6 焚き火の向こう
グレンとの稽古から、六日が過ぎた。
あの日、腹の奥に生まれた熱を、ルークはまだ再現できずにいた。
木剣を振り抜いたとき、足と腰と腕が一つになった感覚は覚えている。けれど、同じように動こうとすれば、足、腰、肩と順番に考えてしまう。何も考えずに振れば、出るのはいつもの剣だった。
一度できたなら、身体は知っている。
グレンはそう言った。だが、知っているはずの身体は、いくら問いかけても答えなかった。
左肩の傷だけは、順調に治っている。
灰爪熊の爪が革鎧を裂いた翌日、治療師は傷を水で洗い、潰した薬草を塗って包帯を巻いた。その後も二日おきに包帯を替え、昨日になってようやく外してくれた。
剣を抜く動きにも、腕を上げる動きにも痛みはない。傷口を押せば、わずかな硬さが残っているだけだ。これなら仕事へ戻ってもよいと、治療師からも言われている。
ルークは肩を一度回し、冒険者ギルドの扉をくぐった。
朝の広間には、仕事を探す冒険者と、依頼を持ち込む商人の声が重なっていた。壁の掲示板には新しい依頼票が並び、受付の奥では職員たちが報告書を仕分けている。
ルークも掲示板へ向かおうとしたが、その前に受付から呼び止められた。
「肩は、もういいんですか?」
セラが書類から顔を上げていた。
「昨日、包帯が取れた。治療師からも許可は出ている」
「分かりました」
セラはそれ以上傷について聞かず、手元の依頼票を一枚抜いた。
「でしたら、ちょうど条件の合う護衛依頼があります」
南街道沿いにある、木材加工で栄えるハルツ村まで、一台の荷車を護衛する仕事だった。
行きは塩や工具を運び、帰りは乾燥させた板材と樹脂を積む。片道二日、往復で四日の予定。依頼人は街道を何度も往復している御者で、護衛には四人を求めていた。
「D級を三人つけます。まとめ役を一人、C級から出してほしいという依頼です」
「俺にやれと?」
「候補としてお勧めしています。受けるかどうかは、依頼票を見て決めてください」
ルークは内容を確かめた。
街道を外れる予定はなく、途中には兵士のいる小砦と、旅人用の野営地がある。強い魔物が出る地域でもない。
「D級の三人は決まっているのか」
「ボルクさん、イリヤさん、ユアンさんです。三人とも、前回の調査でルークさんと組んでいますね」
「ああ。役割も分かっている。イリヤはわずかな物音や鳥の動きも見落とさない。矢を射る判断も早い。先頭を任せるなら、あの三人では一番だ」
「……よく見ていますね」
セラはほんの少しだけ口を尖らせた。
すぐに普段の受付の顔へ戻り、依頼票の続きへ指を滑らせる。
「単独での野営や調査経験が多い人でなければ、三人の指揮は任せられません。ギルドでは、ルークさんをC級の中でも上位として扱っています」
その評価には、ルーク自身も心当たりがあった。
追跡、野営、依頼中の判断。そこは評価されている。一方で、未開地で危険な魔物に遭ったとき、自分の力だけで倒すか、退路を作るだけの戦闘力が足りていない。
今の自分が、C級の上位にいてもB級には届かない理由だった。
「この依頼を受ける」
ルークが依頼票を返すと、セラは受注の手続きを始めた。
「出発は南門から、一刻後です。御者を含めて五人。帰還は四日後を予定しています」
「分かった」
「東の森は、まだ気になりますか?」
「あのあたりの獣は落ち着いたのか」
「まだです。灰爪熊を倒したあとも、浅い場所で普段とは違う獣が見つかっています。理由は分かっていませんので、警戒は続けています」
新しい痕跡が見つかったわけではない。
異変が終わったとも、続いているとも言い切れないらしい。
「何か分かれば教えてくれ」
「報告に出せることがあれば」
セラは簡潔に答え、次の冒険者を呼んだ。
◇
南門の外には、幌のない荷車が一台止まっていた。
御者台に座っていた白髭の男が、ルークを見るなり手綱を片手へ持ち替えた。
