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7 凱旋



 鐘は、三度目も同じ調子で鳴った。


 低く長い音が二つ。


 そのあとに、短い音が三つ。


 北西へ出た遠征隊を発見した合図だった。


 街道を進んでいた人々が足を止め、フロンティアの城壁を見ている。都市へ向かっていた荷車の御者は手綱を引き、反対側から来た旅人まで振り返った。


「帰ってきたんだ」


 ユアンが、もう一度言った。


 先ほどより声が大きい。


「S級の人が。ドラゴンを倒して」


「倒したかどうかは、まだ分からない」


 イリヤが答えた。


「帰ってきたのは遠征隊だというだけ」


「でも、負けて帰ってきたなら、あんな鐘を鳴らしますか?」


「生きて戻ったことを知らせる鐘よ。勝ったかどうかは関係ない」


 ユアンは何か言い返そうとして、口を閉じた。


 丘の上からでは、帰還した遠征隊の姿までは見えない。


 城壁の北西側で、黒地に銀の線を引いた旗が大きく振られているだけだ。


 ルークは、ギルドの掲示板に長く残されていた告知を思い出した。


 予定の日を過ぎても戻らず、目撃情報を求められていた一行だ。


「急げば、門まで見に行けますよ」


 ユアンが荷車の進む先を見た。


「この道をまっすぐ行けば、南門ですよね。そこから北西門まで――」


「先に荷を届ける」


 ルークは言った。


 ユアンが振り返る。


「でも、S級ですよ」


「俺たちは護衛の途中だ」


 荷台には、ハルツ村から預かった板材と樹脂が積まれている。


 都市へ着いただけでは仕事は終わらない。指定された倉庫へ荷車を届け、荷と馬に問題がないことを依頼主へ確認してもらう。途中で遭遇した赤牙狼についても、ギルドへ正式な報告が必要だった。


