない。他の誰が見ても、そう思うだろう。
けれど、僕には、分かってしまった。
玲の「そう」には、いつもの重さがなかったのだ。
こいつの短い言葉は、いつだって、削ぎ落とした結果だ。言葉は、減るほど正確になる。余計な前提が混じらないから。——半年前、こいつは、そう言っていた。だから、玲の「ん」も、「そう」も、たった一音の中に、ちゃんと中身が詰まっている。無駄を削って削って、最後に残った、いちばん硬い核。それが、玲の言葉だ。
でも、さっきの「そう」は、違った。
削ぎ落とした言葉ではなく——蓋をした言葉だった。
言うべきことがあって、それを、飲み込んで、代わりに置いた「そう」。中身のない、軽い一音。
僕は、それを、聞き分けてしまった。
半年、隣にいたからだ。いや——十年以上、隣にいたからだ。
そして、もう一つ。
玲は、答える前に、間を置いた。
これも、おかしい。玲は、考えるのが速い。学年二位、TQ79。あの頭で、「進路は理系か」という単純な問いに、答えを迷う理由がない。決めているなら、即答するはずだ。決めていないなら、「まだ」と即答するはずだ。
なのに、あいつは、迷った。
即答できない答えを、それでも、答えとして口にした。
つまり——玲は、嘘をついた。
その答えが、玲にとって、今、いちばん考えていることではない。だから、間が空いた。だから、言葉が軽くなった。
その内側に、何か、別のものがある。
「玲。」
僕は、思わず、声をかけていた。
玲が、こちらを見る。表情は、変わらない。
「……ん。」
「ほんとに、そうなのか。」
短く、それだけ聞いた。
主語も、目的語もない、雑な質問だ。夕弥なら「なにが?」と聞き返すだろう。誰だって、そうだ。
でも、玲は、聞き返さなかった。
わずかに、目が動いた。ほんの、二ミリほど。他の誰にも気づかれない程度の、小さな揺れ。
——伝わった、ということだ。
僕が、何を聞いているのか。あいつは、正確に、理解した。そして、理解した上で、答えなかった。
「……うん。」
玲は、そう言って、視線を、手元の本に落とした。ページに落ちた睫毛が、それ以上の会話を、静かに拒んでいた。
僕は、それ以上、聞けなかった。
嘘だ、と思った。
でも、僕に、それを責める資格が、あるだろうか。
僕だって、今朝から、玲に嘘をつき続けている。答案のことも、測定のことも、水弾のことも。「避けられたのに、避けなかったよね」と聞かれて、「馬鹿言うな」と笑ってみせた。あの帰り道、ラ・フランスを分けあいながら、ずっと、蓋をしていた。
僕たちは、たぶん、似た者同士なのだ。
言葉を、削ぐ人間と、言葉に、蓋をする人間。傍から見れば、どちらも、ただの無口だ。
「なあ、空。」
夕弥が、頭を抱えたまま、呻いた。
「畠谷さん、即答だったぞ。すげぇよなあ。俺なんて、一文字も書けてないのに」
「……そうだな。」
僕は、曖昧に頷いた。
夕弥が、ため息をついた。「もっと、こう、パーッと決められないもんかね」
「進路は、パーッと決めるものじゃないだろ。」
「分かってるけどさあ」
そのときだった。
「進路の話?」
涼やかな声が、割り込んできた。
いつの間にか、一条悠乃が、僕たちの近くに来ていた。書き終えた調査票を、先生に提出しに行く途中だったらしい。手には、もう何も持っていない。
「あ、委員長!」夕弥が、目を輝かせた。「委員長は、進路、どうすんの? やっぱ、超いい大学? それとも海外の大学?」
一条は、ふふ、と笑った。
「私はね、進学しないの」
教室の、近くにいた何人かが、え、という顔で振り返った。
学年一位。TQ83。十二種類。歴代最高記録。その一条悠乃が、進学しない。それは、この社会の常識からすれば、あまりに、あり得ない選択だった。TQ83があれば、この国の、どんな大学にでも、どんな研究機関にでも、望むままに入れる。それを、蹴る。
「進学、しないの?」夕弥が、素っ頓狂な声を上げた。「なんで!? もったいなさすぎるだろ!」
「もったいない、か」
一条は、少しだけ、遠い目をした。
「私はね、世界を、見て回りたいの」
「世界を?」
