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21 後悔



 朝になっても、右腕の感覚は戻りきらなかった。


 ルークは寝台の上で肘を曲げ、胸元へ固定された手を持ち上げようとした。肩は動く。手首もわずかに返せる。しかし、指を強く握ろうとすると、腕の内側へ鈍い痛みが走った。


 剣を持つのは無理だった。


 窓の外では、冒険者ギルドがいつもどおり開き始めている。


 表扉の閂が外され、依頼板へ新しい紙が貼られる。早朝の仕事を探す者たちが入ってくると、一階から話し声と椅子を引く音が届いた。


 その音が、治療室の前だけを避けているように聞こえた。


 扉が二度、控えめに叩かれる。


「起きていますか」


「起きている」


 入ってきたセラは、薄い粥と水差しを盆へ載せていた。昨夜置かれた器を見て、眉を寄せる。


「食べなかったんですね」


「腹が減らなかった」


「今日は減っていなくても食べてください。治るものも治りません」


 新しい器を寝台脇へ置き、冷えた粥を下げる。机の上に開かれたままの手帳には何も触れなかった。


 横線で消した「風」の一字も、ユアンの名が残る頁も、そのままになっている。


「薄影豹は」


「夜のうちに新しい被害は出ていません。東門は閉鎖したままです。夜明けに、死骸の回収隊だけが出ました」


「血痕を追うのか」


「追跡は禁止されています」


「見つけてもか」


 セラは答える前に、ルークの右手を見た。


「その質問を、いまのルークさんがするんですか」


「俺が行くとは言っていない」


「まだ、ですね」


 粥の器が左手でも取りやすい位置へ動かされる。


「午前の鐘が鳴ったら、昨日の調査について審査があります。グレンさんとローデンさんも出席します」


「分かった」


「それから、ユアンさんの葬送は午後です」


 セラは一度、言葉を切った。


「南丘の共同墓地で行います」


 ルークは粥へ落としていた目を上げた。


「今日なのか」


「身寄りのない冒険者は、ギルドが送ります。暑い時期ですから、長く待つこともできません」


「そうか」


 それ以外に返す言葉がなかった。


 セラが扉へ向かう。


「食べ終わるまで、器は下げませんからね」


 昨夜より少しだけ強い声だった。


 扉が閉じたあと、ルークは左手で匙を取った。


 ひと口目は、ほとんど味がしなかった。


     ◇


 審査は、前夜と同じ会議室で行われた。


 机の上にあるのは、清書された報告書と地図だけだった。昨夜まで空いていた椅子は、すでに片づけられている。


 ルークは、扉の前で一度足を止めた。


 誰かに悪意があって減らしたわけではない。職員が必要な数だけ置いただけだ。


 それでも、昨夜より部屋が広く見えた。


「座れ」


 ギルド長に促され、グレンの隣へ腰を下ろす。


 審査を受けるのは、調査責任者のローデン、護衛責任者のグレン、指示に従わなかったルークの三人だった。マルタとネスは、必要があれば証言を求められる立場として壁際に座っている。