「門へ寄れば、その分だけ荷が遅れる」


「少しくらいなら――」


 言いかけたユアンの視線が、御者台のオルドへ向いた。


 オルドは何も言っていない。


 ただ、手綱を握ったままユアンを見ていた。


 ハルツ村から預かった荷を運ぶことが、彼の仕事だった。


「……先に届けます」


 ユアンは自分から言い直した。


「そうしろ」


「見られなくなったら、恨みますからね」


 ユアンの声に本気の恨みはない。


 ルークもそれを分かったうえで、少しだけ考えるふりをした。


「誰をだ」


 わずかに笑いを含んだ声に、ユアンも口元を緩めた。


「仕事を受けた四日前の俺です」


 ボルクが声を上げて笑った。


 オルドが馬を進ませる。


 荷車は止まっていた時間を取り戻すように、緩い坂を下り始めた。


     ◇


 南門へ近づくにつれ、街道の人通りが増えた。


 都市から出てきた者の方が多い。


 仕事着のまま走る職人。


 買い物籠を腕へ掛けた女。


 木剣を持った子供たち。


 全員が北西側へ向かっている。


「号外だ! 北西大遠征隊、帰還!」


 刷りたての紙を抱えた少年たちが、人の流れを縫うように走っていた。


「三年前に出た遠征隊が戻ったぞ! S級冒険者も生還!」


 一枚刷りの号外を受け取った者が足を止め、読めない者のために見出しを声に出す。その周りへさらに人が集まり、知らせは紙よりも早く街道を走っていった。


 ユアンも一枚受け取ろうと手を伸ばしかけたが、荷車から離れないよう自分で腕を戻した。


「そっちじゃないぞ!」


 門の前では、衛兵が声を張り上げていた。


「北西門前の広場はすでに封鎖されている! 遠征隊を見るなら中央通りへ回れ! 街道を塞ぐな!」


 呼びかけても、人の流れはなかなか止まらない。


 フロンティアの城壁には、大きな門が四つある。


 南門は開拓村と農地へ続く荷車が多く、東門は森と山地へ向かう冒険者が使う。西門は王都方面の街道へつながり、北西門は補給所と砦を経て未開地へ延びていた。


 北西門から帰る遠征隊の多くは、B級以上を中心に組まれている。


 それでも、帰還を知らせる鐘が鳴るたびにこれほど人が集まるわけではない。


 三年前、ドラゴンを追って未開域へ向かった北西大遠征隊。


 その先頭には、現役最高位のS級冒険者がいた。


 S級の帰還を知らせる鐘がフロンティアに鳴るのも、あの出発の日以来だった。遠征隊を見送った者も、話でしか知らない子供たちも、一目その姿を見ようと通りへ出ている。


 帰還予定を過ぎ、捜索情報が掲示されていたことも知られている。


 だから、都市中の人間が結果を知りたがっていた。


 荷車が門へ入ると、衛兵がオルドの通行証を確かめた。


「ハルツ村からの帰りか」


「板材と樹脂を積んでる」


「中央通りは避けろ。倉庫街へ行くなら、南壁沿いを使った方が早い」


「そんなに混んでるのか?」


「もう人で埋まってる。遠征隊は北西門で負傷者を下ろしているところだ。中央へ入るのは、まだ先になる」


 ユアンが身を乗り出した。


「ドラゴンは?」


「俺が知るか。見張り台からは、人と馬しか見えなかったそうだ」


「ドラゴンの死骸を運んでないってことですか?」


「生きたまま連れてきてないだけ、ましだろう」


 衛兵は冗談を言ったつもりらしい。


 だがユアンは笑わなかった。


 ルークも、衛兵の言葉を考えていた。


 ドラゴンを倒していないのか。


 倒したが、運べなかったのか。


 それとも、戦う前に引き返したのか。


 分からない。


 告知に書かれていた遠征隊の人数を思い出す。


 戦闘を担当する冒険者だけではない。地図を描く調査員、荷を運ぶ者、魔物の素材を扱う職人も含まれていた。


 全員が戻ったのかも、まだ分からなかった。


     ◇


 倉庫街へ着くまで、普段の倍近い時間がかかった。


 南壁沿いの道にも、人の流れが入り込んでいた。


 酒場は昼間から扉を開き、店先へ樽を並べている。露店の商人は、どこから聞いたのかも分からない話を大声で広めていた。


「竜の首を荷車十台で運んでいるらしい!」


「違う、首だけで門を通れない大きさだ!」


「S級が一人で背負ってくるって話だぞ!」


 一つとして、衛兵の話と合っていない。


 ユアンはそのたびに顔を向けたが、今度は荷車から離れなかった。


 指定された倉庫では、責任者が板材を一本ずつ確認した。


 樹脂の壺を数え、封が破れていないかを見る。


 馬の脚と車輪も調べる。


 急いでいるときほど、確認を省けば後で揉める。


 ルークは何も言わず、終わるのを待った。


「全部揃ってる。板も濡れてない」


