葦
時は未来。思考術という名の魔法のような力が日常となった時代。主人公である真渡 空は勉学は優秀だが思考術の成績は平凡な高校生。しかし、とある問題ごとに巻き込まれ、普段は隠していたとある術を使って---。自身の平和な日常を守るため思考を巡らしていく。
「人間は考える葦である。」
これはブレーズ・パスカルの有名なフレーズである。しかし、この言葉を初めて目にしたとき——いや、今もそう思っている人がいるかもしれない。
(葦って、なに?)
僕もいつだったか調べたことがある。水辺や湿地に生える細長い植物で、茎は細く、風が吹けば簡単に折れてしまうほど弱々しい。パスカルは、人間もまた、風に折れる葦のように、災害や病気の前では無力な存在だと考えた。しかし、人間には考える力がある。自分や世界について考え、自分の弱さを理解できる。これこそが人間の価値であり、尊さである。
それを表すために、「人間は考える葦である。」という言葉が生まれた。つまり、考えることこそが人間を人間たらしめる所以であり、弱点を覆す強みなのだ。
ならば考えよう。たとえ、答えのない問いだとしても。
学力、運動能力、コミュニケーション能力——学校や社会では、様々な能力が試される。そして、かつて魔法と呼ばれていたような力、「思考術」は、現代社会において、評価の大部分を占める重要な能力といえよう。
僕たちが生まれるよりずっと前、思考術は「奇跡」だった。聖人や魔女、あるいは天才と呼ばれる、ごく一握りの人間にしか宿らない、原理の知れない力。深く考え抜いた者が、世界そのものをわずかに書き換える——そんな現象は、長い間、神秘の領域に置かれていた。
それが「能力」になったのは、思考術が測定可能になったからだ。思考術を使える者を調べていくと、ごくわずかだが、特殊な波長を発していることが分かった。そして、この波長は、強弱こそあれ、人類が皆発しているものだった。特殊な波長が発見されて十五年後、ついにそれを増幅する技術が開発され、すべての人間が思考術を扱えるようになった。今では義務教育で思考術の行使の仕方が教えられ、競技にもなっている。
思考術は、その名の通り、個人の思考に大きく左右される。例えば、攻撃的な思考の者は、火や氷のような攻撃的な術が得意。優しい者であれば、回復術などのサポート系の術が得意だ。そして、その出力は、本人の思考力に左右されると考えられている。なので、ほとんどの人は得意な術がある。考え慣れればその分思考を圧縮できるので、その分出力があがる。よく使う、よく考える術は自然と出力があがるのだ。
僕たちの社会は、思考術の力を「TQ(Thinking Quotient・思考力指数)」という尺度で評価している。学力の偏差値と同じように、TQは標準化された指標で、平均が50、ばらつきが一定の幅に収まるよう設計されている。年に二度、全国の学校で思考術測定が行われ、生徒は一人ずつ測定室に入り、思考術行使時の波長を計測される。そして、小さな紙に数字が印字されて渡される。
その数字が、人生を決める。
そう言っても過言ではない。この数字は、学内の序列、進学先、就職先に大きく影響する。一定の値を超えなければ、上位の高校や大学は受験資格すら得られない。就職もそうだ。多くの企業が、募集要項に「TQ◯◯以上」と明記している。思考術を要する高度な仕事——研究、設計、政策立案、医療の一部——は、もはやTQの高い人間以外には任されない。家を借りるとき、ローンを組むとき、結婚相手を探すときでさえ、TQはついて回る。「あの人、TQいくつ?」というのは、この社会で最も無遠慮で、最もありふれた問いだ。
学力の偏差値だけなら、まだ努力でどうにかなる、と人は言うかもしれない。だがTQは、もっと残酷だ。なぜなら、これは「どれだけ深く考えられるか」という、その人の思考の根そのものを測る数値だからだ。暗記でも、要領でも、ごまかせない。TQが低いということは、世間から見れば「考えが浅い人間」だという、動かしがたい烙印に等しい。
当然、社会は分断された。
