石
「石の上にも三年」
この言葉に対する僕のイメージは、修行僧が大きな岩の上で三年、座禅の修業をしている——そんな図なのだが、本来の意味は違うらしい。冷たい石の上でも、三年も座り続けていれば暖まる。転じて、辛抱強く続ければ、必ず成功する、ということらしい。
まず、異議を唱えたい。
三年も座り続けなくても、石は暖まるだろう。何が悲しくて、石の上に三年も座らないといけないのか。辛抱の例えだとしても、もっといいのがあっただろう。……まあ、じゃあ良い例を出せと言われても、困るのだが。
とにかく、この慣用句を作った奴が言いたいのは、こういうことだ。継続は、成功につながる。だから、苦しいことも頑張れ、と。
では、それをどれほどの人間が実現できるだろうか。人間は、どうしても楽な方へ逃げてしまう。もし、その楽な方法で成功できるのなら、それが一番だ。しかし、人生はそんなに甘くない。どうしても実現させたい成功があるのなら、苦しくても続けなければいけないのだ。
たとえそれが、針の上だとしても。
「よーし、実技の授業始めていくぞ〜!」
グラウンドに、体育教師の声が響いた。
思考術実技。週に二コマある、この学校で最も生徒の顔つきが変わる授業だ。座学では測れない、実践的な術の運用能力を鍛える——というのが建前だが、実際のところ、ここでの成績もまた、進路を左右する評価の一つになる。今ではオリンピックの種目の一つになっている。この実技の難しいところは動きながら思考術を行使する必要があることだ。思考術が普及して間もないころは術を行使するよりも身体能力でごり押して相手を制圧する人が多かったそうだ。術を行使するには深く考える必要がある。その隙は近接戦闘においては大きな隙となっていた。そこである程度動きながら思考術を行使されるようになり、広まっていった。そして、今では近接戦闘する際も思考術を使い身体能力を上げ、距離が離れると攻撃用の思考術が飛び交う、そんな競技になっている。
ルールは単純、決まった範囲の中から出ない。相手を殺すような危険な術は使わない。相手を戦闘不能にするか、降参させるか、場外に押し出せば勝利。某武道会と同じようなルールだ。だから、もちろん怪我をする可能性もある。クラスの皆に緊張感が走る。
十一月の風は冷たい。だが、グラウンドに並んだ生徒たちの空気は、どこか張りつめていた。
「今日は、対人形式の模擬戦をやる。二人一組、安全結界は張ってあるが、十分気を付けるように。分かったな?」
「「はい!!」」
生徒たちが、思い思いに散っていく。
一部、実技が苦手な人もいるのでその限りではないが、基本的にはTQが同じような人が組んで模擬戦を行う。
僕は、いつもの隅の方へ移動した。目立たない場所。ここが、僕の定位置だ。いつもはTQが51~53ほどのクラスメイトと組んでいる。勝ったり負けたり、そんな平凡な戦績だった。
しかし、今目の前に立っているのは一条悠乃。
「よろしくね。真渡君。」
(なぜ?)
「あの~、なぜ一条さんと僕が組んでるの?」
「先生が今日は学力の成績順で組んだらしいのよ。玲さんも4位の子と組んでるみたいよ?」
(はぁ~)
不合理極まりない。TQを考慮しろよ。30近く差があるんだぞ。それでも教師か!!
