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25 雨の檻



「北の退路だ」


 ルークが告げると、グレンはすぐに剣の向きを変えた。


「ベイル、岩場を下りろ。オズはマルタから離れるな」


 北へ動きかけていたラウルが、木立の手前で止まる。


「追わないのか」


「追えば、あいつの場所で戦うことになる」


 グレンは薄影豹が消えた方角を見たまま答えた。


「戻ってこい。北は捨てる」


 ラウルは反論せず、窯跡まで下がった。


 マルタは盛り土の東側へ座り、裂かれた腿を伸ばしている。リゼが革帯を強く締め、その下へ当てた布を確かめた。血は止まり始めていたが、自分の足で南の予備隊まで走れる状態ではない。


 森を出るなら、二人は必要になる。


 一人が肩を貸し、もう一人が背後を守る。その間、前に残る人数は減る。


 薄影豹は、それを待って北へ回った。


「南から退くか」


 オズが長盾の陰から尋ねた。


「動けば来る」


 ベイルは岩場を下りながら、長弓へ新しい矢をつがえた。


「負傷者を狙うか、支える方を狙うか。どちらでも足が止まる」


「ここに残っても同じだ」


「違う。ここには準備した場所がある」


 グレンが窯跡の西へ戻る。


「陣を崩さない。北を見ながら、マルタを南へ出す機会を作る」


 ルークは返事をせず、木々の間を見ていた。


 鳥の声は戻らない。


 薄影豹が北のどこにいるのかは分からなかった。だが、獣が通った順番は残っている。最初に小鳥が飛んだ場所、その次に声が消えた木、その先にある涸れ沢への細い道。


 動きは北東で止まっている。


 逃げたのではない。


 七人が先に動くのを待っている。


 葉を打つ小さな音がした。


 一つ、二つと増えていく。


 枝の隙間から落ちた雨が、盛り土の黒い表面へ染みを作った。


「降るのかよ」


 オズが顔をしかめる。


 朝には高かった雲が、いつの間にか森の上へ集まっていた。まだ弱い雨だったが、乾いた葉の音はすぐに消え、代わりに無数の雫が枝や岩を叩き始める。


 ベイルが弓弦を外しかけた。


「そのままでいい」


 グレンが言う。


「短いうちに動かす」


 雨が強くなれば、足音も枝の揺れも紛れる。弓の弦も水を吸い、狙いが狂う。


 薄影豹にとっては、待つほど有利になる雨だった。


「リゼ、マルタを立たせられるか」


「肩を貸せば。ただし、急がせれば傷が開く」


「急がせない。合図するまで待て」


 グレンが北へ身体を向けた。


 その右側で、細い枝が大きく沈んだ。


「来る!」


 ベイルの矢が飛ぶ。


 枝から落ちた影は、矢が通るより先に幹の裏へ消えた。


 次に姿を見せたときには、場所が変わっていた。


 北東の木から窯跡へ、灰褐色の身体が低く飛ぶ。狙われたのはグレンでも、盾を持つオズでもない。マルタの脇で止血を続けているリゼだった。


「右!」


 オズが長盾を振り向けた。


 爪が盾の表面を滑り、革を留めた鋲が一つ飛んだ。薄影豹は着地せず、前脚で盾を蹴って再び宙へ上がる。


 グレンの剣が下から追った。


 刃は腹の毛を浅く裂いたが、肉までは届かない。


 獣は窯跡を越え、南側の二本の木へ飛びついた。幹を蹴って向きを変えると、張られていない縄の上を通り、再び北へ消える。


「速すぎる」


 リゼはマルタをかばうように立ち、曲刀を抜いた。


「盾に当たる前から、次へ跳んでた」


「今ので分かった」


 オズが地面へ飛んだ鋲を一度見た。


「こいつを蹴れば、俺がどれだけ向きを変えるか試したんだ」


「もう一度、同じところへ来る」


 ベイルが北の木々へ矢を向ける。


「次は盾の外を通るぞ」


 言葉が終わるより先に、長弓を構えたベイルの背後で枝葉が鳴った。


 北東ではない。窯跡の西だった。


 薄影豹が一度で回り込める距離ではない。先ほど北へ消えたと見せた時点で、途中から低い岩場を伝っていたのだ。


 ルークの目に、雨粒を弾く灰褐色の前脚が映る。


「ベイル、伏せろ!」


 ベイルは振り返らずに身を沈めた。


 その頭上を爪が薙ぎ、革の頭巾が裂けて飛ぶ。薄影豹は大きな身体をほとんど地面へ触れさせず、前脚を岩へかけて進路を変えた。


 グレンが追いつき、胴へ剣を振るう。


 薄影豹はそれすら待っていた。グレンの刃を避けると同時に窯跡の裏へ入り、マルタとの間にあった男一人分の隙間を抜けようとする。


 オズが長盾を動かしかけた。


「そのまま!」


 ルークが叫ぶ。


