7 凱旋
鐘は、三度目も同じ調子で鳴った。
低く長い音が二つ。
そのあとに、短い音が三つ。
北西へ出た遠征隊を発見した合図だった。
街道を進んでいた人々が足を止め、フロンティアの城壁を見ている。都市へ向かっていた荷車の御者は手綱を引き、反対側から来た旅人まで振り返った。
「帰ってきたんだ」
ユアンが、もう一度言った。
先ほどより声が大きい。
「S級の人が。ドラゴンを倒して」
「倒したかどうかは、まだ分からない」
イリヤが答えた。
「帰ってきたのは遠征隊だというだけ」
「でも、負けて帰ってきたなら、あんな鐘を鳴らしますか?」
「生きて戻ったことを知らせる鐘よ。勝ったかどうかは関係ない」
ユアンは何か言い返そうとして、口を閉じた。
丘の上からでは、帰還した遠征隊の姿までは見えない。
城壁の北西側で、黒地に銀の線を引いた旗が大きく振られているだけだ。
ルークは、ギルドの掲示板に長く残されていた告知を思い出した。
予定の日を過ぎても戻らず、目撃情報を求められていた一行だ。
「急げば、門まで見に行けますよ」
ユアンが荷車の進む先を見た。
「この道をまっすぐ行けば、南門ですよね。そこから北西門まで――」
「先に荷を届ける」
ルークは言った。
ユアンが振り返る。
「でも、S級ですよ」
「俺たちは護衛の途中だ」
荷台には、ハルツ村から預かった板材と樹脂が積まれている。
都市へ着いただけでは仕事は終わらない。指定された倉庫へ荷車を届け、荷と馬に問題がないことを依頼主へ確認してもらう。途中で遭遇した赤牙狼についても、ギルドへ正式な報告が必要だった。
「門へ寄れば、その分だけ荷が遅れる」
「少しくらいなら――」
言いかけたユアンの視線が、御者台のオルドへ向いた。
オルドは何も言っていない。
ただ、手綱を握ったままユアンを見ていた。
ハルツ村から預かった荷を運ぶことが、彼の仕事だった。
「……先に届けます」
ユアンは自分から言い直した。
「そうしろ」
「見られなくなったら、恨みますからね」
ユアンの声に本気の恨みはない。
ルークもそれを分かったうえで、少しだけ考えるふりをした。
「誰をだ」
わずかに笑いを含んだ声に、ユアンも口元を緩めた。
「仕事を受けた四日前の俺です」
ボルクが声を上げて笑った。
オルドが馬を進ませる。
荷車は止まっていた時間を取り戻すように、緩い坂を下り始めた。
◇
南門へ近づくにつれ、街道の人通りが増えた。
都市から出てきた者の方が多い。
仕事着のまま走る職人。
買い物籠を腕へ掛けた女。
木剣を持った子供たち。
全員が北西側へ向かっている。
「号外だ! 北西大遠征隊、帰還!」
刷りたての紙を抱えた少年たちが、人の流れを縫うように走っていた。
「三年前に出た遠征隊が戻ったぞ! S級冒険者も生還!」
一枚刷りの号外を受け取った者が足を止め、読めない者のために見出しを声に出す。その周りへさらに人が集まり、知らせは紙よりも早く街道を走っていった。
ユアンも一枚受け取ろうと手を伸ばしかけたが、荷車から離れないよう自分で腕を戻した。
「そっちじゃないぞ!」
門の前では、衛兵が声を張り上げていた。
「北西門前の広場はすでに封鎖されている! 遠征隊を見るなら中央通りへ回れ! 街道を塞ぐな!」
呼びかけても、人の流れはなかなか止まらない。
フロンティアの城壁には、大きな門が四つある。
南門は開拓村と農地へ続く荷車が多く、東門は森と山地へ向かう冒険者が使う。西門は王都方面の街道へつながり、北西門は補給所と砦を経て未開地へ延びていた。
北西門から帰る遠征隊の多くは、B級以上を中心に組まれている。
それでも、帰還を知らせる鐘が鳴るたびにこれほど人が集まるわけではない。
三年前、ドラゴンを追って未開域へ向かった北西大遠征隊。
その先頭には、現役最高位のS級冒険者がいた。
