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3 森が呑み込んだ足跡



 日の出前の冒険者ギルドは、昼間よりも広く見えた。


 依頼書を眺める者も、酒場で騒ぐ者もいない。壁際の卓には椅子が逆さに載せられ、昨夜洗われた床板が、灯りの少ない室内で鈍く光っている。


 厨房からだけ、鍋の蓋が鳴る音がした。


 ルークは窓際の卓で、豆と燻製肉の煮込みを食べていた。


 黒パンも二切れある。甘いものだけではない。セラに見られても、今日は何も言われない朝食だった。


 もっとも、煮込みを食べ終えたあとで蜂蜜飴を一粒口へ入れたため、結局は呆れた顔をされるかもしれない。


 頭痛はもう消えている。


 剣も直った。水筒は満たし、保存食も火を起こす道具も持ってきた。腰の袋には細縄と手袋、革張りの手帳が入っている。


 忘れ物はない。


 それでもルークは、足元へ置いた荷物をもう一度確かめた。


 気になっているのは、自分の荷物ではなかった。


「おはようございます」


 扉を開けて入ってきたのは、ノルだった。


 昨日よりも大きな背負い枠を背負っている。木の枠へ太い縄を巻き、底には折り畳んだ布が括りつけられていた。


「早いな」


「遅れるのが怖くて。ほとんど眠れませんでした」


 ノルは笑おうとして、うまく笑えなかった。


 ルークは背負い枠を見た。


 左右の肩紐は、昨日とは違って同じ長さになっている。胸の前を留める横紐も追加されていた。荷を載せていない今なら、枠は真っすぐ背中へ収まっている。


「直したのか」


「はい。昨日、教えてもらったので。古い縄しかなかったんですけど、二重にしました。これなら大丈夫ですか?」


「荷を載せるまでは分からない」


「そうですよね……」


「だが、昨日よりはいい」


 それだけで、ノルの肩から余計な力が抜けた。


 続いてエドが来た。腰には解体用の刃物を三本差し、厚手の前掛けを丸めて背負っている。肉屋の家で使っているものを借りてきたらしい。


 ミナは最後だった。


 遅刻ではない。集合時刻より四半刻も早い。背負った短弓の弦は張り直され、昨日ルークが指摘した箇所には新しい蜜蝋が薄く塗られていた。


 三人とも、昨日より装備が整っている。


 言われたから形だけ直したのではない。何が危ないのか、自分なりに考えた跡があった。


「全員いますね」


 受付の奥から出てきたセラが、三人を順に数えた。


 いつもの受付用の服ではなく、まだ開館前の仕事着を着ている。手には依頼書と、小さな木札を持っていた。


「調査員も、もう来ています」


 セラが階段の方へ顔を向ける。


 二階から降りてきたのは、白髪交じりの男だった。


 昨日、資料室で赤い砂を調べていた職員である。


 今日は机へ向かう服装ではなかった。革の上着の上から道具袋を斜めに掛け、腰には短い鉈を下げている。長い木の杖には、指幅ごとに目盛りが刻まれていた。


「また会ったね」


 男はルークへ言った。


「現地へ行くのは別の調査員だと思っていた」


「砂を見たのは私だからね。人から説明を聞くより、自分で見た方が早い」


 男は杖を脇へ置き、四人へ向き直った。


「私はローデン。ギルドでは地形と魔物の生息域を調べている。剣の腕は期待しないでほしい」


「護衛が必要になる場所までは行かない」


「そう願っているよ」


 ローデンは穏やかに答えたが、腰の鉈も靴もよく使い込まれていた。森に慣れていない人間の装備ではない。


 セラが依頼書を卓へ広げた。


「目的はラッシュボアの死骸から、利用できる素材と肉を回収すること。それから、出現地点周辺の安全確認と痕跡の調査です」


 エドたちの表情が引き締まる。


「ルークさんが道案内と全体の安全確認。ローデンさんが調査。エドさんが解体の中心、ミナさんが周辺警戒、ノルさんが運搬を担当します。危険を感じた場合、回収物は捨てて構いません。全員で帰還することを最優先してください」


