2 蜂蜜菓子
目を開けるより先に、頭痛がした。
こめかみの奥へ、細い針を差し込まれているような痛みだった。少しでも顔を動かすと、その針が目の裏側まで入り込んでくる。
ルークは瞼を閉じたまま、枕元へ手を伸ばした。
指先が木の小箱に触れる。
蓋を開け、中に残っていた最後の一粒をつまみ出した。蜂蜜を煮詰めて固めただけの小さな飴だ。半分ほど溶けて形が崩れていたが、構わず口へ放り込む。
舌の上に甘さが広がった。
すぐに痛みが消えるわけではない。それでも、空になっていた身体へ少しずつ中身が戻ってくるような感覚がある。
「昨日、使いすぎたか」
独り言が、狭い部屋へ落ちた。
窓の隙間から差し込む朝日が、床板へ細長い四角を作っている。通りから聞こえる荷車の音を考えれば、朝市が始まってしばらく経っているらしい。
普段より、かなり遅い目覚めだった。
ルークは上半身を起こし、寝台の縁へ腰掛けた。
昨夜はギルドから戻ると、持ち帰ったラッシュボアの肉を焼いて食べ、そのまま眠った。空腹を感じていたつもりはない。だが、今朝の身体は昨日一日何も食べなかったかのように重かった。
理由は分かっている。
ラッシュボアとの戦いで、集中を深くしすぎた。
獣が地面を蹴る瞬間。
泥の一粒が蹄から離れる様子。
血走った目が動き、焦点を結ぶまで。
耳が伏せられ、肩の筋肉が膨らみ、次の一歩へ力が伝わっていく順序。
思い出そうとすれば、そのすべてが今も鮮明に浮かぶ。
集中が深まると、ルークには周囲の動きが遅く見えた。
もちろん、本当に時間が遅くなっているわけではない。
獣の突進が遅くなることも、自分の身体が速くなることもない。頭の中で一瞬を細かく切り分け、普段なら見落とす変化を拾えるようになるだけだ。
見えるものは増える。
考える時間も増えたように感じられる。
だが、その間も現実の身体は、いつもと同じ速さでしか動かない。
子供の頃は、その違いが分からなかった。
相手の拳がどこへ来るか分かるのに、避けられない。木から落ちた果実がどこへ転がるか見えているのに、伸ばした手が間に合わない。見えているのだから動けるはずだと考え、何度も失敗した。
剣を習い始めてから、ようやく理解した。
必要なのは、相手が動いてから反応する速さではない。動き出す前の兆候を拾い、自分の身体へ先に命令を出すことだ。
視線、呼吸、肩の高さ、足の向き。
見つけた兆候が多いほど、早く動き始められる。だからルークは、同じ程度の身体能力を持つ相手には強かった。相手が剣を振り始める頃には、すでにその先へ剣を置いている。
だが、身体そのものが速い相手には通じない。
予測して先に動いても追いつかれる。弱点を見つけても、剣を届かせる前に防がれる。
見えることと、届くことは違う。
その差を、ルークは冒険者として経験を積むほど強く感じるようになっていた。
昨日の突進も、動き始める時機を少し間違えていれば避けられなかった。見えているから安全なのではない。見えたものへ間に合うよう、先に動かなければならないのだ。
そして、見すぎた後には決まって頭痛と空腹が残る。
誰かに教わったわけではない。幼い頃から何度も繰り返し、そういうものだと理解した。
甘いものを食べれば、戻りが早いことも。
ルークは立ち上がり、水差しから木の器へ水を注いだ。
顔を洗うと、冷たさが目の奥へ届く。濡れた焦げ茶色の髪を後ろへ撫でつけても、少し長い前髪がすぐに額へ落ちてきた。
水面に映った灰青色の瞳には、寝不足のような影が残っている。
顔立ちはまだ若い。だが、森を歩き、剣を振ってきた身体には余分な肉がなかった。大柄ではなく、厚い鎧を着る戦士たちと並べば細く見える。それでも、服の下にある筋肉は長い時間動き続けるために鍛えられている。
剣を扱う手には、硬いたこが重なっていた。
棚から替えのシャツを取り、革の上着を羽織る。剣を腰へ差すか迷い、結局いつもどおり帯へ通した。
鞘へ収める前に、窓辺の光へ剣身をかざす。
