5 可能性
翌朝、目を覚ましたルークは、寝台の上で左腕を持ち上げた。
肩に巻かれた布が引かれ、傷の周りに鈍い痛みが走る。
腕は上がる。
前へ伸ばしても、剣を振る動きをしても、傷口が開く気配はない。
灰爪熊の爪は革の上着を裂いたが、肉へ深く入ってはいなかった。昨夜、ギルドの治療室で傷を洗い、薬を塗ってもらっている。痛みが強くなったらすぐにやめること。それを守るなら、軽く身体を動かしてもいいと言われていた。
今日の約束を、治療係に話してはいない。
ルークは寝台から下りた。
右手を握る。
昨夜まで残っていた痺れは、ほとんど消えている。ただ、強く握り込むと手首の奥に重さを感じた。
万全とは言えない。
それでも、グレンが都市にいるのは今日までだ。西の街道で引き受けた護衛の報告を終えた後は、別の都市へ向かうらしい。昨日の帰路で聞いていた。
機会を逃せば、次がいつになるか分からない。
ルークは朝食を取り、身支度を整えた。
剣は持っていかない。
今日は訓練用の木剣を使うと、昨夜のうちに決めていた。
◇
朝の冒険者ギルドには、依頼を求める人間が集まり始めていた。
掲示板の前で声を上げる者。空いている席で装備を整える者。酒ではなく薄い茶を出す給仕。
その間を抜け、ルークは建物の奥へ向かった。
「来ましたね」
依頼書を整えていたセラが、受付台から顔を上げた。
「約束した」
「グレンさんなら、もう訓練場にいます。ギルドが開いてすぐに入られました」
B級冒険者に稽古をつけてもらえる機会など、次はいつ巡ってくるか分からない。ルークが来ること自体に、セラは何の疑問も持っていないようだった。
「左肩の具合は?」
「少し痛むが、腕は動く」
「治療係からは、軽い運動までと聞いています。傷が開いたら中止して、そのまま治療室へ。訓練場を使う条件として、グレンさんにも伝えてあります」
「分かった」
ルークは中庭へ続く扉を見た。
西の街道から戻り、森まで走り、灰爪熊を倒した翌日である。
それでも、休養に充てるという考えはないらしい。
グレンがB級にいる理由が、それだけで少し分かった。
◇
ギルドの訓練場は、建物に囲まれた四角い中庭だった。
地面は踏み固められ、中央には何も置かれていない。壁際には木剣や棒、革を巻いた盾が並び、反対側には打ち込み用の柱が立っている。
朝早くから、数人の冒険者が身体を動かしていた。
グレンは、その一番奥にいた。
上着を脱ぎ、薄い訓練着の袖を肘までまくっている。手に持っているのは、刃のない木剣だった。
振り下ろす。
止める。
構えへ戻る。
動きは速くない。
力を誇示するような音も立てていない。
同じ軌道を、同じ速さで、繰り返している。
ルークは声をかけずに見た。
剣を持つ手だけが動いているのではない。
足の裏で地面を押し、膝が伸びる。腰が回り、肩が続き、最後に腕と剣が走る。
一つずつ動いているようで、動きの間に隙間がない。
剣を止めるときも同じだった。
腕の力だけで止めず、腰と脚へ勢いを戻している。百回振っても、最初と最後で軌道が変わらない。
「見て分かるか?」
グレンは剣を振ったまま尋ねた。
「声をかける前から、気づいていたのか」
「扉が開く音がした」
最後の一振りを終え、グレンは木剣を下ろした。
「肩は」
「浅い傷だ。腕も動く」
「痛みは?」
「少し」
「受付の言ったとおりだな」
セラは先回りして、こちらにも確認したらしい。
「左肩は狙わない。強く打ち込むこともしない。それでも痛みが増したら終わりだ」
「分かった」
「返事だけは素直だな」
グレンは壁際の木剣を一本取り、ルークへ放った。
受け取る。
長さは普段の剣とほぼ同じ。木製のため少し軽いが、柄から剣身の半ばまで細い鉄の芯が通され、重心も合わせてある。
ルークは二度振り、手へ馴染ませた。
「稽古を頼んだ理由は、俺との差を見たいからだったな」
「そうだ」
「なら、最初は好きに見ろ。俺も、お前の目がどこまで通じるか確かめたい」