S級の帰還を知らせる鐘がフロンティアに鳴るのも、あの出発の日以来だった。遠征隊を見送った者も、話でしか知らない子供たちも、一目その姿を見ようと通りへ出ている。
帰還予定を過ぎ、捜索情報が掲示されていたことも知られている。
だから、都市中の人間が結果を知りたがっていた。
荷車が門へ入ると、衛兵がオルドの通行証を確かめた。
「ハルツ村からの帰りか」
「板材と樹脂を積んでる」
「中央通りは避けろ。倉庫街へ行くなら、南壁沿いを使った方が早い」
「そんなに混んでるのか?」
「もう人で埋まってる。遠征隊は北西門で負傷者を下ろしているところだ。中央へ入るのは、まだ先になる」
ユアンが身を乗り出した。
「ドラゴンは?」
「俺が知るか。見張り台からは、人と馬しか見えなかったそうだ」
「ドラゴンの死骸を運んでないってことですか?」
「生きたまま連れてきてないだけ、ましだろう」
衛兵は冗談を言ったつもりらしい。
だがユアンは笑わなかった。
ルークも、衛兵の言葉を考えていた。
ドラゴンを倒していないのか。
倒したが、運べなかったのか。
それとも、戦う前に引き返したのか。
分からない。
告知に書かれていた遠征隊の人数を思い出す。
戦闘を担当する冒険者だけではない。地図を描く調査員、荷を運ぶ者、魔物の素材を扱う職人も含まれていた。
全員が戻ったのかも、まだ分からなかった。
◇
倉庫街へ着くまで、普段の倍近い時間がかかった。
南壁沿いの道にも、人の流れが入り込んでいた。
酒場は昼間から扉を開き、店先へ樽を並べている。露店の商人は、どこから聞いたのかも分からない話を大声で広めていた。
「竜の首を荷車十台で運んでいるらしい!」
「違う、首だけで門を通れない大きさだ!」
「S級が一人で背負ってくるって話だぞ!」
一つとして、衛兵の話と合っていない。
ユアンはそのたびに顔を向けたが、今度は荷車から離れなかった。
指定された倉庫では、責任者が板材を一本ずつ確認した。
樹脂の壺を数え、封が破れていないかを見る。
馬の脚と車輪も調べる。
急いでいるときほど、確認を省けば後で揉める。
ルークは何も言わず、終わるのを待った。
「全部揃ってる。板も濡れてない」
責任者が受取書へ印を押した。
「街道で狼が出たそうだな」
「赤牙狼が三頭。二頭を倒して、一頭は南東の森へ逃げた」
「荷に被害は?」
「ない」
「なら、こっちは完了だ。ご苦労さん」
その一言で、四日間の依頼が終わった。
オルドが御者台から降り、固くなった腰を伸ばした。
「あとは好きに走ってこい」
ユアンはすでに北西の方角を見ている。
「オルドさんは行かないんですか?」
「荷車を返してからだ。竜がいなくなるわけじゃないだろ」
「死骸を持ってきてないみたいです」
「なら、なおさら急いでも見られん」
もっともな話だった。
それでもユアンは待てなかったらしい。
「ルークさん、ギルドですよね?」
「先に報告する」
「走りますか」
「人にぶつかる」
「じゃあ、早歩きで」
返事を待たず、ユアンが歩き出す。
イリヤとボルクも、その後へ続いた。
ルークは受取書を腰の袋へ入れた。
急ぐつもりはなかった。
それでも、いつもより歩幅が少し広くなっていた。
◇
冒険者ギルドの前には、人の壁ができていた。
正面の広場から中央通りまで、冒険者と住民が何重にも並んでいる。ギルド職員と衛兵が縄を張り、建物の入口だけは空けていた。
ルークたちは依頼を終えた冒険者として、横手の通用口から中へ入った。
広間も混雑している。
報告を待つ者。
新しい依頼が出ると考えて集まった者。
遠征隊へ家族や知人が加わっていた者。
誰もが受付の奥を気にしていた。
普段なら複数開いている窓口は、一つを残して閉じられている。職員の多くは報告書と治療の手配に回っているらしい。
セラは、残った窓口で冒険者の列を処理していた。
ルークたちを見ると、一度だけ手を止めた。
四人の顔と装備を順に見て、依頼票へ目を落とす。
「予定どおりですね」
