24 境界
七人は、目印にした二本の木を真っすぐ目指していた。
少なくとも、全員がそのつもりだった。
「止まれ」
ルークの声で、先頭のベイルが足を止める。
後ろを歩いていたオズとリゼも止まり、最後尾のラウルが振り返った。
森へ入って半刻ほど。昨日、地図で確かめた空白の西側まで来ている。
二本の木は、右前方に見えていた。片方は幹の半分が白く枯れ、もう片方は途中から二股に分かれている。離れた場所からでも見間違えにくい。
ところが、歩いているうちに二本とも左手へ移っていた。
「道を外れたか」
グレンが尋ねる。
「外れたというより、曲がっている」
ルークは来た方角を見た。
人の足で踏まれた道はない。七人は歩きやすい場所を選び、腰ほどの高さまで茂る草を避けて進んできた。
その結果、最初に決めた線から南へ四十歩ほどずれている。
「あの倒木を避けたからじゃない?」
リゼが後方を指した。
苔に覆われた倒木が、低い茂みの中へ横たわっている。
「倒木まで来る前には、もう曲がっていた」
「だったら、その手前の藪だろ」
オズが言う。
指された藪は、膝を上げれば越えられる高さしかない。棘もなく、地面が沈んでいる様子もなかった。
ルークは腰の手帳を開いた。
昨日、地図の余白へ書いた言葉が残っている。
――理由のない迂回。
「戻って、今度は木だけを見て歩く」
「必要ない」
ラウルが言った。
「目的の鹿道は南だ。このまま進んでも着く」
「空白の境がどこか確かめに来たんだろ」
「中へ入るためじゃない。戦う場所から三十歩離れていると分かればいい」
ルークは二本の木へ目を戻した。
木々の間に、何かが立っているわけではない。臭いも、音も、周囲の森と変わらない。
それでも、誰一人として真っすぐ近づいていなかった。
「ルーク」
グレンが呼ぶ。
「今日は戦場を決める。空白を調べる日じゃない」
「分かっている」
「なら、場所だけ残せ」
ルークは、二本の木と現在地を手帳へ描いた。進もうとした方角と、実際に歩いた線も分けて記す。
地図を閉じると、ベイルが再び歩き出した。
◇
戦う場所に選んだのは、崩れた炭焼き窯の近くだった。
土を盛って作られた窯は半分ほど崩れ、黒く焼けた石だけが残っている。周囲は炭を運び出すために木が切られていたらしく、細い木が増えた今も頭上の枝はほかより少なかった。
東へ三十歩進めば、獣道が空白を避けて曲がり始める。
北には、地面から突き出た低い岩場がある。南には二本の太い木が並び、その間を鹿道が通っていた。西側は緩やかな下りになっており、泉へ続く獣道が見える。
ベイルは北の岩場へ上がった。
長弓へ矢をつがえず、窯の跡へ向けて構える。
「三十五歩」
岩場から降り、今度は南側へ回る。
「こっちへ走られれば、木が二本邪魔になる。射るなら、その前だ」
ルークは地図へ線を足した。
「獣が南へ向いたら、リゼが縄を上げる」
「一本では越えられる」
リゼは鹿道を挟む二本の木へ触れた。
「胸の高さと、膝の高さ。二本を同時に張る。止められなくても、上か下かは選ばせられる」
「張るまでにどれくらいかかる」
「支点を作っておけば、一息」
リゼは縄の端へ金具を結び、木の根元へ打った小さな杭へ通した。もう一方も同じように準備し、試しに引く。
二本の縄が、鹿道を斜めに横切った。
「これで通る者まで止めるなよ」
オズが長盾を置いた。
「本番までは外す。位置を決めてるだけ」
「俺はどこだ」
「東側」
ルークは窯から空白へ向かう線の途中を示した。
「薄影豹が西から来れば、正面はグレンとマルタ。ベイルの矢を嫌って右へ動いたら、オズが止める」
「右へ避けなかったら」
「左はリゼの縄だ。上へ行けば枝が揺れる。西へ戻ればベイルがもう一度射られる」
「お前の考えどおりに動けばな」
オズは盾を構え、足元を確かめた。
「動かなければ、無理に動かさない」
「それで逃げられたら?」