 責任者が受取書へ印を押した。


「街道で狼が出たそうだな」


「赤牙狼が三頭。二頭を倒して、一頭は南東の森へ逃げた」


「荷に被害は?」


「ない」


「なら、こっちは完了だ。ご苦労さん」


 その一言で、四日間の依頼が終わった。


 オルドが御者台から降り、固くなった腰を伸ばした。


「あとは好きに走ってこい」


 ユアンはすでに北西の方角を見ている。


「オルドさんは行かないんですか?」


「荷車を返してからだ。竜がいなくなるわけじゃないだろ」


「死骸を持ってきてないみたいです」


「なら、なおさら急いでも見られん」


 もっともな話だった。


 それでもユアンは待てなかったらしい。


「ルークさん、ギルドですよね?」


「先に報告する」


「走りますか」


「人にぶつかる」


「じゃあ、早歩きで」


 返事を待たず、ユアンが歩き出す。


 イリヤとボルクも、その後へ続いた。


 ルークは受取書を腰の袋へ入れた。


 急ぐつもりはなかった。


 それでも、いつもより歩幅が少し広くなっていた。


     ◇


 冒険者ギルドの前には、人の壁ができていた。


 正面の広場から中央通りまで、冒険者と住民が何重にも並んでいる。ギルド職員と衛兵が縄を張り、建物の入口だけは空けていた。


 ルークたちは依頼を終えた冒険者として、横手の通用口から中へ入った。


 広間も混雑している。


 報告を待つ者。


 新しい依頼が出ると考えて集まった者。


 遠征隊へ家族や知人が加わっていた者。


 誰もが受付の奥を気にしていた。


 普段なら複数開いている窓口は、一つを残して閉じられている。職員の多くは報告書と治療の手配に回っているらしい。


 セラは、残った窓口で冒険者の列を処理していた。


 ルークたちを見ると、一度だけ手を止めた。


 四人の顔と装備を順に見て、依頼票へ目を落とす。


「予定どおりですね」


「戻った」


 ルークは受取書と、砦で作った赤牙狼の報告書を差し出した。


「負傷者は?」


「いない」


「御者を守って、赤牙狼を一頭倒しました。イリヤさんの矢が先に刺さっていましたけど」


 ユアンは少し胸を張り、最後だけ声を小さくした。


「報告書にも書いてあります」


 ルークが言う。


 セラは紙へ目を落とした。


 ユアンが最初の突きを外したことも、逃げる一頭を追おうとして持ち場へ戻ったことも書かれている。


 セラは少しだけ口元を緩めた。


「初めての護衛としては、悪くありませんね」


「はい」


「鎧の傷は、次の依頼までに直してください」


「今日中に持っていきます」


 セラは受取書へ確認印を押し、四人分の依頼達成を記録した。


「報酬は通常どおり分配します。今日は受取窓口が混んでいるので、少し待ってください」


「遠征隊は?」


 ユアンがすぐに尋ねた。


 セラの表情から、先ほどまでの柔らかさが消えた。


「戻っています」


「ドラゴンは倒したんですか?」


「その件は、ギルドから発表があります。今は答えられません」


「見たんでしょう?」


「ユアン」


 ルークが名前を呼ぶ。


 ユアンは口を閉じた。


 セラは責めなかった。


「遠征隊の関係者へ連絡をしています。まだ結果を聞いていない家族もいます。正式な発表まで、職員から話すことはできません」


「……すみません」


「知りたいのは、みんな同じです」


 受付の奥から、担架が運ばれてきた。


 上に横たわっている男の左脚は、厚い板と布で固定されている。顔は土と汗で汚れ、目を閉じていた。


 その横を、治療師が早足でついていく。


 広間の声が一瞬だけ小さくなった。


 「遠征隊の人ですか」


 ユアンが声を落とした。


 セラは答えなかった。


 担架は、遠征隊の報告が行われている奥の部屋から運ばれてきた。


 それだけで、答えは分かった。


     ◇


 遠征隊が中央通りへ入ったのは、それから半刻ほど後だった。


 北西門で負傷者を下ろし、領主の役人とギルドへ最初の報告を終えたらしい。


 広場の外から、歓声が近づいてきた。


 ルークたちはギルド前の階段脇に立っていた。


 報酬は受け取った。


 依頼も終わっている。


 それでも、誰も帰ろうとは言わなかった。


 衛兵が人垣を下がらせ、中央に細い道を作る。


 最初に入ってきたのは、二人の騎兵だった。


 領主の紋章をつけた先導役で、遠征隊の者ではない。


 その後ろから、黒と銀の旗が現れた。


 旗は風を受けている。


 だが、掲げている男の腕が下がっているため、布の端がときどき地面へ触れた。


 歓声がさらに大きくなる。


