23 空白
治療師が木の棒を引いた。
ルークは右手に力を込め、その動きに耐える。棒は剣の柄と同じ太さで、表面には滑り止めの革が巻かれていた。
「離さないでください」
今度は下へ押される。
肩の傷が引かれ、腕の内側に鈍い痛みが走った。それでも指は開かなかった。
治療師は力を緩め、ルークの手から棒を受け取った。
「昨日よりはいいですね」
「剣は」
「振っても構いません。ただし、今日は型を確かめるだけ。右手だけで強く打ち込まないこと。痛みが増したら、その時点でやめてください」
「討伐は」
「出発は早くても二日後だと聞いています。その朝にもう一度診ます」
「二日で治るか」
「治すのはあなたの身体です。私に聞かれても、早めることはできません」
治療師は前の包帯をほどき、清潔な布を左肩へ当てた。傷へ直接触れないように、新しい包帯を回していく。
「傷が治っても、止まれと言われたときに止まれなければ、またここへ運ばれてきます」
包帯が背中を回り、胸元で結ばれた。
ルークは返事をしなかった。
「いま黙るところではありません」
「分かった」
「何がですか」
「止まれと言われたら止まる」
治療師は疑わしそうにルークを見たが、それ以上は言わなかった。
治療室を出ると、廊下の窓から午前の光が差し込んでいた。
ギルドの広間には立入禁止が続く東の森を避け、西や南の依頼を探す冒険者が集まっている。掲示板の一角には、薄影豹を描いた警告が新しく貼られていた。
灰褐色の身体。太い前脚。長い尾。脇には人の輪郭も描かれ、大きさが分かるようになっていた。
絵の下には、見つけても近づかず、最寄りの監視所へ知らせるよう書かれている。
歩みを止めて読む者は多い。だが、一息で人の間を抜ける速さまでは、絵から伝わらない。
「ルーク」
二階からローデンが呼んだ。
片腕に三本の地図筒を抱え、もう一方の手には分厚い帳面を持っている。
「領主府から開拓記録を借りられた。猟師組合にも話を通してある」
「古い炭焼き小屋のことは」
「知っている者が一人いたよ。もう猟には出ていないが、昼までは組合にいるそうだ」
ルークは階段を上がった。
会議室には、昨日使った地図がそのまま残されていた。北東側の空白へは、炭筆で薄い印をつけている。
ローデンが領主府の帳面を開いた。
東の森で伐採を許された場所、炭焼き小屋の使用者、運び出された木材の量。年ごとの記録が、細かな字で並んでいた。
「空白の周りにも人は入っているな」
ルークは指で行を追った。
「七年前まで、北東の小屋が使われている」
「最後の使用者が、今日会う男だ。小屋を捨てた理由は、炭に向く木を切り尽くしたからだと申告されている」
「獣に襲われたとは書いていない」
「怪我人の記録もないよ」
被害がなかったのは、人が入らなかったからではない。
何年も仕事場として使われ、それでも空白の内側では獣の被害が一度も報告されていなかった。
「森の起伏が分かるものは」
「こちらだ」
ローデンが一本目の地図筒を開けた。
領主府の測量図は、ギルドの地図より範囲が広かった。等間隔に引かれた線で、緩やかな丘と沢の位置が示されている。
空白の内側に大きな崖や沼はなく、地図上では周囲と変わらない林だった。端から端までは、およそ七百歩ある。
北から細い沢が入り、南西へ抜けている。
「水もある」
「獣が寄らない理由にはならないね」
「水が飲めないのかもしれない」
「泥か、腐った木から何か流れ込んでいる?」
ローデンが別の帳面へ書き留める。
ルークは地図の上で、沢の流れを追った。
北東の空白を通った水は、下流で別の沢と合流する。その近くには鹿の目撃記録も、ラッシュボアの足跡も残っていた。水そのものが悪いなら、下流にも影響が出るはずだった。
「ここだけを避ける理由がある」
「臭いか、音か、地面か」
「それを確かめたい」
「森へ入るのは、全員がそろってからだ」
ローデンは先回りして言った。
「今日は話を聞くだけ。牧場まで行くなら、予備隊と一緒に街道から見るだけだよ」
