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20 風



 帰りの隊列には、六人分の足音しかなかった。


 先頭を歩くネスの右腕は、布で胸元へ固定されている。その後ろをローデンが進み、グレンとマルタが外套で作った担架を運んでいた。


 ユアンは、その上に横たわっている。


 顔についた泥は拭われ、胸元まで外套が掛けられていた。担架が傾くたびに右手が端から落ちかけ、隣を歩くルークが左手で戻した。


「前を見ろ」


 グレンが振り返らずに言った。


「見ている」


「なら、そいつの手は俺たちに任せろ」


 返事はしなかった。


 薄影豹の死骸は、涸れ沢へ残してきた。ローデンが位置を地図へ記し、ネスが左手だけで耳の一部と毛を採った。ルークの剣は、ラウルが獣の喉から抜いている。


 血を拭った剣は、いまラウルの腰に差されていた。


 ルークの右腕では持てないからだ。


 森は静かだった。


 薄影豹と出会う前とは違う。遠くでは鳥が鳴き、風が葉を揺らしている。聞こえる音があるからこそ、その間に何かが混じっていないか気になった。


 生き残った一頭は、どこへ行ったのか。


 脇腹と前脚に深い傷を負っていた。すぐに戻ってくるとは思えない。それでも、番を置いて逃げた獣が、そのまま森の奥へ消えるとは限らなかった。


 前方で、ネスが左手を上げる。


 隊列が止まった。


 全員がそれぞれ違う方向へ目を向ける。グレンとマルタは担架を静かに下ろし、すぐ剣を抜ける姿勢を取った。ラウルは列の後ろへ下がり、来た道を見た。


 音は続かなかった。


 ネスが確かめに行く。少しして、茂みの向こうから角兎が一羽飛び出した。人間の姿を見ると身を翻し、白い尾を跳ねさせながら木々の間へ消えていく。


 誰も息を吐かなかった。


「進むぞ」


 グレンとマルタが担架を持ち上げる。


 そのたび、ユアンの身体だけが少し遅れて揺れた。


     ◇


 森の入口へ着いたとき、日は西へ傾き始めていた。


 木の枝から下げた白布は、帰りの目印にしたものだけを回収した。途中で二枚がなくなっていたが、探しには戻らなかった。薄影豹が触れたのか、別の獣が持ち去ったのかも、いまは確かめられない。