グレンは訓練場の中央へ移動した。
「頭と首は狙わない。木剣でも、まともに入れば怪我をする。きれいに当たったと思ったら、その時点で止める。三度やろう」
「三度とも、あんたが取る前提か?」
「一つ取ってから言え」
挑発する口調ではなかった。
当然の事実を述べただけだった。
ルークも中央へ出た。
周囲で訓練していた者たちが、少しずつ場所を空ける。
B級とC級が立ち合うのだ。手を止めて見る者もいた。
ルークは木剣を中段へ構えた。
グレンは片手で剣を下げている。
構えてすらいないように見える。
「始めるぞ」
◇
グレンの右足、そのつま先がわずかに外を向いた。
右手の小指が柄を締める。
視線はルークの胸ではなく、右肩へ向いている。
右肩への斬り下ろし。
ルークがそう判断した直後、グレンが踏み込んだ。
予測したとおり、木剣が右上から走る。
速い。
だが、見失うほどではない。
ルークは左足を引き、身体を半身にした。
木剣が胸の前を通り過ぎる。
避けた。
グレンの腕は伸びている。
右の脇腹が開いた。
ルークはそこへ木剣を返す。
当たる直前、グレンの手首が返った。
振り下ろしたはずの木剣が、下から跳ね上がる。
その動きも見えていた。
ルークは剣を止めようとした。
間に合わない。
グレンの木剣が、ルークの右手首へ軽く触れた。
「一つ」
強い痛みはない。
しかし実戦なら、剣を落としていた。
ルークは距離を取り、右手を確かめた。
「今のは見えていたか?」
「見えていた」
「最初の剣は」
「右肩を狙っていた」
「返しは」
「俺が脇腹へ踏み込んだときには」
「なら、次だ」
グレンはそれ以上何も言わず、元の位置へ戻った。
◇
二度目は、ルークから動いた。
相手の攻撃を待てば、先ほどと同じになる。
木剣を右へ傾け、グレンの左肩を狙う。
グレンは動かない。
ルークが間合いへ入る。
肩へ打ち込む直前、剣先を下げた。
本命は左の脇腹。
グレンの肘が落ちる。
防ぐ動きだ。
ルークはそれを見て、さらに剣の軌道を変えた。
下げた剣を止め、胸元へ突き出す。
一度目の狙い。
二度目の変更。
三度目の修正。
木剣の先が、グレンの胸へ届こうとする。
グレンは半歩だけ横へ動いた。
それだけで剣先が外れる。
ルークは追って身体を向けた。
そのときには、グレンの木剣が右の脇腹へ添えられていた。
「二つ」
当たったというより、置かれていた。
ルークが自分から、その位置へ身体を運んだのだ。
「もう一度」
すぐに構え直そうとしたルークへ、グレンは首を振った。
「少し考えろ」
「考えている」
「考えながら動きすぎている」
ルークは木剣を下ろさなかった。
「最初の肩は囮だったな」
「そうだ」
「脇腹へ変えたあと、俺の肘を見て胸へ変えた」
「防がれると分かった」
「それで、三度とも力を捨てた」
グレンは自分の木剣で、ルークが踏み込んだ地面を示した。
靴跡が短く途切れている。
「お前は相手をよく見ている。見えたものへ合わせて、何度でも正しい方へ直そうとする。だから大きな間違いはしない」
「何が悪い」
「直すたびに、足が止まる。腰が止まる。腕だけで次の場所へ剣を運ぶことになる」
ルークは先ほどの動きを思い返した。
肩を狙ったとき、左足を踏み込んだ。
脇腹へ変えたとき、腰を落とした。
胸へ向け直したときには、最初の踏み込みで得た勢いは残っていなかった。
「見えているものが多すぎるんだ」
グレンは言った。
「最後まで、どの動きにも変えられるようにしている。その目があれば、間違った方へ踏み込んでも修正できるからな。だが、すべての道を残したままでは、最初の一歩へ力を乗せられない」
灰爪熊との戦いでも、そうだった。
自分だけが相手なら、最も安全な場所を選べる。
仲間がいれば、さらに多くの可能性を残す。
誰かが狙われた瞬間、動きを変えられるように。
それは間違いではなかった。