「追わない。次の日に、また場所を作る」
オズが何か言いかける。
先にグレンが答えた。
「仕留める機会より、仕留められる場所を優先する。今回はそれでいい」
マルタは窯跡の西側へ立ち、幅広の剣を抜いた。
「私はここか」
「グレンより半歩後ろ」
「なぜだ」
「薄影豹は、グレンが指示を出すと知っている。最初に狙うなら、そっちだ」
「私を隠すのか」
「グレンを狙って踏み込んだところへ、横から入ってほしい」
マルタはグレンの位置を見たあと、剣を立てたまま半歩下がった。
「ここなら届く」
ルークはうなずいた。
自分の位置は、崩れた窯の横だった。
盛り土の上へ立てば、北の岩場から南の鹿道まで見渡せる。前へ出るグレンとマルタの背中も、東に立つオズも視界に入った。
剣が届く場所ではない。
誰かが傷を負っても、すぐには駆け寄れない位置だった。
「不満か」
グレンが尋ねる。
「いや」
「お前が前へ出れば、誰が全体を見る」
「分かっている」
「分かっていても動くから聞いた」
ルークは返事をせず、窯跡からの見え方を確かめた。
ラウルは南側の退路を一度歩き、北の涸れ沢へ続く道へ回った。
白い布を枝へ結び、次の木までの距離を測る。目印を増やしすぎず、ひとつが外れても前後の布を見つけられる間隔にしていた。
「南は使える」
戻ってきたラウルが言う。
「負傷者が出た場合は、窯跡から南へ下がれ。二百歩先で予備隊と合流できる」
「北は」
「涸れ沢へ出るまで狭い。薄影豹が後ろへ回った場合には使わない」
グレンが全員を見回した。
「一度、動きを合わせる。ベイルは西から来た獣を射る。外して南へ振れ。マルタと俺は正面。オズは東を塞ぐ。リゼは縄。ルークは見えたものを言え。ラウルは退路と、抜けた獣を見る」
ベイルが岩場へ上がる。
薄影豹の代わりに、ローデンが用意した藁袋を予備隊の一人が引いた。長い縄の先につけ、泉へ続く道から窯跡へ向かって走る。
「西、三十五歩」
ルークが声を出す。
ベイルが弓を構えた。
「南へ寄る」
矢を放つ代わりに、弦だけが低く鳴る。
グレンが左へ一歩ずれ、マルタが空いた場所へ入る。オズは盾の縁を地面へつけ、リゼが縄を引いた。
藁袋が低い縄に引っかかり、地面を転がった。
「いまの声では遅い」
ベイルが弓を下ろした。
「俺が射る前に進路が変わっている」
「次は早く言う」
「早くではない。向きを変える前に言え」
ルークは、藁袋を引いていた男へ元の位置へ戻るよう頼んだ。
二度目は、縄を持つ腕の開きを見た。
袋が南へ動くより先に声を出す。
「南へ寄せる」
ベイルの弦が鳴り、マルタとオズが同時に動いた。
今度は、藁袋が縄へ届く前に三人の間へ囲まれていた。
「もう一度」
グレンが言った。
同じ動きを、位置を変えながら繰り返す。
誰か一人が転んだ場合。縄が切れた場合。ベイルが射られない角度へ入られた場合。
マルタが動けなければオズが正面へ入り、リゼが東を塞ぐ。ベイルが岩場を下りた場合は、ラウルが北を見る。ルークの声が届かなければ、グレンが自分の判断で全員を動かす。
日が傾く前に、七人はすべての縄と杭を回収した。
本番まで森へ残しておけば、薄影豹に位置を教えることになる。
最後に窯跡を離れたルークは、西側の獣道で足を止めた。
朝にはなかった傷が、若い木の幹へついている。
地面から、ルークの肩ほどの高さ。
爪の先で撫でたような細い線が、四本並んでいた。
「いつだ」
ベイルが膝をつき、傷口へ触れる。
削れた木肌はまだ白く、樹液がにじんでいた。
「俺たちがここにいた間だ」
ベイルは指についた樹液を土へ擦り落とした。
ルークは周囲を見た。
鳥は鳴いている。木の葉も、風に合わせて同じ方向へ揺れていた。
薄影豹の姿はない。
それでも獣は、七人が立つ場所を先に見ていた。
◇
翌朝、治療師はルークの剣を自分の方へ引いた。