 ラウルの姿はなかった。


 彼の判断については証言が一致しており、審査の対象にはならなかったらしい。


 最初に問われたのは、森へ入った判断だった。


「確認されていた痕跡から、薄影豹の可能性は高いと考えていました」


 ローデンは机へ置いた両手を動かさずに答えた。


「そのためB級三名を護衛に置き、討伐ではなく存在確認に目的を限定しました。二頭が連携していることは、既存の記録から想定できませんでした」


「想定できなければ、責任はないと?」


「いいえ。記録にない行動を取る可能性まで含め、退路を二つ用意すべきでした」


 次に、グレンが問われる。


「二頭を確認した時点で、撤退を選びました。ユアンが負傷するまでは、隊列も崩れていません」


「負傷後、彼を運べないと判断したのはラウルです。あなたも同意したのですか」


 グレンの顎がわずかに動いた。


「同意した」


「理由は」


「運ぶには二人必要だった。残る一人では、薄影豹を二頭とも止められない。縄の下まで運べても、自力でつかまれない人間を引き上げる時間が足りなかった」


「いまも、同じ判断をしますか」


 グレンはすぐには答えなかった。


「同じ人数、同じ負傷、同じ位置なら、する」


 答えたあと、膝の上で拳を握った。


「正しかったと言うつもりはない。あの場で、俺にはそれ以外が見つけられなかった」


 ギルド長は書記へ目を向けた。筆が紙の上を走る。


 最後に、ルークの番が来た。


「グレンの停止命令は聞こえていましたか」


「聞こえていた」


「それでも戻った」


「ああ」


「なぜです」


「ユアンを置いていけなかった」


「あなたが戻れば、グレンとマルタも残らざるを得ません。危険にさらす人数が増えることは分かっていましたか」


「分かっていた」


「それでも、自分なら薄影豹を退かせられると考えた?」


 ルークは答えに詰まった。


 退かせるつもりだった。


 だが、できる根拠があったわけではない。前脚へ傷を重ねれば動きを止められる。グレンとマルタが戻るまで耐えればいい。頭の中にはいくつもの手が浮かんでいたが、どれも成功する前提が多すぎた。


「分からなかった」


「何がですか」


「できるかどうか考える前に、身体が動いた」


 ギルド長が椅子へ深く座り直した。


「結果として、一頭を倒した。ラウルがもう一頭を退け、ユアンを一人で残さずに済んだ。ですが、一頭を倒したからといって、命令違反がなくなるわけではありません」


「分かっている」


「処分を伝えます」


 書記が別の紙を差し出した。


「負傷が治るまで、すべての依頼を停止。その後十四日間、単独依頼と、隊を率いる立場での参加を認めません。調査や護衛へ加わる場合も、B級以上の指揮下に入ること」


 降級はなかった。


 だが、ルークが知りたかったのはプレートの色でも、停止の日数でもなかった。


「薄影豹の討伐には」


「参加させろと言うのか」


 ギルド長の声が低くなる。


「痕跡を見つけられる」


「腕が動かない人間を、A級指定魔物の前へ出すつもりはありません」


「動くようになれば」


「それは、編成が決まってから話すことです」


 審査の終了を告げるように、書記が紙を重ねた。


 ルークは席を立った。


「ルーク」


 グレンに呼ばれたが、振り返らなかった。


     ◇


 南丘の共同墓地には、フロンティアの城壁がよく見えた。


 開拓へ出て戻らなかった者、魔物との戦いで命を落とした者、故郷へ遺体を運べなかった旅人が眠る場所だった。丘の斜面に低い石碑が並び、その間を細い土の道が通っている。


 ユアンの棺は、まだ新しい土の横へ置かれていた。


 飾りのない木棺だった。蓋の上には、短槍と、布に包まれたプレートが載せられている。


 集まった者は、ルークが思っていたより多かった。


 グレン、マルタ、ネス、ローデン。牧場まで一緒に走ったギルド職員。以前の護衛で組んだボルクとイリヤもいる。ユアンと同じ宿に泊まっていた者や、D級の依頼で顔を合わせたらしい若い冒険者も、丘の下から上がってきた。