 セラは最後の一文を、ほかよりゆっくり言った。


 低ランクの依頼は、危険な魔物と戦わない。


 だからといって、安全を約束された仕事ではない。森へ入れば、依頼書に書かれていないことが起きる。昨日までいなかった魔物が、今日はいることもある。


「回収依頼は、倒された魔物から価値を拾い上げる仕事です」


 セラが三人を見る。


「討伐できる冒険者だけで、ギルドの仕事が成り立っているわけではありません。ですが、価値のある素材より、皆さんの命の方が高い。それを忘れないように」


「はい」


 三人の返事が重なった。


 セラは木札をルークへ渡した。依頼を受けた一行であることを示す通行札だった。


「日没までに戻らない場合は、捜索隊を手配します」


「昼過ぎには戻る」


「昨日も、すぐ戻るつもりで日が暮れましたよね」


「昨日はラッシュボアが予定より長く生きていた」


「今日は予定より長く調べないでください」


 セラの視線が、ルークの腰にある手帳へ向いた。


 何も言っていないのに、考えていることを読まれたらしい。


「危険なら戻る」


「危険でなくても、時間になったら戻ってください」


 条件が一つ増えた。


 ルークは答える代わりに、蜂蜜飴を噛み砕いた。


     ◇


 東門を出る頃、空がようやく明るくなり始めた。


 森の向こうから昇る朝日が、畑の畝を一本ずつ照らしていく。葉先に溜まった露が光り、用水路からは白い靄が立っていた。


 街道にはまだ人が少ない。


 野菜を積んで都市へ向かう荷車とすれ違い、眠そうな門衛へ通行札を見せる。背負い枠を持った低ランク冒険者が三人もいるため、昨日のラッシュボアを回収する一行だとすぐに分かったらしい。


