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27 駆け引き



 薄影豹は、ルークだけを見ていた。


 枝から下りた場所は、窯跡の南側。ルークとの間には七歩ほどの距離がある。


 グレンは獣の西。オズは倒れた木のそばで長盾を立て直し、ベイルは北側から弓を向けている。ラウルだけが少し離れ、南西の鹿道に残っていた。


 囲みはまだ崩れていない。


 それでも薄影豹は、逃げ道を探すのをやめた。


「気づかれたな」


 グレンが剣を構えたまま言う。


「お前を倒せば、俺たちの動きがばらけると思っている」


 薄影豹の尾が、濡れた地面をゆっくり往復する。


 右前脚には、最初の調査でマルタがつけた深い傷がある。左前脚にもルークが重ねた傷があり、脇腹からはグレンに裂かれた血が流れていた。


 追い詰めている。


 だが、傷が増えるほど獣の狙いは単純になっていた。


 ルークを殺す。


 そのためだけに、残った速さを使うつもりだ。


 薄影豹が右へ一歩ずれた。


 ルークも身体の向きを変える。グレンは距離を詰めず、剣が届く位置を保った。オズの盾も動かない。


 獣が、もう一歩だけ右へ進む。


 次の瞬間、前触れなくルークへ飛び込んだ。


 グレンの剣が横から入る。


 だが、薄影豹はルークへ届く前に前脚を地面へ突き、急停止した。グレンの刃を爪で弾き、その反動で後ろへ跳ぶ。


 追おうとしたオズへ、ルークは左手を向けた。


「動くな!」


 オズが盾を残す。


 薄影豹は着地した場所から東へ抜けようとしていた。盾が動かなかったため、すぐに足を止めて元の位置へ戻る。


 今の一撃は、ルークを殺すためではない。


 ルークへ向かえば誰が動き、どこが開くのか。最後の攻撃を始める前に、確かめたのだ。


「相変わらず、嫌な獣だな」


 オズが盾の縁から睨む。


「でも、もう分かったはずだ」


 ルークは言った。


「俺を狙っても、誰も持ち場を離れない」


 薄影豹が低く唸る。


 試した結果が気に入らなかったように、尾の先が強く地面を叩いた。


「位置を代われるか」


 グレンが尋ねた。


 ルークが後ろへ下がり、代わりにグレンが前へ出る。それだけなら難しくない。


 薄影豹も待ってくれるなら、の話だった。


 ルークは首を横へ振った。


「動いた瞬間に来る」


「なら俺が寄る」


「西が開く。あいつは俺に来ると見せて、そっちから抜けるかもしれない」


「どうする」


 ルークは答える前に、薄影豹の足元を見た。


 前脚の間隔。背骨の傾き。後ろ脚が土へ沈んだ深さ。


 雨粒のすべてを見ようとはしなかった。獣が次の一歩を決める場所だけに視線を絞る。


 薄影豹の右肩が、呼吸に合わせて小さく上下している。傷を負っていても、短い距離なら速度は落ちない。むしろ長く走る必要がない分、最初からすべてを使える。


 完全に避ければ、獣はルークの後ろを抜ける。


 その先は南だ。リゼに支えられたマルタがいる。


 横へ逃げながら斬ろうとすれば、剣に体重が乗らない。薄影豹の皮を浅く裂くだけで終わる。


 避けることと、止めること。


 今のルークには、両方を選ぶだけの速さも力もなかった。


「グレン、俺の右へ寄ってくれ。ただし、前には出ないでくれ」


「お前が受けるのか」


「受け止めはしない」


 ルークは剣を正面へ立てた。


「あいつの右肩を狙う。抜けようとしたら、止めてくれ」


「言っておくが、爪をまともに受ければ死ぬぞ」


「まともには受けない」


 グレンが何か言いかけた。


 その前に、ラウルの声が飛んできた。


「やらせろ」


 グレンが南西へ目だけを向ける。


「理由は」