ルークは鞘に入れたままの剣を右手で握り、奪われないよう引き戻す。
指先に痺れは残っている。左肩も、腕を高く上げれば痛んだ。だが、昨日より力は入る。
「剣を落としそうになったら、意地を張らず両手で持つこと」
「左肩が痛む」
「落として味方を傷つけるよりましです。そもそも、あなたは前に出ない約束でしょう」
「予定では」
「その言い方は、グレンさんの前ではしない方がいいですよ」
治療師は剣から手を離した。
「帰ってきたら、まっすぐここへ来てください」
「分かった」
「自分の足でですよ」
ルークは答えず、剣を腰へ下げた。
東門では、グレンたちがすでに待っていた。
予備隊の四人は牧場まで同行し、二人が森の入口、残る二人が南の退路近くで待機する。負傷者が出れば引き継ぎ、都市まで運ぶ役目だった。
薄影豹の死骸を置いていた敷き藁は、蓋をした二つの土器へ分けられている。毛と乾ききっていない血が残り、蓋の隙間は蜜蝋で塞がれていた。
リゼは縄と杭を背負い、ベイルは長弓の弦を布で包んでいる。オズの長盾には、予備の革帯が二本増えていた。
ラウルの荷物だけは、昨日とほとんど変わらない。
「出るぞ」
グレンを先頭に、十一人が門を出た。
牧場へ着いた頃、太陽はまだ東の空にあった。
二頭の牧羊犬は納屋の陰から出てこない。牧場主は七人の水袋を満たし、何も言わず栓を一つずつ確かめた。
森へ入る前に、グレンが全員へ告げる。
「昨日決めたことを変える場合は、必ず声に出せ。一人で追うな。空白へ入るな。長い笛が一度鳴ったら南へ引く」
誰も返事を急がなかった。
互いの顔を確かめてから、順にうなずく。
ルークは最後に、森の入口から空白の方角を見た。
昨日と同じ木々が並んでいる。
何もないようにしか見えなかった。
◇
窯跡へ着くと、七人は前日より短い時間で配置を作った。
リゼが二本の木へ支点を結び、縄を地面へ伏せる。オズは東側の足元から石を退け、盾を構えたまま動ける幅を作った。ベイルは北の岩場へ上がり、射線にかかる枝を一本だけ落とした。
グレンとマルタは窯跡の西へ立つ。
ラウルは南北の退路を確認し、ルークは盛り土の上から全員の位置を見た。
「三十歩あるか」
グレンが尋ねる。
ルークは空白との境に見立てた二本の木から、オズの立つ場所までを目で測った。
「三十二歩」
「十分だ」
土器の蓋を外す。
鉄に似た血の臭いが、湿った森の空気へ広がった。
中の敷き藁を窯跡の西へ置き、毛を低い枝へ絡ませる。風は南西から吹いていた。臭いは鹿道を横切り、森の北側へ流れていく。
準備を終えたリゼが、地面に伏せた縄の端を握る。
全員が待った。
太陽が高くなるにつれ、盛り土の影がルークの足元へ縮んでいく。
森は静かではなかった。
小鳥が鳴き、遠くで木をつつく音がする。葉の裏では虫が羽を擦り、時折、風に押された枝が隣の幹へ当たった。
音が多いほど、消えた場所は分かりやすい。
西の鳥が一羽、鳴くのをやめた。
少し遅れて、その北側でも声が消える。
「西。泉の道より北」
ルークが告げる。
ベイルが長弓を持ち上げた。
グレンとマルタは、剣を抜いたまま動かない。
オズの盾だけが、わずかに西へ向きを変えた。
枝が揺れた。
高い場所ではない。人の腰ほどの高さに張り出した枝が、沈んで戻る。
「低い。北へ回っている」
次に動いた枝は、ベイルの立つ岩場へ近づいていた。
弓弦が鳴る。
放たれた矢が、木の陰へ消えた。
灰褐色の身体が地面を滑る。
矢を避けて飛び出した薄影豹は、窯跡へ近づかず、北の岩場へ沿って走った。右前脚が着くたび、肩がわずかに沈んでいる。
傷は残っていた。
「右脚は使える。遅れは小さい」
ルークが言う。
ベイルが二本目を射る。
薄影豹は地面を蹴り、細い木の幹へ前脚をかけた。身体を横へ投げるように向きを変え、矢を後方へ逸らす。
「南へ寄る!」
リゼが縄を引いた。
二本の縄が鹿道を塞ぐ。
薄影豹は止まらない。