「分かっている」
「治療師にも同じことを言った顔だな」
ルークは答えず、三枚の地図を重ねた。
◇
猟師組合の建物は、東門に近い革工房の並びにあった。
軒下には獣の角が吊るされ、壁際には修理を待つ弓が並んでいる。開いた戸口から、なめし革と煙草の匂いが流れていた。
奥の長椅子に、一人の老人が座っていた。
白い髭を顎の下で短く切り、左脚には木の添え木を巻いている。猟へ出なくなって久しいはずだが、節の太い指には弓弦で擦れた跡が残っていた。
「ガドだ」
老人は名前だけを告げ、ルークのプレートを見た。
「薄影豹を追うそうだな」
「追わない。出てくる場所を決めたい」
「同じことだ。獣の都合へ足を突っ込む」
ガドは隣の椅子へ置いていた革袋を退かせた。
ローデンが地図を広げる。炭焼き小屋の跡を示すと、老人は迷わず、その北へ指を置いた。
「小屋はもう少しこっちだ。沢から離れている」
「領主府の図では、この位置です」
「そいつは前の小屋だ。沢を一本越えた場所へ建て直した。役人が測りに来たのは、その前だ」
ローデンは眼鏡を押し上げ、印を書き直した。
「七年前まで使っていたと聞きました」
「俺が脚を悪くする前年までだ。若い連中は別の斜面へ移った」
「周辺で、大型の獣を見たことは」
「西で灰爪熊を一頭。南で角持ち鹿を何度か。あの辺りじゃ、珍しい話じゃない」
「この内側は」
ルークは、空白の中心を指した。
ガドの目が、地図からルークへ上がる。
「何を聞きたい」
「なぜ、獣の記録がない」
「いないからだろう」
「水がある。木の実もなる。外側には鹿がいる。それなのに、内側だけ何もいないのか」
老人はすぐに答えなかった。
膝へ両手を置き、少し身をかがめる。地図の一点ではなく、空白を囲むように目を動かしていた。
「昔、犬を連れて入ろうとしたことがある」
「入れなかった?」
「綱を引いても動かなかった。唸りもしない。ただ、腹を地面へつけて、来た道を見ていた」
「何かを見たのか」
「犬に聞け」
「人は入った?」
「入ろうとはした」
ガドは、指先で地図上の炭焼き道をなぞった。
「沢へ下りるつもりだった。だが、藪が深かったか、足場が悪かったか……気づけば南へ回っていた」
「覚えていないのか」
「何十年も前の話だ」
老人は不機嫌そうに言った。
「入る理由もなかった。獣がいなけりゃ、罠を置いても無駄だ。炭に向く木は外にもある」
「藪が深かった跡は、地図に残っているか」
ルークがローデンへ尋ねる。
「いや。当時の伐採記録では、沢まで細い作業道が通っている」
「崖もない。沼もない。それでも、南へ回った」
「そうした方がいいと思ったんだろう」
ガドは苛立ったように言った。
「なぜ?」
「覚えていないと言ってる」
理由は残っていない。
それでも、進路だけは変わっていた。
「鳥は」
「見なかったな」
「虫は」
「そこまで覚えちゃいない」
「臭いは。土の色は。風が変わることは」
「一度に聞くな」
ガドが眉を寄せる。
ローデンは咳払いをして笑いを隠した。
「悪い」
「臭いは覚えていない。土も周りと同じだ。風は――」
老人の太い指が止まった。
「何だ」
「風まで避ける場所があるものかと思っただけだ」
「吹かなかったのか」
「知らんと言ってる。妙な方へ話を持っていくな」
ガドは背もたれへ身体を預けた。
「薄影豹を見つけたいなら、そんな場所より水を見ろ。手負いなら、なおさらだ」
その言い方が、父に似ていた。
幼い頃、ルークは一度だけ、森で父とはぐれたことがある。
角持ち鹿の足跡を追い、途切れた跡を探すことに夢中になった。父が戻ってきたときには日が傾き、ルークは同じ木の周りを何度も回っていた。
家へ帰ったあと、父は叱るより先に地図を広げた。
『跡が消えたら、獣を探すな。獣が行かなきゃならない場所を探せ』
水を飲む。餌を食う。夜を越す。子を守る。
足跡を消せる獣でも、生きるための行動までは消せない。
「水場は三つある」
ルークは測量図を引き寄せた。