「無理はするなよ」


 門衛は三人へ言い、それからルークを見た。


「お前が一番な」


「なぜ俺に言う」


「分からないなら、なおさらだ」


 門衛は笑いながら手を振った。


 森までは街道をしばらく進み、途中から細い農道へ入る。


 先頭はルーク。その後ろにミナとローデン、エド、ノルの順で歩いた。


 ノルの背負い枠は空だが、帰りには肉と素材を載せる。エドも一部を背負うため、往路の荷は軽い。足取りも速かった。


「もっと怖い場所だと思っていました」


 畑の間を歩きながら、ノルが言った。


「何がだ」


「ラッシュボアが出た森です。町を出たら、すぐに木が真っ暗に茂っているような」


「森は昨日までと同じだ」


「でも、あんな魔物がいたんですよね」


「一頭の魔物がいたからといって、地面も木も急には変わらない」


 ルークは前を向いたまま答えた。


「だから見落とす。変わっていないように見える場所で、何が変わったかを探すんだ」


 ノルは少し黙り、道端の草へ目を向けた。


「……何か変わっていますか?」


「ここはまだ畑だ」


「あ、はい」


 後ろでエドが吹き出した。


「笑うな。問いを持つのは悪くない」


 ルークが言うと、今度はエドが口を閉じる。


 ローデンだけが、杖をつきながら楽しそうに笑っていた。


「君は教えるのが上手いのか、下手なのか分からないね」


「答えを言えば、次も聞くだけになる」


「なるほど。では私も黙っていよう」


 農道の先で、畑が途切れた。


 低い草地を挟み、その向こうから森が始まっている。


 都市に近い側は、採取に入る者が多い。人が歩く細道が何本もあり、木の幹には方角を示す刻み目が残されていた。奥地の森とは違い、陽光も地面まで届いている。


 ルークは森の手前で足を止めた。


「ここから先へ入る前に、何を見る」


 三人が顔を見合わせる。


 最初に答えたのはミナだった。


「足跡……ですか」


「ほかには」


「折れた枝。魔物の糞。血」


 エドが指を折りながら挙げる。


「風向き」


 ノルが言った。


「匂いで気づかれるから」


「悪くない。だが、入る前なら森全体を見ろ」


 ルークは木々の上を指した。


「鳥が飛んでいる。鳴き声もする。森の縁に小動物の穴がある。昨日、ラッシュボアを倒してからここまでの間に、大きな魔物が森の外へ出た跡もない」


 地面だけを見ていた三人が、一斉に顔を上げる。


「痕跡は足元にだけ残るわけではない。急に鳥が鳴きやめたら、近くで何かが動いた。枝が揺れれば、風か獣が通った。森へ入る前から拾えるものを、入ってから探すな」


「はい」


「それと、俺の足跡だけを見るな。自分で帰り道を覚えろ」


 三人とも森を見ながら頷いた。


 ルークは先頭に立ち、朝の森へ足を踏み入れた。


     ◇


 森へ入ってしばらくは、薬草採取の者たちが使う道を進んだ。


 湿った土に、今朝ついたばかりの靴跡がいくつか残っている。ギルドが浅い森の依頼を止めているため、冒険者のものではない。近くの村人が、森の縁まで薪を拾いに来たのだろう。