「うん。いろんな国に行って、いろんな人に会って、いろんな生き方を、この目で見たい。本や、授業じゃなくて、自分の足で、自分の目で」
一条は、窓の外に、視線を投げた。舞い落ちるイチョウの葉。その向こうの、遠い空。
「私、たぶん、恵まれてるの。TQも、成績も、家も。何でも、手に入る。でもね、だからこそ、怖いのよ。このまま、決められたレールの上を、完璧に走り続けて。——それで、私は、私が何者なのか、分からないまま、終わっちゃうんじゃないかって」
その言葉は、静かだったけれど、確かな重さを持っていた。
僕は、少し、驚いていた。
完璧な優等生。何でもできる、この社会の理想の頂点。その一条悠乃が、自分が何者なのか分からない、と言う。
「だから、決めたの。大学は、いつでも行ける。でも、若いうちに、何にも縛られずに世界を見られる時間は、今しかない。——それに」
一条は、いたずらっぽく、笑った。
「いちばん考える力が試されるのは、たぶん、答えの用意された教室じゃなくて、答えのない、外の世界だと思うから」
答えのない、外の世界。
その言葉に、僕は、はっとした。
一条は、TQという物差しの、頂点に立っている。その彼女が、その物差しの外へ、自ら出ていこうとしている。測れる場所から、測れない場所へ。
浮世絵の逸話を、僕は思い出していた。緩衝材が、芸術になった。価値は、見る場所で変わる。一条は、たぶん、自分の価値を、教室の中の物差しだけで測られることを、拒んでいるのだ。
「へ〜〜〜!」
夕弥が、心底、感心した声を上げた。
「委員長、かっけぇ! 俺、なんか、そういうの、憧れるわ!」
「じゃあ、千葉くんも、一緒に世界を回る?」
「え、いいの!?」
「冗談よ」
「なんだ〜!」
夕弥が、大げさに崩れ落ちる。一条は、くすくす笑いながら、「じゃあ、私、これ出してくるね」と、調査票を提出しに行った。
その背中を見送りながら、夕弥は、しばらく、ぼーっとしていた。
「……なあ、空。」
「ん。」
「みんな、すげぇな。」
夕弥の声は、いつもより、少しだけ、沈んでいた。
「空は、好きなことを、深く知りたくて理系。畠谷さんは、得意な理系の道。委員長は、世界を、見て回る。……みんな、ちゃんと、自分の『やりたいこと』を、持ってる」
「夕弥。」
「俺だけ、なんも、決まってねぇんだよなあ」
いつも明るい夕弥の、こういう顔を見るのは、珍しかった。
僕は、少し考えてから、口を開いた。
「夕弥。焦って、決めなくていいと思うぞ。」
「え?」
「無理に、今、一つに絞る必要はない。むしろ——お前の場合は、絞らない方が、いいのかもしれない。」
「絞らない方が?」
「ああ。」
僕は、朝の会話を思い出していた。あの言葉。
「お前は、いろんなものに、興味を持てる。それって、すごいことだぞ。一つのことしか見えない人間より、たくさんのものが見える方が、世界は広い。無理に一つに絞ったら、その広さを、自分で狭めることになる。」
「でも、進路は、決めなきゃ……」
「決めるのは、今日じゃなくていい。」
僕は、はっきりと言った。
「この紙は、『現時点での希望』だ。先生も、そう言ってた。決まってないなら、『保留』でいいんだよ。無理に嘘の答えを書くより、『まだ決めていない』の方が、よっぽど、誠実な答えだ。」
夕弥は、ぽかんと、僕を見ていた。
「……保留、でいいの?」
「いいんだよ。決めつけは、良くない。」
言いながら、僕は、内心で、少し笑った。浮世絵の話の、受け売りだ。物の見方で、価値は変わる。今、無理に決めた進路が、後で最善とは限らない。逆に、今は見えていない道が、いつか、途方もない価値を持つかもしれない。
だったら、扉を、開けておけばいい。
「多角的な視点ってやつだ。」僕は付け加えた。「今のお前は、まだ、いろんな可能性を見ている途中なんだ。その途中で、無理に一つを選ばなくていい。ちゃんと悩んで、いつか、心から『これだ』と思えるものに出会えばいい。」
夕弥は、しばらく、黙っていた。
それから、ゆっくりと、いつもの笑顔が、戻ってきた。
「……そっか。」
