1 猪狩り
ラッシュボアの鼻先が、わずかに右へ傾いた。
次に来るのは、牙を振り上げる動きではない。
突進だ。
ルークは剣を中段に構えたまま、動かなかった。
十歩ほど先で、ラッシュボアが前脚を地面へ擦りつけている。人の胸ほどの高さまで盛り上がった背。泥と血で固まった黒褐色の毛。口元から垂れる泡には、細い血の筋が混じっていた。
村の近くへ現れれば、武器を持てる大人を二十人は集めなければならない魔物だ。まともに突進を受ければ、大盾を構えた男でも数人まとめて弾き飛ばされる。
その巨体が地面を蹴った。
森の静けさを踏み砕きながら、一直線に迫ってくる。
それでも、ルークはまだ動かない。
最初の突進より遅い。
ほんのわずかな違いだ。地面を蹴る間隔にして、おそらく半呼吸にも満たない。だが、右前脚を踏み込むたびに頭の位置が低く沈んでいる。方向を修正するときには、左後脚が外へ流れるようにもなった。
これまでにつけた傷が、ようやく効き始めている。
七歩。
ラッシュボアの左耳が後ろへ伏せられた。
五歩。
血走った目が、ルークの腰ではなく左肩を捉える。
三歩。
ルークは右へ踏み出すと見せかけ、地面を蹴った。
身体を左へ滑らせる。
直後、黄ばんだ牙が外套の端をかすめた。風圧に布が鳴る。あと指一本分遅ければ、脇腹を裂かれていた。
すれ違いざま、ルークは剣を振り切らなかった。
切っ先だけを、右前脚の付け根へ置く。
刃を押し込んだのは、ラッシュボア自身の速さだった。
肉を割く重い感触が柄を伝い、剣身が鮮血を引いた。魔物は止まれないまま十歩、十二歩と駆け抜け、木の幹へ肩から激突する。
森が震えた。
枝から鳥が一斉に飛び立つ。
ラッシュボアはすぐに向き直ろうとした。前脚が落ち葉を掻き、牙が土を抉る。だが、右側だけが身体を支えきれない。巨体は傾き、腹から地面へ崩れ落ちた。
ルークは追わなかった。
剣先を下げず、二歩だけ距離を取る。
倒れたふりをして、近づいた獲物を牙にかける。追い詰められた獣がそういう真似をすることを、ルークは知っていた。
荒い呼吸が三度。
四度目は、半分で途切れた。
右耳だけが一度動く。
それきり、ラッシュボアは動かなくなった。
「……終わったな」
声にしてからも、ルークはしばらく待った。
死んだと思った、では足りない。死んだと確かめるまでは剣を収めない。それは冒険者になって最初に教わったことであり、何度も森へ入るうちに染みついた習慣でもあった。
風が通り抜け、濃くなった血の匂いを運んでいく。
鳥の声が戻ってこない。
ルークは周囲へ目を走らせた。揺れる枝も、踏みしめられる下草もない。血の匂いを嗅ぎつけた別の魔物が近くにいる様子はなかった。
そこで初めて息を吐き、剣についた血を草で拭った。
戦いが始まってから、かなりの時間が過ぎている。
ラッシュボアの身体には、細い傷が幾筋も走っていた。左の肩、鼻先、後脚、脇腹。どれも一撃で命を奪うほど深くはない。
最初の数回は、動きを見るための傷だった。
痛みにどう反応するか。どちらへ避けるか。怒ったときに視野がどこまで狭くなるか。傷を負った脚を、いつからかばい始めるか。
答えが一つ増えるたび、次の傷が少しだけ深くなる。
最後に必要な一撃を入れられるところまで、相手の体力と選択肢を削っていく。それがルークの狩り方だった。
鞘へ剣を戻し、代わりに解体用の短刀を抜く。
すべての肉を一人で運ぶ必要はない。
討伐を証明する右の牙と、傷の少ない肉。それに値のつく部位だけを持ち帰ればいい。死骸の位置と周囲の安全をギルドへ報告すれば、残りの解体と運搬は低ランク冒険者向けの依頼として出される。
危険な魔物を倒す力がなくても、森でできる仕事はある。ルーク自身も、冒険者になったばかりの頃には何度か回収依頼を受けていた。
もっとも、今回すぐに低ランクの冒険者を入れてよいかは別の話だった。
ここは都市から遠くない、浅い森だ。
薬草採取や小型獣の駆除を覚え始めた者が入る場所で、本来ならラッシュボアが姿を見せるような場所ではない。目撃報告を受けたギルドは周辺の低ランク依頼を停止し、討伐をルークへ回してきた。
なぜ、奥地にいるはずの魔物がここまで出てきたのか。
解体を始めようと腰を落としたとき、ルークの視線が蹄で止まった。
隙間に赤いものが挟まっている。
血ではない。
短刀の先で掻き出し、指の腹へ載せる。細かく乾いた赤い砂だった。
この森の土は黒く、湿り気が強い。街道沿いの畑は茶色。都市の周辺を歩いているだけなら、この色の砂が蹄へ入り込むことはない。