TQ70を超える者たちは「高位層」と呼ばれ、社会のあらゆる中枢を占めている。彼らは思考術で現実を書き換え、不可能を可能にする。建築家は計算を超えた構造を、医師は理屈を超えた治療を、為政者は人心を超えた合意を——ほんのわずかに、しかし決定的に、世界を撓ませる。彼らの一人がもたらす価値は、TQ50の人間百人分にも、千人分にもなると言われている。
TQ50前後の「標準層」は、社会の大多数を占める。思考術はほとんど使えないか、使えても日常を少し便利にする程度。彼らは、高位層が設計した世界の上で、決められた役割を粛々とこなして生きている。
イチョウが舞い、銀杏のあの独特な匂いがする季節。世間一般的には、あまり良い匂いではないらしいが、僕はそうは思わない。なぜ皆そんなに毛嫌いするのか分からない。そんなことを考えながら、僕、真渡空は高校へ向かって歩いていた。
「ヤッホー、空。今日も景気の悪い顔してるね!」
「うるさい。そういうお前はいつも通り元気だな、夕弥。」
「元気がアイデンティティだからね!」
こいつは千葉夕弥。元気溌剌を体現したような存在で、声はデカいし、ほぼ常に笑顔。人付き合いにおいて、こいつの右に出るやつを僕は知らない。僕みたいな日陰者にも話しかけてくる。ほんとに何を考えているのか分からん。いや、考えていないのかもしれない。一応TQは60らしいが、その片鱗を見たことはない。それでも僕にとっては、数少ない友達の一人ではある。親にも、他の友達にも、ああいう奴との縁は大切にした方がいいと、耳にタコができるくらい言われた。皆、僕を何だと思ってるんだ。友達なんだから、人並みに大切にするぞ。
「なんか、気難しい顔してるけど大丈夫か? あ! 今日テスト返却だもんな! 空、勉強はできるよな!学力高いやつは大体TQも高いのにTQは普通だよな。なんで?」
「しらん。」
「でもでも、学力試験でもいつも三位だよね? 今回は一位取れそう?」
「無理。」
「否定早っ! もっと向上心持てよ!」
「いや、順位が目標で勉強をしてるわけじゃないし。そもそも僕より上の二人は、ヤバい二人だからな。」
「あ〜、畠谷さんと一条さんね。」
「そう。あの二人には、勝てる気がしない。」
「おっ、噂をすれば!」
「おはよ。何の噂?」
畠谷玲。小柄で口数が少なく、無表情。数学と理科は満点以外取ったことがない。学業優秀で学年2位、TQも2位だ。時折、授業で先生に高度すぎる質問をして、先生を困らせている。ミステリアスな雰囲気が人気なのか、意外とモテるらしい。そして、なぜか——
「ほらっ、彼女が来たぞ!」
そう、なぜか僕の彼女である。幼稚園からの幼馴染で、約半年前、突然告白されたのだ。
「おはよ。」
畠谷玲は、僕の前で足を止めると、それだけ言って、こてんと首を傾けた。これが彼女なりの「おはよう」の続きだということを、僕は半年付き合って知っている。言葉の少ない人間ほど、言葉以外で多くを語る。
「おはよう、玲。」
「ん。」
夕弥が、にやにやしながら僕と玲を交互に見た。
「いやー、何回見ても慣れないなあ。TQ学年二位の畠谷さんと、うちの陰気な空がねえ」
「陰気は余計だ。」
「事実だろ?」
事実だった。返す言葉がない。
玲は、夕弥のからかいなど聞こえていないかのように、僕の顔をじっと見上げていた。その目には、いつもどおり、何の感情も浮かんでいない。けれど、半年も隣にいると、その無表情の中の、ほんのわずかな揺らぎが読めるようになる。今の玲は——何か、言いたいことがある顔だ。
「どうした。」
「テスト。」玲は短く言った。「今日、返ってくる。」
「ああ。それが?」
「数学の最後の問題。解けた?」
僕は、少し考えてから首を振った。
「最後の応用問題か。あれは無理だ。手も足も出なかった。たぶん、今回も解けたのはお前と一条だけだろ。」
玲は、ほんの一瞬、何か言いかけて、やめた。そして、いつもの調子で、ぽつりと呟いた。
「……そう。なら、いい」
「何だよ、それ。気になる言い方だな。」
「ん。」
そう言って、玲はくるりと背を向け、自分の席へ歩いていった。小柄な背中が、人混みに紛れていく。
夕弥が、ひゅう、と口笛を吹いた。
「相変わらず、ミステリアスな彼女さんだねえ。空、あれで本当に意思疎通できてんの?」
「……たぶんな。」
たぶん、というのが正直なところだった。