「涸れ沢の北。東の細い沢。それと、南西の泉だ」
「東の沢は、この空白を通るね」
ローデンが言う。
「薄影豹が内側へ入らないなら、使わない。残るのは二つだ」
ガドが鼻を鳴らした。
「一つ減っただけで、捕まえた顔をするな」
「まだ捕まえていない」
「なら、次は鹿だ。手負いの大猫が水だけで腹を満たすか」
ルークは地図へ目を落とした。
「この辺りの鹿は、どこを通る」
「昔の話でよければ教えてやる。今も同じだとは思うなよ」
ガドはローデンから炭筆を受け取った。
空白の北と西に、途切れた線を三本描く。
どの線も中心へは入らず、縁に沿って曲がっていた。
◇
昼を過ぎて東門を出ると、街道脇でベイルが待っていた。
長弓は持たず、腰の短槍と山刀だけを身につけている。背負った細長い袋には、木の杭と巻いた縄が入っていた。
「話は聞けたか」
「昔の鹿道を三本」
「昔か」
「だから、これから外側を見る」
ベイルはそれ以上尋ねず、予備隊のC級二人と合流した。
五人は街道を進み、薄影豹に牛を奪われた牧場へ向かった。
森へ続く分岐には、二人のギルド職員が立っている。縄や柵で道を塞いではいない。知らずに通ろうとする者へ事情を伝え、引き返させるためだった。
牧場では、囲いの牛が以前より母屋の近くへ集められていた。
牧場主が納屋から出てきた。
「今度は何を調べる」
「襲われた夜の風だ」
ルークが答えると、牧場主は空を見た。
「風なんぞ覚えちゃいない」
「灯りはどちらへ流れた」
「灯り?」
「松明の煙だ。外へ出たとき、顔にかかったか」
牧場主は母屋から牛囲いまでを振り返った。
「森とは反対だ。母屋の方へ流れていた。煙で獣が逃げればいいと思って、囲いのそばへ刺したから覚えてる」
その夜、風は森から牧場へ吹いていた。
薄影豹の臭いは、姿を見せるより先に牧場へ届いていた。番犬は気づかなかったのではない。吠えることさえせず、納屋の下へ逃げ込んだのだ。
「犬を見てもいいか」
「好きにしろ。あの日から、どっちも臆病になってる」
二頭の牧羊犬は、納屋の脇の日陰にいた。
片方は人が近づくと立ち上がったが、もう一頭は伏せたまま鼻だけを動かしている。
ベイルが膝をつき、手の甲を嗅がせた。
犬は一度鼻を触れさせ、興味を失ったように顔を背ける。
「森の方を怖がると言っていたな」
「呼んでも向かない」
牧場主が答えた。
ベイルは犬の綱を借り、納屋の前をゆっくり歩かせた。
西。南。街道のある東。
犬は問題なくついてくる。
北にある森へ身体を向けた途端、歩みが止まった。
綱を強く引く前に、ベイルは向きを戻した。犬の耳が上がり、すぐに歩き始める。
「森全体だな」
ローデンが言った。
「今はな」
ベイルは犬を牧場主へ返した。
「あの晩に嗅いだものを、まだ覚えている。これでは空白だけを嫌っているか分からん」
「別の犬なら」
「近づける必要がある。今日はやらない」
森へ入らなくても、確かめられるものは残っていた。
ルークは牛が引きずられた跡をたどり、林の手前で止まった。回収隊が残した小さな杭が、血痕の見つかった場所ごとに立てられている。
最初の数本は、ほぼ北へ並んでいた。
林へ入る直前で、列が北西へ曲がる。
「牛を運んだときには、空白へ近づいていない」
ルークは地図と杭の向きを見比べた。
「でも、手負いで逃げたときは縁まで行った」
「違う道から同じ場所を避けている、か」
ベイルが周囲を見渡す。
森の上では、鳥が鳴いていた。
空白の中心はここから見えない。重なる木々の向こうに、ほかと変わらない緑が続いているだけだった。
「鹿道を確かめたい」
「中へは入らんぞ」
「外へ出る場所だけでいい」
ガドから教わった三本のうち、南西へ延びる古い鹿道は牧場の北側へつながっている。
五人は森との間に広がる灌木沿いを歩いた。
湿った地面には、鹿の蹄がいくつも残っていた。古いものに新しいものが重なり、細い道になっている。
ルークはしゃがみ込み、最も新しい跡を選んだ。
「昨日の朝か、その前だ」