「あんたがまとめ役か。オルドだ。ハルツ村までは何十回も往復してる。道と荷車は任せてくれ。魔物は任せる」
「ルークだ。それでいい」
荷車のそばには、すでに三人の冒険者が集まっていた。
丸盾を背負ったボルク。弓を持つイリヤ。そして、短槍を背負ったユアン。
「おはようございます」
ユアンが真っ先に声を上げた。
前回よりも、槍を吊る位置が低い。森で枝へ引っかけていたことを直したらしい。
「自分で変えたのか」
「イリヤさんに教えてもらいました。まだ少し慣れませんけど」
「歩いて確かめればいい」
ルークは荷車を一周した。
荷の数と縄を確かめ、右の後輪で足を止める。車軸の留め具が、ほかの三つよりわずかに外へ出ていた。
「オルド。この車輪は出る前に直した方がいい」
オルドが降りて留め具を確かめると、荷台から槌を取り出した。
「半月は外してないんだがな。よく気づいた」
二度叩くと、留め具は元の位置へ収まった。
イリヤが車輪とルークの顔を見比べ、わずかに目を丸くする。
ルークはそれ以上説明せず、三人へ位置を伝えた。
「イリヤは荷車の前。ボルクは左後ろ、ユアンは右後ろ。俺は前後を動く。魔物が逃げても、荷車を離れて追うな」
「はい」
ユアンの返事は早かった。
灰爪熊のとき、倒せそうだと思った獲物を追い、隊列から離れかけたことを覚えているのだろう。
南門が開き、荷車がゆっくりと動き始めた。
門塔の上では、紺地に銀の七芒星を描いた王国旗が風を受けていた。
建国神話によれば、夜の荒野で道を失った初代王を、七つの星が新天地へ導いたという。七芒星は、その星々を一つへ結んだ印とされている。
フロンティアでは見慣れた旗だった。ルークは一度だけ見上げ、その下を通り抜けた。
◇
辺境都市フロンティアの城壁を離れても、すぐに人の土地が終わるわけではない。
街道の左右には麦畑が広がり、その先に果樹園と牧草地が続いている。都市へ向かう荷車と何度かすれ違い、昼前までは、振り返れば城壁の塔が見えた。
緩やかな丘を越えると塔が消え、代わりに木々が増え始める。東の森ほど深くはない。街道沿いの下草は刈られ、ところどころに伐採した丸太や古い切り株が残っている。
昼過ぎ、道が広くなった場所で休憩を取った。
オルドが馬へ水を飲ませ、ボルクは荷を留めた縄を締め直す。ユアンも手伝おうとしたが、結び目を見たオルドから、触らなくていいと言われていた。
「解けないようにはできます」
「解くときのことも考えて結ぶんだ」
「教えてください」
「帰りにな。今ここで全部ほどかれたら困る」
断られても、ユアンはオルドの手元を見ていた。
前回の失敗を引きずって縮こまるよりはいい。ただし、覚えたことをすぐ試したがる癖まで直ったわけではなさそうだった。
ルークは街道と林の境を見た。
小さな獣の足跡が水場との間を何度も往復し、低い枝には鳥が戻っている。東の森で見たような、何かから逃げる動きはない。
森への疑念が消えたわけではない。それでも、異変があらゆる場所へ広がっているわけではないと分かった。
休憩を終えた一行は、日が傾き始めるまで街道を進んだ。
今夜使う野営地まで、あと少しだった。
細い川へ続く石橋が見えたところで、先頭のイリヤが右手を上げた。オルドがすぐに手綱を引く。
「左の林に何かいる」
イリヤが弓へ矢をつがえた。
木々の間から鳥が二羽、ほぼ同時に飛び立った。地面に近い茂みが沈み、低い唸り声が続く。
赤黒い毛が見えた。
「赤牙狼だ。見えているのは二頭。まだ奥にいる」
ルークは剣を抜いた。
「オルドは荷車を止めたまま。ボルクは左を塞げ。ユアンは右から回り込ませるな。イリヤは奥を見てくれ」
三人が位置につく。
最初の一頭が林から飛び出した。
普通の狼よりひと回り大きい。長い牙をむき、荷車の前へいたイリヤへ向かって駆ける。
ルークが進路へ入ると、赤牙狼は速度を落とさず身体の向きを変えた。こちらの横を抜け、荷車の後ろへ回るつもりらしい。
頭が低く沈んだ直後、狼の四肢が地面から離れた。