反論したい。しかし、もうまわりはそんな雰囲気ではない。TQのMAXが83へと更新された一条さんの実戦を見たいとばかりに人が集まっている。不満を抱えながらも準備に入った。
「…お手柔らかに」
「ふふっ、お互いに頑張りましょう。」
一条はいつもの笑顔で僕の言葉にそう返した。
思考術の実戦競技では始めに10mほど離れた位置から始まる。
(さて、どうするか。)
勝てないにしても、ただボコボコにされるだけでは味気ない。少しは抵抗するそぶりを見せるべきだろう。そして思考術で劣っている僕は接近戦に持っていくのが定石。
「双方、準備は良いか?では、はじめ!!」
身体強化を開始の合図とともにかけ、僕は地面を蹴った。
一気に距離を詰める。十メートルは、思考術の間合いとしては遠いが、身体強化を乗せた足なら一秒ほど。飛び交う術の中を突っ切って、懐に入る。それが、TQで劣る者の唯一の勝ち筋だ。
——だが。
一秒。
その一秒で、僕の視界は白く染まった。
足元の地面が、消えた。正確には、地面と僕の靴の間に、薄い氷の層が生まれていた。摩擦がない。蹴り出した足が、空を切るように滑る。体勢が崩れる。
咄嗟に固定術を使おうとした、その瞬間。
背後から、風が来た。
押し出すのではない。引く風だ。僕の背中に貼りつくように吸引の流れが生まれ、崩れた体勢を、さらに後ろへ引き倒そうとする。氷の上で、僕は完全に自由を失った。
(二種類——いや、三種類か)
氷結。摩擦の除去。気流の生成。
開始からまだ、二秒も経っていない。
「甘いよ、真渡くん」
そんな声が、正面から聞こえた気がした。一条は開始位置から一歩も動いていなかった。ただそこに立って、微笑んでいる。冷たくもなく、傲慢でもない。ただ、当たり前のことをしているという顔で。
一条の右手が、すっと上がった。
彼女の掌の先で、空気が凝縮していく。光が歪む。何が生まれるのかは、見なくても分かった。分かってしまった。空気中の水分を、超高密度に圧縮した弾丸。玲の生成術に似ているが、こちらは水そのものを凝縮している。速度が違う。
避けられない。氷の上で、足が滑る。
——ぶつかる。
その瞬間、僕の思考の底で、防衛本能が、かたりと鳴った。
一条の掌の前で、水分子がどう並んでいるか。どの方向にどれだけの初速で射出されるか。空気抵抗がどこで働くか。着弾までの、およそ〇・三秒。その全部が、考えるより先に、そこにあった。
僕は、固定術を使った。ただし、水弾にではない。自分と地面の氷の相対位置を固定した。いくら氷を作ろうとも、その氷の摩擦を減らそうとも、相対位置なら関係ない。一条が射出しようとしている水弾は落ちた先の僕に向かって放たれている。この位置で止まれば致命傷は避けられる。さらに体をひねれば、掠るだけだ。だから、僕は避けなかった。避けられなかったふりをして、体を捻っただけ。
水弾が、僕の左肩をかすめた。
それでも衝撃が走る。安全結界のおかげで貫通はしないが、痛みは本物だ。僕は片膝をつき、そのまま、地面に手をついた。そして顔を上げると一条が生成した——おそらく水弾を変化させたであろう氷の塊がいくつも僕の周りで射出準備が整っていた。
「……まいった。降参だ。」
グラウンドが、しん、と静まった。
それから、感嘆のため息が漏れた。「開始二秒だろ、今の」「やっぱ83は違うわ」「何してるか全然わかんなかった。」——好き勝手な声が、遠くで聞こえる。
僕は、肩を押さえながら、ゆっくり立ち上がった。
「大丈夫? 少し強すぎたかしら」
一条が、駆け寄ってくる。心配は本物だ。この人は、そういう人だ。
「いや。」
僕は、笑ってみせた。
「桁が違うって、よく分かった。いい経験になったよ。」
「そんなことないよ。あなた、最後、体を捻ったでしょう。あのタイミングで急所を外すのは、簡単じゃないわ」
「偶然だ。」
「そう」
一条は、僕の顔を、じっと見た。
昨日と同じ目だった。静かで、探るような目。委員長の微笑みの下に、何かを測っている目。