僕は、玲のことが、半年経った今も、よく分からない。なぜ学年一位の秀才が、TQ52の——ありふれた僕を選んだのか。僕はその理由を、まだ突き止められずにいる。
「テスト返すぞ~」
一時間目の数学は、テスト返却から始まった。
「今回も平均は悪くなかった。ただ、最後の応用問題——あれは正直、かなり難しくして満点を取らせないようなものだったんだがな」
音無先生は、答案の束を抱えながら、いつもの穏やかな笑みでそう言った。
「満点は、二人だけだ。畠谷、一条。以上」
ざわめきは起きなかった。起きるはずがない。畠谷玲と一条菜音が満点を取ることは、この教室では日常の一部だった。太陽が東から昇るのと同じ、世界の前提のようなものだ。
答案が配られていく。前の席から順に、赤い数字が生徒たちの手に渡り、そのたびに小さなため息や歓声が漏れる。
「千葉、82点。おしいなあ、計算ミスが二つ。見直せば90はいけたぞ」
「うぇーい、82! 平均超え! やった!」
夕弥が両手を上げて喜んでいる。あいつは、82点という数字を、心から誇らしく思える人間だ。僕には、その素直さが少しだけ羨ましい。
「真渡、97点」
僕の手元に、答案が戻ってきた。見慣れた赤い数字。最後の応用問題にだけ、大きな×がついている。それ以外は、全問正解。97点。学年三位。いつも通りの、僕の定位置だ。
97点。悪くない。悪くはないが——あの二人の背中は、いつも最後の一問分だけ、遠い。
僕はぼんやりと自分の答案を眺めていた。計算過程を書く欄が、どの問題もやけに白い。答えだけが、ぽつんと置かれている。
そのときだった。
「空。」
顔を上げると、すぐ目の前に玲が立っていた。いつの間に来たのか、足音もしなかった。小柄な体で、僕の机を見下ろしている。
「玲? どうした。」
玲は答えず、僕の答案に、じっと視線を落としていた。無表情。けれど、その目の奥が、かすかに動いている。半年隣にいると、その微細な揺らぎが読めるようになる。今の玲は——何かに、引っかかっている顔だ。
「これ。」
玲の細い指が、僕の答案の、二問目を指した。それから、四問目、五問目。最後の問題を除く、すべての設問を、順になぞっていく。
「簡潔すぎる」
「……簡潔?」
「途中式が、ない。考えた跡が、ない」
玲の声は、いつもより低かった。
「難しい問題ほど、人は考える。迷って、書いて、消して、また書く。その跡が、答案に残る。わたしの答案にも、一条さんの答案にも、残ってる」
玲は、自分の答案をこちらに向けた。確かに、そこには複雑に絡み合った思考の痕跡——淡く光る図形と、書いては消した式の跡が、びっしりと刻まれていた。
「でも、あなたの答案には、それがない。まるで——最初から、答えを知っていたみたいに」
僕は、自分の答案を見下ろした。言われてみれば、確かにそうだった。どの問題も、答えだけがぽつんと書かれている。考えた跡が、ない。けれど、それは。
「別に、変な話じゃないだろ。」
僕は肩をすくめた。
「頭の中で解いて、答えだけ書いた。それだけだ。計算過程を書くのが面倒なんだよ、昔から。」
玲は、わずかに首を傾けた。
「最後の問題も?」
「あれは解けなかった。だから×だ。見ての通りだよ。」
「……そう」
玲は、しばらく僕の顔を見つめていた。何かを見透かそうとするような、それでいて、確かめるような目だった。僕は、その視線を、努めて平然と受け止めた。
「玲、お前——」
夕弥が何か言いかけた、そのとき。
「はーい、そこ。おしゃべりは後にしてくれ」
音無先生の声が飛んできた。返却を終えた先生は、教壇で出席簿を閉じ、いつもの穏やかな調子で、けれど有無を言わせない口ぶりで告げた。
「今日はこのあと、TQ測定がある。年に二度の、大事な計測だ。全員、順番に測定室へ移動してもらう。」
玲は、それ以上は何も言わず、すっと身を引いた。自分の席へ戻る、その直前。僕にだけ聞こえる声で、ぽつりと呟いた。
「測定、ちゃんとやってね。」
「……どういう意味だ。」
玲は答えなかった。小柄な背中が、席の間を縫って遠ざかっていく。
僕は、手元の答案に、もう一度目を落とした。97点。考えた跡のない、白い答案。そして、いつも通りの三位という定位置。
(もう少し、点数低くした方が良かったかな?)