ルークは牙の正面から半歩外れ、すれ違いざまに腹を斬った。傷は浅い。赤牙狼は着地するとすぐに距離を取り、血を落としながらも、再びこちらへ頭を向けた。
「右から来る!」
イリヤの声が飛んだ。
二頭目が川沿いの草を抜け、荷車の右後ろへ迫っていた。御者台のオルドが最も近い。武器を持たない人間を狙ったのか、狼は荷台に沿って走り、そのまま跳び上がろうとした。
イリヤの声が届いたときには、右を守っていたユアンはもう動いていた。
横へ踏み込むなら、先に重心が沈む。地面を蹴る前には腰が傾き、遅れて肩がついてくる。そのはずなのに、ユアンには動き出す前の溜めがほとんどなかった。
後輪のそばにいた身体が、次の瞬間にはオルドと赤牙狼の間へ滑り込んでいる。
ルークの目には追えた。だが、自分が同じ位置にいても、あれほど早く最初の一歩を出せるとは思えなかった。
短槍の石突きを地面につき、跳んでくる胸元へ穂先を向ける。しかし狼は前脚で柄を叩き、槍先を外した。体勢を崩したユアンの肩へ、開いた牙が迫る。
「頭を下げろ!」
ルークの声に、ユアンは膝を落とした。
狼の腹が頭上を通る。ユアンは倒れながらも槍を離さず、柄を横から押し当てて着地の向きを変えた。
土へ転がった狼の前脚に、イリヤの矢が刺さる。
ユアンはすぐに立ち上がった。槍を短く持ち直し、起き上がろうとする狼の首の下へ突き込む。
赤牙狼の身体から力が抜けた。
最初の一頭が再び動く。
ルークは二頭目へ向けていた意識を戻した。腹の傷をかばいながら左へ回り、今度は低い位置から脚へ噛みつこうとしている。
傷を負ったことで、踏み込む直前に右の後脚が遅れていた。
ルークは剣を下げて誘い、狼が間合いへ入った瞬間に足を引く。空を噛んだ頭の横へ刃を滑らせ、そのまま首を深く斬った。
赤牙狼は数歩よろめき、街道の端へ倒れた。
林の奥で草が大きく揺れる。
三頭目がいた。だが、二頭が倒れたのを見て奥へ逃げていく。
ユアンが槍を構え直し、追おうと一歩踏み出した。
「ユアン」
呼ばれて、ユアンは足を止めた。林の奥と荷車の右側を見比べ、自分から元の位置へ戻る。
「……追いません」
「それでいい。持ち場を見ろ」
イリヤは弓を引いたまま林を見張り、ボルクも盾を下ろさない。しばらく待ったが、ほかに近づいてくる気配はなかった。
「助かった。ありがとう」
御者台で身体を起こしたオルドが、ユアンへ礼を言った。
「怪我はありませんか?」
「ない。お前が入ってくれなければ、噛みつかれていた」
ユアンは自分の肩を見た。革鎧に牙がかすめた白い筋はあるが、皮膚までは届いていない。
「最初の突きは、もっと低く狙え」
ルークが言うと、ユアンの表情が引き締まった。
「胸へ向ければ、前脚で外される。首の下か、着地する場所へ穂先を置くんだ」
「はい」
「ただ、倒れたあとも槍を離さなかったのはよかった。あれがなければ次の攻撃に間に合っていない」
ユアンが顔を上げた。
「今のは、褒められたんですか?」
「見たことを言った」
「ルークは褒め方が下手だな」
ボルクが丸盾を背負い直しながら笑った。
「褒めてはいない」
「本人が喜んでるなら、それでいいだろ」
ユアンは照れたように槍の柄を握り直した。
◇
野営地には、日が沈む前に着いた。
荷車を旅人用の囲いへ入れ、馬をつなぐ。ボルクとイリヤが周囲を確かめ、ルークとユアンは焚き火に使う枝を集めた。
「さっき、右を守れと言われたのに、俺は御者台の前まで動きました」
乾いた枝を抱えながら、ユアンが尋ねた。
「右から来た狼を止めるためだ。指示からは外れていない」
「でも、逃げた狼を追おうとしたときは止められました」
「あのまま追えば、荷車の右が空く。一度目は持ち場を守るために動いた。二度目は持ち場を捨てようとした。その違いだ」
「倒せるかどうかじゃなくて、何を守るために動くかで考えるんですね」
「そうだ」
ユアンは小さく頷いた。