「ねえ、真渡くん」
「なんだ。」
「あの水弾、——見えてたんじゃない?」
「何を言ってるんだ。あんなもの、見えもしなかったよ。」
「でもあなた、最後、相対位置の固定をしていたじゃない。それは私の水弾がどこに飛んでくるかわかったからじゃないの?」
「身の危険に使い慣れてる術をとっさに使っただけだよ。そんな瞬時の判断ができるならもっとTQはたかくなるだろ。」
「まぁ、確かに…」
一条は、それ以上追及しなかった。ただ、少しだけ首を傾けて、また、あの完璧な笑みを浮かべた。
「ごめんね、変なこと言って。次は、もう少し手加減するね」
彼女が背を向けて歩き去っていく。
僕は、その場に立ち尽くしていた。
少しすると、別の場所に人だかりができているのが見えた。玲の模擬戦だ。一条に劣るとはいえ、TQ79。普通の高校生なら、トップレベル。
僕は、痛む肩を押さえながら、その輪の後ろへ回った。
対戦相手は、学力四位の男子生徒。名前は確か、緒方。実技も悪くない、TQ70前後の実力者だ。だが、その顔には、すでに諦めに近い緊張が浮かんでいた。無理もない。相手が悪すぎる。
「はじめ!」
緒方が、動いた。距離を保ったまま、両手を突き出す。彼の術は、確か電撃の類だ。空気中の水から電気を作り出し、放電の道を作る。速い。避けるのは、まず不可能。
だが、玲は避けなかった。
彼女は、その場に立ったまま、右手を、ゆるりと前に出しただけだった。
——生成。
玲の掌の前に、灰色の板が現れた。厚さは数センチ、大人の背丈ほどの、四角い板。それが、宙に浮いたまま静止する。
放電が、板にぶつかった。ばちん、と鋭い音が弾け、青白い光が板の表面を走り——そこで、消えた。
「……あれ、金属?」
隣で誰かが呟いた。
違う。あれは炭素だ。おそらく、黒鉛。導電性がある。玲は、放電の通り道を、自分の体からその板へ逸らしたのだ。避雷針と同じ理屈。
それだけではない。
板は、緒方の電撃を受け止めた直後、形を変え始めた。角が伸び、八面体の礫となった。ほんの一秒足らずで、板は、無数の八面体の礫へと姿を変えていた。
そして、その塊が、緒方に向かって、ゆっくりと進み始めた。
「うわっ、」
緒方が、後ずさる。放電を、もう一度撃つ。だが、礫はそれを吸い込むだけだ。導電体を、電撃で止められるはずがない。
塊は、じりじりと迫る。緒方は下がる。下がり続けて場外ぎりぎりまで追いつめられる。
最後の一押し、玲は生成した礫の一部を緒方に向かって射出した。
「場外! 勝負あり!」
教師の声が響いた。緒方は、白線の外に、片足を踏み出していた。
玲の勝ちだ。開始から、二十秒も経っていない。
歓声とも、どよめきともつかない声が上がった。玲は、それを気にする様子もなく、生成した礫に手をかざす。礫は、さらさらと崩れて、黒い粉になり、風に散っていった。
「相変わらず、えげつねぇな……」
いつの間にか隣に来ていた夕弥が、感心とも呆れともつかない声を漏らした。
「相手を傷つけずに、場外に押し出しただけだ。」僕は言った。「あれでも、かなり手加減してる。」
「そうなんだけどさ。あの、じりじり追い詰めるやつが怖いんだよ。逃げ場がないの、分かってやってるだろ、絶対」
「そうだな。」
否定はできなかった。おそらくだが、玲ははじめの雷撃をわざと受けた。実戦の授業だからか、勝敗という結果よりも、過程を大事にしている。雷撃に対して、先ほどの炭素の生成で受け流すという選択を取って対処できるのかを試しているようにも見えた。
玲の思考術は、物質の生成と操作。単純に見えて、応用の幅が異常に広い。何を生成するかは、彼女が「何を知っているか」に直結する。黒鉛の導電性を知っているから、避雷針にできる。分子構造を知っているから、形を変えられる。おそらくダイヤモンドだって作ることができるだろう。
考える力が、そのまま術になる。
思考術とは、そういうものだ。