TQ計測の時間。
測定室は、旧校舎の一階の奥にあった。普段は使われていない特別教室を、年に二度、この日のためだけに専門の測定員が占拠する。
廊下には、クラスごとに順番待ちの列ができていた。壁に背を預けたり、床に座り込んだりしながら、生徒たちが各々時間を潰している。だが、空気はどこか張りつめていた。無理もない。この数十分で弾き出される二桁の数字が、これから半年の自分の値打ちを決めるのだ。
「あーあ、緊張するなあ」
隣で夕弥が、いつもの調子で伸びをした。緊張していると言うわりに、顔はへらへらしている。
「お前は緊張とは無縁だろ。」
「するよ、俺だって! 前回60だったからさ、今回こそ61いきたいんだよね」
「一つしか上げる気ないのか。」
「一つでも上がったら嬉しいじゃん。それにもっと上がってたらより嬉しいからね!」
夕弥のこういうところは、嫌いじゃない。TQ60という数字が、こいつの何を測れているのか、僕には時々分からなくなる。人の緊張を一言でほぐす力を、あの機械は、いったい何点として数えるのだろう。
列が、少しずつ進んでいく。
前方の測定室のドアが開くたびに、一人が中へ入り、数分後に別の顔で出てくる。上がった者は安堵を、下がった者は諦めを、それぞれの表情に貼りつけて。廊下を流れていく数字の話——「あいつ、5も上がったらしい」「あの子、下がって泣いてた」——を、僕は聞くともなしに聞いていた。
数字。数字。数字。
ふと、少し前方の列に、玲の後ろ姿が見えた。小柄な背中は、微動だにしない。緊張も、余裕も、何も見せない。学年二位の彼女にとって、測定など、答えの分かりきった作業なのだろう。
その、さらに前。列の先頭近くに、一条妃和がいた。まっすぐに伸びた背筋。長い黒髪を後ろで一つに結び、測定員に何か事務的な指示を出している。委員長として、測定の運営も手伝っているらしい。優等生というのは、こういうところまで抜け目がない。
「真渡空くん。次、どうぞ」
僕の番が来た。
測定室の中は、簡素だ。中央に、金属製の台座と、そこから伸びる半球状の装置。SF映画の小道具のようだが、これが計測器であり、この社会の物差しそのものだ。台座の脇には、白衣の測定員が二人。手元のモニターに向かっている。
「はい、じゃあ、そこに座って」
言われるまま、僕は椅子に腰を下ろし、冷たい半球に両手をのせた。
「知ってると思うけど、一応説明します。これから、得意なものを含めて、いくつか思考術を使ってください。攻撃系はあの的に。回復系など、周りに被害の出ないものは、その場で。行使中の波長を、装置が読み取ります。使う前に、どの術を使うか申告してください。道具が必要なら、貸し出します」
「わかりました。」
「では、早速始めましょう。」
いつも僕が計測してもらう思考術は3つ、浮遊、空気中の水分を集め放つ攻撃、物体の相対位置を固定する思考術の3つだ。
「まずは浮遊の思考術を使います。」
「わかりました。ではどうぞ。」
「ふー」
深呼吸をして、思考を集中させる。自分自身に、重力とは反対方向の力を作用させる。なるべく重力と釣り合うように——強すぎれば、天井へ飛んでいってしまう。自分が重力に逆らって、ふわりと浮くイメージ。
そうすると、座っていた椅子から、少しずつ体が離れ、浮いてくる。浮遊術は基本的な思考術の一つで、ある程度慣れた人間なら誰でも使える。しかし、上位者になると、自分だけでなく他人を浮かせたり、浮遊中の移動が速かったりと、その自由度の差は歴然だ。かくいう僕は、自分と、せいぜい小さな物しか浮かせられない。