昨日の戦いを終えた後、血と脂は拭ってある。大きな欠けもない。だが、切っ先に近い部分へ細い筋が入り、刃の片側だけがわずかに光を歪めていた。
ラッシュボアの勢いを利用した最後の一撃で、負担がかかったのだろう。
指で触れて確かめるような真似はしない。目で分かるものを、わざわざ指先で確認する必要はなかった。
すぐ折れる状態ではないが、次の依頼へ持ち込む前に手入れを頼むべきだ。
菓子屋の後は鍛冶屋へ寄る。
今日は依頼を受けるつもりはない。
それでも、剣を置いて外へ出る方が落ち着かなかった。
空になった小箱も腰の袋へ入れる。
補充が必要だった。
◇
通りへ出ると、すでに都市は動き始めていた。
朝市には野菜や果物が並び、保存食を積んだ荷車の周りでは遠征商人たちが値段を交渉している。寝起きの頭へ、焼いたパンと香草の匂いが流れ込んできた。
ルークの腹が鳴った。
昨夜、あれだけ肉を食べたとは思えない音だった。
向かう店は決まっている。
大通りから細い横道へ入り、二つ目の角を曲がる。
通りに面した二階建ての建物の一階に、目当ての焼き菓子店があった。扉の上には、蜂と麦穂を描いた木の看板が下がっている。黄色い布屋根は店先の窓を覆うためのもので、屋台ではない。
木の扉を押して中へ入る。
正面には腰の高さほどの売り台があり、その向こうが調理場になっている。左の棚には丸いパン、右の棚には木の実を練り込んだ焼き菓子や、蜂蜜を塗って焼いた薄い生地が並べられていた。
店の奥にある窯から、焼けた小麦と蜂蜜の匂いが流れてくる。
「いらっしゃ――あら、ルークじゃない」
店の奥から顔を出した女主人は、ルークを見るなり眉を上げた。
「今日は遅かったね。昨日は森だったのかい?」
「ラッシュボアを追っていた」
「あの森に出たっていう?」
「昨日、倒した」
女主人は驚くより先に、ルークの顔を覗き込んだ。
「それでその顔か。目の下がひどいよ」
「寝起きだからだ」
「昼前まで寝た人間が言う台詞じゃないね」
反論できず、ルークは棚に並んだ菓子へ視線を移した。
「蜂蜜飴を二袋。それと、木の実の焼き菓子を」
「三つ?」
「五つ」
「朝食は別に食べるんだろうね」
「これが朝食だ」
「冒険者になると、焼き菓子が肉や野菜の代わりになるのかい?」
「ならない。だが、今日はこれでいい」
女主人は呆れたように息をつき、それでも注文より一つ多く焼き菓子を袋へ入れた。
女主人には、一人息子がいた。
数年前に亡くしていなければ、今頃はルークとほとんど変わらない年頃になっていたはずだ。
女主人がその話を口にすることはない。ルークも聞かない。ただ、注文より一つ多く菓子を包むようになったのが、その後からだということは覚えていた。
彼女の目には、腰に剣を差していても、ルークは放っておけば食事を抜く若者にしか見えていないのだろう。
「六つ入っている」
「一つは売れ残り。固くなる前に食べておくれ」
「まだ昼にもなっていない」
「細かいことを言う男は嫌われるよ」
硬貨を渡し、代わりに菓子の包みを受け取ろうとしたときだった。
先に会計を済ませた客が、陶器の蜂蜜壺を抱えて出口へ向かっていた。
そこへ、店の扉が勢いよく開いた。
小麦粉の袋を抱えた配達の少年が、外から駆け込んでくる。店を出ようとした客は慌てて身体をひねったが、避けきれない。少年の肩が客の腕へ当たった。
客の指が開き、小さな陶器の壺が滑り落ちた。
壺の口から、琥珀色の蜂蜜がこぼれる。
ルークの意識が、そこへ絞られた。
周囲の音が低く、長く伸びる。
壺の縁から離れた蜂蜜が、丸い雫になる。
客の指が閉じる。だが、もう届かない。
壺は口を下にして回転しながら、床板へ落ちていく。
ルークには、その軌道が見えていた。
右手には菓子の包みがある。
左足を半歩前へ。
腰を落とし、左手を壺の下へ差し込む。
考えたとおりに身体が動くまでの時間が、ひどく長く感じられた。
壺の底が、ルークの掌へ収まる。
伸びていた音が一度に戻ってきた。
