29 恐怖
翌朝、ルークが冒険者ギルドへ入ると、セラは依頼板ではなく受付へ手招きした。
「昨日届いた手紙です」
差し出された封書には、確かにルークの名があった。
差出人は書かれていない。ただ、封蝋へ押された印には見覚えがある。竜素材の回収遠征で、隊長命令の書類に使われていたものだった。
「S級隊長から、俺に?」
「東の森の報告を届けた伝令が、第一中継地で遠征隊と会えたそうです。隊長は、その場で返書を書いています。昨日戻った補給隊が預かってきました」
北西の未踏域へ入った隊の位置は、ギルドでも常に把握できるわけではない。往路と復路の者が中継地で出会えたから届いた手紙だった。
「薄影豹のことか」
「おそらく。封は開けていません」
当然のことを断ったあと、セラは声を少し落とした。
「報告には、ユアンさんのことも書かれていました。隊長と同じ世界から来た人だったので」
「そうか」
「ここで読みますか。奥の部屋を使っても構いません」
ルークは封書を裏返した。
赤黒い蝋は欠けておらず、紐にも触れられた跡はない。紙越しに指でなぞると、中に入っているのは一枚だけだった。
「外で読む」
「分かりました」
セラは引き止めなかった。
「ただ、肩の傷が治るまでは依頼を受けられません。手紙を読んだあと、そのまま依頼板の前へ行っても同じですからね」
「見るだけならいいだろ」
「見るだけなら」
返事はしたものの、疑っている顔だった。
ルークは受付を離れ、ギルドの外へ出た。
朝の中央通りには、荷車が増え始めている。パンを積んだ車が食堂の裏へ入り、東門へ向かう材木商が御者と声を掛け合っていた。
人の流れを避けて南へ向かう。
封を開いたのは、都市の外にある共同墓地へ着いてからだった。
◇
南丘には、背の低い石標が斜面に沿って並んでいる。
古いものは角が丸くなり、刻まれた名も読めなくなっていた。新しい石標の周りだけ土の色が濃い。
ユアンの墓は、その中にある。
生まれた村も、家族の名も分からない。石へ刻まれているのは、ユアンという名と、D級冒険者だったこと、そして死んだ日だけだった。
ルークは石標の前へ座り、封書の紐を解いた。
入っていた紙は一枚。文字は大きくも小さくもなく、行の間が広い。飾った言い回しは一つもなかった。
――ルークへ。
――東の森の報告を読んだ。ユアンという少年が、俺と同じ世界から来たことも聞いた。
書き出しの次には、一行分の空白があった。
――同じ世界から来たからといって、俺が何かを教えられたとは思わない。ただ、一度は話をしておくべきだった。
――こちらへ来たばかりの頃、前の世界で知っていたものに置き換えれば、何でも理解できると思っていた。獣の強さも、怪我の重さも、自分にできることもだ。その思い込みで、何度も死にかけた。
――俺が生き残ったのは、強かったからではない。怖いと思ったとき、怖いと言えたからだ。
――言葉にすれば、逃げるか、助けを呼ぶか、準備を増やすかを選べる。黙っていれば、自分でも恐れているものが分からなくなる。
――あの少年には、もう伝えられない。
――だから、お前へ書く。死んだ者を忘れるな。だが、その死を理由に、自分まで無理に強く見せるな。
文はそこで終わっていた。
慰める言葉も、ユアンは勇敢だったという言葉もない。
遠征隊がいつ戻るかも、自分たちが今どこにいるかも書かれていなかった。最後に隊長の署名と、紙を渡した中継地の日付だけがある。
ルークは最初の行から読み直した。
怖いと言えたから、生き残った。
その言葉を、以前にも聞いたことがある気がした。
◇
竜素材の回収遠征へ出る前日の夜だった。
八十七人分の荷物を載せた車列は、南門近くの集積場に並べられていた。積み込みは日暮れ前に終わり、御者も職人も宿へ戻っている。
それでも、見張りだけは残っていた。
ルークは経路班に預けられた道具を確かめたあと、荷車の間を歩いた。途中で足りないものへ気づいたわけではない。明日から百日近く都市を離れると思うと、部屋へ戻っても眠れそうになかった。
隊列の先頭に、人影があった。
S級隊長だった。
車輪の留め具を足で確かめ、荷台を覆う布へ緩みがないか見ている。夜番へ任せてもいい仕事を、一台ずつ自分で確認していた。
「眠れないのか」
隊長は荷車を見たまま尋ねた。
「……少し」
「初めての長期遠征なら、珍しくない」
ルークは言葉を返せず、隣の車輪へ目を向けた。
隊長が次の留め具へ手を伸ばす。革帯を引くと、金具が小さく鳴った。
「明日、都市を出るのが怖いか」
唐突な質問だった。
ルークは暗い門の向こうを見た。
片道だけで一か月。その先には、S級の隊が三年を費やしてたどり着いた谷がある。竜は死んでいるが、道に何が残っているかは分からない。
