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26 包囲網



 薄影豹が、低い縄を越えた。


 跳んだというより、雨の中を灰色の線が走ったように見えた。


 狙われたラウルは剣先を下げたまま動かない。薄影豹の前脚が縄の向こうへ着き、濡れた土が跳ねる。それでも、まだ待っている。


「左へ!」


 ルークが叫んだ。


 ラウルは左足を滑らせるように動かし、鹿道の端へ身体を寄せた。


 薄影豹の爪が外套の胸元を掠める。灰色の布が裂け、その下で鈍い銀色の留め具が一瞬だけ光った。


 ラウルは横を抜ける胴へ剣を振らなかった。右足を引き、獣の後ろ脚が通り過ぎる瞬間に剣の腹を当てる。


 薄影豹の進路が鹿道から外れ、窯跡の方へ逸れた。


「今だ、詰めろ!」


 グレンが西から距離を縮める。オズも長盾を前へ出し、東側の隙間を狭めた。


 薄影豹は窯跡まで戻ると、五人の中心で身を低くした。


 傷のある右前脚をわずかに浮かせている。左前脚からも、ルークがつけた浅い傷の血が落ちていた。


 それでも呼吸は乱れていない。


「斬れたはずだろ」


 ベイルが矢をつがえたまま言った。


「振れば、南西へ抜けられた」


 ラウルは裂けた外套を一度見ただけだった。


 反撃より、逃げ道を塞ぐことを選んだ。


 それが正しいのは、ルークにも分かる。


「マルタたちは」


「三本目の木を越えた」


 窯跡の北側にいるベイルが答えた。


 リゼに支えられたマルタの姿は、雨に煙る木々の向こうへ小さくなっている。南の予備隊まで届くには、まだ時間がかかる。


 薄影豹はその背中を一度だけ見た。


 追わなかった。


 前にいる五人を抜かなければ、届かないと分かっている。


「ラウル。そのまま南西を頼む」


「分かった」


 返事は短かった。


 薄影豹との最初の戦いで、ラウルはユアンを置いていくべきだと言った。


 正しい計算だったのかもしれない。あの場で全員を救う方法を、ラウルは見つけられなかった。だから、助けられる人数を減らさない方を選んだ。


 ルークは、今もその答えを受け入れていない。


 だが、ラウルが塞いでいる道を疑えば、この陣は崩れる。


 今は互いに、相手が持ち場を守ると信じるしかなかった。


 薄影豹の耳が、わずかに後ろへ伏せられた。


 次に狙われる場所を探している。


 グレンが正面に立ち、剣を中段へ構える。東にはオズの盾。窯跡の北側にはベイル。南東をルークが塞ぎ、南西にはラウルがいる。


 先ほどより包囲は狭い。


 ただし、マルタとリゼが抜けたことで、動かせる者も二人減っていた。


「長くは持たないぞ」


 ベイルが弓弦を指で確かめた。


 濡れた弦は張りを失い始めている。矢筒にも雨覆いをかけていたが、射続ければ羽が水を吸う。


「マルタが予備隊へ着くまででいい」


 グレンは薄影豹から目を離さない。


「そこからは、リゼが二人連れて戻れる」


「あいつが待つと思うか」


「待たせる」


 グレンの答えに、薄影豹が低く唸った。


 雨の中でも聞こえるほど、深い声だった。


「俺を残して、四人で下がる手もある」


 ラウルが南西を塞いだまま言った。


「あいつが俺を狙っている間に、負傷者と合流できる」


「そのあとはどうする」


 ルークが尋ねた。


「可能なら離脱する」


「できなければ?」


 ラウルは答えなかった。


 一人を残し、残りを生かす。あの涸れ沢で聞いたものと、同じ答えだった。


「その案は使わない」


 ルークが言うと、ラウルは横目でこちらを見た。


「そう言うと思った」


「なら最初から言うな」


「ほかに手がなくなったとき、知っているのと知らないのとでは違う」


 グレンが会話を切るように剣を構え直した。