低い縄の手前で身体を沈め、その反動で高い方まで一息に越えた。
だが、着地した先にはオズがいた。
長盾の縁が地面へ食い込み、短槍が盾の横から突き出される。
薄影豹は槍へ飛び込まず、後ろ脚で地面を削った。
正面に盾。背後に縄。北からはベイルの矢が来る。
選べる道は西しかない。
「戻るぞ」
グレンが一歩踏み込んだ。
薄影豹が西へ跳ぶ。
その先へマルタの幅広の剣が振り下ろされた。
獣は身体をひねり、刃を肩の毛だけで滑らせる。完全には避けきれず、灰褐色の毛が宙へ散った。
着地と同時に、薄影豹は木々の間へ消えた。
「追うな」
グレンの声が飛ぶ。
マルタは剣を戻し、オズも盾の位置を変えなかった。
誰も追わない。
薄影豹が望んだ場所まで連れていかれる失敗は、繰り返さなかった。
西側で、鳥の声が一つずつ戻り始める。
「離れたか」
オズが盾越しに尋ねた。
「まだ近い」
ルークは窯跡の北を見た。
ベイルが射った一本目の矢が、木の幹へ刺さっている。
矢羽だけが震えていた。
風ではない。
幹の反対側を、何かが蹴った。
「ベイル、下りろ!」
薄影豹が岩場の裏から跳び上がった。
ベイルは弓を捨て、腰の短槍を抜く。穂先を上へ向けるより早く、灰褐色の前脚が岩の縁へかかった。
グレンが岩場へ走る。
薄影豹はベイルへ飛びつかなかった。
岩を蹴り、グレンの頭上を越える。
獣の向かう先には、マルタがいた。
「上だ!」
マルタが振り向き、幅広の剣を横へ構える。
薄影豹はその正面へ降りた。傷ついた右前脚が折れ、身体が東へ崩れる。
マルタは逃げ道を塞ぐように、一歩踏み込んだ。
右脚が地面を蹴った。
力が入らないように見せていただけだ。薄影豹は倒れかけた姿勢から反対側へ身を翻し、剣の間合いへ潜り込む。
左の前脚が、マルタの腿を横から裂いた。
革鎧の裾が切れ、血が散る。
マルタの膝が折れた。
「マルタ!」
ルークの右足が、盛り土を下りかける。
薄影豹は倒れたマルタを見ていなかった。
黄色い目が、ルークへ向いている。
前の戦いでもそうだった。
獣は傷つけた者より、その傷を見て動く者を選ぶ。
ルークは踏み出した足を戻した。
「オズ、前へ! リゼは止血! グレンは西を切れ!」
オズが盾を持ったままマルタの前へ入る。
薄影豹が横へ飛び、盾の表面を爪で叩いた。オズの身体が半歩押されたが、倒れない。
その間にリゼがマルタの腕を取り、窯跡の裏へ引いた。
ルークは動かなかった。
マルタの傷から落ちる血が見える。リゼが革帯を腿へ回し、布を押し当てている。今すぐ自分が加わっても、できることはない。
見るべきものは、薄影豹だった。
「西へ行く!」
グレンが進路へ剣を置く。
薄影豹はその手前で身体を反らし、再び北へ逃れた。
ベイルが岩場から下り、捨てた長弓を拾う。
「マルタは」
「骨までは届いてない!」
リゼが傷を押さえたまま答える。
「立てるか」
グレンが尋ねる。
「走るのは無理だ」
マルタは自分で答えた。
「剣は振れる」
「後ろへ下がれ。正面は俺とオズで持つ」
「分かった」
マルタは言い返さなかった。
事前に決めた交代どおり、リゼの肩を借りて盛り土の東へ移る。
薄影豹は姿を消したままだった。
だが、完全に離れてはいない。
北側で、小鳥が一羽だけ飛び立った。
その次は、さらに東。
声の消える順番が、窯跡から遠ざかっていく。
「逃げたか」
オズが尋ねる。
ルークは答えなかった。
北へ続く印を、頭の中の地図へ重ねる。
薄影豹は水場へ向かっていない。森の奥へ逃げてもいない。
七人が窯跡から北へ退く場合に使う、涸れ沢への道を横切っていた。
「北の退路だ」
ルークが言う。
「何?」
「あいつは逃げていない。俺たちの後ろへ回る」
ラウルが北の木立へ顔を向けた。
腰の剣へ手を置き、初めて窯跡から離れる。
その先で、鳥の声がまた一つ消えた。
薄影豹は、七人の帰る道を見ていた。