「あいつはもう、ほかの誘いには乗らない。ルークが下がれば追う。俺たちが寄れば逃げる。決めに来た今しか、こちらも決められない」


 冷静な声だった。


 ルークの命を軽く見ているわけではない。ただ、危険をなくす方法がないなら、最も勝てる形を選ぶ。その考え方は変わっていない。


「オズ」


 グレンが呼んだ。


「ルークの後ろを塞げ。獣ごと受けるつもりで構えろ」


「分かった」


 オズが長盾を持ち上げ、ルークの斜め後ろへ移る。正面に立てばルークの剣を邪魔するため、獣が抜けたときだけ進路を塞げる位置だった。


「ベイルは上を頼む。木へ逃がすな」


「矢はあと二本だ」


「一本残せ」


「最初からそのつもりだ」


 ベイルが濡れた弓弦を引いた。


 グレンはルークの右へ二歩寄り、そこで止まった。


「動けるうちに終わらせろ」


「分かってる」


 薄影豹が頭を下げた。


 ルークは剣を少し右へ傾け、切っ先を薄影豹の右肩から外した。


 傷を狙っていないように見せるためだった。


 獣の目が刃先を追った。


 傷を狙われていることには気づいている。正面から来れば、剣が待っていることも分かっている。


 だから、わずかに空いている左から入る。


 そう思わせるために、ルークは左足を半歩だけ後ろへ引いた。


 薄影豹の尾が止まった。


 来る。


 雨音が遠ざかった。


 葉から落ちた雫が、薄影豹の背へ触れる。水は灰褐色の毛に沿って潰れ、獣が動き出すより先に細かな粒となって浮いた。


 ルークは、その一つ一つを追わなかった。


 見るのは肩と前脚。それから、自分の首まで爪が通る一本の線だけだった。


 獣が地面を蹴った。


 七歩の距離が、一息で消える。


 左へ回るように見えた頭が、二歩目で正面へ戻った。ルークが空けた場所には入らず、剣の届く内側へ真っすぐ踏み込んでくる。


 誘いに気づいていた。


 薄影豹もまた、ルークの予想を外すために進路を変えた。


 開かれた顎の奥に牙が見える。右の前脚は低いまま、傷の浅い左前脚だけが高く上がっていた。


 爪は首へ来る。


 ルークは見えてから避けるのではなく、先に身体を右へ傾けた。


 左前脚が振り下ろされる。


 首は爪の軌道から外れた。


 代わりに左肩が残る。


 革鎧が裂け、二本の爪が治りかけていた傷の近くを走った。熱い痛みと一緒に身体が横へ引かれる。


 ルークは踏みとどまった。


 薄影豹の右前脚が地面へ着く。


 古い傷が開き、肩が沈んだ。


 そこへ剣を突き立てる。


 刃が、マルタの一撃で裂けた傷口へ入った。


 硬い皮を切る必要はない。すでに開いている肉の間へ、剣先を押し込む。


 薄影豹が甲高い声を上げた。


 前脚を引こうと暴れるが、ルークは柄を離さない。右腕の痺れが指先まで走り、左肩からは血が流れている。それでも両手で剣を握り、傷口の中へ刃を残した。


「今だ!」


 グレンが動く。


 薄影豹は剣を刺したまま身体をひねり、ルークを振りほどこうとした。足が地面から離れ、窯跡の方へ投げ出される。


 オズの長盾が、その背中を受け止めた。


「逃がすか!」


 オズは衝撃に押されながらも、盾を前へ押し返す。薄影豹の身体がルークの剣へ戻され、刃がさらに深く沈んだ。


 グレンの剣が脇腹へ入る。


 先ほど裂いた傷と同じ場所だった。


 薄影豹の身体が大きく震える。それでも倒れず、後ろ脚で盾の縁を蹴った。


 オズの上体がのけぞる。


 薄影豹が右前脚を強く振る。


 ルークの手から柄がもぎ取られた。剣を右肩へ残したまま、獣は血を撒いて窯跡へ跳んだ。


「ベイル!」


 矢が飛ぶ。


 薄影豹は空中で身をよじった。矢尻は首を外れ、右耳を裂いて後ろへ抜ける。