「竜殺しだ!」


「S級が帰ったぞ!」


「ドラゴンはどうした!」


 人々が口々に叫ぶ。


 遠征隊の先頭を歩く男は、手を上げなかった。


 四十を過ぎているように見える。


 日に焼けた顔。短く切った黒髪には、こめかみの辺りだけ白いものが混じっている。背はボルクほど高くない。身体も、服の上から分かるほど太くはなかった。


 腰に、鞘へ収めた長剣を一本下げている。


 柄には布が巻き直され、鍔の一部が欠けていた。


 あれがS級冒険者。


 ルークが、遠くから何度か見たことのある男だった。


 出発前の姿とは違う。


 右の額に新しい傷があり、外套の左半分は焼け落ちている。胸当てには爪で抉られたような溝が三本走り、乾いた黒い血が残っていた。


 それでも、足取りは乱れていない。


 一歩ごとの幅も、地面へ足を置く位置も揃っている。


 男は歓声へ顔を向けず、道の両側と建物の上を見ていた。


 開け放たれた窓。


 屋根の縁へ乗り出す人々。


 前を塞ぎかける子供。


 進む先に何があるかを確認している。


 ドラゴンの前から帰ったあとでも、警戒を解いていない。


 その後ろを、遠征隊の冒険者たちが歩いていた。


 槍を杖代わりにする者。


 右腕を胸へ固定した者。


 片目へ布を巻いた者。


 荷馬に乗せられ、仲間に身体を支えられている者もいる。


 列の中ほどに、乗り手のいない馬が二頭いた。


 鞍の上へ、折り畳まれた外套が一枚ずつ置かれている。


 歓声が、そこだけを避けるように小さくなった。


 ルークは出発時の名簿を思い出した。


 戻っていない名前がある。


 告知を見たときに、一度読んだだけだった。


 それでも、文字の並びは覚えている。


 横で、ボルクが胸の前へ拳を当てた。


 イリヤも黙って頭を下げる。


 ユアンは、S級の男を見たまま動かなかった。


 その目には憧れがある。


 だが、それだけではなくなっていた。


 遠征隊の最後には、四頭の荷馬が続いていた。


 背へ載せられた荷は、厚い革と布で何重にも包まれている。


 一つだけ、包みから白いものが突き出していた。


 太く、緩やかに曲がっている。


 表面には細い溝が何本も走り、根元には黒い肉の欠片が乾いて付着していた。


「あれ……」


 ユアンの口から声が漏れた。


「牙か?」


 ボルクが目を細める。


「角だ」


 ルークは言った。


 牙なら、根元へ近づくほど太くなる形が違う。


 包みから出ている部分だけでも、人の腕より太い。


 竜の頭部から切り取った角。


 それが本物なら、答えは一つしかない。


 ドラゴンは倒された。


 人垣の誰かも同じ結論へ至ったらしい。


「角だ! 竜の角を持ってる!」


 叫びが広場へ伝わった。


 止まりかけていた歓声が、再び膨れ上がる。


 遠征隊の者たちは応えなかった。


 先頭のS級だけが、折り畳まれた外套を載せた二頭の馬へ一度振り返った。


 それから、ギルドの扉をくぐった。


     ◇


 その日のうちに、フロンティアの空気が変わった。


 遠征隊の帰還を祝う酒が振る舞われる一方で、倉庫街には領主の役人が走った。


 塩を扱う商人のもとへ注文が入り、荷車を持つ運送業者には、使える台数と馬の数を報告するよう命令が出た。鍛冶屋では大型の鋸と鉄杭の在庫が調べられ、木工所には滑車と太い巻き軸の見本を出すよう使いが来た。


 まだ、ギルドから詳しい発表はない。


 それでも、何かを運びに行く準備が始まっている。


 噂は、さらに増えた。


 ドラゴンの巣には宝石が積まれていた。


 失われた王国の武器が見つかった。


 山一つが金でできていた。


 今度は竜の首だけではなく、山まで荷車で運ぶらしい。


 どの話も、時間が経つほど大きくなった。


 夕方、ギルド前の掲示板から古い依頼書が外された。


 代わりに、黒い縁取りのある大きな紙が三枚並べて貼られた。


 人が押し寄せないよう、衛兵が掲示板の前へ縄を張る。


 その前に台が置かれ、ギルド長と領主の文官が上がった。


 S級の隊長もいる。


 額の傷だけは洗われていたが、鎧も外套も帰還したときのままだった。


 着替える前に、都市へ報告することを選んだらしい。


 広場を埋めた声が静まるまで、少し時間がかかった。


 ギルド長が一歩前へ出る。


「本日、北西遠征隊が帰還した」


 知っている事実でも、人々は息を詰めた。


 「三年前にフロンティアを発った北西大遠征隊は、未開域の調査とドラゴンの追跡を続けてきた。そして遠征の終盤、その巣を突き止め、七日間にわたる追跡と戦闘の末に討伐した」


