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4 灰爪熊


 朝の鐘が鳴るより前に、ルークは目を覚ました。


 窓の外はまだ薄暗い。


 未開地に近い辺境都市の朝は早いが、石造りの建物が並ぶ通りに人影はほとんどなかった。東門へ続く大通りには、出発を待つ荷車が二台止まっている。馬の吐く息が白くなり、御者が眠そうな顔で車輪を確かめていた。


 ルークは寝台から起き上がり、卓上の水を飲んだ。


 昨日まで残っていた頭の重さは消えている。


 ラッシュボアとの戦いで剣を酷使し、翌日には死骸の回収へ同行した。その間も、集中を深めた反動は身体の内側に残っていた。視界が鈍るほどではないが、考えを一つに絞ろうとすると、頭の奥に薄い膜がかかったような感覚があった。


 今日は、それがない。


 ルークは壁へ立てかけていた剣を取り、鞘から指二本分だけ抜いた。


 刃こぼれは修復されている。鍛冶師のガラムが曲がりを直し、研ぎ直したばかりだった。柄を握り、右手を開閉する。痛みもない。


 次に、椅子へ置いていた革の上着を着る。


 予備の布。水筒。火打ち石。縄。森で目印を残すための白墨。小さな手当て袋。


 一つずつ位置を確かめ、最後に蜂蜜飴の入った革袋を腰へ結んだ。


 袋を指で押すと、硬い粒が六つある。


 長く集中することになれば、足りないかもしれない。


 そう考えてから、ルークは首を振った。


 今日の目的は、魔物と戦うことではない。


 三日前に見つけた黒い染みと、大きな足跡。その正体を確かめ、森の異変がどこまで広がっているかを調べる。危険なら、戦わずに帰る。


 出発前の取り決めは、それだけだった。


 だが、戦わずに済むと考えるには、手掛かりが揃いすぎている。


 ルークは窓辺へ寄った。


 都市の東には森がある。


 その先には山地があり、さらに向こうには、まだ人の手が十分に届いていない土地が広がっている。都市から見えるのは、低い山並みの一部だけだ。未開地はこの辺り一帯だけではない。既知の街道や国境から遠く離れた場所には、いくつもの空白が残されている。