彼は、ペンを取った。そして、第一希望の欄に、大きく、こう書いた。
『とりあえず、保留!』
「おい、そのまま書くやつがあるか。」
「いいだろ! 誠実な答えなんだから!」
夕弥は、けらけらと笑った。いつもの、底抜けに明るい笑顔だった。
「なんか、スッキリしたわ。ありがとな、空!」
「礼を言うほどのことじゃない。」
「いや、言わせろって。お前、今日、マジでいいこと言うじゃん。」
——保留。
それは、逃げでも、諦めでもない。
まだ、考え続けている、ということだ。答えを出さないことは、時に、答えを急ぐことより、ずっと勇気がいる。夕弥は、その勇気を、選んだ。
「はい、そろそろ時間だ。書けた人から、前に集めるぞ」
音無先生の声が、響いた。
生徒たちが、次々と、調査票を前に提出しに行く。第一希望の欄に、それぞれの未来を書いた紙。夢や、希望や、迷いや、諦めが、二桁のTQと一緒に、束ねられていく。
僕も、席を立って、自分の紙を提出した。理学部の名前と、52という数字。
提出のとき、先生が、僕の紙を、ちらりと見た気がした。
一瞬、その穏やかな顔が、何か言いたげに、動いた気がした。けれど、先生は、何も言わなかった。ただ、「うん」と小さく頷いて、紙を受け取っただけだった。
——気のせいだろうか。
先生は、僕の理系という希望を見て、何を思ったのだろう。TQ52で理学部は難しい、と思ったのか。それとも——別の、何かを。
全員の提出が終わり、先生が、紙の束を、教卓の上で、とんとんと揃えた。
「はい、ありがとう。じゃあ、これで進路希望調査は終わり。……あー、それから」
先生は、束を脇に置いて、少し、声のトーンを変えた。
「一つ、大事な連絡がある。帰りのホームルームで話そうと思ってたんだが、時間があるから、今、話しておくな」
教室が、少し、ざわついた。先生の、いつもと違う、真剣な声色に。
「最近、ある薬物が、出回っているらしい」
薬物。その物騒な単語に、教室の空気が、ぴりっと張りつめた。
「TQを、一時的に、引き上げる薬だ」
僕は、思わず、顔を上げた。
TQを、上げる薬。
「正式な名前は、まだついていない。生徒の間では、いろんな呼び方をされているらしい。効果は、本物だ。飲めば、数時間、TQ——正確には思考術の出力が、跳ね上がる。測定でも、実技でも、普段より、はるかに高い数値が出る。……だが」
先生の、穏やかな目が、教室全体を、ゆっくりと見渡した。
「副作用が、ある。しかも、深刻なものだ。詳しいことは、まだ、分かっていない。だが、常用した者が体調を崩して、病院に運ばれた例が、いくつも報告されている。中には——思考に、深刻な障害が残った例も、あるそうだ」
教室が、しん、と静まり返った。
「気持ちは、分かる。」
先生は、静かに、続けた。
「この社会は、TQが、すべてだ。数字が高ければ、道が開ける。低ければ、諦めるしかない。そう、思わされている。だから、楽に数字を上げられる薬があると聞けば、手を伸ばしたくなる。……その気持ちは、痛いほど、分かる」
先生の声には、どこか、実感がこもっていた。
「でもな。数字は、お前たちの、一部でしかない。TQは、お前たちの、考える力の、ほんの一面を、測っているだけだ。それが全部だと、思い込まないでほしい。ましてや——体や、心を、壊してまで、追いかけるものじゃ、絶対にない」
僕は、その言葉を、静かに聞いていた。
TQを、上げる薬。
もし、そんなものがあるのなら。使いたいと思う人も、少なくないかもしれない。
TQという、たった一つの物差しに、人生を、縛られている。そんな人なら、使ってしまうかもしれない。
「もし、」先生は、言った。「もし、誰かに、その薬を勧められたり、見かけたりしたら、すぐに、先生に相談してくれ。叱ったりは、しない。約束する。……大事なのは、数字じゃない。お前たち、一人一人だ。それだけは、忘れないでくれ」
その言葉で、連絡は、終わった。
教室の空気は、まだ、少し、重いままだった。誰もが、それぞれに、あの薬のことを、考えているのだろう。喉から手が出るほど欲しい、と思った者も、いるかもしれない。
放課後。