「うわっ」
ぶつかった少年の声。
客が息を呑む音。
店の女主人が台を叩く音。
壺は割れなかった。こぼれた蜂蜜もわずかで済んでいる。
「ありがとう、助かった」
客から礼を言われ、ルークは壺を返した。
配達の少年も青ざめた顔で何度も頭を下げた。女主人は少年へ、店へ入るときは走らないこと、荷物で前が見えないなら声をかけることを言い聞かせる。
客が店を出て、少年が小麦粉を奥へ運んでいっても、女主人だけはルークを見ていた。
「今、またやったね」
「何をだ」
「目つきが変わった」
ルークは答えず、眉間を指で押さえた。
治まりかけていた痛みが、わずかに戻っている。
「そんなことにまで使うんじゃないよ」
「壺が割れるよりいい」
「そうやって昨日も使いすぎたんだろう」
女主人は売り台の下から蜂蜜飴をもう一粒取り出し、ルークへ放った。
叱る声は強いのに、飴を投げる手つきは妙に優しかった。
放物線を描いた飴を、今度は集中せずに受け取る。
「これは?」
「試食。食べたら、さっさとまともな朝食も買っておいで」
口ではそう言われたが、ルークは店の横にある長椅子へ座り、焼き菓子の包みを開いた。
薄く焼かれた生地の間に、砕いた木の実と蜂蜜が挟まっている。一口かじると、香ばしさの後から強い甘さが広がった。
二つ目を食べ終える頃には、頭の奥を刺していた痛みが鈍くなっていた。
三つ目を手に取る。
「本当に全部食べる気かい」
「そのために買った」
女主人はまた何か言いかけ、諦めたように首を振った。
ルークは焼き菓子を食べながら、行き交う人々を眺めた。
荷台の左車輪だけがわずかに傾いた馬車。
初めて革鎧を着たのか、何度も肩紐へ触れている若者。
護衛を探しているらしく、通り過ぎる冒険者のプレートを確認している商人。
意識して探さなくても、そうしたものが目に入る。
昨日のラッシュボアも、赤い砂も、見なかったことにはできない。
もう一つの足跡が本当に存在したのか。赤い砂はどこから来たのか。
ギルドが調査員を出すと言っていた。
頭痛が残っていようと、結果を聞かずに一日を過ごせる気はしなかった。
最後の焼き菓子を包みへ戻し、ルークは立ち上がった。
「もう行くのかい?」
「ギルドへ寄る」
「今日は休むんじゃなかったのか」
「依頼は受けない。話を聞くだけだ」
女主人は疑わしそうな目を向けた。
「あんたの『話を聞くだけ』は、だいたい森へ入るところまで含まれているからね」
「今日は入らない」
「今日は、ね」
ルークは返事をせず、蜂蜜飴の入った袋を腰へ結びつけた。
◇
菓子屋を出たルークは、そのまま大通りを南へ向かった。
鍛冶屋が集まる一角へ近づくにつれ、空気の匂いが変わっていく。焼けた炭と熱された鉄。いくつもの工房から、槌が鉄を叩く音が重なって聞こえた。
ルークが足を止めたのは、通りの端にある古い工房だった。
軒先には完成した剣を飾る代わりに、欠けた剣身や割れた盾が吊るされている。どれも、この店で修理した品の一部らしい。
開いた戸口から中へ入ると、炉の熱が頬を打った。
「珍しいな」
奥で槌を振っていた大男が、顔を上げずに言った。
「お前が自分から剣を持ってくるときは、大抵ろくな使い方をしていない」
「折ってはいない」
「折れてから持ってこられても直せん」
男は槌を置き、分厚い革手袋を外した。
名をガラムという。この都市で長く冒険者の武器を扱っている鍛冶師で、ルークが今使っている剣を仕立てた人物でもある。
ルークは鞘ごと剣を外し、作業台へ置いた。
「昨日、ラッシュボアを斬った」
「あの浅い森のか」
「知っているのか」
「朝からその話ばかりだ。採取へ出られず暇になった連中が、あちこちで喋っている」
ガラムは剣を抜き、炉から離れた窓際へ移動した。
刃を光へかざし、角度を少しずつ変える。次に作業台へ刃の背を置き、片目を閉じて切っ先までを見通した。
「最後は突進を横から受け流したな」
「見れば分かるか」
「お前ほどじゃないが、毎日剣を見ているんでな」