 歩き慣れた道ほど、注意が緩む。


 ルークは昨日、自分がつけた印を確認しながら進んだ。


 三本枝の若木。根元が二つに分かれた樫。半分だけ苔に覆われた岩。


 曲がる場所で一度止まり、後ろの三人が同じ目印を見ているか確かめる。


「右に細い道があります」


 ミナが言った。


「採取に使う道か?」


「いえ……獣道だと思います。人が通るには枝が低すぎるから。それに、足跡があります」


 ミナは道を外れず、離れた場所から地面を指した。


 丸い足跡が、低木の下へ続いている。


「角兎だ」


 エドが言った。


「前に回収したことがあります。爪が四本で、後ろ脚の跡が長い」


「新しいか」


 ルークが聞く。


 エドはすぐに答えず、腰を落とした。道から足を踏み出す直前で止まり、跡を避けて横へ回る。


「土が乾いていない。縁も崩れていないから、今朝……だと思います」


 昨日の雨は夜半より前に止んでいる。


 跡の中には水が溜まっておらず、落ち葉も入っていない。判断は間違っていなかった。


「この辺りに角兎がいるのは普通ですか?」


 ノルが尋ねた。


「いる。だが、この跡は森の奥から外へ向かっている」


「朝だから、餌を探しに出たんじゃ?」


「その可能性もある」


 ルークは答え、手帳へ位置を書いた。


 一つの足跡だけで、異変とは決められない。


 都合のいい答えへ急ぐと、目の前にあるものまで、その答えに合わせて見えてしまう。


「分からないものは、分からないまま覚えておけ」


「覚えて、それからどうするんですか?」


「同じものが増えたときに考える」


 ノルは角兎の足跡を何度も振り返りながら歩き出した。


 さらに奥へ進むと、人の靴跡が減った。


 代わりに、昨日ルークが追ったラッシュボアの跡が現れる。


 大きな蹄が湿った地面へ深く沈み、落ち葉を左右へ押し退けていた。真っすぐ進んではいない。木を避け、低木を踏み潰し、ときおり急に方向を変えている。


「これが、ラッシュボアの足跡……」


 ミナが声を落とした。


 足跡だけで、角兎の身体より大きい。


「近づいて見る前に、周りを見ろ」


 ルークが言うと、三人は足を止めた。


 ミナは弓へ手を伸ばし、エドは木々の間を見回す。ノルは来た道を確認した。


 昨日ルークが戦った個体は死んでいる。


 だが、この跡がその個体のものだと決めつければ、別の一頭が近くにいても気づけない。


「鳥は鳴いています」


 ミナが言った。


「右奥で、枝が一度揺れました。でも、小さいです」


「風は左からです」


 ノルが続ける。


 エドは地面を見ていた。


「新しい蹄跡は……見えません」


「なら、近づいていい」


 三人が跡を囲む。


 ルークは答えを言わずに待った。


 最初に違いへ気づいたのは、またミナだった。


「こっちと、向こうで深さが違います」


 森の奥側にある跡は深く、歩幅も長い。都市へ近づくにつれ、蹄の沈み方が少し浅くなり、左右への揺れが増えている。


「奥にいたときの方が、速く走っていた」


「何かを追っていたんですか?」


「逆かもしれない」


 ルークは、木の幹に残った泥を指した。


「走りながら肩をぶつけている。餌や獲物を追うなら、これほど進路を乱さない」


「じゃあ、逃げていた?」


 エドの問いに、ルークはすぐ答えなかった。


 ローデンが目盛りのついた杖を、最も深い足跡へ差し入れる。


「昨日聞いた推測より、よほど切迫していたようだね」


「何から逃げたかは分からない」


「分からないことが増えるばかりだ」


「増えたなら、前よりは分かっている」


 ローデンは一瞬きょとんとし、それから笑った。


「確かに、そのとおりだ」


     ◇


 血の匂いを感じたのは、それから半刻ほど進んだ頃だった。


 昨日ほど濃くはない。湿った土と腐り始めた肉の匂いに変わり、風が吹いたときだけ鼻へ届く。


「近い」


 ルークは立ち止まった。


 エドが前へ出ようとする。


「死骸へ真っすぐ近づくな」


 その足が止まった。


「血の匂いは、ほかの魔物も嗅いでいる。先に周囲を一周する」


 一行は風下を避け、大きく回り込んだ。


 ラッシュボアの死骸はまだ見えない。だが、土には夜の間についた細かな痕跡が残されている。


 細い五本指の跡は森鼠。爪の長い小さな足跡は穴熊。


 頭上では二羽の黒い鳥が枝へ止まり、こちらの様子を窺っていた。


「死骸に寄ってきたんですね」


 ノルが小声で言う。


「近くまではな」


「近くまで?」


 ルークは地面を指した。


 穴熊の足跡は死骸へ向かっている。だが、途中で急に向きを変え、来た方角へ戻っていた。


 森鼠の跡も、一定の距離から先にはない。


「食べなかったんですか」


「食べられなかったのかもしれない」


 ミナが弓を構え直した。


 周囲に大型の魔物が潜んでいるなら、小さな獣は近づかない。


 ルークは呼吸を浅くし、視界を広げた。