「どの手を使うかは俺が決める。今は五人で持たせるぞ」


 獣の尾が、右へ振れる。


 ルークは北の枝を見た。尾の動きは、そちらへ跳ぶ前に何度も見せている。


「上だ!」


 ベイルが弓を持ち上げた。


 薄影豹は跳ばなかった。


 前脚で土を蹴り、東へ走る。


 オズが盾を向けると、その手前で急に右へ折れた。窯跡の縁を駆け上がり、崩れた石の上からグレンへ飛びかかる。


 グレンは一歩も退かず、爪を剣の腹で受けた。


 金属を引っかく音が雨を裂く。


 薄影豹は剣を蹴って横へ逃れ、再び南西へ走った。


 ラウルが待っている。


 今度は低く抜けず、鹿道の脇にある倒木へ前脚をかけた。そこからなら、ラウルの頭上を越えて森へ入れる。


「ベイル、倒木の上!」


 矢が獣の鼻先を通る。


 薄影豹は倒木へ乗る直前に前脚を引き、地面へ身体を沈めた。背後からグレンが迫っている。右にはオズ。前にはラウル。


 残った隙間は、ラウルと倒木の間だけだった。


「一歩、前!」


 ラウルが鹿道へ踏み込む。


 薄影豹は進路を塞がれる前に身体を滑り込ませた。


 人と獣が、触れ合うほどの距離ですれ違う。


 ラウルの剣が下から上がった。


 薄影豹は首を反らし、刃をかわす。代わりに右前脚が地面から浮き、着地がわずかに遅れた。


「オズ、右を押せ!」


 長盾が横から迫る。


 薄影豹は逃げるために、傷ついた右前脚を使わなければならなかった。脚が土へ着いた瞬間、灰色の肩が大きく沈む。


 グレンの剣がその肩を狙う。


 獣は地面へ転がって刃を避けた。背中が泥に汚れ、立ち上がるまでに初めて二歩分の遅れが生まれる。


 ルークは踏み込んだ。


 狙うのは首ではない。先ほど自分が浅く裂いた左前脚だった。


 剣を突き出すと、薄影豹は前脚を引いて窯跡へ跳び上がった。傷を深くすることはできなかったが、その分だけ獣は北へ逃げられなくなる。


 北側ではベイルが待っていた。


 矢を嫌った薄影豹が、すぐに窯跡から下りる。


 五人が囲んだ場所の中央へ、また戻ってきた。


「こいつ、ラウルのところを抜くつもりだ」


 オズが盾の縁から顔を出した。


「一人だからじゃない」


 ルークは薄影豹の足元を見ていた。


 南西の鹿道だけは、地面がなだらかに下っている。ほかの方向より速度を上げやすく、その先には根も岩も少ない。


「あそこを抜ければ、傷ついた脚でも走れる」


「なら、ラウルと代わるか」


 グレンが尋ねる。


「いや」


 ルークはすぐに答えた。


 グレンが代われば、西側の圧力が弱くなる。オズなら、盾を動かす間に東が開く。ベイルを下ろせば、薄影豹は木の上を使える。


 そして、ラウルは一度も鹿道から外れていない。


 薄影豹の爪を紙一重で避けても、反撃を欲張らず、必ず元の位置へ戻っている。


「あいつでいい」


 ルークが言うと、ラウルがこちらを見た。


「ずいぶん信用されたものだな」


「抜かれてないからな」


「次も抜かれないとは限らない」


「そのときは、ほかで塞ぐ」


 ラウルは一瞬だけ黙り、剣についた泥を振り払った。


「次はどうする」


 年上で、遠征経験も長い。危険の察知や撤退の判断を、S級隊長から任されてきた男でもある。


 それでもラウルは、ためらわずルークへ次の指示を求めた。


 ルークは鹿道の先を見た。


 道はラウルの後ろで二つに分かれている。左は森へ続く本来の鹿道。右は細い木と窯跡の間を抜け、五歩ほど先で森へつながる狭い隙間だった。


 どちらからでも逃げられる。ただし、右へ入れば途中で向きを変えられない。


「ラウル。次に来たら、縄の手前まで二歩下がってくれ」


「道を空けるのか」


「空いたように見せる」


「その先は」


「左へ避けろ。あとは俺が言う」


