28 銀の重み
薄影豹の討伐から六日後、ルークは治療室で左肩の包帯を外された。
爪痕は三本。そのうち二本は、以前に負った傷のすぐ脇を走っている。治療師は湯で濡らした布で傷口を拭き、腫れを指先で確かめた。
「膿んではいません。熱もない。運がよかったですね」
「狙って外した」
「爪の当たる場所を選んだ、でしたか」
治療師は薬草を練った軟膏を塗り、新しい布を当てた。
「その説明は聞きました。治療する側からすれば、どちらでも同じです。もう少し深ければ、左腕が上がらなくなっていました」
「あと何日で剣を振れる」
「軽く振るだけなら五日。魔物を相手にするなら十日です」
「長いな」
「短く言っています」
包帯が肩から脇へ回される。強く結ばれても、前ほど鋭い痛みはなかった。
「右腕は?」
「痺れはほとんどない」
「ほとんど、では困ります」
差し出された細い木の棒を、右手で握る。治療師が端を持って左右へ動かしたが、指は離れなかった。
「こちらは訓練を再開して構いません。ただし、左肩をかばって右へ負担を寄せないこと。痛みが戻ったら、その日は終わりです」
「分かった」
「今度は守ってくださいね」
ルークが上着を着直すと、治療師は机の端に置いていた紙を渡した。
「ギルド長からです。診察が終わったら、二階の会議室へ来るようにと」
「薄影豹の報告は昨日、終わったはずだ」
「私は傷しか見ません。ほかのことは、呼んだ人に聞いてください」
紙には、時刻と部屋の番号しか書かれていなかった。
◇
会議室には、ギルド長と記録係のほかに、グレン、マルタ、ベイルがいた。
マルタは右脚を厚い布で巻き、壁際の椅子へ深く腰を下ろしている。横には杖が立てかけられていた。ルークを見ると、負傷した脚ではなく左肩へ目を向ける。
「治療師は何日だって?」
「魔物を相手にするなら十日」
「なら、十日は大人しくしてろ。私みたいに杖まで持たされるぞ」
「歩けるのか」
「歩ける。歩くとリゼがうるさいだけだ」
扉のそばに立っていたベイルが、かすかに笑った。
グレンだけは普段と変わらない顔で、向かいの椅子を顎で示した。
「座れ」
ルークが腰を下ろすと、ギルド長は机の上の書類を一枚めくった。
「薄影豹討伐について、報告の食い違いはない。討伐報酬と素材の配分も決定した。今日呼んだのは別の審査です」
「別の?」
「あなたのB級昇格についてです」
ルークはすぐには返事ができなかった。
机の端で、記録係が新しい紙へ日付を書いている。グレンもマルタも、冗談を言う顔ではない。
「俺は、昇格試験を受けていない」
「通常の手順であれば受けてもらいます。ただし、長期遠征や討伐隊での働きを、実地審査に代えることはあります」
ギルド長は手元の書類をルークの方へ向けた。
これまで受けた依頼と、同行した冒険者の名が並んでいる。灰爪熊の調査。竜素材の回収遠征。東の森で行われた二度の調査と、薄影豹の討伐。
「C級として必要な実績は以前から満たしていました。長期遠征については、S級隊長と各小隊長から推薦が出ています。残っていたのは、戦闘時の判断と、B級として他人の命を預けられるかどうかでした」
「最初の薄影豹調査で、俺は命令を無視した」
「その事実も審査に含めます」
ギルド長の声は変わらなかった。
「あの場であなたが一頭を倒したことと、撤退命令を破ったことは別です。結果が違えば、グレンとマルタまで失っていた。受けた処分が終わっても、その判断が正しくなることはありません」
「分かっている」
「では、今回は何が違いましたか」
問われて、ルークは窯跡での戦いを思い返した。
負傷したマルタを下げたこと。薄影豹を追わず、消えた鳥の声から回り込みを読んだこと。グレンの剣、オズの盾、ベイルの矢、リゼの罠。誰か一人の力では届かない獣へ、全員の攻撃が重なる場所を作った。
「一人で追わなかった」
「それだけか」
グレンが尋ねた。
「……違う。追う必要がない形を作った。薄影豹が逃げたがる場所を減らして、残った場所に剣と盾を置いた」
「そうだ」
グレンは腕を組んだ。
「前のお前は、あの獣が狙った相手へ走らされた。今回は、あいつがどこへ走るかをこっちで決めた」
以前、訓練場で言われた言葉を思い出す。