 高ランクの冒険者は、そうした土地へ入っていく。


 自分も、いつかは。


 そう思い続けてきた。


 だが今は、都市に近い森で起きている異変の正体すら分からない。


 ラッシュボアの蹄に付着していた、見たことのない赤い砂。


 浅い森から逃げる鹿や角兎。


 胸ほどの高さへ擦りつけられた、強い臭いを持つ黒い染み。


 そして雨に崩され、一頭分なのかどうかさえ判断できなかった足跡。


 分からないことがあると、頭の中に棘が残る。


 放っておけばいいと考えるほど、その棘は深くなる。


 ルークは外套を羽織り、部屋を出た。


     ◇


 冒険者ギルドの前には、すでに明かりがともっていた。


 扉の横に設けられた掲示板には、一枚の大きな紙が貼られている。


 東の森への立ち入りを控えること。


 薬草採取、小型魔物の討伐、素材回収を含め、ギルドを通した依頼は一時的に停止すること。


 異常を見つけた場合は、自分で確かめようとせず報告すること。


 早朝にもかかわらず、二人の冒険者が掲示の前で話していた。


「灰爪熊らしいぞ」


「あんな浅い場所に出るのか?」


「だから止められてるんだろ」


 灰爪熊。


 その名を聞きながら、ルークはギルドへ入った。


 黒い染みから採取した臭いと体毛。木の幹に残された爪痕。足跡の大きさ。


 昨日までに照合が進み、森へ入り込んだ大型魔物は灰爪熊である可能性が高いと判定されていた。


 灰爪熊は、上位C級に分類される。


 一頭であれば、C級冒険者が中心となり、複数のD級が援護する編成で討伐できる。少なくとも、ギルドの記録上はそうなっている。


「来ましたね」


 受付の内側から、セラが呼びかけた。


 普段はきちんとまとめられている髪から、短い毛が何本かこぼれている。机の上には地図と報告書が広げられ、まだ片づけられていない杯から湯気が立っていた。


 セラも、いつもより早く来たらしい。


「眠れなかったのか」


「誰のせいだと思っているんですか」


「灰爪熊のせいだろう」


「半分はそうです」


 残り半分について、セラは言わなかった。


 受付前には、調査員のローデンと三人の冒険者が集まっていた。


 最初に目へ入ったのは、大きな丸盾を背負った男だった。


 名はボルク。D級の中では長く活動しており、隊商や調査員の護衛を多く引き受けている。厚い首と広い肩を持ち、腰の片手剣より、背中の盾の方がよく使い込まれていた。


 その隣にいるのは、弓手のイリヤ。


 細身だが、立ち方に隙がない。背負った弓は狩猟用より一回り大きく、矢筒には通常の矢と、飛ぶときに高い音を鳴らす鏑矢が分けて収められている。森での斥候経験も長いと聞いている。