実際、その判断でローデンたちを守った。
だが、一人の相手を倒すための速さにはならない。
「三度目は、最初に決めろ」
グレンが構えた。
「途中で俺の動きが見えても、一度だけは変えずに振り切ってみろ」
「当たらないと分かっても?」
「そのときは外れる。外れた理由を、次に使え」
ルークは息を吐いた。
木剣を握り直す。
◇
三度目。
ルークは深く集中した。
訓練場から余計な音が遠ざかる。
見ている者たちの動きが遅くなる。
グレンの呼吸。
指の力。
足裏の重心。
首がわずかに右へ傾く。
左から来る。
ルークは、グレンが動き始める前に右へ踏み込んだ。
直後、木剣が左から横へ走る。
避ける方向は合っていた。
木剣が背中のすぐ後ろを通る。
ルークは決めていた軌道を変えず、グレンの右肩へ振り下ろした。
グレンの身体が沈む。
木剣は肩を外れ、袖だけをかすめた。
有効打ではない。
それでも、初めてグレンの服へ届いた。
「続けろ」
グレンは距離を取らず、下から木剣を振り上げた。
ルークには見えている。
右へ避ければ、次は横薙ぎ。
後ろへ下がれば、そのまま踏み込まれる。
左へ入る。
ルークは左へ踏み込み、振り上げの内側へ潜った。そのままグレンの胸へ木剣を伸ばす。
二本の木剣がぶつかった。
グレンは胸の前へ剣を戻し、最短の動きで受けている。
押し合えば負ける。
ルークは一度剣を引き、左の脇腹へ打ち直した。
今度は途中で変えない。
グレンが腰を引き、木剣が訓練着の前を通り過ぎる。
外れた。
それでも振り切り、右足を軸に身体を戻す。
すぐにグレンの突きが来た。
視線は胸。
だが、右肘の位置が低い。狙いは腹だ。
ルークは木剣を下げ、突きを外へ払った。
重い。
木剣同士が触れた瞬間、腕だけではなく身体全体を押されたような衝撃が来る。
足を止めれば崩される。
ルークは衝撃に逆らわず、右後ろへ回った。
そこへグレンの横薙ぎが続く。
肩が動く前に腰が回っていた。
ルークは身を沈める。
髪のすぐ上を木剣が抜けた。
立ち上がりながら、グレンの左腕へ打ち込む。
また防がれる。
打つ。
受けられる。
避ける。
もう一度、踏み込む。
一つの動作の途中では迷わない。選び直すのは、振り切って次の構えへ戻ってからだ。
ルークの剣は届かない。
だが、最初の二度のように、すぐ打たれることもなかった。
見物していた者たちの話し声が消えている。
ルークの呼吸は速くなっていた。
対するグレンの呼吸は、立ち合いを始める前とほとんど変わっていない。
剣速だけではない。
一度の動きに使う力が少なく、使った力を次の動作へ無駄なく移している。長く戦えば、その差はさらに広がる。
このままでは届かない。
ルークは次の一撃へ狙いを定めた。
グレンの胸。
正面から、最短で突く。
グレンも木剣を引いた。
互いの剣先が向かい合う。
グレンの右足が地面を踏んだ。
その瞬間、何かが違った。
踵が深く沈んだわけではない。
膝も、大きく曲がってはいない。
それなのに、踏み固められた土が靴底から小さく弾けた。
腹の辺りが締まり、その変化が腰、肩、腕へほとんど同時に伝わる。
グレンの身体が、ルークの予測より速く前へ出た。
木剣が迫る。
軌道は見えている。
胸の中央。
すでに左へ身体を逃がしている。
それでも、足りない。
ルークの木剣がグレンへ届くより先に、相手の剣先が胸へ触れた。
「三つ」
軽く押されただけで、ルークは後ろへ二歩下がった。
そこで立ち合いは終わった。
◇
深い集中を解くと、頭の奥に痛みが戻ってきた。
ルークは壁際の水差しから木杯へ水を注ぎ、一口ずつ飲んだ。息が整うにつれ、ズキズキとした痛みがわずかに遠のいていく。
グレンは木剣を肩へ載せた。
「最後の一撃は、どこまで見えていた?」
「胸を狙っていた。剣先の位置も、当たる場所も見えていた」
「避け始めたのは、俺が踏み込む前だったな」
「それでも間に合わなかった」