 広場が揺れた。


 歓声と拍手が石造りの建物へ反響する。


 ユアンは、隣にいたルークの腕を掴みかけた。


 途中で気づき、自分の拳を握る。


「本当に倒したんだ」


 誰へ向けるでもなく呟いた。


 ギルド長が手を上げる。


 声が収まるのを待ってから続けた。


「ただし、二名が帰らなかった」


 再び広場が静かになった。


 読み上げられた二人の名前に、遠くで泣き声が重なった。


 ルークが告知で見た名前と同じだった。


「負傷者は七名。うち一名は、しばらく歩くことができない。遠征の詳細と功績については、記録を整理した後、改めて公表する」


 ギルド長は横へ下がった。


 代わって、領主の文官が前へ出る。


 細身の男で、広げた紙には領主の印が押されている。


「遠征隊は、ドラゴンの巣において別の発見をしている」


 文官が合図すると、台の横にいた職員が小さな木箱を運んだ。


 蓋が開かれる。


 中には、握り拳ほどの石が三つ並んでいた。


 灰色の石。


 一見すれば、街道脇にも落ちていそうな色をしている。


 だが割れた面には、白く光る筋が何本も通っていた。


「鉱山局と職人組合による確認の結果、この石には多量の銀が含まれている」


 商人たちのいる辺りから、低い声が上がった。


 ドラゴン討伐の歓声とは違う。


 驚きと計算が混じった声だった。


「鉱脈は、竜の巣の奥で露出している。現地で確認できた範囲だけでも相当の規模があり、周辺の調査次第では、新たな銀鉱山となる可能性が高い」


 ルークは木箱の石を見た。


 銀そのものを見つけたことが大きいのではない。


 片道一か月かかる場所へ、人と荷を通せる道を見つけた。


 その先にある鉱石を採り、都市まで運べる可能性を持ち帰った。


 鉱山が開かれれば、道沿いに補給所が増える。


 補給所の周りには村ができる。


 道を守る兵と冒険者が必要になる。


 フロンティアの境界が、北西へ伸びる。


 まだ灰色の石が三つ置かれただけなのに、その先で動き始めるものは多い。


「それで、荷車を集めているのか」


 ボルクが言った。


「鉱石を取りに行くんですか?」


 ユアンの問いに、ルークは首を振った。


「先に竜だ」


 ドラゴンの角は持ち帰られた。


 だが、首も胴も、翼も骨も現地に残っている。


 時間が経てば肉は腐る。ほかの魔物に食われ、鱗や骨を持ち去られるかもしれない。銀鉱脈の位置が知られれば、人間が先に入り込む可能性もある。


 文官の次に、S級の隊長が前へ出た。


 歓声は起こらなかった。


 誰もが、その言葉を待っていた。


 男は広場を見回した。


 出発を望む冒険者。


 利益を考える商人。


 遠征隊の生還を喜ぶ者。


 帰らなかった二人の家族。


 すべてを一度に見たように、ルークには思えた。


「竜は死んだ」


 男の声は大きくない。


 それでも、広場の端まで届いた。


 「首は落とした。だが、持ち帰れなかった」


 短い言葉だった。


 「ここへ運べたのは、討伐の証明に必要な角と鱗、それに鉱石の標本だけだ。首も胴も、牙も骨も、巣に散った古い鱗も現地に残している」


 「巣へ続く最後の谷は狭い。今の道では、大型の荷車が通れない。死骸を解体する人員も、運ぶ道具も足りなかった。俺たちだけで手をつければ、使える素材まで駄目にする」


 S級がドラゴンを倒した。


 それでも、できないことが残っている。


「現地へ戻る」


 男は続けた。


「道を作り、竜を運び、鉱脈を確かめる。そこまで終えて、今回の遠征は成功になる」


 ユアンが、食い入るように男を見ていた。


 名前を聞いただけで、みんなが安心するような冒険者になりたい。


 以前、ユアンはそう言った。


 目の前にいるS級は、確かにそれほど強い。


 しかし二人を失い、七人が傷つき、ドラゴンを倒しても遠征は終わらなかった。


 英雄になれば、すべてを一人で解決できるわけではない。


「出発は十四日後を予定している」


 ギルド長が再び前へ出た。


「回収隊の戦闘要員は、B級以上を基本とする。C級については、上位依頼の実績、長期護衛、未開地での野営経験のいずれかを持ち、ギルドの推薦を受けた者に限る」


 広場の冒険者たちがざわめいた。


「片道、およそ一か月。現地での作業は二十日以上を見込む。帰還まで、短くとも八十日。道の整備状況と天候によっては百日を超える」


 数字を聞き、声が少し減った。


 報酬が高いことは、まだ聞かなくても分かる。


 それでも三か月近く都市を離れ、道のない土地へ入り、ドラゴンを殺した場所まで進む。


 途中で怪我をしても、治療院はない。