「戻った」
ルークは受取書と、砦で作った赤牙狼の報告書を差し出した。
「負傷者は?」
「いない」
「御者を守って、赤牙狼を一頭倒しました。イリヤさんの矢が先に刺さっていましたけど」
ユアンは少し胸を張り、最後だけ声を小さくした。
「報告書にも書いてあります」
ルークが言う。
セラは紙へ目を落とした。
ユアンが最初の突きを外したことも、逃げる一頭を追おうとして持ち場へ戻ったことも書かれている。
セラは少しだけ口元を緩めた。
「初めての護衛としては、悪くありませんね」
「はい」
「鎧の傷は、次の依頼までに直してください」
「今日中に持っていきます」
セラは受取書へ確認印を押し、四人分の依頼達成を記録した。
「報酬は通常どおり分配します。今日は受取窓口が混んでいるので、少し待ってください」
「遠征隊は?」
ユアンがすぐに尋ねた。
セラの表情から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「戻っています」
「ドラゴンは倒したんですか?」
「その件は、ギルドから発表があります。今は答えられません」
「見たんでしょう?」
「ユアン」
ルークが名前を呼ぶ。
ユアンは口を閉じた。
セラは責めなかった。
「遠征隊の関係者へ連絡をしています。まだ結果を聞いていない家族もいます。正式な発表まで、職員から話すことはできません」
「……すみません」
「知りたいのは、みんな同じです」
受付の奥から、担架が運ばれてきた。
上に横たわっている男の左脚は、厚い板と布で固定されている。顔は土と汗で汚れ、目を閉じていた。
その横を、治療師が早足でついていく。
広間の声が一瞬だけ小さくなった。
「遠征隊の人ですか」
ユアンが声を落とした。
セラは答えなかった。
担架は、遠征隊の報告が行われている奥の部屋から運ばれてきた。
それだけで、答えは分かった。
◇
遠征隊が中央通りへ入ったのは、それから半刻ほど後だった。
北西門で負傷者を下ろし、領主の役人とギルドへ最初の報告を終えたらしい。
広場の外から、歓声が近づいてきた。
ルークたちはギルド前の階段脇に立っていた。
報酬は受け取った。
依頼も終わっている。
それでも、誰も帰ろうとは言わなかった。
衛兵が人垣を下がらせ、中央に細い道を作る。
最初に入ってきたのは、二人の騎兵だった。
領主の紋章をつけた先導役で、遠征隊の者ではない。
その後ろから、黒と銀の旗が現れた。
旗は風を受けている。
だが、掲げている男の腕が下がっているため、布の端がときどき地面へ触れた。
歓声がさらに大きくなる。
「竜殺しだ!」
「S級が帰ったぞ!」
「ドラゴンはどうした!」
人々が口々に叫ぶ。
遠征隊の先頭を歩く男は、手を上げなかった。
四十を過ぎているように見える。
日に焼けた顔。短く切った黒髪には、こめかみの辺りだけ白いものが混じっている。背はボルクほど高くない。身体も、服の上から分かるほど太くはなかった。
腰に、鞘へ収めた長剣を一本下げている。
柄には布が巻き直され、鍔の一部が欠けていた。
あれがS級冒険者。
ルークが、遠くから何度か見たことのある男だった。
出発前の姿とは違う。
右の額に新しい傷があり、外套の左半分は焼け落ちている。胸当てには爪で抉られたような溝が三本走り、乾いた黒い血が残っていた。
それでも、足取りは乱れていない。
一歩ごとの幅も、地面へ足を置く位置も揃っている。
男は歓声へ顔を向けず、道の両側と建物の上を見ていた。
開け放たれた窓。
屋根の縁へ乗り出す人々。
前を塞ぎかける子供。
進む先に何があるかを確認している。
ドラゴンの前から帰ったあとでも、警戒を解いていない。
その後ろを、遠征隊の冒険者たちが歩いていた。
槍を杖代わりにする者。
右腕を胸へ固定した者。
片目へ布を巻いた者。
荷馬に乗せられ、仲間に身体を支えられている者もいる。