昇降口を出ると、夕方の風が、頬を刺した。昨日より、いくらか冷たい。空は、うっすらと灰色がかっていて、イチョウの黄色だけが、やけに鮮やかに見えた。
「じゃ、俺、今日は先行くわ! ゲームの続きあるから!」
夕弥が、そう言って駆けていった。昨日と同じだ。あいつは、あいつの世界を、全力で生きている。「保留!」と書かれた進路希望調査票を、少しも恥じることなく提出した、あの背中。
残されたのは、僕と、玲。
「途中まで、一緒に行くか。」
「ん。」
僕たちは、いつもの道を歩き出した。十年以上、同じ道。今日は、分かれ道で別れたあと、僕はまっすぐ家に帰る。あの部屋を、開けるために。
玲は、僕の少し後ろを歩いていた。それも、いつも通りだ。この子は、なぜか、僕の半歩後ろを歩く癖がある。理由を聞いたことはない。
しばらく、僕たちは黙って歩いた。落ち葉を踏む音だけが、規則正しく続く。
その沈黙を破ったのは、玲の方だった。
「空。」
「ん。」
「……さっきの、薬。」
僕は、足を少しだけ緩めた。
やっぱり、その話か。ホームルームの、あの空気。TQを一時的に引き上げる薬。副作用は深刻で、他校では思考に障害が残った例もある。
「ああ。物騒な話だったな。」
「興味、ある?」
僕は、思わず、玲の方を見た。
彼女は、いつもの無表情で、前を見て歩いている。こちらを見ようとはしない。ただ、その横顔が、いつもよりわずかに、こわばっている気がした。
「ない。」
僕は、即答した。
「まったく、ない。」
「……ほんとに?」
「ほんとだ。」
僕は、少し呆れて、続けた。
「あのな、玲。副作用で、思考に障害が残るかもしれないんだぞ。数字が数時間上がるだけで。そんな博打、どこに旨みがある。」
「でも、TQは、人生を決める。」
「決められてやるつもりは、ないよ。」
自分でも、少し驚くほど、はっきりとした声が出た。
「僕のTQは52だ。それ以上でもそれ以下でもない。数字を、薬で誤魔化して手に入れた場所に、僕が立っていて、何の意味がある。それはもう、僕じゃないだろ。」
「そう。」
玲は、短く言った。
それから、しばらく黙って、また、口を開いた。
「わたしは、興味ある。」
僕は、足を止めた。
心臓が、一つ、大きく打った。
玲が、二歩ほど先で、同じように立ち止まる。振り返って、こちらを見上げた。いつもの無表情。何を考えているのか、読めない顔。
「……玲。」
「ん。」
「お前、まさか——」
「構造に、興味がある。」
「……構造?」
「うん。」
玲は、頷いた。
「あの薬が、どうやって、人間の思考波長を増幅してるのか。分子構造は、どうなってるのか。作用機序は。標的は、脳のどこなのか。受容体か、伝達物質か、それとも——波長そのものに、直接、干渉してるのか」
玲の口から、言葉が、次々と溢れてきた。
いつもの、削ぎ落とした短い返答ではない。堰を切ったように、彼女は喋り続けた。
「副作用が深刻ってことは、増幅の仕方が、乱暴だってこと。たぶん、必要のない場所まで、無差別に増幅してる。だから、思考に障害が残る。……でも、逆に言えば、原理そのものは、間違ってない。だって、実際に、TQは上がるんだから」
「玲、」
「もし、その構造が分かれば。どこをどう増幅してるのか、分かれば。……副作用のない形に、作り替えられるかもしれない。ううん、それより、もっと根本的なこと。人間の思考波長が、なぜ増幅できるのか。それが分かれば、思考術そのものの、原理が——」
そこまで一気に喋って、玲は、はたと口をつぐんだ。
自分が、どれだけ喋ったかに、気づいたらしい。かすかに、耳のあたりが赤くなった。
「……ごめん。喋りすぎた。」
僕は、堪えきれずに、笑ってしまった。
「ふはっ、」
「……なんで、笑うの。」
玲が、むっとした顔で、僕を見上げる。無表情のまま、けれど、明らかに不機嫌な空気を発している。
「悪い。いや、そうじゃなくて。」
僕は、笑いを収めながら、首を振った。
「お前らしいな、と思ってさ。」
「……どういう意味。」
「そのままの意味だよ。」
僕は、また歩き出した。玲が、いつも通り、半歩後ろについてくる。