 オズが持ち場を守る。盾が動かなかったことで、薄影豹は窯跡の手前で急に身体をひねった。爪が土を削り、灰色の身体が北の木立へ戻っていく。


 リゼの肩を借りていたマルタが、息を詰めた。


 今、オズがベイルを助けようと走っていれば、獣は空いた場所からマルタへ届いていた。


「助かった」


 ベイルは裂けた頭巾を捨て、長弓を構え直した。耳のすぐ上に、爪でつけられた赤い線が浮かんでいる。


 薄影豹は、もう弓の向きを変えるのに時間がかかることまで知った。


 こちらが一つ防ぐたびに、次の攻め方を覚えていく。


 マルタが剣を支えにして立ち上がろうとした。


「座っていろ」


 グレンが止める。


「座っていれば、次もリゼが狙われる」


「立てば傷が開く」


「どちらにしても狙われるなら、剣を振れる方がいい」


 マルタは片膝を立て、幅広の剣を身体の前へ置いた。踏み込めなくても、近づいた獣へ刃を合わせることはできる。


 雨脚が少し強くなった。


 薄影豹の気配は消えている。


 ルークは北東の木から、オズの盾までの線を見た。


 先ほど獣が通った場所。次に使える枝。その下にある根と、雨に濡れ始めた岩。薄影豹が同じ狙いを選ぶなら、今度は盾の外側へ回り、リゼの背中かマルタの首へ爪を届かせる。


 だが、それが分かっても遅い。


 薄影豹は途中で進路を変えられる。待ち構えた場所へ来なければ、また別の死角を選ぶだけだった。


 どこへ来るのかを当てようとするほど、選ばなければならない答えが増えていく。


 北。北東。頭上。窯の裏。


 雨粒が無数の葉を揺らし、その一つ一つが獣の動きに見えた。


 額の奥へ、細い痛みが差し込む。


 ルークは奥歯を噛み、視線を地面へ落とした。


 濡れた土に、七人分の足跡が重なっている。その外側には、前日に張った縄と、崩れた窯と、動かせない岩がある。


 獣だけを見れば、どこへでも行けるように思えた。


 だが、戦場まで好きに変えられるわけではない。


 ルークは一度、長く息を吐いた。


 すべてを追う必要はない。


 相手に合わせている限り、先に動くのは薄影豹だ。


「グレン」


「見つけたか」


「まだ見えてない。配置を変えたい」


 グレンは北から目を離さなかった。


「言え」


「オズを五歩、東へ。盾は北じゃなく、窯跡へ向ける」


「マルタが空くぞ」


 オズが言う。


「空ける。リゼはマルタを立たせて、南へ向かうふりをしてくれ」


「ふり?」


「二本目の木までで止まる。追ってきたら、オズが横から塞ぐ」


「盾が間に合わなければ?」


「ベイルが一射目を外さなければ間に合う」


 ベイルがルークを見る。


「どこへ射る」


 ルークは、北東から南へ斜めに伸びる枝を指した。


「あそこから来る」


「見えていないんだろ」


「来る場所じゃない。使わせる場所だ」


 ベイルの眉がわずかに上がった。


「続けろ」


「グレンは窯跡の西へ。枝から落ちた先へ、すぐ踏み込める位置に立つ。ラウルは南西の鹿道を塞いでくれ」


「南西だけでいいのか」


 ラウルが尋ねる。


「そこだけ、残す」


 ルークは地面へ伏せた縄を見た。


「リゼ。胸の高さに張った方を外せるか」


「今なら」


「低い方だけ残して、南西へ斜めに張り直してくれ。止めなくていい。踏み切る場所を狭くしたい」


 リゼはすぐに意図を理解した。


「高く跳べば、ベイルから見える」


「低く抜ければ、ラウルの前へ出る」


 オズが言った。


「俺のところへ来たら?」


「盾で戻す。追わなくていい」


「簡単に言うな」


「できないか」


「やる」


 オズが盾の握りを直した。


 グレンは全員の位置を一度見回した。


「動け。ベイル、移動中を守れ」


 最初にオズが東へ下がった。


 リゼは曲刀を鞘へ戻し、マルタの腕を自分の肩へ回す。立ち上がった瞬間、マルタの顔が歪んだが、声は出さなかった。


 二人が南へ一歩進む。


 森の音が変わった。


 雨音の中で、一か所だけ雫の落ちる間隔が乱れる。


 北東の枝だった。


「ベイル、まだだ」


 灰褐色の毛が、葉の隙間で一瞬だけ光った。


 薄影豹は幹の裏を上がっている。地面を走ればオズの盾が間に合うと見て、枝から二人の背後へ降りるつもりだった。


 先ほどまでなら、見つけた場所を叫び、全員でそちらを向いていた。


 それでは遅い。薄影豹は人間が振り向く時間まで使って、別の道を選ぶ。


 ベイルの弓が、わずかに上を向く。


 ルークは枝の揺れだけを見た。


 葉の端から落ちた雫が、空中へ細く伸びている。


 その奥で、一本の枝が沈んだ。


 毛先についた水が散る。