 窯跡の上へ着地した獣が、崩れた石を蹴った。


 まだ走れる。


 右前脚はほとんど地面につかない。脇腹からも血が流れ、後ろ脚には矢傷がある。それでも残る三本の脚だけで、北東の枝へ跳ぼうとしていた。


 枝へ届けば、また姿を消す。


 グレンは獣の後ろにいる。オズは盾を戻せていない。ベイルは最後の一本を抜いたばかりだった。


 ルークの剣も、獣の肩へ刺さったままだ。


 誰も、次の着地点へ間に合わない。


 そこにラウルがいた。


 窯跡の北東。薄影豹が飛び移ろうとした枝の真下で、すでに剣を構えている。


 獣の頭が上がるより先に、そこへ動き始めていた。


 ラウルは斬りかからない。


 薄影豹が枝へ跳べば喉へ刃が入る位置で、ただ待っていた。


 黄色い目がラウルを捉える。


 薄影豹は踏み切る直前に進路を変えた。


 北東を諦め、窯跡から西へ飛び降りる。


 その先には、グレンがいた。


 片手で剣を持ち直し、傷ついた脇腹へ踏み込んでいる。


 薄影豹にも、待ち構えるグレンの姿は見えていた。


 だが、もう一度向きを変える脚が残っていない。


 グレンの刃が、脇腹から胸へ斜めに入った。


 獣の身体が地面へ落ちる。


 前脚で土を掻き、起き上がろうとする。ルークは薄影豹の右肩へ刺さった自分の剣を押さえ、オズが長盾で腰を地面へ縫い止めた。


「ベイル、撃つな!」


 グレンが叫ぶ。


 味方が近すぎる。


 最後の矢を引き絞っていたベイルが、弦を戻した。


 グレンは剣を抜かず、柄を両手で握り直す。


 刃を胸の奥へ押し込み、横へ引いた。


 薄影豹の爪が一度だけ土を削る。


 尾が雨の中で大きく跳ね、やがて動かなくなった。


 誰も、すぐには武器を下ろさなかった。


 雨が葉を叩く音だけが、窯跡へ戻ってくる。


「死んだか」


 オズが盾を押しつけたまま尋ねた。


「まだ離れるな」


 グレンは剣を獣の胸へ残し、呼吸と目の動きを確かめた。


 しばらく待ってから、ようやく柄から手を放す。


「終わりだ」


 オズが大きく息を吐いた。


 ルークも剣から手を離した。力を抜いた途端、左肩の痛みが強くなり、膝が揺れる。


「座れ」


 グレンに言われる前に、ラウルがルークの右腕をつかんだ。


「歩けるか」


「肩だけだ」


「それを決めるのは治療師だ」


 どこかで聞いたような言い方だった。


 ルークは反論せず、窯跡の石へ腰を下ろした。


 ラウルは裂けた革鎧の隙間を確かめ、荷袋から清潔な布を出した。傷へ強く押し当て、その上から包帯を回していく。


「腕を上げろ」


「動く」


「動くかどうかは聞いていない」


 言われたとおりにすると、包帯が脇の下を通り、左肩へきつく巻かれた。血が布へにじんだところで、ラウルが結び目を作る。


「深くはない。だが、今日はもう剣を握るな」


「帰り道がある」


「帰りは予備隊に任せろ」


 ベイルが南を見ている。


「予備隊が来る。リゼも一緒だ」


「マルタは」


「向こうで座っている。少なくとも、自分で文句を言えるくらいには元気だ」


 グレンがようやく剣を抜き、血を雨で流した。


「全員で帰れそうだな」


 その言葉に、ラウルは何も答えなかった。


 ルークは薄影豹の周りに残った足跡を見た。


 自分へ向かって伸びる深い跡。グレンとオズが駆け寄った跡。最後に獣が北東へ向きを変え、窯跡を蹴った跡。


 その着地点には、ラウルの靴跡がある。靴跡の縁は、あとから着地した薄影豹の爪に削られていた。


 獣が北東へ顔を向けるより先に、ラウルはそこへ着いていた。



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