 三人目は、短槍を持った少年だった。


 ルークよりもいくらか年下に見える。


 槍の穂先も革鎧も新しい。だが、装備に着られているわけではなかった。槍を握る手には硬いたこがあり、周囲を見回す目には緊張と、それを上回る期待が浮かんでいる。


「ユアンです」


 ルークが見ると、少年は自分から名乗った。


「先月、D級に上がりました。大型魔物の調査は初めてですが、足を引っ張らないようにします」


「灰爪熊と戦ったことは」


「ありません。赤牙狼なら、昇級試験で倒しました。三人がかりですけど」


 誇張せずに答えたことは悪くない。


「今日、灰爪熊を倒す役目は任せない」


「はい」


 返事は早かったが、ほんの少しだけ肩が下がった。


 それを見て、ボルクが笑う。


「こいつは英雄になりたいらしくてな。D級になった日から、次はC級だ、いつかはS級だとうるさいんだ」


「いつか、ではありません。なります」


 ユアンは真剣だった。


「名前を聞いただけで、みんなが安心するような冒険者になりたいんです。困ったときは、あいつを呼べば何とかしてくれるって、そう思われるような」


 口にした夢だけを聞けば、冒険者へ憧れる子供と変わらない。


 けれど、ユアンはすでに銅色のプレートを腰へ下げている。夢を話すだけではなく、少なくとも最初の階段は自分の足で上ったのだ。


「なら、先に覚えた方がいい」


 ルークは言った。


「帰ってこなかった人間は、次の誰かを助けられない」


 ユアンは一度口を閉じ、それから頷いた。


「はい」


「話を始めてもいいかな」


 ローデンが広げた地図を指で叩いた。


 五人が受付台の前へ集まる。


「三日前、ラッシュボアの死骸が見つかったのがここだ。その北西で、黒い臭いの染みと足跡を見つけた。採取した体毛も含め、灰爪熊でほぼ間違いない」


「個体数は」


 イリヤが尋ねた。


「一頭と見ている」


 ローデンの指が、報告書の横に描かれた足跡の図へ移る。


「輪郭の崩れた窪みが複数あったが、雨の前後に同じ個体が往復し、自分の足跡を踏んだ可能性が高い。歩幅が一定でないのも、同じ場所を行き来したためだろう」


「可能性が高い、か」


 ボルクが言う。


「断定はできない」


「だから確かめに行くんだな」


「そういうことだ」


 今日の目的は、灰爪熊の位置と縄張りの範囲を確かめること。


 浅い森へ留まっている場合は、可能なら討伐する。姿を確認できなかった場合や、想定外の異常があった場合は、痕跡だけを記録して帰還する。


 ローデンの説明が終わると、セラが受注書を受付台へ置いた。


 しかし、ルークへは渡さなかった。


「灰爪熊と遭遇した場合、この人数で対処できますか?」


「一頭なら、以前にも倒した」


 C級へ上がった後、北の林道へ出た灰爪熊を一人で追ったことがある。


 簡単な狩りではなかった。


 厚い皮へ何度も傷を入れ、右前脚の動きが鈍るまで待った。首の付け根へ剣を届かせるまで、半日近くかかっている。


 それでも、一対一なら倒せる。


「俺が前へ出る。ボルクはローデンを守る。イリヤは後方から牽制。ユアンは二人の間を埋めてくれ」


「ルークさん」


 セラの声が少し低くなった。


「今回は、あなたが一人で狩る依頼ではありません」


「分かっている」


「自分が残れば、ほかの人を逃がせる。そういう判断も禁止です」


 ルークは返事をしなかった。


「そこを黙らないでください」


「全員で戻る」


「必ずですよ」


 セラはようやく受注書を差し出した。


 紙を受け取ったルークの手を見てから、もう一度念を押す。


「一頭でなかった場合は?」


「戦わずに戻る」


「道を塞がれても?」


「戦うのは、退路を作るためだけだ」


 その答えを聞き、セラはわずかに息を吐いた。


     ◇


 東門が開く頃には、空が明るくなり始めていた。


 門の外で、ルークは全員の装備を改めて確かめた。


 ボルクの丸盾は、厚い木板を重ね、縁を鉄で補強したものだった。表面にはいくつもの爪痕があるが、腕を通す革帯は新しい。


