22 作戦
右手から革紐が落ちなかった。
ルークは指に力を込めたまま、ゆっくり腕を持ち上げた。革紐の先には、拳ほどの石が結ばれている。
肘が胸の高さまで上がったところで、前腕の内側が震え始めた。
「そこまで」
治療師に言われ、力を抜く。
石が床へ落ちる前に、治療師が足で止めた。
「昨日よりは戻っています。指も全部動く。感覚が鈍いところは?」
「小指と、その下」
「剣を握るつもりで、もう一度力を入れてください」
ルークは何も持っていない右手を、ゆっくり握り込んだ。小指だけが、ほかの指よりわずかに遅れる。
「握るだけなら問題なさそうですね。ただ、振ったときに剣を落とさないとは言い切れません」
「試してみれば分かる」
「だから、まだ試さないでください」
治療師はルークの右手を取り、指先から手首までを順に押した。痛む場所と、触れられても分かりにくい場所を確かめていく。
薄影豹と戦ってから三日が過ぎていた。
右腕の感覚は少しずつ戻っている。左肩の傷も塞がり始めていたが、縫った箇所へ力がかかると、皮膚の下を引かれるように痛んだ。
「今日の会議へ出ることは止めません」
治療師が新しい包帯を巻く。
「ただし、参加が決まったわけではありません。私が許可したとも言わないように」
「痕跡を見るだけなら」
「森で薄影豹と出会って、本当に見るだけで済むと思いますか」
ルークは黙った。
「明日、もう一度診ます。それまでは木剣も持たないでください」
包帯の端が結ばれる。
治療室を出ると、廊下でセラが待っていた。
腕ではなく、ルークの顔を見る。
「どうでしたか」
「昨日より動く」
「それだけですか」
「明日、もう一度診る」
「ほかには?」
「剣を持つなと言われた」
セラが小さくうなずく。
「では、そのとおりにしてください」
会議室へ向かう途中、厚く折られた紙を渡された。
「頼まれていた記録です。東の森で過去十年に報告された、大型獣の被害と目撃場所。薄影豹以外のものも含んでいます」
「もう集めたのか」
「夜番と、朝から来た職員が探しました。倉庫に残っている分だけです」
紙の束は、左手だけでは持ちづらいほど重かった。
「助かる」
「まだ足りないものがあれば、会議で言ってください」
「分かった」
「それから」
セラが手を離す前に、紙の端をつかんだまま言った。
「参加できると決まってから、森へ行く準備をしてください」
ルークは答えず、紙を受け取った。
「返事は?」
「分かった」
「さっきも聞きました」
「今度は、行かないという意味で言った」
セラはようやく紙から手を離した。
◇
会議室の卓には、東の森を描いた地図が三枚並べられていた。
一枚は街道と牧場を含む広域図。二枚目は、最初の調査でローデンが書き足した森の内部。三枚目には、涸れ沢と周囲の高低差が大きく描かれている。
すでに席についていたのは、グレンとマルタだった。
マルタの幅広の剣は、鞘ごと壁へ立てかけられている。前回の戦いで刃こぼれした箇所には、新しく研いだ跡があった。
「腕は」
グレンが尋ねる。
「明日、もう一度診る」
「治ったとは言わないんだな」
「言えば、治療師に追い出される」
「少しは学んだらしい」
マルタが口元だけで笑った。
三人目のB級は、窓際に立って地図を見ていた。
背はグレンより低く、細身だった。灰色が混じった短い髪に、日に焼けた顔。壁には長弓を立てかけ、腰には片手で扱える短槍と山刀を下げている。
「ベイルだ」
男は先に名乗った。
「南の巡回から、今朝戻った。薄影豹を見たことはない」
「ルークだ」
「知っている。片方を仕留めたC級だろう」
「一人で倒したわけじゃない」
「それも聞いた」
ベイルの視線が、包帯を巻いた右腕へ下がる。
「もう一度できないこともな」
試すような言い方ではなかった。使えない手段を先に外しているだけだった。
ほかに選ばれたC級は二人いた。
オズは、肩まで隠れる長盾と短槍を使う大柄な男だった。盾を置いたあとも、腰の剣と投げ槍を卓の横へ並べている。
リゼは小柄な女で、短弓と二本の曲刀を背負っていた。荷袋から細い縄、鈎、獣用の罠を取り出し、使えるものと壊れているものを分けている。
二人ともC級上位で、森の護衛と大型獣の討伐経験があった。
扉が開き、ギルド長とローデンが入ってくる。