ルークは、ラッシュボアを追ってきた道を頭の中でたどり直した。
森へ入って間もなく見つけた、最初の蹄跡。
途中で折れていた若木。
木の幹にこびりついた泥。
獲物の足跡に重なるようにして残っていた、もう一つの窪み。
追跡中は、古い足跡が偶然重なったのだと思っていた。だが、この個体が遠くから移動してきたのなら、同じ道を通った何かがいる可能性もある。
別のラッシュボアかもしれない。
あるいは、この魔物を浅い森まで追いやった何かか。
「森の奥で、何が起きている……?」
問いかけに答える者はいない。
ルークは荷物から小さな革張りの手帳を取り出し、砂の色と足跡を確認した位置を書き留めた。赤い砂も少量だけ布へ包み、手帳と一緒にしまう。
気にはなったが、このまま一人で追うべきではない。
陽が傾き始めている。血の匂いも広がっていた。一頭を倒した直後に、正体の分からない何かを探して森の奥へ進むのは、勇敢ではなく無謀というものだ。
持ち帰る肉を大きな葉で包み、蔓で縛る。牙と素材も背負い籠へ収めた。
死骸の位置が分かるよう近くの木へ印を刻み、そこから都市までの帰路に異常がないことを確かめる。
回収依頼を出せるかどうかは、その情報までギルドへ渡してから決めることになる。
ルークは最後にもう一度だけ赤い砂のついた蹄を見て、都市へ向かって歩き始めた。
◇
森を抜ける頃には、夕日が西の空を赤く染めていた。
木々の外には、低い柵で囲われた畑が広がっている。その間を貫く街道では、丸太を積んだ荷馬車が土埃を上げていた。反対側からは、鍋や天幕を括りつけた一団が歩いてくる。
冒険者だけではない。職人、商人、開拓民。都市の外へ向かう理由は、それぞれ違う。
街道の先に、辺境都市の城壁が見えてきた。
辺境と呼ばれてはいるが、都市のすぐ外から未開地が始まるわけではない。
周辺にはいくつもの村と開拓地があり、主要な川や街道、魔物の生息域まで詳しく調べられている。都市を出て山を越えても、その先にはまた別の町がある。さらに進めば砦と補給所があり、人の通る道は何週間も先まで続いていた。
地図から人の引いた線が消える場所へたどり着くには、ここからでも長い旅が必要になる。
それでも、この都市は辺境都市と呼ばれていた。
未開地へ向かう大規模な遠征隊の多くが、ここで人と物資を集めるからだ。
新しい土地へ向かう冒険者は、この都市で食料を買い、荷馬車を整え、案内人を探す。反対に、未知の土地で発見された動植物や鉱石、書き加えられた地図も、まずここへ持ち込まれる。
人の知る世界と、その外側をつなぐ場所。
ルークにとっては、生まれた頃から見慣れた町だった。
灰色の石を積み上げた城壁は、夕日に照らされて片側だけが橙色に染まっている。壁の上には弓を持った衛兵が立ち、開かれた門の前には帰還する者たちの短い列ができていた。
ルークが列へ加わると、前の荷馬車から香辛料と獣脂の匂いが流れてくる。
やがて順番が来た。
門衛はルークの顔を確認すると、背負い籠から突き出した巨大な牙へ目を向けた。
「今日の獲物は大きいな」
「ラッシュボアだ」
「ラッシュボア?」
門衛は牙からルークへ視線を戻した。
「あの浅い森に出たという話は本当だったのか」
「一頭は倒した。森からここまでの帰り道にも異常はなかった」
「なら、明日から採取依頼を戻せそうか?」
「まだ待った方がいい」
門衛の表情が引き締まる。
「別の個体がいるのか」
「分からない。ただ、途中で別の足跡を見た。こいつの蹄には、この辺りでは見ない赤い砂もついていた」
「赤い砂?」
「どこから来たかは分からない。本来の生息域を離れた理由もな。ギルドへ報告する。しばらく、あの森へ向かう連中には注意してくれ」
「分かった。北門にも伝えておく」
門衛は通行板へ印をつけてから、もう一度牙を見た。
「それにしても、これを一人で仕留めたのか」
「一人で受けた依頼だからな」
「村に出れば、男衆を二十人集めて大騒ぎする相手だぞ」
「二十人もいれば、誰かが余計なところから突いて怒らせる。かえって面倒だ」
「お前は昔から、そういう可愛げのないことを平気で言うな」
門衛は呆れたように笑い、ルークを通した。
門の内側へ入ると、外とは違う音が一度に押し寄せてきた。
店じまいを始める商人の声。石畳を叩く蹄。酒場から漏れる笑い声。遠征用の縄を肩に担いだ若者たちが道を横切り、買ったばかりらしい剣を見せ合っている。
通りの両側には、武器屋、革細工店、薬屋、保存食を扱う店が並ぶ。軒先へ吊るされた品の半分は、都市の外へ向かう者のためのものだった。