 イリヤは通常の矢を十八本、鏑矢を三本持っている。


 ユアンの短槍は、穂先にも柄にも問題はない。ただ、革を巻いた握りがまだ手の形に馴染んでいなかった。


「ユアン」


「はい」


「仕留められると思っても、指示がなければ前へ出るな」


「……分かりました」


 一拍遅れた。


「英雄は命令を聞かなくていいと思っているか?」


「思っていません」


「今、少し考えただろう」


「本当に倒せる好機だったら、迷うかもしれないとは思いました」


 正直な答えだった。


「その好機が、お前にだけ見えていると思うな。前にいる人間が動かないなら、動けない理由がある」


 ユアンの表情から、わずかに浮ついたものが消えた。


「覚えておきます」


 ルークは頷き、蜂蜜飴を一粒口へ入れた。


 ボルクが飴へ目を向けたが、何も言わなかった。


 深い集中を続けると、頭が重くなり、ひどく腹が減る。森へ入ってから思考が鈍らないよう、先に糖分を取っておくのがルークの習慣だった。


 甘さが舌へ広がる。


 ルークは森へ向かって歩き出した。


     ◇


 前回の死骸があった場所までは、何も起きなかった。


 先頭をイリヤが歩き、そのすぐ後ろにルークとローデンが続く。ユアンを中央へ置き、最後尾はボルクが守った。


 ルークが先頭へ立たないのは、イリヤの斥候としての腕を見るためでもある。


 彼女は足跡を踏まず、枝を不用意に揺らさない。曲がり角では必ず立ち止まり、地面だけでなく木の上も確かめた。


「右に鹿の跡。少なくとも二頭。森の外へ向かっています」


「新しさは」


「昨日か、今朝です」


 ローデンが手帳へ書き留める。


 さらに進むと、角兎の足跡も見つかった。


 どれも森の奥から外へ向かっている。


「灰爪熊がいるだけで、これほど逃げるのか?」


 ユアンが声を落として尋ねた。


「灰爪熊は何でも襲うわけじゃない」


 ローデンが答える。


「だが、強い臭いで広い縄張りを示す。小さな獣は、危険がある場所に残りたがらない」


「一頭で、この範囲全部を?」


 ルークは木々の間を見た。


 三日前よりも、鳥の声が少ない。


「それを確かめる」


 ラッシュボアの死骸があった場所には、骨と処分した内臓だけが残っていた。


 肉の多くを回収した後、小型の獣や鳥がようやく近づいたらしい。骨は散らされ、地面には新しい爪跡がある。


 赤い砂は、すでにローデンが採取していた。


 この付近の土とも、北の山地で知られている岩とも一致しない。今のところ、出所は分かっていない。


「ここから北西だ」


 ルークは前回つけた印を示した。


 白墨で描いた小さな線が、木の根元に残っている。


 先へ進むにつれ、黒い染みの臭いが強くなった。


 イリヤが足を止める。


「新しい足跡」


 湿った地面に、大きな窪みが残っていた。


 前脚、後ろ脚。


 灰爪熊のものと考えて間違いない。


「爪の一本が内側へ曲がっている」


 ルークは小さい方の跡を指した。


 その三つ先にも、同じ曲がり方をした跡がある。


「同じ個体ですね」


 イリヤが言う。


「こっちは違う」


 ルークは少し離れた窪みへ移った。


 爪の向きがまっすぐで、後脚の幅も広い。


 雨で輪郭が崩れた跡では見分けられなかった違いが、今は残っている。


 ローデンが二つの跡を見比べた。


「二頭か」


 誰もすぐには答えなかった。


 出発前に決めた条件に当てはまる。


 戦わず、戻る。


「引き返す」


 ルークは迷わず告げた。


 ユアンも、今度は不満を見せなかった。


 ボルクを先頭にして、来た道を戻る。ローデンをその後ろへ置き、イリヤとユアンを中央へ入れる。ルークは最後尾に立った。


 まだ姿は見ていない。


 足跡だけなら、二頭とも森の奥へいる可能性もある。


 だが、最初の曲がった爪跡は新しかった。窪みの底へ水が溜まっていない。つい先ほど通った跡かもしれない。


 来た道を半分ほど戻ったとき、前方でボルクが止まった。