列の中ほどに、乗り手のいない馬が二頭いた。
鞍の上へ、折り畳まれた外套が一枚ずつ置かれている。
歓声が、そこだけを避けるように小さくなった。
ルークは出発時の名簿を思い出した。
戻っていない名前がある。
告知を見たときに、一度読んだだけだった。
それでも、文字の並びは覚えている。
横で、ボルクが胸の前へ拳を当てた。
イリヤも黙って頭を下げる。
ユアンは、S級の男を見たまま動かなかった。
その目には憧れがある。
だが、それだけではなくなっていた。
遠征隊の最後には、四頭の荷馬が続いていた。
背へ載せられた荷は、厚い革と布で何重にも包まれている。
一つだけ、包みから白いものが突き出していた。
太く、緩やかに曲がっている。
表面には細い溝が何本も走り、根元には黒い肉の欠片が乾いて付着していた。
「あれ……」
ユアンの口から声が漏れた。
「牙か?」
ボルクが目を細める。
「角だ」
ルークは言った。
牙なら、根元へ近づくほど太くなる形が違う。
包みから出ている部分だけでも、人の腕より太い。
竜の頭部から切り取った角。
それが本物なら、答えは一つしかない。
ドラゴンは倒された。
人垣の誰かも同じ結論へ至ったらしい。
「角だ! 竜の角を持ってる!」
叫びが広場へ伝わった。
止まりかけていた歓声が、再び膨れ上がる。
遠征隊の者たちは応えなかった。
先頭のS級だけが、折り畳まれた外套を載せた二頭の馬へ一度振り返った。
それから、ギルドの扉をくぐった。
◇
その日のうちに、フロンティアの空気が変わった。
遠征隊の帰還を祝う酒が振る舞われる一方で、倉庫街には領主の役人が走った。
塩を扱う商人のもとへ注文が入り、荷車を持つ運送業者には、使える台数と馬の数を報告するよう命令が出た。鍛冶屋では大型の鋸と鉄杭の在庫が調べられ、木工所には滑車と太い巻き軸の見本を出すよう使いが来た。
まだ、ギルドから詳しい発表はない。
それでも、何かを運びに行く準備が始まっている。
噂は、さらに増えた。
ドラゴンの巣には宝石が積まれていた。
失われた王国の武器が見つかった。
山一つが金でできていた。
今度は竜の首だけではなく、山まで荷車で運ぶらしい。
どの話も、時間が経つほど大きくなった。
夕方、ギルド前の掲示板から古い依頼書が外された。
代わりに、黒い縁取りのある大きな紙が三枚並べて貼られた。
人が押し寄せないよう、衛兵が掲示板の前へ縄を張る。
その前に台が置かれ、ギルド長と領主の文官が上がった。
S級の隊長もいる。
額の傷だけは洗われていたが、鎧も外套も帰還したときのままだった。
着替える前に、都市へ報告することを選んだらしい。
広場を埋めた声が静まるまで、少し時間がかかった。
ギルド長が一歩前へ出る。
「本日、北西遠征隊が帰還した」
知っている事実でも、人々は息を詰めた。
「三年前にフロンティアを発った北西大遠征隊は、未開域の調査とドラゴンの追跡を続けてきた。そして遠征の終盤、その巣を突き止め、七日間にわたる追跡と戦闘の末に討伐した」
広場が揺れた。
歓声と拍手が石造りの建物へ反響する。
ユアンは、隣にいたルークの腕を掴みかけた。
途中で気づき、自分の拳を握る。
「本当に倒したんだ」
誰へ向けるでもなく呟いた。
ギルド長が手を上げる。
声が収まるのを待ってから続けた。
「ただし、二名が帰らなかった」
再び広場が静かになった。
読み上げられた二人の名前に、遠くで泣き声が重なった。
ルークが告知で見た名前と同じだった。
「負傷者は七名。うち一名は、しばらく歩くことができない。遠征の詳細と功績については、記録を整理した後、改めて公表する」
ギルド長は横へ下がった。
代わって、領主の文官が前へ出る。
細身の男で、広げた紙には領主の印が押されている。
「遠征隊は、ドラゴンの巣において別の発見をしている」
文官が合図すると、台の横にいた職員が小さな木箱を運んだ。
蓋が開かれる。