最後の一人は、まだ来ていなかった。
「始める前に、現在の状況を伝える」
ギルド長が広域図の前へ立った。
「昨日の回収隊は、大きい個体の死骸を都市へ運び込んだ。小さい個体の血痕は、涸れ沢から北へ約二百歩で途切れている。周辺の牧場と村に、新しい被害は出ていない」
「死んだ可能性は」
ベイルが尋ねる。
「ある。だが、死骸は見つかっていない」
「なら、生きているものとして考える」
「そうしてくれ」
ギルド長は地図上の三か所へ、小さな黒い石を置いた。
「昨夜、城壁の外へ出た者はいない。東街道の通行も止めている。このまま閉鎖を続ければ、明日から木材と家畜の搬入に影響が出る」
フロンティアの東側には、牧場と薪炭小屋が集まっている。街道を閉じれば安全は保てるが、都市の暮らしまで止まる。
「S級隊と直属のA級は北西へ向かったまま、現在地が分からない。ほかのA級を呼ぶにも、往復で八日はかかる」
ベイルが腕を組む。
「八日あれば、傷が塞がるな」
「だから、ここにいる者で討つ」
ギルド長は室内を見回した。
「指揮はグレン。マルタとベイルを加えたB級三名を主戦力とする。C級からはオズ、リゼ――」
そこで一度、ルークを見る。
「ルーク。治療師の許可が出た場合に限り、痕跡の確認役として加える」
「前には出さない」
グレンが付け加えた。
「見つかったら戦う」
「見つける前に倒れられても困る。お前の位置は、あとで決める」
ルークは反論しなかった。
「痕跡を見るだけなら、俺もできる」
ベイルが言った。
「腕の治っていないC級を連れていく理由が、それだけなら外せ」
「痕跡だけじゃない」
グレンが答える。
「ネスも獣の跡は読める。だが、薄影豹が二頭いると最初に気づいたのはルークだ。こいつは足跡より先に、鳥の鳴き声が消える順番を見ていた」
「お前たちが気づかなかったものを見たと?」
「ああ」
グレンは迷わなかった。
ベイルはルークへ視線を戻した。
「腕が使えなくても、同じように見つけられるか」
「目は怪我していない」
「なら、前へ出る必要もないな」
言い方は厳しかったが、外せとはもう言わなかった。
「六人ですか」
ローデンが空いた席を見た。
「最低でも、もう一人は欲しいな」
マルタが言った。
「負傷者が出れば、運ぶために二人の手が塞がる。六人では、戦えるのが三人まで減る」
「候補はいる。ただし、返事がまだ――」
ギルド長が言い終える前に、扉が開いた。
灰色の外套を着たラウルが入ってくる。
「遅れた」
「呼んだ覚えはない」
ギルド長が眉を寄せる。
「回収隊の装備を見た。死骸を運ぶだけの量じゃなかった。森の地図も、朝からここへ集めていた」
ラウルは当然のように、残っていた席へ座った。
「参加する」
「理由は」
「前回の地形を知っている。涸れ沢の対岸へ縄を張ったのも俺だ」
「C級を四人入れることになる」
「戦力が足りないんだろう」
ギルド長はすぐに認めなかった。
竜の素材回収遠征で、ラウルがS級隊長から経路判断を任されていたことは知られている。薄影豹を一撃で沢壁へ弾いたことも、前回の報告に残っている。
だが、公開されている経歴だけを見れば、ラウルはC級だった。
「グレン」
「指示に従うなら、異論はない」
「従う」
ラウルが短く答えた。
ルークは、その横顔を見た。
森へ入る依頼が止まっている間も、ラウルだけは周囲の動きを見ていたらしい。
「これで七人だ」
ギルド長が言った。
「編成は仮決定とする。ルークの腕が使えない場合は、別の追跡役を入れる」
「ほかのC級はどうする」
オズが尋ねた。
「四人を予備隊として牧場へ置く。森へ入る人数は増やさない」
グレンが地図上の細い道を指でなぞる。
「人数を入れすぎれば列が伸びる。先頭と最後尾で別々に襲われたとき、互いの声が届かない。森の中は七人で動き、負傷者が出たら牧場まで戻して予備隊へ渡す」
「別の者で追えるのか」
ラウルの問いに、ベイルが答えた。
「血が残っていればな」
「残っていなければ」
「水場と獲物を見る。姿の見えない獣でも、飲まず食わずでは動けない」
ベイルはルークへ顔を向けた。
「お前なら、どう探す」
問いが来ることは分かっていた。
ルークは、持ってきた紙を卓へ広げた。