 森の右側から、低い唸り声が聞こえた。


 木々の間に、四肢を地面につけた灰色の巨体がいた。


 大人が両腕を広げたほどもある胴。岩のように太い前脚。その先に伸びた四本の灰色の爪。


 灰爪熊は太い前脚を踏ん張り、頭を低くして道を塞いでいた。


「走るな」


 ルークは小さく言った。


「正面を見たまま、左へ下がる。あの倒木の脇を抜ければ、道が広くなる」


 一行がゆっくり動き始める。


 灰爪熊は追ってこない。


 だが、視線だけは外さなかった。


 ここを抜ければ距離を取れる。


 そう思ったとき、後方の茂みが揺れた。


 もう一頭が姿を現した。


 二頭が示し合わせて挟んだわけではない。


 片方は臭いを残した木の近くにいた。もう片方は、別の方向から縄張りへ戻ってきた。それだけだ。


 しかし結果として、ルークたちは二頭の間にいる。


「倒木まで下がれ!」


 ルークは剣を抜いた。


     ◇


 最初に動いたのは、道の前方にいた大きな個体だった。


 頭を下げ、地面を蹴る。


「ボルク、ローデンを連れて行け! イリヤとユアンは二人から離れるな!」


 ルークは仲間たちの横を抜け、灰爪熊の正面へ出た。


 巨体が迫る。


 熊の右肩が沈んだ。


 次に来るのは右の前脚。


 ルークは左へ逃げず、熊の内側へ踏み込んだ。


 爪が振り下ろされる前に、鼻先へ剣を走らせる。


 浅い傷が開き、灰爪熊が顔を振った。


 それだけで突進の向きが変わる。


 仲間たちへ向かっていた巨体が、ルークを追った。


 熊の前脚が横から迫る。


 周囲の動きが、わずかに遅く見え始めた。


 爪の向き。


 肩の動き。


 踏み込んだ前脚へ体重が移る速さ。


 見えている。


 ルークは剣を斜めに当て、爪を外側へ滑らせた。


 まともに受ければ、剣ごと腕を折られる。


 受け流しても、衝撃は消えない。


 手首から肩までが痺れた。


 それでも、灰爪熊の脇が開く。


 前脚の付け根へ刃を入れる。


 一度では浅い。


 あと半歩踏み込めば、動きを鈍らせられる。


 その瞬間、背後でユアンの声がした。


「もう一頭が来ます!」


 ルークは剣を押し込むのをやめた。


 振り返る。


 二頭目の灰爪熊が、倒木へ下がろうとする仲間たちへ近づいていた。


 狙いを定めているわけではない。


 目の前で動く複数の人間と、向けられた盾や槍に興奮し、最も近いものへ向かっている。


「イリヤ、音を!」


 鏑矢が放たれた。


 高い音を鳴らしながら熊の横を抜け、木へ突き刺さる。


 二頭目が顔を向けた。


「今のうちに下がれ!」


 ボルクがローデンを倒木の陰へ押し込み、盾を構える。


 ユアンも二人の横へついた。


 しかし、灰爪熊はすぐに音への興味を失った。


 頭を戻し、最も近くにいたユアンへ向かう。


「前へ出るな!」


 ルークは一頭目の横を抜け、二頭目へ走った。


 背後から土を蹴る音が追ってくる。


 一頭目も止まっていない。


 二頭目の爪が持ち上がる。


 ユアンは短槍を突き出しながら下がろうとした。


 だが、足元には倒木から伸びた枝がある。


 少年の踵が枝へ触れた。


 身体がわずかに傾く。


 ルークはその変化を見た。


「伏せろ!」


 ユアンが考えるより先に身を縮める。


 ルークは二人の間へ滑り込み、剣の腹を熊の前脚へ当てた。


 軌道を逸らす。


 灰色の爪が革の上着を裂き、左肩へ浅く食い込んだ。


 熱が走る。


 血が服の内側へ流れた。


「ルーク!」


「立て! ボルクの後ろへ戻れ!」


 ユアンが短槍を支えにして立ち上がる。


 ルークは二頭目の鼻先を斬り、注意を自分へ向けた。


 すぐ背後で、一頭目が吠える。


 二頭の動きだけなら、追える。


 前脚が上がる前の肩の沈みも、突進の直前に浅くなる呼吸も見えている。一頭をもう一頭との間へ誘い、互いの巨体で進路を塞がせることもできた。仕留めるには時間がかかるが、二頭だけなら、すぐに崩されることはない。