B級は、相手に合わせて戦うのではない。相手に好きなことをさせず、戦いの流れを自分で決める。
「マルタが負傷したときも、持ち場を離れなかった」
ベイルが続ける。
「助けに走りたかっただろうが、リゼへ任せた。俺の矢も無駄に撃たせなかった。最後の一本まで残せたのは、お前が撃つ場所を決めたからだ」
「褒めるなら、私がいないところでやってくれ」
マルタが杖の柄へ手を置いた。
「ただ、あそこでルークまで私を助けに来ていたら、全員が薄影豹の動きに振り回されていた。来なかったのは正解だ」
ルークは膝の上で右手を握った。
正解だと言われても、胸の奥へすぐには落ちなかった。
以前の自分なら、負傷者を置いて持ち場に残る判断をしただろうか。ユアンが倒れたあの沢で、もっと早く薄影豹の狙いを読めていたら。誰かを見捨てるか、全員で残るか、その二つを突きつけられる前に戦場を変えられていたら。
「最後に自分を狙わせた判断は?」
ギルド長が尋ねた。
「グレンには伝えた。オズにも、俺の後ろで盾を構えるよう頼んだ。ベイルの射線と、ラウルが塞いでいた南西も確かめた」
「避けきれないことも分かっていた?」
「分かっていた」
「肩を失う可能性は」
「あった」
記録係の筆が止まる。
「同じ状況になれば、またやりますか」
ルークは答える前に考えた。
あの一瞬、ほかに確実な手は見つからなかった。だが、傷が少し深ければ剣を残せず、仲間の攻撃も続かなかった。成功したから繰り返していい方法ではない。
「ほかの手を探す」
「見つからなければ?」
「そのときは使う。ただし、次は肩を切らせない方法も作る」
マルタが呆れたように息を吐いた。
「そこは、もうやりませんと言っておけば聞こえがいいんだぞ」
「できない約束をしても意味がない」
「そういうところだ」
困った顔をしていたが、マルタの口元は少し上がっていた。
ギルド長は三人のB級を順に見た。
「グレン」
「推薦する」
「マルタ」
「同じく。無茶をするたびに昇格させるなら反対だが、今回は違う」
「ベイル」
「推薦する。見えることより、見えたものを人へ渡せたことを評価する」
三人の答えを聞き、ギルド長は書類の一番下へ署名した。
「ルーク。今日付で、あなたをB級冒険者として登録します」
言葉が、思っていたより静かに届いた。
何度も目指した階級だった。
灰爪熊を一人で倒しても届かなかった。グレンとの模擬戦では、何もさせてもらえなかった。竜を斬ったS級の剣を見て、自分では同じ傷一つつけられないと知った。
剣の才能だけなら、アレンには追いつけない。
それでも、自分が積み重ねてきたものを見ている人間がいた。
「……本当に、B級でいいのか」
「昇格を辞退しますか」
「しない」
思ったより早く答えが出た。
マルタが声を立てて笑い、ベイルも目を細める。
グレンは笑わなかった。ただ一度、深くうなずいた。
「お前の闘気は、まだB級ほど長くもたない」
「分かっている」
「剣だけで押し切れる相手も少ない。身体の丈夫さなら、オズの方が上だ」
「それも分かっている」
「だが、B級の全員が同じ強さを持っているわけじゃない。ベイルにオズと同じ盾働きをさせる奴はいないし、マルタにお前と同じ跡読みを求める奴もいない」
ベイルが黙ってグレンを見る。
「俺を例に出す必要はあったか」
「分かりやすい」
「まあいい」
グレンはルークへ視線を戻した。
「自分にできないことを知ったうえで、できる奴を正しい場所へ置ける。今のお前になら、B級の仕事を任せられる」
それは、剣の一撃を褒められるよりうれしかった。
ルークは隠そうとしたが、口元が勝手に緩んだ。
ギルド長が初めて表情を和らげる。
「新しいプレートは一階で受け取ってください。今日は説明を聞くだけにして、依頼を選ぶのは傷が治ってからにするように」
「分かった」
「返事が早いな」
マルタが言う。
「B級になった日に、治療師とギルド長の両方を敵に回すほど馬鹿じゃない」
「昨日までは少し怪しかったけどな」
今度は、ルークも笑った。
◇
一階へ下りると、受付の端にオズとリゼがいた。
オズは長盾を修理へ出しているらしく、今日は腰の短槍だけを下げている。リゼは窓口へ肘をつき、セラと何か話していた。
二人とも、ルークの姿を見ると会話を止めた。
「どうだった」
オズが尋ねる。