ガラムは切っ先に近い部分を爪で軽く弾いた。澄んだ音の後に、かすかな濁りが混じる。
「刃は欠けていない。芯も無事だ。ただ、ほんの少し右へ寄っている」
「夕方までに直るか?」
「直すだけなら。研ぎ直しまでなら日暮れ前だ」
ガラムは剣身に残った細い筋を見て、鼻を鳴らした。
「獲物の力を利用するのは悪くない。お前の腕力でラッシュボアの脚を深く斬るなら、それが一番確実だ」
「褒めているのか?」
「剣を曲げて持ってきた客を褒める鍛冶屋がいるか」
そう言いながらも、声は怒っていなかった。
ガラムは剣を裏返し、今度は柄と鍔を確かめる。
「だが、毎回このやり方を続ければ、いつか戦いの途中で折れるぞ。剣が受けられる力にも限界がある」
「もっと重い剣に替えろと言いたいのか」
「お前には合わん。振り始めが遅くなる。見えているものへ、今より届かなくなるだけだ」
ルークは黙った。
ガラムは剣から目を上げ、ルークの顔を見た。
「図星か」
「別に」
「昔から、お前は剣を軽くする話ばかりした。普通の若い剣士なら、重くしろ、長くしろ、もっと頑丈にしろと言うもんだ」
「重ければ、分かってから動かしたのでは間に合わない」
「だから先に動く。それがお前の剣だろう」
ルークが剣を習い始めた頃から、ガラムは何度も同じ話を聞いている。
握りをわずかに細く。鍔を少し軽く。重心を指一本分だけ手元へ。
どれも一つずつなら小さな違いだった。だが、ルークはその小さな差を見逃さない。
今の剣は、そうして何度も調整を重ねたものだった。
「あいつの剣は、ほとんど曲がらなかったな」
ガラムが不意に言った。
誰のことか、名前を聞く必要はなかった。
Sランク遠征隊へ加わった、ルークの古い友人。
「同じ頃に剣を作ったのに、あいつはお前より重い剣を振り回していた。力任せに見えて、刃へ妙な負担が残らない」
「力の流し方がうまいんだろう」
「それだけかね」
ガラムは首を傾げた。
「腕のいい剣士の武器を見ていると、ときどき妙なことがある。石みたいに硬い魔物を斬ったというのに、刃がほとんど傷んでいない。並の鉄が、持ち主の手にあるときだけ別物になったみたいにな」
「質のいい剣だったんじゃないか」
「俺が打った剣だ。使った鉄まで知っている」
ガラムは答えの出ない話を切り上げるように、剣を作業台の奥へ置いた。
「まあ、本人に聞いたところで『力を入れて振った』くらいしか言わん。剣の天才ってやつは、説明するのが下手で困る」
ルークは反論しなかった。
友人に剣の振り方を尋ねたことは、一度や二度ではない。足の置き方も、腰の回し方も、腕の角度も見た。そのとおりに再現したつもりでも、同じ一撃にはならなかった。
才能の差。
今のルークには、それ以外の答えがなかった。
「日暮れ前に戻る」
「急ぎの依頼でもあるのか?」
「まだない。ギルドで話を聞くだけだ」
ガラムの視線が、ルークの腰に結ばれた蜂蜜飴の袋と、手に持った菓子の包みへ落ちた。
「話を聞くだけの男にしては、随分と食料を持っているな」
「これは食料じゃないらしい」
「じゃあ何だ」
「俺も知らない。今日は二度そう言われた」
ガラムは声を上げて笑った。
「昼飯を食ってから来い。空腹で倒れた客の剣まで面倒を見る気はないぞ」
工房を出ると、槌音が背後で再び始まった。
腰に剣がないだけで、身体の片側が妙に軽く感じる。
ルークは何度か無意識に空の帯へ手を伸ばし、そのたびに指を止めながらギルドへ向かった。
◇
冒険者ギルドへ入ると、昨日よりも人が多かった。
掲示板の前には低ランクの冒険者が集まり、職員が新しい依頼書を貼り出すたびに首を伸ばしている。酒場側の卓では、朝から飲んでいる者より、遅い朝食を取る者の方が多い。
ルークが受付へ向かうと、昨日と同じ女性が書類から顔を上げた。
「おはようございます。今日はゆっくりでしたね」
「森の件はどうなった?」
「挨拶より先にそれですか」
受付の女性――セラは、ルークの手にある菓子の包みへ気づいた。