 問題は、灰爪熊だけを見ていられないことだった。


 倒木の陰にいるローデン。


 盾を構えるボルク。


 矢をつがえるイリヤ。


 足場を直そうとしているユアン。


 誰が、どちらの熊に近いのか。


 どの方向へ避ければ、退路を塞がないのか。


 すべてを同時に見続けなければならない。


 深く集中するほど、世界はゆっくりに見える。


 だが、自分の身体まで速くなるわけではない。


 一頭目が左から迫る。


 二頭目は正面。


 ルークは正面の熊へ斬りつけると見せ、横へ抜けた。


 二頭の位置が重なる。


 互いの巨体が邪魔になり、一頭目の前脚が止まった。


「ボルク、今だ!」


 ボルクが盾を構えたまま前へ出る。


 倒木の陰からローデンを移し、来た道へ戻そうとする。


 イリヤが通常の矢を放つ。


 矢は二頭目の頬へ浅く刺さった。


 灰爪熊が怒り、顔を上げる。


「ユアン、ローデンから離れるな!」


「はい!」


 今度は、好機に見えても前へ出なかった。


 ユアンはローデンの横へ残り、短槍を熊へ向けている。


 指示どおりだ。


 それでいい。


 一頭目がルークへ突進する。


 今度は、仲間たちと反対側へ誘導できる。


 ルークはぎりぎりまで引きつけた。


 右前脚が地面を踏む。


 左肩が遅れる。


 最初につけた傷のせいで、踏み込みがわずかに崩れている。


 ルークは身体を半身にし、熊の首元へ剣を入れた。


 刃が厚い毛皮を抜ける。


 まだ浅い。


 だが、同じ場所へもう一度届けば仕留められる。


 熊が身体を返す前に、ルークは踏み込もうとした。


 その視界の端で、丸盾が大きく傾いた。


 二頭目がボルクへ体当たりしている。


 盾は耐えた。


 だが、押されたボルクの足が地面を滑っている。その後ろにはローデンがいる。


 今、目の前の一頭へ踏み込めば倒せるかもしれない。


 その間に、もう一頭が盾を押し切る。


 ルークは好機を捨てた。


 剣を引き抜き、倒木へ走る。


「イリヤ、右へ射ろ!」


 矢が熊の右側へ刺さる。


 灰爪熊は矢を避けるように左へ寄った。


 ボルクの盾へ、さらに力がかかる。


 ルークは熊の横から剣を入れた。


 深くはない。


 仕留めるためではなく、こちらへ向かせるための傷だ。


 熊がボルクから離れ、ルークへ前脚を振る。


 完全に避ければ、その先にイリヤがいる。


 ルークは後ろへ跳ばず、剣で軌道を外した。


 また、腕に衝撃が走る。


 右手の感覚が薄くなった。


 頭の奥が熱い。


 集中を続けすぎている。


 腰の袋から蜂蜜飴を出す余裕はない。口の中に残っていた小さな欠片を奥歯で噛んだ。


 甘さと血の味が混じる。


 一頭目が追いついてくる。


 二頭目も目の前にいる。


 二頭だけなら、まだ対応できる。


 だが、仲間四人の位置と退路まで守りながら、二頭を仕留めるだけの余裕がない。


 それが、今の自分の限界だった。


 森の南側で、枝の折れる音が続いた。


 熊ではない。


 足音が軽く、間隔が一定だ。


 誰かが速い速度で近づいてくる。


「そのまま伏せていろ!」


 男の声が飛んだ。


 倒木の横から、一人の剣士が駆け込んできた。


 長身の男だった。


 革鎧の上に軽い胸当てを着け、腰にはルークのものと大きく変わらない剣を下げている。


 男は走る勢いを落とさず、ボルクの盾へ向かっていた灰爪熊の横へ入った。


 熊が顔を向ける。


 前脚が持ち上がるより早く、男の剣が首元へ入った。


 厚い毛皮と、その下の筋肉まで一度に断つ。


 灰爪熊が身体を返そうとする。


 男はすでに剣を引いていた。


 同じ場所へ、二度目の刃が走る。


 巨体が前脚から崩れた。


 二撃。


 ルークが浅い傷を重ね、注意を引き続けていた魔物が、二度の剣で地面へ沈んだ。


 見ている場合ではない。


 残った一頭が、つがいの倒れる音へ反応した。


 首を巡らせ、駆けつけた男へ向かおうとする。


 一頭になった。


 それだけで、ルークの視界から余計なものが消えた。


 右前脚につけた傷。


 首元から流れる血。


 呼吸のたび、左の脇腹だけが遅れて膨らむ。


 熊が男へ踏み出す。


 傷を負った右前脚が、最初より低く落ちた。


 次の一歩で、巨体が右へ傾く。


 ルークはその前に動いた。


 熊の正面ではなく、傷のある右側へ入る。