中央には、涸れ沢と森の入口を描いている。その周囲へ、名前を書くための空欄を七つ置いた。誰をどこへ配置するかは、まだ決めていない。
「最初から薄影豹を追わない」
オズが眉を上げる。
「討伐するんじゃないのか」
「追えば、向こうが場所を選ぶ。森の中で足跡を消され、待ち伏せる場所まで案内される」
「では、出てくるのを待つ?」
リゼが尋ねた。
「ただ待つだけなら、どこを襲うか選ばせることになる」
ルークは広域図から、黒い石を一つ取った。
牛を奪われた牧場へ置く。
「薄影豹は、獲物がいる場所へ来た。だが、牛だけを見ていたわけじゃない。番犬が吠えずに隠れた。柵には、すぐ飛び越えられるのに一度立ち止まった跡があった」
「人が起きているか見ていた?」
ベイルが言う。
「たぶん。調査隊を襲ったときも、最初にグレンとマルタを狙った。弱い者から食うんじゃなく、邪魔になる相手を先に動かそうとした」
ルークは次の黒い石を、涸れ沢へ置いた。
「こちらが何人いるか。誰が命令するか。どこから逃げるつもりか。薄影豹は、襲う前に見ている」
「だったら、見せるものを選べる」
リゼが、罠を分けていた手を止めた。
「弱い隊列を見せて、誘い出すのか」
「人を餌にはしない」
グレンが先に否定した。
「賛成だ」
ルークも言った。
「前回と同じだ。ひとりを弱く見せれば、そいつを助けるために隊列が崩れる」
「なら、何を見せる」
マルタが尋ねた。
「まだ決めていない」
正直に答えると、オズが意外そうにルークを見た。
「案があるから紙を持ってきたんじゃないのか」
「案はある。だが、先に全員ができることを知りたい」
ルークは七つの空欄を指した。
「俺だけで作れば、また誰かが都合よく動けることにする。ベイルが射られる距離、オズが盾を持って走れる速さ、リゼが罠を置くまでの時間。知らないままでは決められない」
グレンは何も言わず、椅子の背へ寄りかかった。
ベイルが長弓を壁から取る。
「狙って当てるなら百歩。木が多ければ半分。走る薄影豹へ確実に当てろと言うなら、三十歩まで寄せろ」
「矢を避けさせるだけなら」
「七十歩。ただし、射線を横切る味方がいれば射てない」
ルークは数字を書き込んだ。
オズは長盾を立てる。
「盾を構えたまま走れるのは、平地で五十歩。森なら三十歩までだ。そこから先は足が落ちる。薄影豹の爪を正面から受けるなら三度。四度目は盾か腕が壊れる」
「左右へ動ける幅は」
「盾を持ったままなら、道の広さ次第だ」
「最も狭くて、何歩あれば戦える」
「四歩。三歩では槍を返せない」
リゼは縄と罠を卓へ置いた。
「罠は大きく分けて二つ。踏ませて脚を挟むものと、縄を引いて進路を塞ぐもの。薄影豹が地面を選んで歩くなら、踏ませる方は期待しないで」
「縄は」
「木が二本あれば、半刻で三か所。先に場所を決めていいなら、もっと早い」
「戦いながら切られた縄を張り直せるか」
「できる。でも、その間は弓も曲刀も使えない」
マルタは幅広の剣を卓へ寝かせた。
「私は前回と同じ。進路を塞ぎながら傷を重ねる。一人で追えば逃げられるが、こちらへ来るなら止められる」
「負傷者を運びながらは」
「片手が空けば肩を貸せる。意識がない者なら、もう一人必要だ」
グレンは最後に言った。
「全体を見る。俺が命令できなくなったら、次はマルタ。その次はベイルだ」
「ルークじゃないのか」
オズが尋ねる。
「こいつは見つけたことを言う。決めるのは俺たちだ」
グレンがルークを見る。
「それでいいな」
「いい」
すぐに答えた。
指揮を任されなかったことへの不満はなかった。薄影豹の動きを見ることと、六人を動かすことを同時にすれば、どちらも遅れる。
ラウルはまだ、自分のことを話していない。
「お前は」
ルークが尋ねる。
「何ができる」
「一通り」
「それでは配置できない」
「剣で前に出られる。弓も使える。縄を張るのも、負傷者を運ぶのも問題ない」
「最も得意なのは」
わずかな間があった。
「道を選ぶことだ」
ルークは地図へ目を落とした。
「薄影豹を追う道か」
「俺たちが帰る道だ」
グレンが、卓を指先で一度叩いた。
「なら、退路はラウルに見させる。一本では足りない。どの場所からでも、二つ用意しろ」
「分かった」
空欄の横へ、それぞれの得意なことが埋まっていく。
弓。長盾。縄。前衛。指揮。退路。