だから——TQという数字が、人間の価値を測る物差しとして通用してしまう。深く考えられる者ほど、強い。強い者ほど、価値がある。この社会は、そういうふうに、あまりに綺麗に出来上がっている。
玲が、こちらに気づいた。
小走りで、人だかりを抜けて、僕たちの前まで来る。
「空。」
「ああ。見てたよ。相変わらず容赦ないな。」
「……手加減はした。」
「知ってる。」
玲は、それから、僕の左肩に視線を落とした。制服の上からでも、水弾がかすった箇所が、うっすらと湿っている。
「痛い?」
「かすっただけだ。大したことない。」
「見せて。」
「いや、いいって。」
「見せて。」
玲は、こういうとき、絶対に引かない。僕は諦めて、上着の襟を少しだけ緩めた。玲が、そっと指先を伸ばす。触れるか触れないかの距離で、掌をかざす。
その掌に、薄い緑色の光が集まった。
玲は回復術が苦手だ。人体を生成しているに等しいことを、できる方がおかしい——というのが、彼女の言い分だった。
だから、玲が使うのは生成術の応用。玲が、集中して作れるという——薬。細胞の修復を促す、何らかの化合物を、直接、患部に生成しているらしい。理屈はよく分からないが、じんわりとした温かさが、痛みを溶かしていく。
「……ありがとう。」
「ん。」
夕弥が、にやにやしながら、その様子を眺めていた。
「いや〜、彼女がTQ79で助かるねえ、空。うちの怪我も治してくんない? 心の傷なんだけど」
「それは、無理。」玲は、真顔で答えた。「心は、生成できない」
「冗談だよ!真面目かよ!」
夕弥が大げさに崩れ落ち、周りの生徒が笑った。いつもの光景だ。
玲の手が、僕の肩から離れる。その直前。
彼女は、顔を上げずに、ぽつりと言った。
「……あの水弾、」
「一条さんの、あれ。空、避けられたのに、避けなかったよね」
グラウンドの喧騒が、遠くなる。
「馬鹿言うな。避けられるわけないだろ。TQ83だぞ。」
玲は、答えなかった。ゆっくりと顔を上げ、僕を見る。いつもの無表情。何を考えているのか読めない、あの顔。
けれど、その目の奥に、昨日の帰り道と同じ、名前のつかない疑いが、確かに宿っていた。
「……そう。」
それだけ言って、玲は、視線を外した。
「怪我した人はこっち来て〜、直すよ〜」
一条を中心に、回復術を使える生徒が数人集まって、簡易的な救護所のようなものができていた。模擬戦の後は、いつもこうだ。安全結界があるとはいえ、打撲や擦り傷は日常茶飯事。回復術の使い手は、こういうときに引っ張りだこになる。
一条は、次々と生徒の傷に手をかざしていた。
淡い金色の光が、彼女の掌から溢れる。触れた傍から、腫れが引き、擦り傷が塞がっていく。速い。玲の「薬を生成する」やり方とは根本から違う。一条のそれは、正真正銘の回復術だった。細胞の再生そのものを、直接、思考で促している。
あれでも一条の力のほんの一部でしかないのだから恐ろしい。
「一条さん、ありがとうございます!」
「いいのよ。できる人がやるのは当然だしね。」
彼女は、誰にでも同じ笑顔を向けた。相手のTQがいくつでも、成績が何位でも、態度を変えない。だからこそ、この学校で一条悠乃を悪く言う者は、ほとんどいない。
——完璧すぎる。
僕は、ぼんやりとそれを眺めていた。
思考術は、その人の思考のかたちを映す。攻撃的な人間は攻撃的な術を、優しい人間は回復術を得意とする。ならば、十二種類すべてを最高値で扱う一条悠乃とは、いったい何なのだろう。攻撃も、防御も、回復も、支援も。すべてを等しく、完璧に。
それは、思考のかたちが「あらゆる方向を向いている」ということなのか。
それとも——どこにも、向いていないということなのか。
「真渡くん、肩、大丈夫?」
いつの間にか、一条がこちらを見ていた。順番待ちの列が途切れたらしい。
「ああ。玲が、もう治してくれた。」
「そう。よかった」
一条は、ほっとしたように微笑んだ。それから、少しだけ視線を落として、付け加えた。
「今日は、ごめんね。あんな組み合わせで」
「先生が決めたことだろ。一条さんのせいじゃない。」