言われたから止まっただけではなく、二つの違いを考えている。それなら、次は名前を呼ばなくても止まれるかもしれない。
焚き火を起こし、干し肉と豆を煮た。固いパンを汁へ浸し、全員で火を囲む。
見張りは二人一組とし、最初をルークとユアン、次をボルクとイリヤ、夜明け前をルークとオルドが受け持つことになった。
食事が半分ほど進んだ頃から、ユアンは何度か口を開きかけ、そのたびに水を飲んでいた。
ボルクが先に気づいた。
「どうかしたか」
「あの……ずっと、皆さんに話すべきか迷っていたことがあります」
ユアンは匙を置いた。
「俺は、本当はこの世界の人間じゃないんです」
焚き火の中で枝が爆ぜた。
ユアンは、向かい側にいる三人の顔を順に見る。ボルクは少し待ってから、続きを促した。
「国が違うという話じゃないんだな」
「はい。世界そのものが違います」
「なら、何年かに一度は聞く話だ」
「……え?」
ユアンだけが驚いた顔をした。
フロンティアには、別の世界から来たと話す者が、ときおり流れ着く。
見たことのない服を着て、ここがどこかも分からず、魔物を見て腰を抜かす。語る故郷は人によって違うが、魔物も冒険者もいないという者は多かった。
「俺が会ったのは二人だな」
オルドが指を二本立てた。
「一人は、馬を使わずに走る荷車があると言っていた。燃える水と、細かな鉄の部品が必要らしくて、作れなかったが」
「自動車です。多分、その人も同じような世界から来ています」
「馬なしで、本当に動くのか?」
「動きます。馬車よりずっと速いです」
そこで、ルークは思わず話へ割り込んだ。
「燃える水を、どこへ入れる」
「ええと、車の後ろとか横にある入口から入れて……」
「水を燃やして車輪を回すのか」
「直接燃やすんじゃなくて、エンジンの中で爆発させるんです」
「エンジンとは何だ」
「それは……車を動かす機械です」
「その機械はどうやって車輪へ力を伝える」
「細かいところまでは分かりません」
ユアンが困ったように頭をかいた。自動車を使っていたからといって、作り方まで知っているわけではないらしい。
「ルークがそんなに食いつくのは珍しいな」
ボルクに言われ、ルークは火の向こうへ乗り出していた身体を戻した。
「知らないものについて聞いているだけだ」
「いつもより、目が楽しそうだけどね」
イリヤが小さく笑った。
ユアンは、自分が想像していた反応とは違ったらしい。緊張が抜けた顔で座り直した。
「俺のいたところには、空を飛ぶ乗り物もありました。飛行機っていって、一度に何百人も乗れます」
「何百人?」
「大きな建物くらいのものが、空を飛ぶんです」
「鳥のように羽ばたくのか」
「羽ばたきません。翼は動かさず、ものすごく速く走ってから飛びます」
ルークの頭には、翼を広げた建物が街道を走り、そのまま空へ浮かぶ光景しか出てこなかった。
「あとで形を描いてくれ」
「いいですよ。絵は上手くないですけど」
「形が分かればいい」
話が落ち着いたところで、ルークはユアンへ尋ねた。
「向こうでは、何をしていた」
「学生でした。学校に通っていたんです」
「学校なら、こちらにもある」
「そうみたいですね。でも俺のいたところでは、同じくらいの年なら、ほとんど全員が学校へ通っていました」
ルークの村には学校がなかった。文字と計算は母から、森や獣については父から教わり、足りない知識はフロンティアへ来てからギルドの講習で補った。
誰もが同じ年頃に同じ場所で学ぶという暮らしも、ルークには見たことのないものだった。
「どうやって、この世界へ来た」
ユアンの表情から、先ほど戻った明るさが少し消えた。
「事故に遭いました。大きな車に轢かれて、多分、死んだんだと思います」
今度は、誰もすぐに口を挟まなかった。
「気づいたら、真っ白な場所にいました。身体は痛くなくて、傷もなくて。そこに、自分は神だという人がいたんです」
「どんな姿だった」
「よく覚えていません。男にも女にも見えました。声も、耳で聞いたのか、頭の中で聞いたのか……」