「はい。計測できました。もうやめていただいて大丈夫ですよ。」
その後も、計測は順調に進んでいった。そして、三つの思考術の計測が、すべて終わった。「これで計測は終了になります。これが計測結果になります。教室に戻ってください。」
「はい。ありがとうございました。」
長いようで短いTQの計測が終わり、小さな紙を渡された。そこには、52という数字が並んでいた。まぁ、こんなものだろう。そう思いながら、部屋を出ようとした、そのとき。
——測定、ちゃんとやってね。
玲の言葉が、頭の隅をよぎった。
(ちゃんと、ね)
その瞬間だった。
半球が、ぶわりと熱を持った。
視界の端で、モニターの数値が、跳ねた。52——という表示が、一瞬でぶれ、数字が高速で回転し始める。60。70。80。まだ上がる。測定員の一人が「え」と声を漏らし、椅子から腰を浮かせた。もう一人が、慌ててキーボードを叩く。数値は止まらない。90を超え——
「空。」
鋭くも優しい声が、思考を断ち切った。
とたんに、モニターの数値が、すとんと落ちた。回転が止まる。表示されたのは計測前の画面だった。
測定室のドアの先に、玲が立っていた。いつもの、何を考えているのか分からない無表情。けれど、その目だけが、妙に真剣だった。
背後で、測定員たちが顔を見合わせているのが分かった。
「……今の、なんだ? 機械の誤作動か?」
「ログには、一瞬だけエラーが。でも、計測前の状態に戻りました。装置の不具合でしょう。あとで点検に回します」
彼らは、そう結論づけた。誰も、あの数字の回転を、本気には受け取らなかった。
「TQ、いくつだった?」玲が訊いた。
「いつも通りの、52だよ。」
「そう。測定員さんたちどうかしたの?」
「さあ?ほら、次の人が来るから、行くぞ。」
「…ん。」
こうして僕らは、教室へ戻っていった。
教室に戻ると、まだ測定を終えていない生徒も多く、中は半分ほど埋まっているだけだった。僕と玲は、窓際の僕の席のあたりで足を止める。そこへ、ひと足先に測定を終えていた夕弥が、飛びつくように寄ってきた。
「空! 畠谷さん! どうだった!?」
「52だ。いつも通り。」
「相変わらず安定してるなあ。畠谷さんは?」
玲は、手にした小さな紙を、僕たちに見えるよう軽く掲げた。
そこには、77前後の数字が並んでいた。最高値は79。
「うわっ、79!? 相変わらずバケモンだ……」夕弥が大げさにのけぞる。「前回の最高値いくつだっけ?」
「77。」玲は短く答えた。「二つ、上がった」
「二つ上げるのが、どんだけすごいか分かってんのかなあ、この人は」
夕弥は呆れたように笑ったが、僕は少しだけ引っかかっていた。TQ79。高位層のさらに上、学年でも二位。文句のつけようのない数字だ。
玲の得意な思考術は、物質の生成と、それを自在に操る術。攻守ともに便利な思考術だ。しかも、TQは79。生成スピードや操る精度もさることながら、生成物が、ただの水などにとどまらない。集中すれば、薬さえ生成できるらしい。マジでバケモンだ。
そういえば——
「玲、なんで僕の計測室に来てたんだ?」
「……別に。」
いつもの無表情。だが、いつもより、ムスッとしている気がする。
「おい、空! そんなことも分からないのかよ。彼氏を迎えに行ったに決まってんだろ!」
「……」