「でも」
一条は、そこで言葉を切った。
そして、まっすぐに僕を見て、言った。
「私、真渡くんとやってみたかったの。ずっと」
風が、止んだ気がした。
「……なんで。」
「なんでかしらね」
一条は、首を軽く傾けた。長い黒髪が、肩から滑り落ちる。
「うまく、言えないんだけど。あなたって、たまに、変な間があるでしょう」
「変な、間。」
「うん。何か——考えるのを、途中でやめてるみたいな。そういう間。いや、何かを考えないようにしている間かな?」
僕は、答えなかった。答えられなかった。
一条は、僕の沈黙を、どう受け取ったのだろう。彼女は、ふっと表情を緩めて、いつもの委員長の顔に戻った。
「ごめん、変なこと言った。忘れて」
「……ああ。」
「じゃ、私、まだ回復あるから」
一条が、救護所の輪へ戻っていく。金色の光が、また灯る。誰かが「ありがとう」と礼を言う。
その背中を見送りながら、僕は、ようやく気づいた。
一条悠乃は、疑っているのではない。
彼女は、ただ、見ているのだ。僕の違和感を、何度も。そして、それを不思議に思っている。純粋に。悪意もなく、打算もなく、ただ、理解できないものとして。
その視線は、疑いよりも、ずっと厄介だった。
疑いなら、否定できる。だが、彼女は、ただ観測しているだけなのだ。
「空、着替え行こうぜ〜」
夕弥が、僕の背中を叩いた。
「ああ。」
「肩、平気? あの水弾、めちゃくちゃ速かったぞ。俺、目で追えなかったもん」
「玲のおかげで、なんともない。」
「いいなあ、彼女持ちは」
夕弥が、けらけらと笑う。この明るさに、僕は何度も助けられている。TQ60——いや、61になったんだったか。この社会が「中の上、もしくは上の下」としか評価しない数字の裏に、こんなにも大きなものがあるのに。
そんなことを考えていると、玲の模擬戦を観戦していたであろう女子たちの話し声が聞こえてきた。
「あ〜あ、私もあんな才能が欲しかったなぁ〜」
「一条さんや畠谷さんは、天才ってやつなのよ。気にしてるだけ無駄よ」
他愛もない、よくある雑談。才能への嫉妬と、才能への諦め。それが滲み出るような会話だ。
だが、僕は知っている。玲は、かなり努力をしている。
天才、という言葉は、便利だ。
その一言で、努力の痕跡を、すべて消してしまえる。あの人は天才だから。生まれつき違うから。だから、自分が届かなくても、仕方がない。——そう思えば、楽になれる。
だが、僕は知っている。
玲は、幼稚園の頃から、毎日同じ時間に本を読んでいた。図鑑だった。植物の図鑑、鉱物の図鑑、人体の図鑑。他の子供が砂場で山を作っている横で、玲は、じっと本のページをめくっていた。
小学校の頃、僕は何度か、あいつの部屋を見たことがある。壁一面が本棚だった。子供部屋ではなかった。研究室だった。
中学に上がる頃には、化学式の本を読んでいた。高校生になった今は、大学の教科書らしきものを、休み時間に読んでいる。最近は頑なに部屋に入れさせてもらえないが。
玲の思考術は、積み上げてきた知識の量、そのものだ。黒鉛の導電性を知っているから、避雷針を作れる。八面体になるための結晶構造を知っているから、礫の形を変えられる。薬の化学式を知っているから、傷を癒せる。
十年以上、一日も欠かさず、知識を積み上げてきた。冷たい石の上に、座り続けるように。
それを「才能」の一言で片付ける人間は、玲が積み上げてきた本の数を、知識の数を、努力の数を知らないのだ。
TQ79という数字は、玲の努力を、一切、記録していない。ただ、結果だけを、二桁で表示する。
——それが、この社会の物差しだ。
更衣室での着替えを終え、教室に戻る。
実技のあとの教室は、いつも独特の空気をしている。汗を拭う者、水筒を傾ける者、まだ興奮の抜けきらない顔で模擬戦の話をする者。運動のあとの気だるさと、次の授業までの短い解放感が、混じり合っている。窓は開け放たれていて、十一月の冷たい風が、火照った肌に心地よかった。