ユアンは眉を寄せ、曖昧な記憶を探した。
「この世界でも言葉が通じるようにして、少し身体を動きやすくしておくと言われました」
ルークは、赤牙狼が御者台へ跳んだ瞬間を思い出した。
「だから、あのときの反応が速かったのか」
「多分、そうだと思います。こっちへ来る前は運動が得意な方でもなかったので」
「ほかに、身体が変わったところはあるか」
「自分では分かりません。言葉と、少し動きやすくなったことだけだと思います」
神を名乗る者は、何かを成し遂げろとは言わなかったという。ただ、好きに生きればいいと告げ、ユアンをこの世界へ送った。
「それで、S級に憧れたのか」
「はい。一番強い冒険者なら、大勢の人を助けられる。せっかく与えられた力も、そういうことに使いたいんです」
言葉に迷いはない。だが、灰爪熊へ向かっていったときのような危うさも、まだ消えてはいなかった。
「帰りたいとは思わないの?」
イリヤが静かに尋ねた。
「思います。家族も、友達もいます。でも、方法が分かりません。教会にも行きましたし、ほかに別の世界から来た人の話も聞きました。帰れた人はいないそうです」
ユアンは焚き火へ目を落とした。
自分が選ばれたと信じたい気持ちと、帰れない現実は、別のものなのだろう。
「以前、別の世界から来た男と組んだことがある」
ボルクが言った。
「そいつも、自分には特別な役目があると言っていた。D級へ上がってすぐ、一人で赤牙狼の巣へ入り、三日後にプレートだけ見つかった」
ユアンの顔が強張った。
「別の世界から来た奴が、みんなそうなるわけじゃない。商人になった奴も、薬師として暮らしている奴もいる。冒険者で生き残っている奴もいる」
「高い階級まで上がった人も?」
「噂なら聞く。A級やS級になった奴もいるらしい。ただ、そういう連中は最初から何でもできたわけじゃない。何度も死にかけて、それでも生き残った奴だ」
ユアンは黙って聞いている。
「英雄を目指すのは好きにしろ。だが、別の世界から来たことを、無茶をしても死なない理由にするな」
「はい」
今度の返事は、小さかったが軽くはなかった。
◇
食事を終えると、ボルクとイリヤは片屋根の下へ移り、オルドも荷車へ背を預けて目を閉じた。
ルークとユアンは、火を挟んで最初の見張りについた。
川の音が続き、ときどき馬が鼻を鳴らす。
しばらく森と街道を見てから、ルークは火のそばの土を指した。
「飛行機を描けるか」
「今ですか?」
「見張りながらでいい」
ユアンは燃え残った枝を拾い、地面へ線を引いた。
細長い胴体。左右へ伸びる翼。その下についた小さな車輪。
「これが何百人も乗せて飛ぶのか」
「大きいものなら」
「どれくらい高く上がる」
「山よりずっと上です。雲の上まで行きます」
「雲の上に何がある」
「青い空です。上から見ると、雲が地面みたいに広がってます」
見たことのない景色だった。
魔物のいない都市。夜でも消えない明かり。何十階も重なった建物。遠くの人間と話せる小さな板。
質問を重ねるたび、ユアンの故郷は理解しにくくなった。それでもルークは聞くのをやめなかった。
「ルークさんは、どうして冒険者になったんですか」
ひと通り説明したあと、ユアンが尋ねた。
「強くなりたかった」
「S級に?」
「なれるなら、なりたい」
「やっぱり一緒ですね」
「それだけじゃない」
ルークは暗い街道の先を見た。
「子供の頃、村へ来た商人が地図を持っていた。王都も海も描かれていたが、北の山脈を越えたところで道が途切れていた」
「何もなかったんですか」
「地図にはな。誰も調べていないから、何があるか分からないと言われた」
その夜、ルークはなかなか眠れなかった。
道が途切れた先にも山や川があり、見たことのない獣がいるはずなのに、それを誰も知らない。そのことが頭から離れず、翌朝には村の外れの丘へ登り、見えるはずもない北の山を探していた。