この町では、未開地へ向かう人間も、そこから血まみれで帰ってくる人間も珍しくない。
だから、大きな牙を背負ったルークの姿を振り返る者もほとんどいなかった。
冒険者ギルドは、門から大通りを真っすぐ進んだ先にある。
二階建ての石造りで、入口の上には剣と靴を組み合わせた古い紋章が掲げられている。扉を押すと、肉を焼く匂いと、乾いた紙の匂いが混ざって鼻へ届いた。
一階の半分は酒場、残り半分は依頼と報告を扱う受付になっている。
掲示板の前では、若い冒険者たちが明日の仕事を探していた。奥の卓では、鎧を脱ぐ気力もないらしい一団が机へ突っ伏している。
ルークは空いている受付へ向かった。
「お帰りなさい」
受付の女性は、ルークの背負い籠へ視線を落とした。
「討伐できたんですね」
「ああ。一頭は」
「一頭は?」
ルークは右の牙を受付台へ置き、革張りの手帳を開いた。
「この個体以外のものらしい足跡が重なっていた。それに、蹄から赤い砂が出てきた」
別に包んでおいた砂を取り出し、手帳の横へ置く。
受付の女性は布を開き、露出した赤い粒を見つめた。
「あの森の土ではありませんね」
「少なくとも、俺が知っている範囲にはない。本来の生息域から移動してきた理由も不明だ。低ランク向けの依頼は、まだ戻さない方がいい」
受付の女性は頷き、ルークが示した記録へ目を通す。
砂の特徴、別の足跡を確認した場所、死骸を残した位置。都市まで戻る途中に異常がなかったこと。すべてを別の用紙へ手早く書き写した。
「明朝、調査員を出します。回収依頼は、その報告を待ってからにしましょう」
「それがいい」
「持ち帰ったお肉は売却で?」
「半分だけ頼む。残りは持ち帰る」
牙と素材の査定が始まる。
受付の女性は大きな葉の包みを開き、肉の状態と切断面を確かめた。
「相変わらず、傷が少ないですね」
「売り物に余計な穴を開けたくない」
「それだけ綺麗に狩れる人が、どうして昇格試験を受けないんです?」
ルークの手が止まった。
受付の女性は査定札へ数字を書きながら続ける。
「依頼の達成数は足りています。探索、護衛、討伐の評価も問題ありません。今回の件も、異変の原因まで突き止めれば大きな実績になります。Bランクを目指す気はないんですか?」
「ないわけじゃない」
「では、次の試験に推薦を出しておきましょうか」
「まだいい」
答えはすぐに出た。
今日のラッシュボアを倒すまで、ルークは何度攻撃を避け、何本の浅い傷をつけただろう。
動きを読み、疲れを待ち、確実に勝てる形へ少しずつ追い込んだ。狩りとしてはそれで正しい。結果だけを見れば、単独で素材をほとんど損なわずに仕留めたのだから、評価されてもおかしくない。
だが、Bランクの剣士ならどうしたか。
おそらく、最初の突進で終わらせている。
自分が長い時間をかけて作った一瞬を、彼らは力ずくで生み出せる。
「もう少し、剣が仕上がってからにする」
「十分に仕上がっているように見えますけどね」
受付の女性はそれ以上勧めず、査定額を書いた札を差し出した。
「討伐報酬と素材代です。お疲れさまでした」
「ありがとう」
硬貨の入った小袋を腰へ結び、ルークは受付を離れた。
出口へ向かう途中、掲示板の前で足が止まる。
新しい依頼書に半分隠され、古びた告知が一枚残っていた。
未開地深部への長期遠征。
指揮を執るのは、現役最高位であるSランク冒険者。
この都市で仲間と物資を集めた遠征隊が出発してから、すでに当初の予定を過ぎていた。
地図に道が描かれている場所を進むだけでも、ここから何週間もかかる。その先にある未踏地域へ入り、調査を終えて戻るとなれば、遅れが出ること自体は珍しくない。
それでも、参加者の家族や友人にとっては、予定表の一日一日が重い。
告知に並ぶ名前の中に、よく知るものがあった。
かつて同じ場所で剣を振り、同じ依頼を受け、同じランクを目指していた友の名前。
ルークはしばらく、その文字を見つめた。
「……まだ、知らせはありません」
背後から、受付の女性が静かに言った。
「そうか」
それだけ答え、ルークは告知から目を離した。
ギルドの扉を開けると、都市の上には夜が降り始めていた。
大通りの先には、遠征隊が通った北門がある。
その道は門を抜け、いくつもの町と砦を経て、やがて地図の空白へ続いている。もちろん、ここからその場所が見えるわけではない。
それでもルークは、友がその道のはるか先にいることを知っていた。
北門の向こうへ一度だけ目を向けてから、ルークは人々の行き交う夜の通りへ歩き出した。