僕は、自分の席に鞄を置いて、隣に陣取った夕弥と、なんとなく話していた。
「いや〜、やっぱり、あの二人は天才だな!!」
夕弥が、椅子の背もたれに体重を預けながら、感嘆の声を上げた。「あの二人」が誰を指すのかは、聞かなくても分かる。一条悠乃と、畠谷玲。今日の実技で、あらためて、その実力の隔たりを見せつけられたばかりだ。
「まぁ、あの二人は桁違いだな。」
僕は、正直にそう答えた。
僕が相手とは言え数秒で勝利した一条。雷撃を炭素で受け流し、礫で相手を追い詰めた玲。あの二つの模擬戦を見たあとでは、誰だって同じことを言うだろう。天才。その一言以外に、あれを説明する言葉を、多くの人間は持っていない。
夕弥は、しばらく天井を見上げて、それから、ふと思いついたように僕を見た。
「ちなみに、空は、努力と才能はどっちが勝つと思う?」
古今東西、何度も繰り返されてきた問いだ。答えのない問い、と言ってもいい。努力か、才能か。人は、この二択を、飽きもせず議論し続けてきた。大抵は、自分に都合のいい方を選んで、それで安心するために。
けれど、僕は、この問いの立て方そのものが、少し気に入らなかった。
「努力5割、才能10割だな。」
夕弥が、きょとんとした顔をした。指を折って、律儀に計算している。
「いや、100%超えちゃってるじゃん!!」
「そうだよ。」
「そうだよ、じゃなくて! 合わせて15割って、なんだよそれ!」
夕弥が、大げさに突っ込んでくる。僕は、少しだけ笑った。こいつのこういう反応は、話していて気持ちがいい。
「これは持論だが。」
僕は、椅子に座り直して、続けた。
「努力できるのも、また才能だ。」
「努力が、才能?」
「ああ。考えてみろよ。同じことを、毎日、何年も続けられる人間が、どれだけいる。ほとんどの人間は、途中でやめる。飽きるか、楽な方へ逃げるか、そもそも始めもしない。続けられること、それ自体が、もう、ひとつの才能なんだ。」
僕の頭には、玲のことが浮かんでいた。
幼稚園の頃から、毎日同じ時間に図鑑を開いていた、あの小さな背中。誰に強制されたわけでもない。ただ、続けた。十年以上、一日も欠かさず。
「でも、続けるだけじゃ、足りない。」僕は言った。「間違った方向に、いくら努力しても、実らない。穴の空いたバケツに、水を注ぎ続けるようなものだ。だから——正しい努力の方向を、見極める才能がいる。」
「正しい方向……」
「そう。何を、どう頑張れば、目的に近づくのか。それを見誤らない目。これも、才能だ。がむしゃらなだけじゃ、駄目なんだよ。」
夕弥は、腕を組んで、真剣に聞いている。ふざけているようで、こいつは、人の話をちゃんと聞く。それも、こいつの美点のひとつだ。
「で、」僕は続けた。「正しい方向に、続けて努力できたとして。それでもまだ、足りない。」
「まだあるのかよ!」
「ある。最後に、その努力に見合った実力を、ちゃんと発揮できる才能がいる。」
「発揮する、才能?」
「本番で、力を出せない人間は、いくらでもいる。練習では完璧なのに、いざというときに崩れる。積み上げてきたものを、必要な場面で、そのまま出せる——それも、実は才能なんだ。」
僕は、指を三本立てた。
「正しい努力の方向を見極める才能。それを続けられる才能。そして、その努力に見合った実力を、発揮できる才能。この三つを揃えて、初めて、人は『天才』になれる。そう思う。」
夕弥は、しばらく僕の言葉を、頭の中で転がしているようだった。眉を寄せて、うんうん唸って、それから、ゆっくりと口を開いた。
「へ〜。なんか、分かるような、分からないような。」
「無理に分からなくていい。ただの持論だ。」
「いや、待てよ。」
夕弥が、何かに気づいたように、顔を上げた。
「ん? じゃあさ、それって、結局——運ってこと?」
「まぁ、極論、そうだな。」
僕は、認めた。
正しい努力の方向を見極める目も、続けられる粘りも、本番で発揮できる強さも。——結局のところ、それらを「持って生まれるかどうか」は、本人には選べない。どんな脳を、どんな性質を持って生まれてくるか。それは、生まれる前に、すでに決まっている。