「その包み、まさか今日の朝食ですか?」
「六つ買った。これは最後の一つだ」
「数を聞いているんじゃありません」
「ほかの五つはもう食べた」
「もっと悪いです。せめてパンと肉も食べてください」
「店でも似たようなことを言われた」
「では、今度こそ聞いてください」
セラはため息をつき、机の下から一枚の用紙を取り出した。
「赤い砂は、ギルドの資料では産地を特定できませんでした」
「この辺りにはない?」
「少なくとも、都市周辺の採取記録と地質記録にはありません。ただ、遠征先から持ち込まれたものまでは照合できていません。そちらは資料室で調べてもらっています」
「砂を見た職員はいるのか?」
「います。ちょうど、ルークさんが来たら呼ぶように言われていました」
セラは隣の受付へ一声かけ、席を立った。
「こちらへどうぞ」
案内されたのは、受付の裏側にある細い廊下だった。
ギルドの表側と違い、人の声はほとんど聞こえない。両側には資料室、査定室、職員用の会議室が並んでいる。
一番奥の扉を開けると、乾いた土と古い紙の匂いがした。
壁一面の棚に、小さな木箱や陶器の器が並べられている。それぞれに採取地と日付を書いた札がついていた。土、砂、小石、鉱石。遠征隊や調査員が持ち帰った地質試料だった。
中央の机では、白髪交じりの職員が赤い砂を薄い皿へ広げている。
「発見者を連れてきました」
セラが声をかけると、職員は顔を上げた。
「ルークです」
「ああ、君か。これは蹄の間に入っていたんだね?」
「乾いた状態で挟まっていた。量は、渡した分の三倍ほどだ」
「血や黒土が混ざっていた可能性は?」
「表面にはついていた。ただ、包んだのは蹄の奥から取り出したものだ。赤い粒だけを選んだ」
職員は満足そうに頷いた。
「採取の仕方は問題ないようだ」
机の上には、似た色の砂が入った器が三つ置かれていた。
「こちらは南西の乾燥地帯。これは東の鉄鉱山付近。そして、この黒みの強いものが北方の火山地帯から持ち帰られた試料だ」
ルークは順番に見比べた。
色だけなら近いものはある。だが、ラッシュボアの蹄から出た砂は粒が細く、赤色が均一だった。南西の砂は黄土色の粒が混ざり、鉄鉱山のものには黒い欠片が多い。火山地帯の砂は光をほとんど反さない。
「どれとも違う」
「私もそう見ている」
職員は赤い砂を指先ではなく、細い木べらで動かした。
「既存の試料にないからといって、未知の土地のものとは限らない。細かな地層をすべて記録しているわけではないし、荷物に付着して遠方から運ばれた可能性もある」
「遠征隊が持ち込んだ荷物から、森へ落ちた可能性は?」
「ある。だが、あの森を通る大規模な遠征路はない。商隊が使う道からも外れている」
「誰かが意図的に運び込んだ可能性もある」
職員は少しだけ目を細めた。
「可能性を挙げ始めれば、何でも言える。大切なのは、現地にどれだけ残っているかだ。一頭の蹄だけなら偶然だ。周囲の足跡や土からも見つかれば、そこに至る経路を調べられる」
ルークは皿の中の砂を見た。
ひとつまみほどの赤い粒。
それだけでは、何も証明できない。
だが、この都市の周辺では見つからない。既知の遠征地から集めた試料とも一致しない。
知らないものを、知らないままにしておくことがルークには難しかった。
「明日の調査に、あなたも同行するのか?」
「残念ながら、森歩きは専門外だ。現地の土を何か所か採取してきてほしい。日当たり、水辺からの距離、深さも記録してもらえると助かる」
「分かった」
セラが横から口を挟んだ。
「まだルークさんが護衛を受けるとは決まっていませんけどね」
「受けないのか?」
二人から同時に見られ、ルークは答えなかった。
職員は何かを察したように笑い、赤い砂を再び小さな布包みへ戻した。
「調査結果を楽しみにしているよ」
資料室を出て受付へ戻る途中、セラが小さく息をついた。
「これで断りにくくなりましたね」
「最初から、そのつもりで連れていったんじゃないのか」