「どちらへ行った」
ベイルが尋ねる。
「森から出て、南へ」
「戻った跡は」
「少し西にある」
同じ群れが朝夕に往復しているなら、薄影豹にも見つけやすい道だった。
足跡は森の入口へ続いている。そこから先は落ち葉に隠れたが、向きはガドが地図へ引いた線と重なっていた。
「昔と変わっていない」
ローデンが地図へ印を加える。
「鹿はここを使う。薄影豹が狙うなら、森の内側だな」
ベイルが言った。
「開けた場所まで追えば、人にも姿を見られる。仕留め損ねた鹿を深追いするより、道の近くで待つ」
「水場へも行ける」
ルークは鹿道の先を指で追った。
南西の泉と、涸れ沢の北にある水場。その間を行き来する鹿道が、空白の西側を通っている。
薄影豹が飲み水と獲物の両方を求めるなら、そこから大きく離れられない。
「あとは、どちらの水場を使うかだな」
「片方へ人の臭いを残す」
予備隊の男が言った。
「そうすれば、もう片方へ来るんじゃないか」
「来るかもしれない。森の奥へ離れるかもしれない」
ルークは答えた。
「薄影豹は、人を避けるだけの獣じゃない。邪魔だと思えば、先に襲ってくる」
追い立てれば、どこへ動くか分からない。
だが、選ばなければならないものなら利用できる。
水。鹿。傷を休める暗がり。そして、決して入らない空白。
ルークは地図の空白へ指を置き、その西側をなぞった。
細くなっていた可能性が、一つの場所へ集まり始めていた。
◇
ギルドへ戻ったのは、夕方の鐘が鳴る少し前だった。
会議室には、グレン、マルタ、オズ、リゼが集まっている。遅れてラウルが入り、扉の近くへ立った。
ルークは、今日増えた印を順に説明した。
空白の内側にも水はある。土地が険しいわけでもない。それでも犬は入ろうとせず、鹿道は縁に沿って曲がる。薄影豹が牛を運んだ道も、手負いで逃げた道も、内側へ入っていない。
「つまり、何かいるのか」
オズが尋ねた。
「何かがいるなら、そいつの痕跡がある」
ベイルが答える。
「獣を全部追い払うほど大きな魔物が、何年も一度も外へ出ないとも思えん」
「臭いかもしれない」
リゼが言った。
「人には分からなくても、獣が嫌う草や石があるとか」
「音も考えられる」
ローデンが加えた。
「風が木の穴を通り、人には聞こえないほど高い音を出している可能性もある」
「どれでもいい」
グレンが地図へ肘をついた。
「正体を確かめるのは、薄影豹を仕留めたあとだ。獣が入らないと分かれば、ひとまず壁として使える」
室内の視線が、空白の縁へ集まった。
「西側の鹿道は、二つの水場へつながっている」
ルークは新しく書き加えた線を示した。
「手負いの薄影豹がこの辺りに残っているなら、水を飲むか、鹿を狙うときに通る」
「見張る範囲は狭められるな」
マルタが言う。
「だが、待ち続けるのか」
「待つだけにはしない」
ルークは、死んだ薄影豹を示す小さな石を取った。
「生き残った方は、番が倒れたあと、一度そちらへ戻ろうとした」
獣が何を考えていたのかは分からない。
死を理解していたのか。血の臭いへ引かれたのか。自分の縄張りから異物を取り戻そうとしたのか。
理由は断定できなくても、実際に向きを変えたことは使える。
「死骸を運ぶのか」
オズが顔をしかめた。
「全部はいらない。血のついた敷き藁と、臭いが残る毛を使う」
「こちらを警戒して寄らない可能性は」
「ある」
「襲ってくる可能性は」
「それもある」
「どちらなんだ」
「選ばせる」
ルークは空白の西側へ、小石を三つ置いた。
「近づかないなら、こちらから追わない。鹿道と水場を見張ればいい。取り戻そうとするなら、見つけた場所で戦わず、空白の縁まで引かせる」
リゼが縄を一本、地図の上へ置いた。
「この二本の道を塞げば、残るのは西だけ」
「薄影豹なら縄を切る」
「切らせるの。立ち止まって爪を振るなら、その間だけ狙える」
ベイルが椅子から立ち、窓際までの距離を歩いて確かめた。
「木の間が三十歩なら、俺の矢が届く」
「外したら、右へ避けさせてほしい」