「聞いていないのか」
「本人の口から聞くために待ってた」
ルークは一度、受付の中にいるセラを見た。
セラは机の上へ小さな木箱を置いたが、まだ蓋には触れない。
「B級になった」
オズの大きな手が伸びてきた。左肩を避け、右の上腕を強くつかむ。
「やったな」
「痛い」
「右は治ったんだろ」
「治ったから痛くないわけじゃない」
オズが慌てて手を離した。
リゼは声を立てずに笑う。
「おめでとう。これで次からは、勝手に前へ出たら同じB級として止められる」
「出ない」
「今のところは、信じておく」
少し離れた卓から、討伐隊に加わった予備隊の者たちも声をかけてきた。薄影豹の素材を運んだ回収人まで、手を上げている。
大声で騒ぐような祝いではない。
それでも、ルークが長くギルドへ通う間に顔を覚えた者たちが、次々に「おめでとう」と言った。
胸の奥が熱くなった。
セラが咳払いを一つする。
「手続きが残っています。皆さん、少しだけ静かにしてください」
周囲の声が収まると、セラはルークの古いプレートを受け取った。登録番号を照合し、木箱の蓋を開く。
中には、銀色のプレートが収められていた。
表にはギルドの紋章と、B級を示す文字。裏にはルークの名と登録番号が刻まれている。
「本日付で登録を更新しました」
セラは両手でプレートを持ち、受付越しに差し出した。
「B級冒険者ルーク。これから受けられる依頼と、未踏域へ入る際の規則については、こちらの書類を確認してください。分からない点があれば、出発前に必ず窓口で尋ねること」
「ああ」
「返事ではなく、署名をお願いします」
横に置かれた登録簿へ名を書く。
セラは文字を確かめてから、ようやくプレートを手放した。
「おめでとうございます」
職員としての、整った声だった。
「ありがとう」
受け取った銀色の板は、古いものとほとんど同じ大きさだった。
だが、掌へ載せると少し重く感じた。
「ルーク」
グレンが階段を下りてきた。
「今夜、食事くらいは付き合え。マルタも治療室を抜け出す気でいる」
「リゼが止めるんじゃないか」
「もう止めた」
リゼが答える。
「止まらなかったから、杖を持ってついていく」
オズが笑った。
「ベイルは?」
「酒が出るか聞いてた」
「傷が治るまでは飲まない」
「誰もお前の分とは言ってないぞ」
ルークはもう一度、手の中のプレートを見た。
ユアンにも見せたかった。
そう思うと痛みは残った。もし、もっと早く今回のように考えられていたらという思いも消えない。
それでも、うれしいという気持ちまで押し殺す必要はなかった。
「行く」
「先に家へ知らせなくていいのか」
「今夜、手紙を書く。弟は近所中に言って回るだろうし、妹には遅いと言われる」
「親は?」
「父は一言だけ褒める。母は、怪我をしたことの方を先に怒る」
口にすると、四人の顔がはっきり浮かんだ。
今度、村へ戻るときは銀色のプレートを持って帰れる。
ルークは革紐を通し、新しいプレートを首へ下げた。
銀の板が胸元へ触れる。
剣を強く振ることは、まだできない。
アレンのように、一人でA級の魔物を倒す力もない。
それでも今日からは、未踏域へ踏み込む者として、自分の名で判断を求められる。
「重いか」
グレンに尋ねられた。
「少し」
「そのくらいでいい」
ルークはプレートを服の内側へ収め、仲間たちとギルドを出た。
◇
夕方の混雑が過ぎるまで、セラはいつもどおり窓口に立っていた。
依頼の完了を確認し、報酬を渡し、明日の受付分を整理する。最後の冒険者が出ていくと、表扉を閉める前に受付の端へ戻った。
ルークの古いプレートは、返納品を収める箱へ入っている。
セラは登録簿を開き、書き直された階級をもう一度見た。
何度見ても、そこにはB級と記されていた。
「よかった」
誰もいない受付で、小さく口にする。
すぐに帳簿を閉じようとして、少しだけ迷った。
それから、もう一度だけ頁を開いた。
入口の扉が叩かれたのは、そのときだった。
「まだ開いていますか」
旅装の配達人が、細長い革筒を抱えて立っている。
「遠征隊から、冒険者ギルド宛てです。個人への手紙も一通」
受取簿と一緒に渡された封書には、ルークの名があった。
封蝋へ押されていたのは、北西へ出たS級隊長の遠征印だった。