「さあ、どうでしょう」
「別の足跡は?」
「まだ確認できていません」
ルークは眉を寄せた。
「調査員を出すと言っていただろう」
「出す予定です。ですが、昨日の時点では森の安全が確認できていませんでした。調査員だけを先行させるわけにはいきません」
セラは用紙を受付台へ置いた。
依頼の種別は、素材回収および周辺調査。
参加資格はFランク以上。ただし、Cランク冒険者またはギルド職員の同行が必要と記されている。
「ラッシュボアが討伐されたことで、死骸の解体と運搬は低ランク向けの依頼にできます。その際に調査員を同行させ、周辺の足跡も確認します」
「護衛は?」
「今、探しているところです」
セラはそう言ってから、じっとルークを見た。
その視線の意味は分かる。
「今日は依頼を受けないつもりだった」
「まだ何もお願いしていません」
「顔に書いてある」
「では、話が早いですね」
セラは微笑み、依頼書をルークの方へ向けた。
「死骸の位置を正確に知っていて、帰路の安全も確認済み。別の足跡と赤い砂を発見した本人でもある。適任だと思いませんか?」
「出発は?」
「明朝です。今日は休めますよ」
「参加する低ランクは何人だ」
「今のところ三人。二人はFランク、一人はEランクです。解体経験のある者を選びます」
「調査員を含めて四人か」
「ルークさんを入れれば五人です」
ルークは依頼書を手に取った。
報酬は高くない。ラッシュボアを討伐した昨日の依頼と比べれば、何分の一かだった。
だが、赤い砂の出所を確かめられる。
もう一つの足跡が見間違いだったのかも、自分の目で確認できる。
断る理由は、頭痛が残っていることくらいだった。
腰の袋には、補充したばかりの蜂蜜飴が入っている。
「分かった。受ける」
「そう言うと思いました」
セラは依頼書へ受注印を押した。
乾いた音が、受付台に響く。
「ちょうどいいですね。参加する三人も、説明を受けに来ています」
セラが掲示板の方へ視線を向けた。
そこには、先ほどから同じ依頼書を囲んでいる三人組がいた。
一人は肩幅の広い青年で、腰に厚刃の短刀を下げている。柄にも鞘にも獣脂の跡が染み込んでいた。普段から解体仕事を受けているのだろう。
その隣には、短く切った髪の少女がいる。背負っている弓は小型で、魔物を仕留めるというより小動物を狩るためのものに見えた。
最後の一人は細身の青年だった。三人分らしい縄や布袋を背負っているが、荷物の重さが左右で釣り合っていない。右の肩紐だけが深く食い込んでいた。
三人とも、まだ新しい銅色のプレートをつけている。
セラが手を上げると、三人はすぐ受付へ寄ってきた。
「明日の護衛を引き受けてくれるCランクのルークさんです」
三人の視線が一斉にルークへ集まる。
「ルークさんって、昨日ラッシュボアを倒した?」
最初に口を開いたのは、肩幅の広い青年だった。
「そうだ」
「一人で?」
「一人だった」
青年は背後の二人と顔を見合わせた。
「俺はエドです。Eランクで、解体依頼は十二回やっています。親が肉屋なんで、大型獣もある程度は」
「ミナ。Fランクです。薬草採取と小動物の狩りをしています」
「ノルです。同じくFランク。運搬を担当します」
細身の青年――ノルが頭を下げると、背中の荷物が右へずれた。
「荷を下ろした方がいい」
「え?」
「その結び方では、歩いているうちに右肩が動かなくなる。縄を一本、下へ回して腰でも支えろ」
ノルは慌てて荷物へ手を回した。
「それと、左の靴紐が擦り切れている」
言われて足元を見たノルが、目を丸くする。
「いつから……」
「少なくとも、ここへ来る前からだ。明日までに替えた方がいい。森の中で切れれば、余計に時間がかかる」
「分かりました」
ルークはミナの背負った弓へ視線を移した。
「弦の替えは?」
「二本あります」
「矢は?」
「狩猟用が十二本。鏑矢が二本です」
「それでいい。明日は魔物を倒すためではなく、異常があったときに知らせるために使ってくれ」