 一本の木を凝視しない。


 枝の隙間、下草の高さ、光の途切れ方。動いているものではなく、動くはずなのに止まっているものまで拾う。


 時間が引き伸ばされるほど深くは集中しない。


 必要なものだけを見る。


 左の茂みで、葉の裏側が白く返った。風だ。


 右奥の枝から、雫が一つ落ちる。


 黒い鳥が首を傾げる。


 獣の呼吸はない。


 だが、別の匂いがあった。


 血と腐肉に混じる、鼻の奥へ張りつくような臭い。


「この木です」


 ミナが声を抑えて言った。


 死骸から二十歩ほど離れた樹皮に、濡れた黒い染みがついていた。地面からルークの胸ほどの高さまで、縦に擦られている。


 ローデンが近づき、直接触れずに匂いを確かめた。


「縄張りを示す臭いだ。灰爪熊に似ているが、それより薄い」


「薄いなら、小さいんですか?」


 ノルが聞く。


「古い可能性もある。匂いの強さだけでは決められないよ」


 ローデンは樹皮の染みを木べらで少量取り、蓋つきの小さな器へ入れた。


「少なくとも、穴熊たちはこれを嫌ったらしい」


「まだ近くにいますか」


「分からない」


 ルークが答えた。


「だから長居はしない。解体中も二人は周りを見る」


 ようやく、ラッシュボアの死骸へ近づいた。


 昨日倒れたときと同じ向きで、巨体が木の根元へ横たわっている。傷口の血は黒く固まり、腹の辺りには蠅が集まっていた。夜露で濡れた毛が、ところどころ束になっている。


「こんなに大きいのか……」


 エドは驚きながらも、すぐに手袋をつけた。


 まず腹の張り、目の濁り、口内の色を確かめる。短刀を入れる前に、腐敗の進み方を見ている。


 ルークは口を出さなかった。


 動物の解体だけなら、エドの方が経験を積んでいる。冒険者としてのランクが上だからといって、すべての仕事で自分が上手いわけではない。


「腹側は傷み始めています。内臓は全部捨てます。背と後脚の肉は、開いて匂いを見ないと」


「任せる」


 短く答えると、エドが目を瞬いた。


「ルークさんが決めないんですか?」


「解体担当はお前だろう」


 エドは自分の刃物を見てから、大きく頷いた。


「はい。やります」


 エドとノルが死骸の処理を始める。


 ミナは少し離れた場所で弓を持ち、森の奥を見張った。


 ルークはローデンとともに、ラッシュボアの蹄を調べた。


 右前脚には、昨日砂を掻き出した跡がある。表面に残っていた粒の多くは、夜露と泥に流されていた。


「残っていないか」


 ローデンが木べらを差し込む。


「奥にある」


 ルークは蹄の内側を指した。


 黒い泥の下に、細い赤色が見えた。


 木べらで泥を除くと、乾いた砂が数粒だけ現れた。


 昨日、資料室で見たものと同じ色。同じ細かさだった。


「確かに、森の土ではない」


 ローデンは赤い粒を紙へ落とし、何度か角度を変えて眺めた。


「右前だけではない」


 ルークは後脚へ回った。


 左後脚の蹄にも、赤い砂が入り込んでいる。表面へ偶然ついたのではない。乾いた砂地を、ある程度の距離歩いている。


「この辺りの道に、赤土を運ぶ荷車は?」


「農地へ入れる土なら記録がある。だが、この森を荷車は通れない」


「遠征隊が落とした可能性は」


「捨てた砂の上を、都合よく四本の脚で踏んだのならね」


 ローデンはそう言いながらも、可能性を消さず手帳へ書き込んだ。


 分からないものを、すぐに異常と呼ばない。


 昨日、資料室で三種類の砂を並べたときと同じだった。


「ルークさん」


 周囲を見張っていたミナが呼んだ。


「こっちに、足跡があります」


 死骸の北側。低木の陰に、地面が丸く窪んだ場所があった。


 昨日、ラッシュボアを追う途中で見たものと似ている。


 蹄ではない。爪の跡も、肉球の形もない。人の靴跡より広く、縁が崩れているため輪郭は読めなかった。


 一つだけではない。


 落ち葉を慎重に避けて見ると、同じくらいの間隔で二つ、三つと森の奥へ続いている。


「大きな魔物ですか?」


 ミナが尋ねる。


「そう見える」


 ルークは最初の窪みへ手を近づけ、触れずに幅を測った。


「だが、歩幅が狭い」


 身体の大きな獣なら、足跡同士はもっと離れる。これほど重いものが、この歩幅で進む姿を想像しにくい。


 ローデンが目盛りの杖を横へ置いた。


「一つの足跡ではないかもしれないね」


「二本以上の脚が、近い場所を踏んだ?」


「あるいは、何かを引きずった跡の一部か」


 輪郭が崩れ、昨日の雨も受けている。今ある情報だけでは決められない。


 ルークは目を細めた。


 窪みの底には黒い土しか見えない。


 赤い砂はなかった。


 これがラッシュボアを追った何かの跡なのか。それとも、もっと前から森にあった別の痕跡なのか。


「この先は?」


 ローデンが聞いた。


「今日は追わない」


 答えは決めていた。


 低ランクの三人を連れたまま、正体の分からない足跡を追うことはできない。回収の途中で目的を変えれば、食料も時間も足りなくなる。