 沈んだ首元へ踏み込み、先ほど斬った傷へ剣を突き立てた。


 硬い手応えが柄まで返る。


 ルークは両手で柄を握り、暴れる熊が身を捻る方向へ刃を返した。開いていた傷口が、さらに深くえぐれる。


 灰爪熊が吠え、巨体を振り回す。


 ルークは刃を引き抜くと、巻き込まれる前に横へ跳んだ。


 灰爪熊は数歩進み、倒木へ肩からぶつかった。


 すぐには近づかない。


 剣を構えたまま、荒い呼吸を数える。


 一度。


 二度。


 三度目の息は、最後まで続かなかった。


     ◇


 最初にしたのは、仲間の怪我の確認だった。


 ボルクは盾を持つ腕を痛めているが、骨は折れていない。


 ユアンは倒木の枝へ踵を取られたときに足首をひねっていた。歩けないほどではない。イリヤとローデンに怪我はなかった。


 ルーク自身の左肩には、爪が浅く通った傷がある。


 血は出ているが、革の上着が衝撃を弱めていた。手当てをすれば、都市まで戻れる。


 二頭の灰爪熊が、少し離れて倒れている。


 一頭の首元には、駆けつけた男が残した二本の深い剣創。


 もう一頭には、ルークが戦いの中で重ねた細い傷と、最後に首元へ突き立てた深い傷が残っていた。


「助かった。恩に着る」


 ルークは男へ言った。


 それだけだった。


 視線は、男が倒した灰爪熊の首元に残る二本の傷から離れなかった。


 自分も一頭は倒した。


 だが、同じ魔物を仕留めるまでに必要とした手数が違いすぎる。


 狙った場所は、自分とほとんど変わらない。


 使っている武器にも、大きな違いはない。


 違うのは、踏み込みの速さと、刃を深く通す力だった。


 剣を握る右手には、爪を受け流した痺れが残っている。


 ルークは指を一度だけ握り直した。


「助けてくれて、ありがとうございます!」


 ユアンが勢いよく頭を下げた。


「あんな灰爪熊を、たった二撃で……。B級って、やっぱりすごいんですね」


 男の腰に下がった銀色のプレートを見て、目を輝かせている。


「俺も、いつかあなたみたいな冒険者になります」


 男は少し困ったように笑った。


「そんなことないさ。俺より腕の立つC級もいる」


「B級より強いC級が?」


 ユアンは素直に驚いた。


 強者なりの謙遜だと思っているのかもしれない。


 だが、ルークは聞き流せなかった。


 C級とB級の差は、プレートに刻まれた一文字だけではない。


 危険な魔物を正面から倒し、生きて帰るための地力が違う。


 昇級を断っているC級はいる。実力の判定が遅れる場合もある。


 それでも、今目の前で灰爪熊を二撃で倒した男より強い者が、長くC級に留まっているのは不自然だった。


「そのC級を知っているのか」


「一度だけ、依頼先で一緒になった」


 男は剣についた血を拭い、鞘へ収めた。


「俺が相手の動きを見切るより早く、そいつは懐へ入っていた。剣を振ったのは一度だけだ。次の瞬間には、もう終わっていた」


 男は、倒れた灰爪熊の傷口へ目を向けた。


「見事な剣筋だった。あれは俺には真似できない」


「名前は?」


「聞いたが、名乗らなかった。C級のプレートを見せただけだ」


 男は右手を差し出した。


「グレンだ。西の街道で護衛を終えて、今朝、都市へ戻った」


 ルークも剣を収め、差し出された手を握った。右手にはまだ痺れが残っていたが、表情には出さなかった。


「ルークだ」


「戻ったばかりなのか」


「ギルドに報告へ寄ったら、お前たちを追ってくれと頼まれた。受付のセラという女性からな」


 セラの顔が浮かんだ。


 出発前の様子を思えば、追加の戦力を探したこと自体は不思議ではない。


「それと、さっき話したC級の後押しもあった」


 ルークは顔を上げた。


「同じ男なのか?」


「俺は直接会っていない。俺が戻る少し前に、ギルドへ来たそうだ。受付が聞いた人相と装備は、以前会った男と一致している」


 グレンは、セラから聞いた言葉をそのまま繰り返した。


「『あの辺りへ、俺も別の調査で入っていた。どうにも森がきな臭い。追加の戦力を送れるなら、送った方がいい』とな」


 森へ通じる依頼は、ラッシュボアが見つかった後から停止されている。


 今回の再調査隊以外に、別の調査が出されたとは聞いていない。


 そもそも、前回の現場を知るルークがリーダーに選ばれたのは、ほかに森へ入った調査役がいなかったからだ。


 では、そのC級は何を調べていた?