玲が優弥をジト目で見ている。しかし、その頬はすこし赤くなっているように見えた。
「ところで、夕弥はTQいくつだったんだ?」
「61!!1上がってたぜ!!」
「それはよかったな。今回は何の思考術で計測したんだ?」
「いつもの閃光術と…」
夕弥が続き言いかけた、そのときだった。
教室の後ろの方から、ざわめきが起きた。
最初は、小さな驚きの声だった。それが、伝染するように広がっていく。廊下側のドアから、次々と測定を終えた生徒たちが戻ってきて、そのたびに、ざわめきが大きくなる。誰かの名前が、繰り返し囁かれている。
「——一条さんが」
「マジで? いくつ?」
「いや、数値もだけど、種類が……」
僕と玲と夕弥は、顔を見合わせた。
ざわめきの中心には一条悠乃。委員長として測定の運営を手伝っていた彼女は、全員の最後に戻ってきたらしい。いつも通りの、まっすぐな背筋。結い上げた黒髪。表情は、涼しいほどに落ち着いている。
けれど、彼女が入ってきた瞬間、教室のざわめきが、明確に一段跳ね上がった。
「一条さん、これ本当なの!? 83って!」
「しかも十二種類ってやばくない!?」
一条は、自身の席へ歩きながら、集まってくる級友たちに、静かに微笑んだ。
「今日は調子が良かったかな。」
否定はしなかった。ただ、少し困ったようにそう答えていた。
皆は、思わず息を呑んだ。
TQ83。
その数字が、どれほど異常か、この社会に生きていれば嫌でも分かる。高位層の基準が70。前回の一条の最高値が、確か80前後だったはずだ。それを、さらに上回った。一条の異常性はそれだけではない。
「十二種類……」
隣で、夕弥が呆然と呟いた。
TQの測定では、複数の思考術を行使して波長を計測する。使える術の種類が多いほど、思考の幅が広いとされ、評価も上がる。僕は、いつも三種類。それでも平均は超える。玲でさえ、確か七種類か八種類だ。その中でも多少のTQのばらつきがある。実際、玲が79という数値を記録しているのは二種類ほどだ。
それを一条は十二種類すべて83。
それは、もはや人間の思考の幅として、常識の外だった。
「歴代最高だってさ」「この学校始まって以来だろ」「いや、全国、いや世界でも聞いたことないぞ」「今調べたけど、大人を含めても世界トップレベルだって」——ざわめきの中から、断片的な言葉が耳に飛び込んでくる。誰もが、一条悠乃という存在を、あらためて別次元のものとして見上げていた。
完璧な優等生。満点しか取らない委員長。そして今、TQ83、十二種類という、歴代最高の記録。彼女は、この思考術格差社会が理想とする「考える力」の、頂点そのものだった。
一瞬、彼女の視線が、僕らを捉えた。
「玲さんは、どうでしたか?」
「ん。」
そう言って、玲は計測結果の書かれた紙を、一条に渡す。
「すごい! 前回からかなり上がってるね!」
「ありがと。悠乃も、すごい。」
「ふふっ、ありがとう。でも、次は分からないわ」
「ん。次は、負けない。」
一条の凄いところは、性格も良いところだ。この一連のやりとりにも、何の嫌味もない。本心から言っている。成績優秀、容姿端麗、運動神経良し、TQ世界屈指、性格も良い。もはや、何ができないのかを知りたいくらいだ。
「そういえば真渡くん、測定機に不具合があったみたいだけど、大丈夫だった?」
委員長として、運営を手伝っていたのだろう。あのモニターの、数値の回転を、見ていたのだろうか。それとも、ログを——?