「地図の続きを、自分で見たかった」
「それで冒険者になったんですか」
「剣を持たずに未開地へ行けば死ぬ。だから強くなろうとした」
強くなることだけが目的なら、都市の訓練所に残る道もあった。ルークが冒険者を続けているのは、剣を試したいからだけではない。
「じゃあ、分からないものが好きなんですね」
「分からないままにしておくのが嫌いなんだ」
「似ているようで、ちょっと違いますね」
ユアンが声を抑えて笑った。
見張りを交代したあとも、ルークはすぐには横にならなかった。
街道脇の平らな場所へ立ち、鞘に収めた剣の柄へ手を置く。
昼間、狼がオルドへ跳んだとき、ユアンは間に合ったが、ルークは間に合わなかった。
もっと速く動けたなら。
それだけを考え、少し離れた木へ意識を絞る。
腹の奥に、かすかな熱が灯った。
消える前に地面を踏むと、身体が前へ出た。
一歩目は普段より遠く、速い。だが二歩目へつなげようとした途端、足と腰を意識してしまい、熱は消えた。
ルークはその場で止まった。
偶然ではない。使えるようになったとも言えない。
それでも、身体の内側にまだ引き出せていない力があることだけは、前より確かになった。
踏み出した位置と木までの距離を目に焼きつける。朝になったら記録へ残すつもりだった。
◇
翌日の昼過ぎ、荷車はハルツ村へ着いた。
村の外には皮を剥いだ丸太が積まれ、川沿いの水車が大きな音を立てている。運んできた塩と工具を渡すと、オルドは倉庫番と帰り荷の確認を始めた。
護衛の仕事は、魔物を倒すことだけではない。
荷と人を、決められた場所まで無事に届ける。赤牙狼を二頭倒したことより、荷車も馬も傷めず到着したことの方が、依頼の成否には重要だった。
その夜は村の宿舎を借りた。
ユアンは約束どおり、紙へ自動車と飛行機を描いた。自動車は四角い箱へ車輪をつけたような形で、飛行機は大きな矢尻にも見えた。
「本物は、もっと格好いいんです」
「形は分かる」
ルークは絵の余白へ、聞いた内容を書き留めた。
馬を使わずに走る車。翼を動かさず、雲より上まで飛ぶ乗り物。白い場所にいた、神を名乗る者。
最後の一つにだけ、疑問符をつける。
翌朝、板材と樹脂を積んで村を出た。
帰路では魔物に遭わなかった。
途中の砦へ着くと、ルークは赤牙狼の群れが出た場所と時刻を報告した。周囲の村へ注意を回し、別の冒険者が巣の位置を調べることになった。
ユアンは報告書へ、自分が最初の突きを外したことまで書いた。
「失敗まで書くのか」
ボルクに聞かれ、ユアンは頷いた。
「跳んでくる狼の胸を狙うと外されるって、次に読む人へ伝わるから」
「首の下か、着地する場所を狙えとも書いたか」
ルークが確かめる。
「書きました」
「ならいい」
帰りの荷車は、行きより遅かった。
板材は見た目以上に重く、緩い上り坂では馬の歩みが落ちた。車輪が土へ沈む場所では、全員で荷台を押した。
四日目の午後。
丘の向こうに、辺境都市フロンティアの城壁が見えた。
予定どおりの帰還だった。都市までは、あと半日もかからない。
「これなら門が閉まる前に着くな」
オルドが御者台で言った。
その直後、遠くから鐘の音が届いた。
低く長い音が二つ。
少し間を置き、短い音が三つ続く。
普段、門が開閉するときの鐘とは違う。
オルドが手綱を引き、ボルクとイリヤも城壁の方を見た。
「何の鐘ですか?」
ユアンが尋ねる。
「北西へ出た遠征隊を、見張り塔が発見した合図だ」
イリヤが目を細めた。
城壁の北西側で、兵士たちが黒地に銀の線を引いた旗を振っている。
その印を見て、ルークはギルドの掲示板に長く残されていた告知を思い出した。
北西の山岳地帯へ向かった遠征隊。予定の日を過ぎても帰らず、目撃情報を求められていた一行。
「まさか」
ユアンの声に、抑えきれない期待が混じった。
「S級の遠征隊だ」
ルークが答える。
もう一度、同じ調子で鐘が鳴った。
ドラゴンを討ちに行った者たちが、帰ってきた。