努力できる人間は、努力できるように生まれついている。
そう考えれば、天才も、凡人も、その差は、究極的には——運だ。
「えぇ〜。」
夕弥が、心底、納得いかないという顔をした。
「じゃあ、結局生まれた時点で決まってるってこと?そんなの、夢がないじゃん!」
「そう結論づけるのは、早い。」
僕は、言った。
「僕は、そこに唯一、関われるものがあると思ってる。」
「関われるもの?」
「環境だ。」
夕弥が、首を傾げた。
「環境?」
「ああ。」僕は頷いた。「時代、親、友人。……そういうものだ。」
同じ資質を持って生まれても、どの時代に、どの国に生まれるかで、その資質が花開くかどうかは、まったく変わる。思考術のなかった時代に生まれた玲は、ただの「本の好きな変わり者」で終わっていたかもしれない。この、思考術がすべてを決める時代に生まれたからこそ、あいつの積み上げた知識は、力になった。
親も、そうだ。どんな親のもとに生まれ、何を与えられ、何を教えられたか。子供は、それを選べない。幼い頃に、図鑑を買い与えられた子と、そうでない子。その最初の環境の差は、後から努力で埋めるには、あまりに大きい。
そして、友人。
僕は、隣で目を丸くしている夕弥を、ちらりと見た。
こいつと出会っていなかったら、僕は、たぶん、もっと閉じた人間になっていた。日陰で、一人で、誰とも関わらず、ただ考えることに沈んでいく。そういう人生も、あり得た。夕弥が、日陰まで来て、話しかけてくれたから。僕は、かろうじて、こちら側にいる。
環境は、運で決まった資質を、伸ばしもすれば、殺しもする。そして、環境の一部は——人の意志で、変えられる。時代は選べなくても、誰と付き合うかは、少しは選べる。どんな親になるかは、いつか自分が親になるとき、選べる。
だから、僕たちに、唯一できることがあるとすれば、それは。
「自分の運を嘆くことじゃなくて、環境を、少しでもマシにしていくことだ。」僕は言った。「自分の、っていうより——次の誰かの、環境をな。」
夕弥は、ぽかんと口を開けて、僕を見ていた。
それから、しみじみと言った。
「はぇ〜。なんか、哲学だな。」
「大した話じゃない。」
「いや、大した話だよ。お前、そういうこと、普段は絶対言わないじゃん」
言われて、僕は、少し口をつぐんだ。
確かに、そうだ。普段の僕なら、こんなことは言わない。「努力と才能、どっちが勝つ?」と聞かれても、「さあな」と流して終わりだ。
なのに、今日は、最後まで、考えて、口に出した。
なぜだろう。
——たぶん、さっきの会話を聞いたからだ。
恐らく自分は先ほどの会話に少しイラついているのだろう。
「なあ、空。」
夕弥が、いつもの、へらへらした調子に戻って、言った。
「お前、今日、なんか変だぞ。よく喋るし」
「そうか。」
「うん。……でも、悪くないと思う。そっちの方が」
夕弥は、そう言って、にっと笑った。
その笑顔に、僕は、なぜか、少しだけ救われたような気がした。
環境。時代、親、友人。
その「友人」の欄に、この男がいることを、僕は、今日ほど、ありがたく思ったことはなかった。
予鈴が鳴った。
生徒たちが、それぞれの席へ戻っていく。教室が、少しずつ、次の授業の空気に切り替わっていく。
僕は、鞄から教科書を取り出しながら、心の中で、もう一度、繰り返した。
——運で、決まる。
だが、環境は、変えられる。
自分にとって一番大きな環境は玲だろう。玲は僕を信頼し、付き合ってもいる。だから僕もそれ相応の立ち振る舞いをするべきだ。玲はあぁ見えて危なっかしい。ぶっきらぼうなので誤解もされやすい。それにTQの低い僕と付き合っている。僕の知らないところでやっかみも受けているだろう。まぁ本人は気づいてないかもしれないが。だから守らなければならない。たとえそれが誰に見られることがなかろうとも。
窓の外で、イチョウが揺れていた。