口にすると、昨日と同じ悔しさが戻った。
灰爪熊の首元。
グレンが二度でつけた深い傷。
今回も同じだ。
狙いは分かる。
始まりも見える。
こちらが先に動いても、結果だけが追いつかない。
「昨日、あんたが来なかったら」
ルークは言った。
「俺たちは、どうなっていたと思う」
グレンは答える前に少し考えた。
「お前は、全員を逃がすところまではやっただろうな」
「そのあと、俺が残る」
「おそらくな。一頭は倒せたかもしれない。だが、もう一頭まで倒したあと、町へ戻れたかは分からん」
セラが禁止したとおりの結果だった。
「B級なら、全員を守ったまま二頭を倒せるのか」
「誰でもできるとは言わない。組み合わせや場所にもよる。俺が最初からいたとしても、無傷では済まなかっただろう」
グレンは倒れた灰爪熊を思い出すように、訓練場の地面へ目を落とした。
「だが、一頭を早く仕留めれば、危険な時間を短くできる。盾役の腕が動かなくなる前に。弓手の矢が尽きる前に。誰かが判断を誤る前にな」
力の差は、倒せるか倒せないかだけではない。
同じ魔物を倒せるとしても、必要な時間が違う。
その時間だけ、仲間が危険にさらされる。
「お前は弱くない」
グレンは言った。
「二頭の動きを追いながら、四人を守った。あの場にいたC級がお前でなければ、俺が着く前に死人が出ていた可能性は高い」
慰める口調ではなかった。
だからこそ、続く言葉も重かった。
「お前は相手を見て、崩れないように戦える」
グレンは、ルークの目を見て続けた。
「だが、B級は相手に合わせるんじゃない。戦いの流れそのものを、自分で決める」
昨日、グレンは二度の剣で一頭を倒した。
それだけで、ルークはもう一頭へ集中できた。
一人の力が、周囲の全員へ使える時間を作った。
自分に足りないものが、ようやく言葉になった。
「あんたは、最後だけ速さが違った」
ルークはグレンの右足を見た。
「大きく踏み込んでいない。脚の筋肉も、それまでより強く動いたようには見えなかった。それなのに、地面を蹴る力と剣の速さが増えた」
「そこまで見えるのか」
「何をした?」
グレンはすぐには答えなかった。
自分の右手を開き、握り直す。
「特別な技を使ったつもりはない」
「なら、普段から無意識にしている」
「そうかもしれないな」
グレンは打ち込み用の柱へ歩いた。
柱には厚い革が巻かれ、何度も打たれた跡が残っている。
「剣を習い始めた頃は、腕を速く振ろうとしていた」
木剣を構える。
「次に、腰を使えと言われた。足で地面を押せとも言われた。だが、それを一つずつ考えている間は、どこかが遅れる」
グレンが柱を打った。
乾いた音が訓練場へ響く。
強く振ったようには見えなかった。
それでも、地面へ埋められた太い柱がわずかに揺れた。
「今は、腹の奥で力をまとめる。それを足から剣先まで、一度に通すようにしている」
「誰に教わった?」
「言葉だけなら、何人にも教わった。できるようになったのは、長く振り続けてからだ」
グレンは自分の腹を軽く叩いた。
「力を入れた瞬間、ここが熱くなる。それを逃がさないようにすると、身体が一つにつながる」
「熱?」
「そうとしか言えない。高ランクの連中に聞けば、似た感覚を持っている者は多い。腹ではなく、胸や背中だと言う奴もいるがな」
技術として名前があるわけではない。
少なくとも、グレンは知らない。
ルークは柱の前へ立った。
「やってみる」
「肩は」
「振り下ろさなければ痛まない」
「一度だけだ」
ルークは木剣を構えた。
足で地面を押す。
膝を伸ばす。
腰を回す。
肩を出す。
腕を振る。
意識した順番どおりに動いた。
木剣が柱を打つ。
先ほどのグレンより軽い音だった。
「遅い」
グレンが言った。
「全部を順番に動かした」
「見えたから、同じようにした」
「俺の動きを分けて見たんだろう。だが、俺は分けて動かしていない」
分かっている。