 誰の許可で、注意が出ている森へ入った?


「どんな顔だった」


「俺が前に会ったときの話なら――」


「ルーク、グレン!」


 ローデンの声が飛んだ。


 倒れた灰爪熊の向こうで、二頭の足跡を調べている。


「来てくれ。前に見つけた窪みの理由が分かった」


 会話はそこで途切れた。


 二頭は、同じ木へ何度も臭いを擦りつけていた。


 大きい個体の足跡を、小さい個体が踏み、その上を雨が崩している。狭い範囲を何度も往復したことで、一頭の不規則な足跡のように見えていたのだ。


 鹿や角兎、ラッシュボアが浅い森へ押し出された理由も、これで説明できる。


 一頭ではなく、二頭の灰爪熊が広い縄張りを作っていた。


 ただし、なぜ本来より浅い場所へ二頭が移ってきたのかまでは分からない。


 赤い砂の出所も残ったままだ。


 そして、立ち入りを止められた森で「別の調査」をしていたC級冒険者のことも。


     ◇


 二頭の死骸は場所を記録し、後日、回収班を出すことになった。


 日が傾く前に森を出るため、持ち帰るのは討伐証明となる爪、ローデンが採取した体毛と臭いの試料だけにする。


 帰路は、グレンも一緒だった。


 ユアンは足首をかばいながらも、何度もグレンへ質問している。


 いつB級へ上がったのか。


 未開地へ行ったことはあるのか。


 S級冒険者と会ったことはあるのか。


 グレンは面倒がらず、一つずつ答えていた。


 ルークは少し後ろを歩き、その足運びを見ていた。


 西の街道から都市へ戻り、そのまま森まで走ってきたはずなのに、呼吸も歩幅も乱れていない。


「いつ都市を出た」


 ルークが尋ねる。


「お前たちを追ってか? 朝の鐘が鳴ってしばらくしてからだ」


「それで追いついたのか」


「お前たちは五人で、痕跡を調べながら進んだ。俺は一人で、残された印を追っただけだ。荷物も軽い」


「最後は灰爪熊の声が聞こえた。木の折れる音もな。居場所を探す手間まで省いてもらった」


 条件が違うのは分かる。


 それでも、自分が同じ速さで森を走り続けられるとは思えなかった。


 グレンは強い。


 剣を交えなくても、それは十分に分かる。


「グレン」


「なんだ」


「稽古をつけてくれ」


 前を歩いていたユアンが振り返った。


 グレンも少し意外そうな顔をする。


「お前は一頭倒しただろう」


「二頭だったら、全員を守れなかった」


「C級一人でどうにかする状況ではない」


「分かっている」


 ルークは答えた。


「それでも、見えていた。どこを斬ればいいかも、いつ踏み込めばいいかも。だが、俺が何度も傷を重ねた相手を、あんたは二度で終わらせた」


 口にすると、右手の痺れが強くなったような気がした。


「その差を、近くで見たい」


 グレンはしばらくルークを見た。


 やがて、わずかに笑う。


「いい目をしているな」


「目だけなら、自信がある」


「なら、明日の朝。ギルドの訓練場へ来い。一度だけ相手をしてやる」


 ルークは頷いた。


 腰の袋へ手を入れ、蜂蜜飴を一粒取り出す。


 指先に力が入りにくく、最初の一度はつまみ損ねた。


 二度目で拾い上げ、口へ入れる。


 甘さが広がっても、右手に残る痺れまでは消えなかった。



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