 牧草地へ出ると、納屋の前に三人のギルド職員が待っていた。


 予定の時刻を過ぎても調査隊が戻らず、牧場主が都市へ知らせを走らせたらしい。脇には屋根のない荷車が一台止められ、毛布と水、傷薬が積まれていた。


 若い職員が、担架を見たところで足を止めた。


「負傷者は何人ですか」


「二人。死者が一人だ」


 グレンが答えた。


 職員の視線がユアンの顔へ落ちる。


「……ユアンですか」


「そうだ」


 それ以上の言葉は続かなかった。


 ネスとルークが荷車へ乗せられる。担架は荷台の中央へ置かれた。


 ルークはユアンの横へ座ろうとしたが、治療道具を持った職員に止められた。


「肩を見せてください」


「都市まで半刻だ」


「その半刻で血を流し続けるつもりですか」


 革鎧の留め具を外され、裂けた下着を傷口から剥がされる。乾きかけた血が布へ張りついており、外された瞬間に鋭い痛みが走った。


 職員は傷を水で洗い、薬を含ませた布を押し当てた。その上から新しい包帯を巻き、右腕は板を添えて固定する。


「骨は折れていないと思います。ただ、指が動かないなら、着いたらすぐ治療院へ」


 ルークは右手を見た。


 指先へ力を入れる。人差し指がわずかに曲がり、そこで止まった。


 剣を握っていたときの熱は、もうない。肘も手首も、冷えた別人の腕を肩から下げているようだった。


「痛みますか」


「分からない」


「それは、痛むよりよくありません」


 職員が包帯を締め直す。


 向かい側では、ネスが左手で水を飲んでいた。グレンとマルタは荷車へ乗らず、外側を歩く。生き残った薄影豹が街道まで追ってくる可能性を捨てていないのだ。


 ラウルも荷台へは上がらなかった。


 御者台の横を歩きながら、一度だけこちらを見る。


 ルークが視線を返すと、すぐ前へ向き直った。


     ◇


 東門の前には、担架を運ぶ者と治療師が待っていた。


 牧場主から知らせを受けたギルドが、先に手配していたらしい。門兵が人を退かせ、荷車の通る道を空けている。


 車輪が門を越えたところで、治療師たちが荷台へ乗り込んだ。


 ルークの包帯を外し、傷の深さを確かめる。肩の傷は縫う必要があった。右腕には骨折も脱臼も見つからなかったが、温めた布を当てても指先の感覚はほとんど戻らない。


「今日は動かさないでください。明日の朝まで戻らなければ、腕を診られる先生を呼びます」


「剣は」


「握れるようになってから考えてください」


 治療師は傷口へ新しい布を当て、上から包帯を巻き直した。


 荷車は、そのまま冒険者ギルドの裏口へ向かった。


 表の広間を通らずに済むよう、職員用の通路が開けられている。


 荷台から最初に下ろされたのは、ユアンだった。


 外套に包まれた身体を四人の職員が運ぶ。ひとりが顔へ白い布をかけ、ローデンはユアンの首から外したプレートをその職員へ渡した。


 ユアンが扉の向こうへ消える。


 入れ替わるように、セラが裏口から出てきた。


 ルークの姿を見つけると足を速め、荷車の縁へ手を掛ける。


「おかえりなさい」


 いつもと同じ言葉だった。


 けれど、そのあとの声が続かなかった。


 セラの手がルークの左腕へ伸び、包帯へ触れる直前で止まる。傷を避けるように肘の下を支えた。


「立てますか」


「歩ける」


「そういう意味ではありません」


 ルークは荷台を降りた。


 足は地面へ着いた。膝も曲がらない。だが一歩目で身体が右へ傾き、セラの肩を借りることになった。


 頭の奥で、脈に合わせて痛みが打っている。


「ユアンさんは」


「間に合わなかった」


 セラの指が、ルークの肘を強くつかんだ。


 それだけだった。


 慰める言葉も、問いかけも口にせず、治療室まで隣を歩いた。


 治療師はルークを椅子へ座らせ、肩の傷をもう一度洗った。細い針が皮膚を通るたびに痛みはあった。腕の奥だけが、それを遠くから眺めているように鈍い。


 八針を縫い終えると、薬草を練った軟膏を塗り、新しい包帯が巻かれた。右腕は胸元へ固定されたままだった。


 治療師が血のついた布と針を片づける間も、セラは部屋に残っていた。


 棚から新しい上着を出し、ルークの左側へ置く。着替えを手伝うとは言わなかった。自分でできるかどうかを、ルークが決めるのを待っているようだった。


「ユアンに、家族はいたか」


 セラの手が止まった。


「登録時の書類には、書かれていません。フロンティアに来てからも、ひとりで宿を借りています」


「そうか」


 前の世界にはいたのだろうか。


 焚き火の前では、学校や車の話ばかりしていた。両親や兄弟については聞いていない。尋ねる機会はいくらでもあったはずなのに、次の依頼や、槍の使い方ばかりを話していた。


「遺品は、ギルドで預かります」


「あいつは別の世界から来た」


 セラがルークを見る。


「家族がいても、知らせる方法がない」


「……はい」


 否定されなかったことが、かえって重かった。


 机の端に、ユアンのプレートが置かれていた。乾いた血を拭われ、鈍い金属の色へ戻っている。セラはそれを布で包み、両手で持ち上げた。


「明日、宿の荷物も確認します。勝手に処分はしません」


「手伝う」


「その腕が動くようになってからにしてください」


 いつものように叱る声ではなかった。


 セラはプレートを持って部屋を出た。閉じた扉の向こうで、一度だけ足を止めた気配がした。


     ◇


 報告は日が落ちてから始まった。


 ギルドは翌朝まで待つよう勧めたが、グレンが拒んだ。


 薄影豹は一頭残っている。負傷しているとはいえ、夜に動く魔物だった。森へ近づくなという知らせを、夜明け前に周辺の村へ届けなければならない。


 会議室には、調査へ出た六人と、ギルド長、記録係が集まった。


 ネスは右腕を吊り、ルークも右腕を胸元へ固定している。マルタの革鎧には爪の跡が残り、グレンの頬には乾いた血が一本ついていた。


 空いている椅子が一つあった。


 誰も、そこへ荷物を置かなかった。


「まず、判明したことから話してください」


 ギルド長が言った。


 ローデンが地図を広げる。


「薄影豹で間違いありません。確認したのは二頭。記録にある個体より大きいものと、一回り小さいものです。二頭は互いの姿を確認せず、調査隊の前後へ回っていました」


「群れを作っていたと?」


「少なくとも、連携して狩っていました」


 記録係の筆が動く。


「大きい個体は死亡。死骸は涸れ沢へ残してあります。小さい個体は右前脚と脇腹へ深手を負わせましたが、北東へ逃走しました」


「死亡した個体を倒したのは」


 ローデンの視線がルークへ向いた。


「ルークです」


 記録係の筆が一瞬止まった。


「C級が、単独で?」


「それまでにグレンとルークが傷を重ねています。最後の一撃を入れたのがルークでした」


 グレンが訂正した。


「一人で倒したと書くな。最初から一対一なら、ルークが死んでいる」


「最後の一撃は、もう一度できますか」


 ギルド長に問われ、ルークは固定された右腕を見た。


「分からない」


「なら、できないものとして扱う」


 グレンが言った。


「次にあの一頭と会っても、同じことが起きるとは考えるな」


「分かっている」


「本当に分かっているならいい」


 ルークは何も言わなかった。


 薄影豹の喉へ剣を突き立てた感触は、右手に残っていない。刃が皮を破った瞬間も、獣の重さに押し倒された痛みも覚えている。それなのに、自分の腕でやったことだけが、誰かの動きを見ていたように遠かった。