分かっていても、身体へ命じるには、足、腰、肩、腕と分けるしかない。
ルークはすぐに木剣を構え直した。
「今度は、順番に動かさない」
「肩は平気か」
「さっきと変わらない」
グレンは左肩の布を見て、少しだけ考えた。
「なら、もう一回だけだ。力んだら止めるぞ」
ルークは柱へ向き直った。
今度は、足から順番に考えない。
柱の革、その中央だけを見る。
そこへ剣を届かせる。
他のことは捨てる。
息を吸う。
腹の奥へ力を集めようとする。
何も起きない。
もう一度、浅く息を吐く。
昨日、灰爪熊へ最後の剣を突き立てた瞬間を思い出した。
傷口。
踏み込む場所。
剣を届かせる一点。
そのときは、足や腰の順番など考えていなかった。
身体の内側で、かすかな熱が生まれた。
腹の奥から、脚と背中へ広がる。
熱が消える前に、ルークは地面を踏んだ。
身体が前へ出る。
腕を振り切る感覚より先に、木剣が柱へ当たった。
先ほどより低く、重い音がした。
柱に巻かれた革が大きくへこむ。
ルークは木剣を止め、右手を見た。
肩の痛みはない。
腹の奥にあった熱は、もう消えている。
「今のだ」
グレンの声から、軽さが消えていた。
「何をした?」
「あんたに聞こうと思っていた」
「俺にも分からん」
グレンは柱のへこみを指で確かめた。
「だが、最初とは明らかに違った」
ルークはもう一度構えた。
「待て」
「感覚が残っているうちに――」
「だからやめろ。今のお前は、その感覚を追う。追えば、また身体を細かく分けて動かす」
グレンはルークの木剣を下げさせた。
「一度できたなら、身体はもう知っている。今日はそれで十分だ」
「次もできるとは限らない」
「できなければ、また考えろ。お前はそれが得意なんだろう」
反論できなかった。
グレンは自分の木剣を片づけ、壁に掛けていた上着を取った。
「目だけなら自信があると言っていたな」
「ある」
「訂正する。目だけの剣士じゃない」
褒められた気はしなかった。
グレンの声が、あまりに真面目だったからだ。
「だが、まだ身体の使い方を知らない。見えたものを全部追うな。選んだ一つへ、身体ごと乗せろ」
そう言い残し、グレンは訓練場を出ていった。
◇
見物していた冒険者たちも、少しずつ自分の訓練へ戻った。
ルークは柱の前に残った。
右手を開き、握る。
腹の奥へ意識を向けても、先ほどの熱は戻らない。
試しに木剣をゆっくり振る。
いつもの速さだった。
一度だけ。
偶然だった可能性もある。
それでも、木剣が柱へ当たるまでの感覚は覚えている。
足、腰、肩、腕。
それぞれを動かしたのではない。
剣を届かせようとしたとき、すべてが同時についてきた。
グレンの最後の踏み込みも同じだった。
筋肉の動きだけでは説明しきれない力が、身体の内側から加わっていた。
その正体は分からない。
だが、見えないから存在しないとは限らない。
ルークは訓練場の隅にある長椅子へ座り、壁に置かれていた紙と炭筆を借りた。
忘れないうちに、見たものを書く。
グレンの右足が地面を踏んだ位置。
膝の角度。
腰、肩、腕へ動きが伝わるまでの短さ。
自分の腹の奥に生まれた熱。
木剣が柱へ当たったときの音。
項目を分け、それぞれの横へ小さな疑問を書き足す。
なぜ、脚の動き以上の速さが出たのか。
なぜ、腕の力以上に柱がへこんだのか。
なぜ、自分にも一度だけ同じ感覚が生まれたのか。
どれにも答えはない。
だが、分からないものを「気のせい」で終わらせれば、次に同じ現象を見ても気づけない。
最後に、「身体が目に追いつかない」と書いた。
これまでは、身体が目に追いつかないのだと思っていた。
だが身体の内側には、まだ引き出せていない速さがあるのかもしれない。
ルークは炭筆を取り直した。
書いたばかりの一文の先頭へ、小さく二文字を加える。
――まだ、身体が目に追いつかない。
紙を折る手は、先ほどよりも軽かった。
ルークはそれを腰の袋へ入れ、木剣を棚へ戻した。