 食料が足りなくなっても、店はない。


 荷車が壊れれば、自分たちで直す。


 未知の魔物が現れれば、その場で戦うか逃げるかを決める。


 B級以上が未開地へ入る理由が、そこにある。


 強い魔物を倒せるだけでは足りない。


 何が起きるか分からない場所で、自分と仲間を生かし続ける力が必要になる。


「希望者は明朝から受付を開始する。ただし、先着順ではない。志願者は装備、経験、現在受けている依頼を確認したうえで選考する」


 ユアンが、自分の腰にあるプレートを見た。


 D級の色。


 募集条件には届かない。


 昼間まで浮かんでいた期待が、わずかに沈んだ。


「俺は行けない」


 誰にも聞かせるつもりのない声だった。


「今回はな」


 ルークは答えた。


 ユアンが顔を上げる。


「ルークさんは?」


「C級だ」


「でも、推薦があれば行けるんですよね」


「選ばれれば」


「志願するんですか?」


 ルークは、すぐには答えなかった。


 片道一か月。


 今まで入ったことのない未開地。


 ドラゴンの死骸。


 S級が剣を振った跡。


 見たことのない山と獣の痕跡。


 行きたくない理由を探す方が難しかった。


「条件を確かめる」


 答えると、ユアンは少し羨ましそうに笑った。


「ルークさんなら、選ばれそうです」


「戦えるC級は、ほかにもいる」


「でも、知らない道で痕跡を見つけて、俺たちへ何をするか指示できる人は、そんなにいません」


 同じことを、灰爪熊と戦う前のユアンなら言えなかっただろう。


 強い魔物を倒すことだけが、冒険者の力だと思っていた。


 少なくとも、少しは見方が変わっている。


     ◇


 発表が終わっても、人々はすぐに広場から動かなかった。


 掲示された募集要項を読もうと、冒険者たちが前へ集まる。商人は領主の文官を追い、素材の取り扱いについて質問を浴びせていた。


 S級の隊長は、ギルド職員に囲まれて建物へ戻る。


 ユアンはその背中を追っていた。


「話してみたかったな」


「今日は無理だろう」


 ボルクが言う。


「これから負傷者の確認と、亡くなった二人の家族への説明がある。酒場で握手して回るような日じゃない」


「分かっています」


 ユアンは答えた。


 今度は、本当に分かっているように聞こえた。


「俺は鎧を直しに行きます」


「明日の朝、報酬を使い切るなよ」


「使いません。槍の握りも直したいけど……半分は残します」


「全部残せとは言わん。必要なものへ使うのも冒険者の仕事だ」


 ボルクと話しながら、ユアンは広場を離れていった。


 イリヤも矢を補充するため、職人街へ向かう。


 ルークは一人で掲示板の前へ残った。


 人垣の隙間から、募集要項を読む。


 戦闘要員。


 斥候。


 地形調査。


 荷車の護衛。


 野営地の設営。


 魔物素材の回収補助。


 必要とされる役割が細かく分けられている。


 C級の応募条件には、過去二年間の依頼達成率も書かれていた。


 ルークは、自分の記録を思い返した。


 達成率は足りている。


 長期護衛の経験もある。


 森での野営なら、子供の頃から慣れている。


 未開地へ入った経験だけがない。


 その経験を得るためには、最初の一度へ選ばれなければならない。


 応募する。


 そう決めかけたところで、背後から足音が近づいた。


 広場には大勢いる。


 足音も一つではない。


 それでも、その歩き方だけが耳に残った。


 左右の間隔が一定している。


 右足より、左足の方がわずかに浅い。


 怪我をかばっている歩き方ではない。


 腰の左側へ重いものを下げ、その揺れを抑えるために歩幅を調整している。


 剣。


 以前は右へ下げていた。


 ルークは振り返った。


 そこに立っていたのは、遠征帰りの若い剣士だった。


 ルークより明らかに背が高い。乾いた泥の残る革鎧を着た姿はすらりとして見えるが、肩から背には、長剣を振り続けてきた者の筋肉がついている。


 淡い栗色の髪は短く切られ、右と左でわずかに長さが違っていた。優しげに下がった目尻も、穏やかな顔立ちも昔のままだが、右頬には見覚えのない細い傷が一本増えている。


 腰の左側には長剣。その柄頭には、故郷でよく使われる藍色の組紐が結ばれていた。


 ルークと同じ村で育ち、同じ年に木剣を握った幼なじみだった。


「久しぶりに会って、最初に見るのが足か」


 幼なじみは、呆れたように笑った。


 その胸元には、A級のプレートが下がっていた。



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