 最後に、恰幅のよい女が息を切らして現れた。


「あの子の宿をやっている者です」


 女主人はそう名乗り、棺の前へ小さな布袋を置いた。


「部屋代を二日ぶん、先に払っていたんです。返してやろうと思ったけど、受け取る人がいないでしょう」


 袋の中で硬貨が鳴った。


「いつも腹を空かせて帰ってきて、食堂の鍋に何か残っていないか聞くんです。宿代は、言われる前にきちんと置いていく子でした」


 懐かしむように笑ったあと、女主人の声が震えた。


 若いD級冒険者が、棺へ向かって頭を下げる。


「俺が最初に受けた荷運びで、半分持ってくれました。自分の方が細いのに」


「そのあと、腰を痛めていただろ」


 隣にいた者が言う。


「三日で治った」


「治るまで、ずっと自慢してた。人助けした傷だって」


 小さな笑いが起きた。


 すぐに消えたが、誰も咎めなかった。


 ルークは、何も知らなかった。


 ユアンが誰と荷を運び、どの宿でどれほど食べ、誰に自分の傷を自慢したのか。知っているのは、反応が速いこと、前へ出たがること、英雄になりたがっていたことだけだった。


 棺の横には、ギルドの古い旗が立てられていた。布の中央に縫われた七芒星が、丘を上がる風に揺れている。


 ギルド長が、ユアンのプレートを包みから取り出した。


「冒険者ユアン。D級。フロンティア東部の調査中に死亡」


 短い経歴が読み上げられる。


 受けた依頼の数。護衛、荷運び、伝令。最後に参加した薄影豹の調査。


 別の世界から来たことも、神に選ばれたと信じていたことも、読まれなかった。


「その働きと名を、ギルドの記録へ残す」


 プレートが棺の上へ置かれた。


 丘の鐘が七度鳴る。


 最後の音が消えるのを待って、棺が土の中へ下ろされた。


 一人ずつ、棺の上へ土を落としていく。


 ルークの番が来た。


 左手で土をつかむ。


 乾いた粒の一部が指の間からこぼれ、棺の蓋へ当たった。小さな音だった。


「一緒に行くって、先に言えばよかった」


 声は、土の中まで届かない。


 残った土を落とし、列を離れた。


 誰にも顔を向けず、丘を下りた。


     ◇


 その夜、ルークは報告書を三度書き直した。


 審査へ提出する報告ではない。自分のための記録だった。


 涸れ沢の幅。対岸の高さ。七人の立ち位置。薄影豹が現れた方向。ユアンが倒れた場所。


 最初の一枚では、ユアンを先に縄へ向かわせた。


 するとローデンを支える者が減り、列の中央が空く。薄影豹がそこへ入れば、調査員を守る者がいない。


 二枚目では、自分とユアンの位置を入れ替えた。


 ユアンが傷を負わずに済む可能性はあった。その代わり、痕跡を読める者が列の後ろへ下がり、二頭目へ気づくのが遅れる。


 三枚目では、薄影豹を見つけた時点で全員を沢底へ下ろした。


 崖を登る順番、縄を引く人数、一人を上げるまでにかかる時間。負傷者が出た場合には、身体を縄へ固定する時間も加える。


 左手で数字を書き、足し、消す。


 順番を変えるたび、どこかで手が足りなくなった。


 机の端には、書き損じた紙が重なっていく。


 夕方の受付が閉まり、広間から人が減っても、ルークは顔を上げなかった。


 新しい紙が手元へ置かれた。


 セラだった。


「もう閉める時間か」


「とっくに過ぎています」


「先に帰っていい」


「受付に残った書類を片づけています。ルークさんを待っているわけではありません」


 机の反対側へ座り、依頼書の束を開く。


 灯りの油が減ると、何も言わずに継ぎ足した。


 ルークは四枚目の紙を取った。


「何回書いても、間に合わない」


 セラはすぐには答えなかった。


「どこを変えても、誰かの前が空く。ユアンを先に上げれば、別の誰かが襲われる」


「はい」


「俺がもっと早く一頭を倒していれば、全員で帰れた」


「その一撃を、最初から使えたんですか」


「分からない」


「では、使えるものとして書いてはいけません」


 穏やかな声だった。


 ルークは紙の上に書いた、自分の名を見た。


 その横には、一頭を止める、とある。


 できるかどうか分からないことを、できることとして置いていた。


「あなたのせいではないとは言いません」


 セラは依頼書から目を上げた。


「私には、森で何が正しかったのか分かりません。だから、簡単には言えません」


 ルークは黙って聞いた。


「でも、紙の上でまで、ルークさんだけを強くしないでください」


 四枚目を丸めることはできなかった。


 ルークは自分の名の横へ引いた線を消した。


 空いた場所を見つめる。


「残った薄影豹の血痕は、沢から北へ二百歩ほどで途切れたそうです」


 セラが別の紙を机へ置いた。


「回収隊は追わずに戻っています。死骸は明日の朝、都市へ運び込まれます」


「二百歩か」


 無意識に、森の地図へ目が向いた。


 沢から北へ二百歩。傷ついた右前脚。血が途切れた場所の近くには、浅い流れと岩場がある。足跡を消すなら水へ入る。岩を選んで進めば、ネスでも追うのは難しい。