最後に残ったのは、ルークの欄だった。
痕跡と書き、少し考えて、その下にもう一つ加えた。
――薄影豹が、何を見ているかを見つける。
◇
会議室を出た七人は、ギルド裏手の石造りの保管庫へ向かった。
回収された薄影豹の死骸は、床に置かれた二本の角材へ載せられていた。血は洗い流されているが、前脚、頬、後ろ脚、脇腹には戦いで受けた傷が残っている。
喉には、ルークの剣が入った穴があった。
硬い皮と筋肉を、切っ先が斜めに貫いている。傷口を見ても、あの瞬間に何をしたのかは分からなかった。
ベイルが後ろ脚を持ち上げた。
「重いな」
脚を折り曲げ、筋肉のつき方を確かめる。次に、幅の広い足裏へ親指を押し込んだ。
「柔らかい。これなら根や岩へ乗っても、音が出にくい」
リゼも横へしゃがむ。
「地面を踏ませる罠は、やっぱり相性が悪いね。土を避けられたら終わりだ」
「縄で道を狭める方を使うか」
オズが尋ねた。
「切られる前提なら。捕まえるんじゃなく、行ってほしくない方へ張る」
マルタは、薄影豹の左前脚を見た。
「小さい方は右前脚を傷めている。こいつより動きは落ちるはずだ」
「真っすぐ走るだけなら、大して落ちないかもしれない」
ルークは答えた。
大きい方も、前脚へ何度も傷を受けながら最高速度を出した。痛みがあっても、短い距離なら無視して踏み込んでくる。
「右へ曲がるときはどうだ」
ベイルが聞く。
ルークは、涸れ沢で小さい方がマルタの横を抜けた動きを思い返した。
「右前脚で身体を支える向きなら、少し遅れる」
「少しか」
「見てから追いつけるほどではない」
ベイルは獣の脚を下ろした。
「なら、遅くなる場所を知っているだけでは足りない。先に、そこへ剣を置く必要があるな」
グレンがうなずく。
「その場所を作るのが、今回の仕事だ」
死骸の周囲を一巡したラウルは、入口の近くで足を止めていた。ほかの者が傷や足を見ている中、毛に付着した土を指先で払っている。
「何かあったか」
ルークが尋ねる。
「沢の土だ」
ラウルは指を擦り合わせ、落とした。
「それだけか」
「ほかに何がある」
答える前に、グレンから呼ばれた。
「今日はここまでだ。解体は、追加の確認が終わってから始めさせる。明日は各自、使う道具と必要な人数を出せ」
討伐へ出る日は、まだ決められなかった。
薄影豹がどこにいるのか。どの時間に動くのか。こちらがどこで待てば、獣に場所を選ばせずに済むのか。
決めるには、足りないことが多かった。
◇
保管庫を出たあと、ルークとローデンは会議室へ戻った。
十年分の記録を、年ごとに分けて卓へ並べる。
牛や羊が襲われた報告。森で荷を失った商人。狩りへ出たまま戻らなかった者。薄影豹と断定されたものは一件もないが、大型の捕食者による被害はいくつもあった。
「全部見るのか」
ローデンが紙の山を見た。
「場所と時期だけでいい。襲われたものと、足跡が途切れた場所も分ける」
「明日までに?」
「できるところまで」
ルークは広域図の横へ、空の紙を置いた。
ローデンが古い報告を読み上げ、ルークが位置を記す。同じ場所に二件あれば印を重ね、季節が違えば線の形を変えた。
夕方の鐘が鳴る頃には、森の西側へ印が散らばっていた。
牧場の近く。街道沿い。水場。炭焼き道。
どれも、獣が人や家畜へ近づけば通りそうな場所だった。
「北東が少ないな」
ローデンが言った。
「人が入らないだけじゃないか」
「そうかもしれない」
ルークは、その部分へ目を向けた。
記録がない場所は、何も起きていない場所とは限らない。見つけた者がいないだけかもしれない。
だが、森の北東側にも古い道はある。炭焼き小屋の跡があり、昔は猟師も入っていた。周囲には被害の印があるのに、ある範囲だけが不自然に空いていた。
円を描くには、まだ印が足りない。
ルークは空白の中心へ指を置いた。
「この辺りの記録を、もっと集められるか」
「倉庫にあるのは、今日持ってきた分で全部だ」
「ギルド以外は」
「領主府の開拓記録と、猟師組合。古い炭焼き小屋を使っていた者が生きていれば、話も聞ける」
「明日、頼む」
「お前は?」
「腕を診てもらう。そのあと、牧場主と回収隊に聞く」
ルークは地図へ置いた指を離した。
薄影豹の血痕が途切れた場所は、その空白の縁にあった。