ミナは真剣な顔で頷いた。
「俺は何か直した方が?」
エドが自分から尋ねた。
ルークは短刀と靴、背負い袋を順に見る。
「今のところはない。ただし、ラッシュボアの死骸は昨日の夕方から森にある。腹から先に傷む。外側が無事でも、最初に中を確認しろ」
「はい」
「肉の状態が悪ければ無理に運ぶな。牙と皮、使える部位を優先する」
「分かりました」
三人の返事は揃っていた。
ルークは、緊張で身体が硬くなっていることに気づいた。Cランクの護衛と組む機会が珍しいのか。それとも、自分たちの活動場所に現れたラッシュボアを警戒しているのか。
「確認しておくが、明日は討伐依頼じゃない」
三人へ向けて言う。
「死骸を回収し、周囲を調べて帰る。別のラッシュボアがいた場合も、戦うのは最後だ。荷を捨てて戻ることを優先する」
「ルークさんでも戦わないんですか?」
ノルが尋ねた。
「戦う準備をしていないときに、戦う必要はない」
「昨日は一人で倒したのに」
「昨日は、そのために一人で行った。明日は違う」
ノルは少し考えてから頷いた。
強い魔物から逃げるのは恥だと考える新人は多い。冒険者になったばかりの頃は、ルークの周りにもいた。そして、そういう者から先に怪我をして、森へ入れなくなった。
依頼を達成することと、目の前の敵を倒すことは同じではない。
それを理解しているかどうかは、剣の腕よりも長く冒険者を続けられるかに関わる。
「集合は日の出前。食事は済ませてこい。水は一日分より少し多く。予定では日帰りだが、火を起こせる道具も持ってくること」
「はい」
今度の返事は、先ほどより自然だった。
セラが三人へ集合場所を書いた紙を渡す。
エドたちはもう一度ルークへ頭を下げ、装備を直すためにギルドを出ていった。
ノルは扉を出る前に一度荷物を下ろし、さっそく結び直し始めている。
「顔合わせまで済ませてしまいましたね」
セラが言った。
「明日の森で初めて会うよりいい」
「面倒見がいいんですよね、ルークさんは」
「装備の不備で帰りが遅くなるのが嫌なだけだ」
「そういうことにしておきます」
「明朝、日の出前にギルド集合です。今日は本当に休んでください」
「そのつもりだ」
「森へ様子を見に行ったりせず?」
「行かない」
「資料室へ赤い砂を調べに行ったりも?」
ルークは答えなかった。
セラが目を細める。
「せめて、お昼はまともなものを食べてくださいね」
ルークは依頼書を畳み、残っていた最後の焼き菓子を包みから取り出した。
「これを食べたらな」
「それを昼食に数えないでください」
同じ注意を今日だけで三度聞いた。
それでもルークは、蜂蜜の染みた焼き菓子を口へ運んだ。
◇
結局、ルークはギルドを出た後で肉入りの煮込みと黒パンを食べた。
三人に同じことを言われたからではない。明日の出発前に食料を買い足す必要があり、その店が食事も出していたからだ。
少なくとも、ルークはそういうことにした。
日が傾く頃、ガラムの工房へ戻る。
剣の歪みは直り、刃も研ぎ直されていた。窓から入る夕日の下で剣身を傾けても、朝に見えた光の歪みはない。
「次に曲げたら、修理代は倍だ」
「次は曲げない」
「剣を曲げて持ってくる奴は、みんなそう言う」
代金を払い、剣を腰へ戻す。
馴染んだ重さが左側へ戻ると、ようやく身体の釣り合いが取れた気がした。
部屋へ帰ってからは、明日の荷を整えた。
水筒、火打ち石、細縄、手袋、予備の布。昼までに買った保存食と、蜂蜜飴の入った小箱。
最後に、革張りの手帳を開く。
昨日書いた足跡の位置。その横に、資料室で見た三種類の砂の特徴を書き加えた。
南西の乾燥地帯とは違う。
東の鉄鉱山とも違う。
北方の火山地帯とも違う。
分かったのは、それだけだった。
ルークは椅子の背へ身体を預け、目を閉じた。
暗闇の中でも、蹄の隙間から取り出した赤い粒を鮮明に思い出すことができる。
甘さの向こうで、赤い砂の色が頭から離れなかった。