中には、握り拳ほどの石が三つ並んでいた。
灰色の石。
一見すれば、街道脇にも落ちていそうな色をしている。
だが割れた面には、白く光る筋が何本も通っていた。
「鉱山局と職人組合による確認の結果、この石には多量の銀が含まれている」
商人たちのいる辺りから、低い声が上がった。
ドラゴン討伐の歓声とは違う。
驚きと計算が混じった声だった。
「鉱脈は、竜の巣の奥で露出している。現地で確認できた範囲だけでも相当の規模があり、周辺の調査次第では、新たな銀鉱山となる可能性が高い」
ルークは木箱の石を見た。
銀そのものを見つけたことが大きいのではない。
片道一か月かかる場所へ、人と荷を通せる道を見つけた。
その先にある鉱石を採り、都市まで運べる可能性を持ち帰った。
鉱山が開かれれば、道沿いに補給所が増える。
補給所の周りには村ができる。
道を守る兵と冒険者が必要になる。
フロンティアの境界が、北西へ伸びる。
まだ灰色の石が三つ置かれただけなのに、その先で動き始めるものは多い。
「それで、荷車を集めているのか」
ボルクが言った。
「鉱石を取りに行くんですか?」
ユアンの問いに、ルークは首を振った。
「先に竜だ」
ドラゴンの角は持ち帰られた。
だが、首も胴も、翼も骨も現地に残っている。
時間が経てば肉は腐る。ほかの魔物に食われ、鱗や骨を持ち去られるかもしれない。銀鉱脈の位置が知られれば、人間が先に入り込む可能性もある。
文官の次に、S級の隊長が前へ出た。
歓声は起こらなかった。
誰もが、その言葉を待っていた。
男は広場を見回した。
出発を望む冒険者。
利益を考える商人。
遠征隊の生還を喜ぶ者。
帰らなかった二人の家族。
すべてを一度に見たように、ルークには思えた。
「竜は死んだ」
男の声は大きくない。
それでも、広場の端まで届いた。
「首は落とした。だが、持ち帰れなかった」
短い言葉だった。
「ここへ運べたのは、討伐の証明に必要な角と鱗、それに鉱石の標本だけだ。首も胴も、牙も骨も、巣に散った古い鱗も現地に残している」
「巣へ続く最後の谷は狭い。今の道では、大型の荷車が通れない。死骸を解体する人員も、運ぶ道具も足りなかった。俺たちだけで手をつければ、使える素材まで駄目にする」
S級がドラゴンを倒した。
それでも、できないことが残っている。
「現地へ戻る」
男は続けた。
「道を作り、竜を運び、鉱脈を確かめる。そこまで終えて、今回の遠征は成功になる」
ユアンが、食い入るように男を見ていた。
名前を聞いただけで、みんなが安心するような冒険者になりたい。
以前、ユアンはそう言った。
目の前にいるS級は、確かにそれほど強い。
しかし二人を失い、七人が傷つき、ドラゴンを倒しても遠征は終わらなかった。
英雄になれば、すべてを一人で解決できるわけではない。
「出発は十四日後を予定している」
ギルド長が再び前へ出た。
「回収隊の戦闘要員は、B級以上を基本とする。C級については、上位依頼の実績、長期護衛、未開地での野営経験のいずれかを持ち、ギルドの推薦を受けた者に限る」
広場の冒険者たちがざわめいた。
「片道、およそ一か月。現地での作業は二十日以上を見込む。帰還まで、短くとも八十日。道の整備状況と天候によっては百日を超える」
数字を聞き、声が少し減った。
報酬が高いことは、まだ聞かなくても分かる。
それでも三か月近く都市を離れ、道のない土地へ入り、ドラゴンを殺した場所まで進む。
途中で怪我をしても、治療院はない。
食料が足りなくなっても、店はない。
荷車が壊れれば、自分たちで直す。
未知の魔物が現れれば、その場で戦うか逃げるかを決める。
B級以上が未開地へ入る理由が、そこにある。
強い魔物を倒せるだけでは足りない。
何が起きるか分からない場所で、自分と仲間を生かし続ける力が必要になる。
「希望者は明朝から受付を開始する。ただし、先着順ではない。志願者は装備、経験、現在受けている依頼を確認したうえで選考する」