「遅れたら?」


「遅らせない」


 ラウルの口元が、わずかに動いた。


「分かった」


「待て」


 グレンが低い声で止める。


「失敗すれば、そのまま森へ抜けるぞ」


「今のままでも、雨が強くなれば抜かれる」


 ルークは答えた。


「先に行き先を決めさせる」


 薄影豹が、二人の会話を見ている。


 言葉の意味までは分からなくても、視線が南西へ集まったことには気づいているはずだった。


 隠しても疑われる。


 なら、罠があると分かったうえで、それでも選びたくなる道を作るしかない。


「ベイル。ラウルが左へ避けたら、鹿道の方を射て」


 ベイルが二つの道を確かめる。


「右へ追い込むのか」


「あっちは窯と木に挟まれている。中では向きを変えられない」


「外せば、そのまま森だぞ」


「だから、ぎりぎりまで待ってくれ」


 ベイルは矢筒から一本を選び、濡れていない矢羽を指で確かめた。


「合図を早くするなよ」


「分かった」


 薄影豹が動いた。


 最初は西へ走り、グレンの間合いへ入る直前で向きを変える。オズの盾を前脚で叩き、その反動で窯跡へ跳び上がった。


 ベイルは弓を向けない。


 薄影豹も、すぐには枝へ逃げなかった。


 窯跡の上を二歩走り、南へ飛び降りる。ルークへ向かうように見せ、剣の届く寸前で身体を沈めた。


 次の瞬間には、南西へ走っていた。


 ラウルが二歩下がる。


 鹿道が開いた。


 薄影豹の速度が上がる。


 後ろからグレンが追ったが、届かない。オズも盾を捨てなければ、前へは出られない。


 獣の鼻先がラウルへ迫る。


「まだだ!」


 ルークはラウルの足を見た。


 右足を半歩引き、前後どちらへも動けるようにしている。いつもと同じ立ち方だった。


 薄影豹はラウルの正面へ飛び込まない。直前で左へ曲がり、本来の鹿道を抜けるつもりだ。


 肩が沈む。


「ベイル!」


 矢がラウルの左を抜け、鹿道の中央へ突き立った。


 薄影豹が首を振り、矢尻を避ける。左へ向きかけた身体が右へ流れた。


「左!」


 ラウルはすでに左へ重心を移していた。


 ルークの声とほとんど同時に身体を開き、薄影豹のために道を空ける。


 獣はその横を抜けた。


 だが、そちらは細い木と崩れた窯の南端に挟まれ、獣一頭が辛うじて通れるだけの隙間だった。


 薄影豹が入る。


「オズ、窯へ!」


 オズが長盾を押し込み、後ろを塞ぐ。


 薄影豹は止まれず、正面の木へ前脚をついた。身体を返そうとしても、横幅が足りない。


 グレンが崩れた窯壁の外側へ回り込む。


 剣が薄影豹の脇腹を裂いた。


 灰褐色の毛が開き、その下から血が流れる。


 薄影豹は狭い隙間で身をよじり、細い木へ爪を立てた。幹が大きくしなり、根元の土が盛り上がる。


 もう一度、グレンが剣を振り上げる。


 獣は木を倒した。


 根が土を裂き、幹がオズの盾へぶつかる。オズが押し戻され、薄影豹は倒れた木の上へ跳び乗った。


 ベイルの矢が飛ぶ。


 矢尻は脇腹の傷を外れ、後ろ脚を浅く裂いた。


 薄影豹は構わず倒れた幹を駆け上がり、その先に垂れた枝へ飛び移った。


「北へ行く!」


 オズが盾を立て直す。


「いや、降りる!」


 ルークは獣の頭を見ていた。


 北の森ではなく、窯跡の下へ顔が向いている。


 薄影豹は枝から飛び降りた。


 今度は、どの退路も見ていなかった。


 グレンの剣も、オズの盾も、ベイルの弓も見ない。


 黄色い目が、まっすぐルークへ向けられている。


 薄影豹が地面へ降りる。


 前脚を折り畳み、雨の中で深く身体を沈めた。


 今度は道ではなく、ルークが選ばれていた。



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