 分からないものを追わずに帰るのは、諦めることではない。


 次に戻るための判断だった。


「位置と向きだけ記録する」


 ルークは手帳を開いた。


 死骸を中心に、窪みの位置、木についた臭い、ラッシュボアが来た方角を書き込む。


 書いている途中で、森の奥を見ていたミナがもう一度声を上げた。


「向こうにも、蹄の跡があります」


 今度はラッシュボアではない。


 細く割れた蹄。鹿のものだった。


 跡は数頭分重なり、北西から南東へ向かっている。昨日の雨で消えかけた古いものと、今朝ついたらしい新しいものが、ほとんど同じ方向へ続いていた。


「鹿は群れで動くんですよね」


「動く。だが、今の時期にこちらへ下りる群れは多くない」


 ローデンが答えた。


 少し離れた場所には、小さな丸い足跡もあった。


 角兎。


 森の入口で見たものと同じく、奥から外側へ向かっている。


 一種類なら、餌を求めた移動で済む。


 二種類なら、偶然が重なったとも考えられる。


 だが、生き方も餌も違う動物たちが、何日にもわたって同じ方角へ動いている。


 ルークは手帳へ線を引いた。


 森の入口で見つけた角兎。


 ラッシュボアが走ってきた方角。


 鹿の群れ。


 すべての線を逆へたどると、北西の奥で重なった。


「一頭だけじゃない」


 エドの声が後ろから聞こえた。


 解体の手を止め、手帳を覗いている。


「ラッシュボアだけが、変な場所へ来たんじゃないんですね」


「そうらしい」


「何かに追われて?」


「まだ分からない」


 ルークは北西へ視線を向けた。


 木々が重なり、その先は見えない。


 朝日が高くなっても、奥だけは薄暗かった。


「だが、森の奥で何かが変わった」


     ◇


 持ち帰れる肉は、予想より少なかった。


 エドは傷みの進んだ部分を迷わず切り落とし、背と後脚から使える肉だけを分けた。皮は戦闘で傷が多く、完全な形では売れない。それでも厚い部分は防具の補修材になる。牙と腱、硬い背毛にも値がつく。


「全部持ち帰ろうとするな」


 エドは肉を見つめていたノルへ言った。


「傷んだ肉を混ぜたら、無事な方まで駄目になる。重さだけ増やしても報酬にはならない」


「分かった」


 エドの指示で、ノルが肉を布で包み、背負い枠へ載せていく。


 横紐を締めると、重さが左右へ均等に分かれた。


「少し歩け」


 ルークが言う。


 ノルは周囲を十歩ほど歩いた。


「右が重いです」


「自分で分かるなら直せる」


 一度荷を下ろし、右側の肉を中央へ寄せる。再び背負うと、今度は枠が傾かなかった。


 ミナも警戒を続けながら、軽い素材を背負った。エドは刃物を洗い、使った水と残量を確認する。


 来たときより荷は重い。


 だが、三人の顔から出発時の硬さは消えていた。


 ラッシュボアと戦ったわけではない。強い魔物を見つけたわけでもない。それでも、自分の仕事が回収を成り立たせたことは分かっている。


「帰るぞ」


 ルークが言った。


 北西へ続く痕跡は残したままだ。


 ローデンは調査用の器を確かめ、杖についた泥を落とした。


「明日以降、もう一度人を出す必要がある」


「今度は回収班ではなく、調査と護衛だけで組むべきだ」


「同意するよ。少なくとも、あの窪みが何なのかは確かめたい」


 一行は来た道を戻り始めた。


 先頭はルーク。荷を背負ったノルを中央に置き、最後尾をミナが警戒する。


 往路で見つけた角兎の足跡を通り過ぎるとき、ノルが足を止めかけた。


「新しい跡が増えています」


 ルークも気づいていた。


 朝にはなかった小さな足跡が、古い跡の隣へ重なっている。


 やはり、森の奥から外へ向かっていた。


「角兎も、何かから逃げているんでしょうか」


「それだけでは決められない」


 ルークは朝と同じ答えを返した。


 だが、手帳には新しい印を加えた。


 一つなら覚えておく。


 二つなら比べる。


 三つ重なれば、偶然では済ませない。


 森の縁へ近づくにつれ、鳥の声が増えていった。


 普通なら、木々の深い場所ほど多くの生き物がいる。


 今日は逆だった。


 奥で聞こえなかった鳴き声が、外へ近づくほど重なっていく。低木の間には小さな獣の気配があり、枝から枝へ渡る鳥が、落ち着かない様子で何度も飛び立った。


 森の中にいたものが、縁へ集まっている。


 ラッシュボアだけではない。


 角兎も、鹿も、鳥も。


 目には見えない何かに、居場所を押されている。


 ルークは一度だけ振り返った。


 幾重にも並ぶ木々の間に、道はもう見えない。


 獣たちの足跡も、少し離れれば落ち葉と影に紛れ、森に呑み込まれてしまう。


 だが、向きだけは残っている。


 どの足跡も、同じ奥から来ていた。



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