「……大したことじゃない。測定は、普通にできたしな。」
僕は、努めて平静に答えた。
一条は、しばらく僕の顔を見つめていた。その瞳は、静かで、そして、どこか——探るようだった。
「そう。真渡くんは、勉強の成績も良いし、運動神経も悪くないし、実戦の授業でも成績が良いし。TQ、もっと高くてもいいのにね〜。彼女もいるし♪」
「いや、彼女の有無は関係ないだろ。TQについては、むしろ僕が教えてほしいくらいだよ。一条さん、教えてくれない?」
「私は全知全能じゃないんだよ? できることだって、限られてくる。それに……やっぱり、なんでもない」
「??」
彼女は、それだけ言って、微笑んだ。完璧な、隙のない委員長の微笑み。けれど、その笑みの下で、彼女が何を考えているのか、僕には、まったく読めなかった。
「千葉くんは、どうだったの?」
「1上がったぜ!!」
「わっ、すごい! やったね♪」
「委員長〜」
「ごめん。呼ばれたから、行ってくるね」
そう言って、クラスの誰かに呼ばれた一条が、去っていく。
その隣で、玲が、一条の背中を、無表情のまま、じっと見つめていた。
「いや〜、流石の委員長だな! 畠谷さんもすごいけど、委員長もすごいな〜!」
「ん。悠乃は、別格。」
「畠谷さんでも、そう思うのか〜。でも、勉強なら、頑張れば勝てるんじゃね?」
「……別に、順位のために勉強してるわけじゃない。」
「お前ら、同じようなこと言いやがって。」
「それに、悠乃は勉強の方が異常。満点以外、見たことない。」
「確かに……。でも、理系科目は畠谷さんもずっと満点だろ! 委員長がミスれば、勝てる可能性もあるって!!」
「それなら、空にも可能性ある。」
「無理だな。お前ら二人に、なんとか満点を取らせまいと、最後の問題はどんどん難しくなってる。それ以外を取りこぼさないので、精いっぱいだよ。」
「ちぇ〜、二人とも夢ねぇな〜」
ガラガラガラ
そんな他愛もない話をしていると担任の---新谷先生が入ってきた。どうやら全員のTQ測定が終わったようだ。
「今日はこれで終わりだ。明日は実戦の授業がある。各自準備をしてくるように。」
どうやら今日はこれで解散のようだ。帰りの支度をしていると玲がこちらに向かってきた。
「帰ろ」
「そうだな。」
そして、放課後。
昇降口を出ると、傾きかけた日差しが、校庭の端の一本のイチョウを、金色に燃やしていた。風が吹くたびに、葉が数枚、宙を舞って落ちる。そして、あの匂いだ。銀杏の、独特の匂い。
「じゃ、俺こっちだから! また明日なー!」
夕弥が、大きく手を振って、駅とは反対の方向へ駆けていった。今日はゲームの新作の発売日らしく、朝からずっとそわそわしていた。あいつは、あいつの一日を、全力で生きている。
「あいつ、元気だな。」
「ん。」
隣を歩く玲が、短く頷いた。夕弥の背中が、角を曲がって消えていく。残されたのは、僕と玲の、二人分の足音だけになった。
僕と玲の家は、途中まで方向が同じだ。幼稚園からの幼馴染だから、通学路も、もう十年以上、同じ道を歩いている。半年前に付き合い始めてからも、この帰り道だけは、何も変わっていない。ただ、隣を歩く距離が、ほんの少しだけ、近くなった気がするくらいだ。
「テスト、返ってきたな。」
「ん。」
「また満点だったな。」
「空も、97点。」
「あの1問は何回見てもよくわからん。まじでふざけているとしか思えない。」
玲は、少し考えるように、視線を落とした。それから、ぽつりと言った。
「……悔しい?」
「いや。」僕は、正直に答えた。
「悔しくは、ないな。解けないものは、解けない。玲たちと僕とじゃ、そもそも土俵が違う。」
「そう」
玲は、それ以上は何も言わなかった。けれど、その横顔を見ると、何か言いたそうな——けれど、それをうまく言葉にできない、そんな表情を浮かべていた。僕の朝の答案のことを、まだ、どこかで引っかかっているのかもしれない。