 その先を確かめたい。


 どちらへ曲がったのかだけでも見れば、次の被害を減らせる。


「今日は、もう書かない方がいいと思います」


 セラが紙を重ねる。


「ああ」


 ルークは逆らわなかった。


     ◇


 夜が明ける前、ルークは再びギルドへ来た。


 受付は閉じている。裏口の夜番へ名を告げ、預けていた剣と荷袋を受け取った。


 剣は左の腰へ差した。水と保存食、縄、傷薬を荷袋へ入れる。右腕はまだ胸元へ固定されていたが、歩くことはできる。


 薄影豹と戦うつもりはなかった。


 血痕が途切れた場所を見るだけだ。


 そう自分へ言い聞かせて、東門へ向かった。


 空が白み始めた頃、門前には十人ほどの冒険者が集まっていた。


 死骸の回収へ向かう者たちだった。荷車には太い綱と滑車が積まれ、B級冒険者が装備を確認している。


 その中に、グレンがいた。


「何をしに来た」


 ルークの荷袋と、左腰の剣を見る。


「血痕が途切れた場所を確認する」


「誰と行く」


「一人だ」


「戦えるのか」


「左でも剣は振れる」


「振れるかどうかを聞いていない」


 グレンは門の詰め所へ入り、訓練用の木剣を二本持って戻った。片方をルークへ投げる。


 左手で受け取ると、傷ついた肩がわずかに引かれた。


「左で戦えると言ったな。見せてみろ」


 グレンは片手で木剣を構えた。


 周囲の冒険者が場所を空ける。


 ルークは呼吸を整え、グレンの全身を見た。


 右肩がわずかに下がっている。右足のつま先は外へ向き、木剣の切っ先はルークの左肩へ寄っていた。


 右から来る。


 踏み込みへ合わせて外側へ回り、空いた脇へ入る。


 グレンの膝が沈んだ。


 ルークは先に動いた。


 右から来るはずの剣は動かなかった。


 グレンは半歩だけ前へ出ると、木剣の柄でルークの左手首を打った。


 指が開き、木剣が地面へ落ちる。


 続けて胸元へ切っ先を当てられた。


「終わりだ」


 ルークは落ちた木剣を見た。


「右から来ると思った」


「思っただけだ。俺はまだ振っていない」


「肩が下がった」


「お前が右を見たから、右を下げた」


 グレンは木剣を門脇へ返した。


「いまのお前は、見たいものを探している。薄影豹が北へ行ったと思えば、北へ続く跡しか見なくなる」


「痕跡なら間違えない」


「昨夜から、順番を変えれば助かったと考えているだろう」


 ルークは顔を上げた。


 グレンは、回収隊へ出発を待つよう片手を上げた。


「俺も昨夜、同じことをした」


「何を」


「マルタを先に渡らせた場合。ネスを最後まで残した場合。最初から沢へ下りなかった場合。頭の中で、何度も順番を変えた」


 グレンの目が、森のある東へ向く。


「どれも、俺たちに都合よく薄影豹が動けば助かる」


 風が門を抜け、荷車へ積まれた綱を揺らした。


「ユアンを置いていくと言った判断を、正しかったとは思っていない」


「だが、また同じなら置いていくと言った」


「ああ。あの場で同じことが起きればな」


 グレンはルークへ向き直った。


「だから、同じことが起きないようにしてから森へ入る」


 ルークは何も言えなかった。


「負傷者を誰が運ぶ。薄影豹が二頭以上いたら、誰が数える。指揮役を狙われたら、次は誰が命令する。先に決められることはいくらでもある」


「それでも、想定していないことは起きる」


「起きるさ」


 グレンは迷わず答えた。


「そのとき考えるために、先に決められることを決めておくんだ」


 門兵が東門の小扉を開ける。


 回収隊の者たちが荷物を持ち上げた。


「明日の正午、討伐隊の編成会議をする」


 グレンが言った。


「お前の参加は、まだ決まっていない」


「処分中だ」


「B級の指揮下なら調査へ参加できる。ギルド長は、そう言ったはずだ」


 ルークは審査で渡された紙を思い出した。


「腕が動けば、痕跡を見る役として推薦する」


「動かなければ」


「置いていく」


 答えははっきりしていた。


「奇跡みたいな一撃を、戦力へ数えるな。次も全員で戻りたいなら、誰に何をさせるか考えてこい」


 グレンは回収隊の先頭へ向かった。


 ルークは、東門の前に残った。


 左腰から剣を外す。


 いま森へ入っても、自分にできるのは痕跡を追うことだけだ。薄影豹を見つければ、戦うことも、負傷者を運ぶこともできない。


 ここで薄影豹に出会えば、グレンたちはまた、ルークを助けるかどうか選ばされる。


 門兵へ剣を預け、ギルドへ引き返した。


 治療室の机には、昨夜の書き損じと手帳が残っていた。


 ユアンの名が書かれた頁を開く。


 短槍。伝令。反応が速い。


 その下に続く、未来の役割。


 ルークは消さなかった。


 次の頁を開き、左手で新しい見出しを書く。


 ――薄影豹討伐。


 最初に、自分の名は書かなかった。



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