ユアンが、自分の腰にあるプレートを見た。
D級の色。
募集条件には届かない。
昼間まで浮かんでいた期待が、わずかに沈んだ。
「俺は行けない」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
「今回はな」
ルークは答えた。
ユアンが顔を上げる。
「ルークさんは?」
「C級だ」
「でも、推薦があれば行けるんですよね」
「選ばれれば」
「志願するんですか?」
ルークは、すぐには答えなかった。
片道一か月。
今まで入ったことのない未開地。
ドラゴンの死骸。
S級が剣を振った跡。
見たことのない山と獣の痕跡。
行きたくない理由を探す方が難しかった。
「条件を確かめる」
答えると、ユアンは少し羨ましそうに笑った。
「ルークさんなら、選ばれそうです」
「戦えるC級は、ほかにもいる」
「でも、知らない道で痕跡を見つけて、俺たちへ何をするか指示できる人は、そんなにいません」
同じことを、灰爪熊と戦う前のユアンなら言えなかっただろう。
強い魔物を倒すことだけが、冒険者の力だと思っていた。
少なくとも、少しは見方が変わっている。
◇
発表が終わっても、人々はすぐに広場から動かなかった。
掲示された募集要項を読もうと、冒険者たちが前へ集まる。商人は領主の文官を追い、素材の取り扱いについて質問を浴びせていた。
S級の隊長は、ギルド職員に囲まれて建物へ戻る。
ユアンはその背中を追っていた。
「話してみたかったな」
「今日は無理だろう」
ボルクが言う。
「これから負傷者の確認と、亡くなった二人の家族への説明がある。酒場で握手して回るような日じゃない」
「分かっています」
ユアンは答えた。
今度は、本当に分かっているように聞こえた。
「俺は鎧を直しに行きます」
「明日の朝、報酬を使い切るなよ」
「使いません。槍の握りも直したいけど……半分は残します」
「全部残せとは言わん。必要なものへ使うのも冒険者の仕事だ」
ボルクと話しながら、ユアンは広場を離れていった。
イリヤも矢を補充するため、職人街へ向かう。
ルークは一人で掲示板の前へ残った。
人垣の隙間から、募集要項を読む。
戦闘要員。
斥候。
地形調査。
荷車の護衛。
野営地の設営。
魔物素材の回収補助。
必要とされる役割が細かく分けられている。
C級の応募条件には、過去二年間の依頼達成率も書かれていた。
ルークは、自分の記録を思い返した。
達成率は足りている。
長期護衛の経験もある。
森での野営なら、子供の頃から慣れている。
未開地へ入った経験だけがない。
その経験を得るためには、最初の一度へ選ばれなければならない。
応募する。
そう決めかけたところで、背後から足音が近づいた。
広場には大勢いる。
足音も一つではない。
それでも、その歩き方だけが耳に残った。
左右の間隔が一定している。
右足より、左足の方がわずかに浅い。
怪我をかばっている歩き方ではない。
腰の左側へ重いものを下げ、その揺れを抑えるために歩幅を調整している。
剣。
以前は右へ下げていた。
ルークは振り返った。
そこに立っていたのは、遠征帰りの若い剣士だった。
ルークより明らかに背が高い。乾いた泥の残る革鎧を着た姿はすらりとして見えるが、肩から背には、長剣を振り続けてきた者の筋肉がついている。
淡い栗色の髪は短く切られ、右と左でわずかに長さが違っていた。優しげに下がった目尻も、穏やかな顔立ちも昔のままだが、右頬には見覚えのない細い傷が一本増えている。
腰の左側には長剣。その柄頭には、故郷でよく使われる藍色の組紐が結ばれていた。
ルークと同じ村で育ち、同じ年に木剣を握った幼なじみだった。
「久しぶりに会って、最初に見るのが足か」
幼なじみは、呆れたように笑った。
その胸元には、A級のプレートが下がっていた。