ルークは言った。
「傷めた右前脚へ体重を乗せる向きだ。わずかに遅れる」
「わずか、だったな」
「でも、進む先にオズの盾があれば止まる」
オズが地図へ身を乗り出す。
「四歩は空けろ。三歩では槍を返せない」
「右に四歩。三十歩後ろが空白。左はリゼの縄。正面からベイルが射る」
「薄影豹が上を選べば」
マルタが尋ねた。
「木へ跳ぶ」
ルークは一本の木を示す印へ触れた。
「だから、木陰が最も短くなる時間に入る」
「昼か」
「正午を少し過ぎた頃。枝から枝へ移れば、葉が揺れる。地面へ降りても、影から出る時間が長い」
薄影豹が最もよく動くのは、夕方から夜だ。
獣の得意な時間を避ければ、誘いへ乗らない可能性は高くなる。それでも手負いで水と餌を求めているなら、姿を現すかもしれない。
「勝手のいい想定だけを選ぶな」
グレンが言った。
「昼に出なければ」
「日が傾く前に引く。翌日、位置を変える」
「空白の内側へ逃げたら」
「追わない」
「誰かが傷を負ったら」
「一人ならマルタとリゼが運ぶ。二人なら討伐をやめる。ラウルが決めた近い方の退路へ戻る」
「お前が動けなくなったら」
一瞬、言葉が止まった。
「ベイルに、薄影豹が避けた方向を伝える。次の判断はグレンがする」
グレンがうなずいた。
「なら、それで詰めろ」
ルークは地図へ残った小石を見た。
誰か一人が予定から外れても、すぐに全員が崩れない配置になっている。薄影豹を見つける役がルークでも、倒す力は七人の間へ分けた。
「ラウル」
グレンが呼ぶ。
「退路は」
ラウルは空白の北と南を指した。
「北は涸れ沢へ戻る。遠いが、獣が一度に追える道が限られる。南は炭焼き小屋から街道へ出る。負傷者がいるなら南だ」
「空白の中は使わないのか」
オズが言った。
「薄影豹が避けるなら、いちばん安全だろう」
「理由の分からない場所を退路にはしない」
ラウルは迷わず答えた。
「戦う場所も、縁へ寄せすぎるな。最低でも三十歩は空けろ」
「なぜ三十歩だ」
ルークが尋ねる。
「薄影豹が予想に反して中へ入ったとき、こちらまで追うか判断する余地が要る。縁へ張りつけば、獣と一緒に踏み込むことになる」
間違った意見ではなかった。
だが、ラウルはガドの話も、今日確認した鹿道も聞いたばかりだった。それなのに空白の存在を疑わず、初めから明確な境があるものとして扱っていた。
「その通りだ」
グレンが空白の縁から指三本ほど離し、戦う場所を修正する。それから南北の道へ印をつけた。
ルークはラウルを見た。
空白の内側を使わないことに、異論はない。獣が嫌う理由も分からず、人間だけは安全だと考える方が危険だった。
それでもラウルの返事は、考えて選んだというより、初めからそこしか答えがないように早かった。
「明日は現地へ入る」
グレンが全員へ告げた。
「戦うためじゃない。配置と退路を確かめ、縄を張る木を決める。異常があれば、その場で引く。本番は明後日の正午だ」
会議が終わり、皆が道具を片づけ始めた。
ローデンだけが地図の前へ残り、ガドの引いた古い鹿道と、今日見つけた新しい蹄跡を見比べていた。
「どうした」
ルークが尋ねる。
「この線だよ」
ローデンは、空白を回り込む三本の線を示した。
「ガドが猟をしていたのは、三十年以上前だ。今日の鹿道も、ほとんど同じところを通っている」
「道が残っているなら、不思議じゃない」
「鹿道は人の道と違う。木が倒れ、草が増え、水の流れが変われば移る。それでも三本とも、内側へは近づいていない」
ルークは、地図の中心へ目を落とした。
薄影豹が現れたのは最近だ。
ほかの獣が森の外へ移り始めたのも、同じ頃だった。
だが、この空白は違う。
三十年前の鹿も、現在の鹿も、その縁で道を曲げている。ガドも沢へ向かいながら、理由を覚えていないまま南へ回った。
地形に阻まれた跡はない。中で襲われた記録もない。
ルークは地図の余白へ、短く書き加えた。
――理由のない迂回。
獣も人も、空白へ近づく前に道を変えていた。




