赤い髪の男 07
風で流される霧越しに、地面を蹴る"溺れる者"の姿が見える。
俺が地面に転がった黒い拳銃を拾うべく腕が、あるいはヤツが蹴り飛ばすべく足が伸びる。
さっきまではなかった痛みが奔り、始め肩を押さえたい欲求に駆られる。
それでもなんとか堪え、走り生き残った利き手を必死に拳銃へ向けるも、速度と距離からすると少しばかりこちらが不利。
このままでは"溺れる者"の足が、頼みの綱である拳銃を蹴り飛ばす方が先。
しかし絶体絶命の状況と激痛に顔を青くする間もなく、こちらに味方をしてくれたのは雨でぬかるんだ地面であった。
体重をかけた芝生が土ごと滑り、ヤツの体勢を大きく崩す。
あそこはまだ芝が根付いておらず、つい先日ドラウ爺さんが庭の手入れをしている時に気にしていた箇所。
まるでさきほどの弾丸を弾いたという、強烈な幸運の反動のようだ。
ヤツの走るのが阻害された隙を逃さず、身体ごと拳銃に突っ込んでいく。
芝の上を滑りながらなんとか拾うと、すかさず撃鉄を起こす。
そして体勢を崩した溺れる者へと狙いを定め、迷うことなく引き金を引いた。
「……やったか?」
重い銃声が響き、濃霧の庭へ訪れるしばしの静寂。
俺は煙を吐く銃口越しに見える溺れる者の姿を凝視し、ヤツの次なる反応を窺った。
当たった、……とは思う。動きを止め、手にしていたロープも地面に落としているのだから。
だがヤツは自身の腹部を軽く触れただけで、痛そうな素振りも見せない。
拳銃の扱いは得意ではないが、この距離なら当てる技量は持っているつもりだが、もしや掠めただけだったのかと不安がよぎる。
それでもちゃんと当たっていたのは確かなようだ。溺れる者はもう一度腹部を押さえると、俺と警部に背を向け、いきなり走って壁へと向かった。
おそらく壁の側に立つ木を伝い、このまま逃走を計るつもりだ。前回と同じく。
前に逃走された時と酷似した流れに、今度こそ逃してなるものかという意識はある。
しかしそれを許す身体でないのは明らかで、木を軽々と登っていくヤツの姿を、地面に膝を着いたままただ見送るしかなかった。
「助かった、のか?」
風の吹く音ばかりが響く庭で、そう呟いたのはバリー警部だ。
彼は俺が勝手に拳銃を使ったことを咎めるでもなく、消えていった方向を眺める。
「そのようです。大丈夫ですか、警部」
「あ、ああ。僕はなんとか……。いやそれよりも君の方だ」
地面に尻もちを着いたままの警部。
俺はゆっくりと彼の方へ歩き、立ち上がらせるべく右手を差し伸べる。
一瞬その手を取ろうとした警部だが、すぐにハッとし動きを止めた。
そして自力で立ち上がって向ける視線の先にあるのは、俺のダラリと下がった左腕。
俺の腕が碌に使い物とならないのは明らかで、バリー警部はその腕を痛めぬよう伸ばしかけた手を引いたようだった。
「すみません警部、また取り逃がしてしまいました」
「君が気にすることじゃないさ。そもそも一般市民である君に、発砲までさせてしまったのは僕の責任だ」
俺が謝罪を口にすると、彼は首を横に振る。
案の定、バリー警部は自身の拳銃を使った件を、咎める気はないようだ。
そのバリー警部に気遣われながら、俺たちはひとまず屋敷の方へと歩く。
逃走した溺れる者は負傷しているが、今から追っても到底追いつけるものではないと考えて。
もちろん苦渋の判断であり、共に悔しさを抱えながら歩いていると、屋敷の方から庭を駆けてくる姿が見えた。
徐々に晴れつつある霧の向こうから現れたのは、メイド服の代わりにコートを纏ったシャルマだ。
彼女は珍しく髪を結い、コートに付いたフードまで被っている。
おそらくバリー警部にあまり顔を見せたくないためだろうが、彼女は駆け寄って来るなり、すぐさま俺の状態を察し肩を貸してきた。
「ごめんなさい。出ていくタイミングが……」
「わかっているよ。警部が居る状況じゃ、出て来なかったのは正解だと思う」
バリー警部に聞こえぬよう、小さな声で珍しく素直な謝罪をするシャルマ。
なんだか全員揃って謝ってばかりだが、これまたシャルマにも責が無い。
銃声以前から襲撃には勘付いていたはず。けれどバリー警部が居る状況で、彼女までナイフを手に飛び出してくるわけにはいくまい。
あくまでも彼女が庭に出たのは、深夜に聞こえた銃声に反応してという形だ。
「酷い有様ね。とりあえず手当てを」
ひとまず警官たちを呼びに行くと告げたバリー警部と別れ、屋敷に入ってすぐの階段に腰かけると、シャルマは強引に俺の上着を剥ぎ取る。
ただ痛みの徐々に激しくなっていく肩を見ると、彼女の表情は一気に険しくなっていく。
この肩を見れば、散々な状態であるというのはわかる。
ここに至ってようやく患部を見たが、明りの下で見ると骨がやられているのが明らかだった。
負傷した俺を置いて、応急処置の道具を取りに走るシャルマ。
彼女は大急ぎで戻ってくると、添え木や包帯を取り出し手早く巻き付けていく。
どうやら簡単なものではあるが、シャルマには医療の心得があるようだ。
「夜が明けたら医者に連れていくわよ。あなたはイヤだろうけど」
一通りの応急処置を済ませたシャルマは、夜が明けるなり俺の意思は無視し医者に診せると告げる。