「怖いというより、楽しみです。地図にない場所へ行けるので」
隊長は革帯から手を離し、門の向こうへ目を向けた。
「そうか。なら、楽しみなままでいい。ただ、怖くないと決めつけるな」
ルークは少し考えた。
「自分でも、まだ分かりません」
「なら、怖いと思っておけ」
「なぜですか」
「怖くないと決めた人間は、危険を見つけても自分の考えに合わないものとして捨てる。怖いと分かっていれば、確かめる」
隊長がルークを見る。
「俺は今も怖い」
竜の首を一太刀で落とした男の言葉とは思えなかった。
「ドラゴンを倒せるのに?」
「ドラゴンを倒せても、崩れた道は元に戻らない。毒を飲めば死ぬ。寝ている間に喉を切られても死ぬ」
「それを全部、怖がるんですか」
「必要なだけはな」
隊長の目が、ルークの荷袋へ向いた。
「お前は何を怖がって、そこまで準備した」
着替え、野営道具、予備の革紐、砥石、手帳。積み直すたびに荷袋は重くなり、最後に二つ減らした。
「見たことのない痕跡を、見落とすことです」
「なら、見つけたときは一人で答えを出すな。経路班長かラウルへ言え」
「はい」
「口に出せば、ほかの奴も同じ場所を警戒できる」
隊長は次の荷車へ歩いていった。
ルークは、その背中をしばらく見ていた。
あのときは、慎重な人間なのだと思っただけだった。
遠征中も、隊長は止まる理由を隠さなかった。道が崩れるかもしれない。食料が足りなくなるかもしれない。敵の数が想定より多いかもしれない。危険を口にするたび、隊の誰かが確認し、備えを増やした。
恐れを口にしても、S級の強さが損なわれることはなかった。
むしろ、全員が何を警戒すべきか分かるようになった。
◇
南丘を抜ける風が、手紙の端を揺らした。
ルークは紙を折り、封筒へ戻した。
「お前は、怖いって言えなかったな」
石標から返事はない。
ユアンは、自分が神に選ばれたと思っていた。
反応の速さがあれば戦える。外の世界から来た自分には、何か特別な役目がある。そう信じて前へ出た。
だが、本当に何も恐れていなかったわけではない。
異世界から来たと打ち明けた夜、信じてもらえないかもしれないと身構えていた。自分だけが取り残されることを嫌がり、遠征へ行くルークをうらやましがった。依頼へ出る前には、何度も装備を確かめていた。
怖くても、怖いと言えば特別ではなくなると思っていたのかもしれない。
「気づけなかった」
ルークは石標へ向かって言った。
薄影豹の痕跡には気づけた。仲間が動く前のわずかな癖も、傷ついた獣がどこへ跳ぶかも読めた。
それでも、人が言わずに隠したものまでは見えない。
何でも見えるわけではないと知っていたはずなのに、ユアンのことになると、自分が見落とした答えを探し続けていた。
「次は聞く」
誰に約束するでもなく口にした。
怖いか。
戻りたいか。
一人では決められないか。
聞かなければ分からないことを、見ただけで分かったつもりにはならない。
立ち上がると、服の内側で銀色のプレートが胸へ当たった。
ルークは土を払い、丘を下りた。
◇
ギルドへ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
依頼板の前を通り過ぎ、そのまま受付へ向かう。セラは何も言わず、ルークが手にしている封書を見た。
「返事を出せるか」
「三日後に、第二補給隊が北西へ向かいます。第一中継地までなら預けられますが、その先で隊長へ届くかは分かりません」
「それでいい」
「便箋をお渡しします」
紙と封筒を受け取り、壁際の卓へ座った。
最初に、東の森の報告を読んだことへの礼を書く。次に、自分がB級へ上がったことを書いた。
そこで筆が止まった。
S級隊長とアレンが帰る頃には、肩の傷も治っている。闘気を長く保つ訓練も、未踏域へ入るための仕事も始められる。
以前なら、二人の遠征へついていきたいとだけ書いたかもしれない。
今は、その言葉だけでは足りなかった。
――次に遠征隊を組むときは、経路を見る者の候補に入れてください。
――今度は、C級として連れていってもらうのではなく、B級として自分の役目を果たします。
書いた二行を読み返す。
大きく見せた言葉ではない。今の自分にできることと、これから埋めるべきものを考えたうえで書いた。
最後に署名し、紙を封筒へ入れる。
「書けましたか」
セラが受付から尋ねた。
「ああ」
「封をする前に、届け先だけ確認します」
ルークは封筒を持って立ち上がった。
北西へ出た遠征隊が、いつ戻るかは分からない。
それでも、帰ってきたときに立つ場所は決まった。
次は、道の脇から見送るのではない。
銀色のプレートを下げて、同じ門から出ていく。