「なあ、玲。」
「ん。」
「今日、あの薬の話を聞いて、この学校の生徒が、何を考えたと思う。」
玲は、少し考えてから、答えた。
「……危ない、って。」
「大半は、そうだろうな。でも、数人は、たぶん、こう思ってる。『どこで手に入るんだろう』って。」
僕は、続けた。
「TQが足りない奴は、喉から手が出るほど欲しい。TQが足りてる奴は、関係ないと聞き流す。教師は、危険だから触るなと言う。——ほとんどの人間にとって、あの薬は、『飲むか、飲まないか』の二択でしかない。」
玲は、黙って聞いている。
「でも、お前は、違った。」
僕は、玲を見た。
「お前だけが、『どういう仕組みなんだろう』って考えた。飲むかどうかじゃなくて、あれが何なのかを知りたがった。同じ話を聞いて、同じ教室にいて。——それでも、見えてるものが、まったく違う。」
「……変?」
「変だよ。」
僕は、はっきり言った。玲が、ますますむっとした顔になる。
「でも、悪い意味じゃない。」
僕は、笑った。
「夕弥にも言ったけど、それが玲の良さなんだから。」
僕がそう言うと、玲は、ぴたりと黙り込んだ。
「……別に。」
しばらくして、それだけ言った。
「なんだよ、その言い方。」
「褒めても、なにも出ない。」
「褒めてないよ。事実を言っただけだ。」
玲は、それきり、何も言わなかった。
代わりに、唇を、ほんの少しだけ、尖らせた。
むすっとしてるな。
半年、いや十年以上、隣にいれば、分かる。この子の無表情には、いくつか種類がある。考えているときの無表情。退屈しているときの無表情。そして、機嫌が悪いときの無表情。
今のは、三番目だ。
理由は、分からない。褒めたつもりはなかったし、実際、事実を言っただけだ。玲の物の見方は、面白い。それが、あいつの良さだ。何か、まずいことを言っただろうか。
僕には、この子の機嫌の上下の理屈が、いまだに、よく分からない。
分からないから、僕は、笑った。
玲は、ますます、むっとしたようだった。
分かれ道まで、あと少し。
玲は、いつものように、僕の半歩後ろを歩いていた。
昔から、そうだ。理由を聞いたことはない。並んで歩けばいいのに、と思うことはあるけれど、あいつがそうしたいなら、それでいい。
僕は、前を見て歩きながら、背後の気配に、意識を向けていた。
——考えてるな。
足音で、分かる。
玲は、考えているとき、歩幅が変わる。ほんの数センチ、狭くなる。無意識だろう。本人は、絶対に気づいていない。十年以上、後ろを歩かれ続けた人間にしか、分からない癖だ。
何を、考えているんだろう。
さっきの薬の話の続きだろうか。構造だの、作用機序だの、あの子の頭の中では、まだ分子が飛び回っているのかもしれない。だとしたら、しばらく放っておくのが正解だ。玲は、考えているときに話しかけられるのを、嫌う。
そう思って、僕は、黙って歩いた。
十一月の夕暮れは、落ちるのが早い。西の空が、だんだん、赤から藍へ変わっていく。落ち葉を踏む音が、二人分。規則正しく、続く。
穏やかな時間だった。
ふと、背後の足音が、止まった。
「玲?」
僕は、振り返った。
玲は、数歩後ろで、立ち止まっていた。夕暮れの光を、横から浴びて。何か、意を決したような顔で、僕を見上げている。
そして、言った。
「空の良さは、何?」
僕は、思わず、間の抜けた声を出した。
「……は?」
「空の、良いところ。」
玲は、真顔で、繰り返した。
「本人に聞くな。」僕は、呆れて言った。「というか、お前——ずっと、そんなこと考えてたのか?」
「ん。」
あっさりと、頷かれた。
さっきから、あの真剣な足音で、猛烈に何かを考え込んでいると思ったら。薬の構造でも、思考術の原理でもなく。——僕の、良いところ。
なんだ、それは。
「そんなの、悩むようなことか。」
「悩む。」玲は、真面目な顔で言った。「大事なこと。」
大事なこと、と来た。
こいつは、こういうところがある。他人から見れば、どうでもいいことに、異常な熱量で、本気になる。
しかも、対象が、今回は、僕だ。