もちろんそこは一般の病院ではなく、ブラックストン家と協力関係にある医者のもと。
これまでも度々世話になっているところで、確かにあそこであればこの傷もどうにかしてくれるはず。
彼女は俺の頬を抓むと、まるで子供を叱りつけるかのように捩じった。
こいつはたぶん、碌な装備を携行していなかったお説教に加え、肩の痛みを一瞬でも紛らわせようという意図。
俺はその妙な部分でやり方が稚拙ながら、たまに優しくしてくれるシャルマのお説教を受けながら、それでも抑えきれぬ肩の痛みに鈍い苦悶の声を漏らすのだった。
重い瞼を上げ、ゆっくりと目を開く。
霞む視界に困惑しながらしばし待ち、ゆっくりと定まってくる焦点が捉えたのは、壁際で揺れるランプの明かり。
頭の下には柔らかな枕。横たわっているのは、真っ新な白いシーツが敷かれたベッドの上。
屋敷に在る自室……、ではない。
どことなく見覚えのあるここは、度々来たことのある郊外へ建つ病院の一室だ。
「……気を失った、のか」
カラカラに乾いた喉を震わせ、俺は想像の容易な現状を確認する。
どうやら痛みに声を漏らした直後、あのまま意識を失ってしまったのだろう。
そして宣言した通り、シャルマは夜が明けるなり俺をこの病院に運んだようであった。
時間はわからない。けれど首を曲げて自身の左肩を見ると、シャルマがした簡易的なものとは異なる、しっかりとした処置の痕跡が。
それに窓の外は真っ暗で、それなりの時間が経過している様子が窺えた。
たぶん最低でも、半日以上の時間が経過しているはず。
「起きたみたいね」
俺が職業柄とでも言うべき現状把握に努めていると、コンコンと木の板を叩くような音が。
思うように動かぬ身体をよじり、音のした方へと顔を向ける。
するとそこにはラフな格好で壁に背を預ける、シャルマが腕を組んで立っていた。
「聞きたいことは?」
「ひとまず、今が何時かだな。あれからどれだけの時間が経っているんだ?」
「もうしばらくしたら夜が明ける。もっともあなたが気絶してから、二日後のだけど」
見舞いということだろうか、水筒を投げて寄越すシャルマ。
ベッドの上に転がったそいつへと、なんとか手を伸ばし掴んで飲むと、入っていた微かに甘い果実水で、乾き痛みすら感じる喉が一気に潤されていく。
それにしてもシャルマによると、俺は随分と長い時間を眠っていたらしい。
運び込まれて処置をされた後、怪我の影響で相当に高い熱を出してしまったようで、そのまま入院と相成ったという。
熱にうなされ眠っている間は、屋敷で手の空いた人間が順に見舞いに訪れていたとのこと。
「エイリーンを屋敷に帰すのが一苦労だったわね。あなたが目を覚ますまで、泣きながら寝ずの看護をする勢いだったもの」
「そいつはかなり心配をかけたみたいだな」
「私に言わせれば、ちょっと愛情が重すぎね。流石は姉を自称するだけはあるわ」
ちょっとだけ愉快そうな素振りで、心配していた屋敷の住人たちを揶揄するシャルマ。
とはいえそう言う彼女自身も、こうして深夜に病室を訪ねてくれている。
きっと医者や看護婦から、帰るよう促されているはずであろうに。
「という訳で、お屋敷の人間は全員が無事。怪我をしたのはあなただけよ、ご愁傷様」
「……そうか。なら良かった」
「その代わりに私たちは、市警からの事情聴取で散々な目に遭ったけど。ああいった人たちが仕事熱心というのも考えものね」
俺を病院に運んだ後、屋敷には十数人の警官たちが押し寄せて来たらしい。
あの場に居合わせたバリー警部を筆頭に、僅かな手掛かりを求めて屋敷の庭を一日以上探し回っていたと。
「それで、バリー警部は?」
市警の動きについて聞いたところで、俺はふとあの人物についてを思い出す。
彼は特別大きな怪我をしていないはずだが、一介の警部にはなかなかに衝撃的な出来事であったろう。
ただバリー警部の気質からして、たぶん彼も見舞いをしようとしたに違いあるまい。
「あの人も一度見舞いに来たけれど、急な呼び出しがあったみたい。慌てて市警本部に帰っていった」
「相変わらず忙しい人だな」
「また訪ねて来るとは言っていたし、明日にでも顔を出すんじゃない?」
案の定気に掛けてくれていたようだ。
シャルマは感嘆だか呆れが混じった声色でそう告げると、大きな欠伸をする。
そしてもう眠気が限界とばかりに、病室の隅に置かれた椅子を占領。そのまま瞼を閉じた。
こんな場所で仮眠を取ろうとするシャルマに苦笑しながら、俺は窓の外へ視線をやる。
まだ気怠い身体をなんとか起こし、強烈に効いているであろう痛み止めのせいで身体をフラつかせながら歩き、窓の縁を掴む。
徐々に白み始めた空を眺め、俺は触れれば痛む肩を押さえながら呟いた。
「……次は、逃さない」
俺がこのような身体になったのと同じく、溺れる者もまた相当な深手を負っている。
むしろ身体の中心に近い部分を負傷している、ヤツの方が状態は深刻である可能性も。
先日はバリー警部が居たため、碌な手は打てなかった。
けれど次こそそうはいかないと、まだいまいちハッキリしない思考を、再戦に備え巡らせるのであった。