 弓弦についた一滴が、ベイルの指先で震えていた。


 指が離れる。丸い雫が潰れ、細い筋になって飛んでいく。その向こうで、薄影豹の肩がゆっくりと枝の外へ出た。


 見えているのに、ルークの腕も足も動いていない。


 身体だけが、ひどく遠くにあるようだった。


 前脚が幹から離れた。


「今だ!」


 弦が鳴った。


 矢は、薄影豹の姿が現れるより先に、枝とリゼの背中を結ぶ空間へ飛んだ。


 そこへ獣が跳び込む。


 薄影豹は空中で身をよじり、矢尻をかわした。だが避けた分だけ、前脚の向きと着地点がずれた。


 リゼの背後へ届くはずだった身体が、窯跡の北側へ落ちる。


 そこへグレンが踏み込んだ。


 上段から振り下ろされた剣を、薄影豹は横へ跳んでかわした。完全には逃れられず、刃が長い尾の毛を切り飛ばす。


 獣が東へ走る。


 オズの長盾が待っていた。


 薄影豹は盾へ爪を当てる直前に速度を緩め、右へ回ろうとする。オズは獣を追わず、窯跡と木の間に盾を差し入れた。


 東へ抜ける隙間が消える。


 獣は反転した。


 グレンが西へ回り込み、逃げ道を塞ぐように剣を横へ払った。


 刃が届くより先に薄影豹は下がったが、そのまま西へは出られない。岩場へ戻ろうと頭を上げれば、ベイルが二本目の矢をつがえている。


 ルークは盛り土を下りた。


 右手で剣を抜き、窯跡の南へ回る。腕にはまだ痺れが残っていたが、強く振る必要はない。


 薄影豹がこちらを見る。


 黄色い目が細くなった。


 ルークは剣先を獣へ向けず、南東の地面へ置いた。


 近づけば斬るのではない。


 そこは通れないと示すだけでいい。


 薄影豹の前脚が止まる。


 北にはベイルの矢。東にはオズの盾。西ではグレンが剣を構え、南東にはルークがいる。


 残った南西の鹿道には、低い縄が斜めに張られていた。


 その先に、ラウルが一人で立っている。


「マルタを下げろ」


 ルークが言った。


 リゼは今度こそ南へ進んだ。


 一歩ずつだったが、薄影豹は追えない。オズが盾の位置を保ち、ルークとグレンが獣の前を塞いでいる間に、二人は並んだ木を越えていく。


 薄影豹が低く唸った。


 最初の攻撃から、獣は人間を動かし続けていた。


 射手を襲うと見せてグレンを走らせ、傷ついた脚でマルタを誘い、流れた血で陣を崩そうとした。誰を傷つければ、次に誰が動くのかを選んでいた。


 今は違う。


 獣がどれほど速くても、走れる場所は広がらない。


 グレンが半歩進む。


 オズも盾を前へ押し出した。


 薄影豹は後ろへ下がり、低い縄の手前で身体を沈める。


 黄色い目が、ラウルへ向いた。


 次いで、ルークへ戻る。


 薄影豹の肩がわずかに西へ傾いた。


 ラウルを狙う。


 そう見せて、獣は南東へ跳んだ。


 ルークへ向かってくる。


 右へ避ければ、背後が開く。左へ避ければグレンの前へ入り、剣を塞ぐ。受け止められるほど、ルークの腕力は強くない。


 獣が、こちらのどこを動かせば陣が崩れるのか試している。


 ルークは退かなかった。


 薄影豹の右肩が落ちる。その下で、前脚が折り畳まれていた。次の一歩は、傷のある右ではない。左から踏み込み、最後に右の爪でルークの首を払う。


 見えた動きへ剣を合わせれば、また変えられる。


 ルークは獣ではなく、濡れた根の脇へ剣先を向けた。


 そこは、左前脚を置かなければルークまで届かない場所だった。


 薄影豹の足が着く。


 剣を突き出す。


 刃先が前脚を浅く裂いた。獣は爪を振るう前に身をひねり、ルークの頬を風だけが撫でる。


 すぐ横をグレンの剣が通った。


 薄影豹は二人の間から逃れ、低い縄の手前まで戻る。新しい血が、右とは反対の前脚から雨の中へ落ちた。


「追うな」


 グレンの声で、踏み出しかけたルークは止まった。


 手の中で剣が震えている。深く見えていたのは、ほんの一瞬だけだった。もう雨粒はただの雨に戻り、額の痛みだけが残っていた。


 それでも陣は崩れていない。


 高く跳べば、ベイルの矢が届く。


 地面を抜ければ、ラウルがいる。


 それでも、止まっていれば包囲が狭まる。


 薄影豹は、頭上の枝を見なかった。


 黄色い目がまっすぐラウルを捉える。


 残された道を塞いでいるのは、C級が一人だけだった。


 ラウルが腰の剣を抜く。


 刃先を下げ、右足だけを半歩後ろへ引いた。


 薄影豹の尾が、雨に濡れた地面を一度打つ。


 次の瞬間、獣は残された一本の道へ飛び込んだ。



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