自分の良いところを、彼女が、道の真ん中で、真剣に考え込んでいる。褒められているのか、値踏みされているのか、よく分からない状況だった。
「じゃあ、なんだよ。」僕は、少し面白くなって、聞いた。「考えて、何か出たのか。俺の、良いところ。」
玲は、また、黙り込んだ。
眉を、わずかに寄せる。視線が、宙をさまよう。頭の中で、何かを、順番に並べているような顔だった。
——彼氏の良いところが、ぱっと出てこないっていうのは、いかがなものかな。
そんなことを思いながら、僕は、玲の考える顔を、眺めていた。
こいつが、こうやって考え込んでいるのを見るのは、嫌いじゃない。何を考えているのかは、さっぱり分からない。分からないけれど、この子の頭の中では、いつも、途方もない量の何かが、静かに、猛烈に、回転している。その気配だけが、伝わってくる。
やがて。
玲の表情が、ふっと、柔らかくなった。
分かる。半年、いや十年以上、隣にいた僕には、分かる。今の玲は——何か、答えを見つけた顔だ。あの、難しい問題が解けたときの、静かな達成感の顔。
「なにか、思いついたか?」
僕は、身を乗り出して聞いた。ぜひとも、教えてもらいたい。自分の良いところが何なのか、彼女がどう分析したのか、正直、少し、興味があった。
玲は、僕を見上げた。
そして、少しだけ、目を伏せて、言った。
「……ズルい。」
「え?」
予想していた、どの答えとも、違った。
良いところを聞いたのに、返ってきたのは、「ズルい」。
玲の頬が、夕暮れのせいだけではない色に、ほんのりと、染まっていた。
「ズルいって、なんだ。」
「……」
玲は、答えなかった。
ただ、耳のあたりまで、じわじわと赤くしながら、僕から、目を逸らした。
僕は、その反応の意味を、掴みかねていた。
——分からない。
この子の、こういうところが、分からない。理系の話なら、どこまでも論理的で、明快なのに。感情が絡んだ途端、この子は、急に、方程式が解けなくなる。
「褒めてくれるんじゃないのか。」
「褒めない。」
「なんでだよ。」
「……言ったら、また、ズルいから。」
意味が、分からなかった。
けれど、玲が、それ以上言うつもりがないのは、分かった。あの、赤い顔で、頑なに口を閉じている。これ以上、追及しても、貝になるだけだ。
——まあ、いい。
答えは、いつか、聞かせてもらおう。
そう思って、僕は、笑った。
すると、玲は、また、ふっと、考え込む顔になった。
赤らんでいた頬から、すっと、色が引いていく。代わりに、あの、真剣な——いや、どこか、張りつめた表情が、戻ってきた。
さっきの、柔らかい顔とは、違う。
これは、別のことを、考えている顔だ。
「……なんだ? また、考え事か?」
僕が聞くと、玲は、僕を、じっと見た。
一瞬。
その目の奥に、何か、僕を探るような色が、よぎった気がした。
昨日の帰り道の、名前のつかない違和感でもなく。さっきの、僕の良いところを考える、微笑ましい顔でもなく。
もっと、静かで。もっと、深い。
何かに、行き当たってしまった。そんな目だった。
背筋を、ひやりと、冷たいものが撫でた。
「……何でもない。」
玲は、そう言った。
——蓋をした一音だ。
僕には、分かってしまった。
さっきの「ズルい」とは、まったく違う。あれは、照れて飲み込んだ言葉。でも、今の「何でもない」は——気づいたことを、飲み込んだ言葉だ。
玲は、何かに、気づいた。
僕の良いところを考えているうちに、その思考が、どこか、別の場所まで、辿り着いてしまった。そして、そこで見つけたものを、あいつは、僕には、言わなかった。
聞き返そうとした。
でも、ちょうど、そのとき。
分かれ道に、着いた。
いつもの角。ここを曲がれば、玲の家。まっすぐ行けば、僕の家。
タイミングを、逃した。
「……じゃあ、また明日な。」
僕は、結局、そう言った。
「ん。また明日。」
玲は、頷いて、くるりと背を向けた。
小柄な背中が、夕暮れの道を、遠ざかっていく。
一度だけ、振り返って、こちらに、小さく手を振った。
僕も、手を振り返した。
その背中が、角を曲がって、見えなくなる。
僕は、しばらく、そこに立っていた。