言葉の少ない玲は、こうやって、時々黙り込む。半年付き合って分かったのは、この沈黙は、機嫌が悪いわけでも、退屈しているわけでもない、ということだ。玲は、ただ、考えている。頭の中で、何かをずっと転がしている。だから僕も、無理に喋らせようとはしない。二人で黙って歩く時間は、僕にとって、そう悪いものではなかった。
商店街に差しかかると、夕方の賑わいが、少しだけ僕たちの沈黙を埋めてくれた。惣菜屋から、揚げ物の匂いが漂ってくる。八百屋の店先で、ラ・フランスが並んでいた。そういえばラ・フランスの旬は今ごろか。
「玲、ラ・フランス好きだったよな。」
「……なんで知ってるの。」
「小学校の時のとき、いつか、僕の家に遊びに来た時、僕の母親が出してたラ・フランス滅茶苦茶旨そうに食べてたから。そのとき、僕の分もほとんど食べただろ。あの時3欠片ぐらいしか僕食べてないぞ。」
玲が、ぴたりと足を止めた。それから、じわじわと、耳のあたりを赤くした。無表情のまま、けれど、確かに赤い。
「……覚えてなくて、いい」
「食べ物の恨みは忘れんぞ。」
僕は、少し笑ってしまった。玲は、こういうところがある。普段は何を考えているか分からないくせに、昔の話になると、途端に子供みたいになる。学年二位の秀才も、TQ79のバケモンも、僕の前では、ただの彼女で、幼馴染で、女の子だ。
八百屋のおばちゃんが、僕たちに気づいて手を振った。
「あら、空くん。今日も玲ちゃんと一緒?」
「どうも。」
「仲いいわねえ。はい、これ、おまけ」
おばちゃんが、みかんを二つ、玲の手に押しつけた。玲は、ぺこりと頭を下げる。
「……ありがとうございます。」
商店街を抜けると、また静かな住宅街の道になった。玲は、もらったみかんを、両手で大事そうに持っている。ひとつを、僕に差し出した。
「はい。」
僕は、そのみかんを受け取った。手のひらに、まだ夕日の温もりが残っている、小さなオレンジ色。
「サンキュ。」
「これでチャラ。」
「何がチャラだ。ただ、もらったものを一つずつ分けただけじゃないか。」
「これは私が受け取った。つまり、私の物。それを分け与えた。だからチャラ。」
「はいはい。もうそれでいい。」
二人で、歩きながらみかんを剥いた。玲は、皮を綺麗な一枚に剥こうと、真剣な顔で挑んでいる。そういう、どうでもいいことに、この子は妙に集中する。結局、途中でちぎれて、悔しそうに眉を寄せていた。
「……失敗した。」
「みかんの皮に、そこまで本気になるやつ、初めて見た。」
「本気じゃない。……ちょっと、集中しただけ。」
みかんは、少し酸っぱくて、でも、甘かった。今年初めてのみかんの味だ。
分かれ道が、近づいてくる。この角を曲がれば、玲の家。まっすぐ行けば、僕の家。十年以上、同じ場所で、いつも別れてきた道だ。
「じゃ、ここでな。」
「ん。」
玲は、立ち止まって、僕を見上げた。何か言いたそうに、口を、少しだけ開く。
「……空。」
「ん?」
「今日、その……」
玲は、そこで言葉を切った。今朝の答案のことか。それとも、TQのことか。それとも別の何かか。話したいけど、うまく形にならない、いや口に出そうかどうか迷っている。そんな顔だった。玲の中の、小さな悩み。もやもやとした何か。それを、彼女自身、持て余しているように見えた。
僕は、待った。
やがて、玲は、小さく首を振った。
「……やっぱり、なんでもない。また明日。」
「ああ。また明日。」
玲は、くるりと背を向けて、自分の家の方へ歩いていく。小柄な背中が、夕暮れの道に、だんだん小さくなっていく。一度だけ、振り返って、こちらに小さく手を振った。僕も、手を振り返した。
一人になった帰り道は、少しだけ、静かすぎた。
みかんの匂いが、指先に残っている。銀杏の匂いに、それが混じる。僕は、なんとなく空を見上げた。夕焼けが、藍色に変わろうとしている。イチョウの葉が、一枚、僕の前を横切って落ちた。
僕は、みかんの最後のひと房を口に入れて、家路を急いだ。
何も特別なことのない、いつも通りの一日だった。
けれど、明日が、そうとは限らない。
だから今日という日常を今、噛み締める。