「生存した個体を退かせたのは?」


「ラウルだ」


 グレンが答えた。


「ルークへ飛びかかったところへ入り、剣で沢壁まで弾いた。あの一撃がなければ、死者は二人になっていた」


 記録係がラウルの名を書く。


 報告書には、ラウルの剣撃によって薄影豹が退いたと記された。


 ルークは異議を挟まなかった。


 あの瞬間、刃と獣の間には隙間があったように見えた。剣が届くより先に胸の毛がへこみ、砂と枯れ葉が、同じ一点から広がった。


 だが、夜の沢には風が通っていた。土煙で視界も悪く、ルークの頭には割れるような痛みが残っている。


 見間違いではないと、まだ言い切れなかった。


 次に、撤退までの判断が確認された。


 ユアンが重傷を負った経緯。ラウルが搬送不能と判断したこと。グレンがルークを止めたこと。ルークが命令に従わず、ユアンの前へ戻ったこと。


 言葉にされるたび、涸れ沢で起きたことが短い文章へ変わっていく。


 ユアンが怖いと言った声も、閉じていく指の温度も、報告書には残らなかった。


「今回の目的だった存在の確認と頭数の把握はできています」


 ローデンが最後に言った。


「ただし、全員で帰還できませんでした。調査責任者として、私の判断も審査してください」


「護衛判断は俺だ」


 グレンが口を挟む。


「森へ入る前に決めた。お前は調査内容に責任を持ち、俺は人を帰すことに責任を持つ」


「命令を破ったのは俺だ」


 ルークが言った。


「その話は、処分を決める場で聞く」


 ギルド長の声に怒りはなかった。


「今夜は事実だけでいい。誰の責任かを急いで決めても、残った一頭の居場所は分からん」


 会議室の外で、鐘が一度鳴った。


 夜の外出を控えるよう知らせる鐘だった。


 記録係が最後の行を書き終え、紙の端へ砂を振る。


「今夜中に写しを作ります。東街道と周辺の村へ、一頭が逃走中と伝えます」


「東門は明朝まで閉じる」


 ギルド長が地図上の門を指で押さえた。


「城壁の外にいる者は、いちばん近い監視所か牧場へ集めろ。街道沿いには火を絶やさず、二人以上で見張らせる。薄影豹を見つけても追わせるな」


「死骸の回収は?」


 ローデンが尋ねた。


「夜明け後だ。B級を集め、沢までの道を確保してから運ぶ。素材より、残った一頭の血痕を確認する方を優先しろ」


「討伐隊も同時に?」


「組む。だが、明日すぐ森へ放り込むつもりはない」


 ギルド長の指が、二頭を確認した涸れ沢から、牛を奪われた牧場までをなぞった。


「こちらは、薄影豹を一頭だと思って森へ入った。次は、二頭だけだったと思い込むな。記録を洗い直し、必要な人数をそろえる」


 負傷した獣を早く仕留めなければ、別の被害が出る。


 それでも、今夜のうちに追うとは誰も言わなかった。


 急いでいることと、準備を捨てることは違う。


 ルークは空いている椅子を見た。


 その違いを、ユアンへ教えきれなかった。


 報告は、そこで終わった。


     ◇


 廊下へ出ると、ラウルが階段の前で待っていた。


 グレンたちはギルド長に呼び止められ、会議室へ残っている。ローデンも記録の地図を整理していた。


 ラウルは、ルークの剣を左手に持っていた。


「返す」


「いまは持てない」


「宿まで運べということか」


「ギルドに預けておく」


 ラウルは鞘ごと壁へ立てかけた。


 ルークは立てかけられた剣を見た。


「あの一撃、どうやった」


「見ただろう」


「見たから聞いている」


「剣で弾いた。それだけだ」


 刃には、獣の血も毛も残っていない。沢を出る前に拭ったのだから、それ自体は不自然ではなかった。


「俺には、そう見えなかった」


 ラウルがルークを見る。


「なら、何に見えた」


 答えようとして、言葉が止まった。


 胸毛がへこんだ。砂が広がった。薄影豹が横へ飛んだ。


 そこから先は、まだルークの想像でしかない。


「分からない」


「なら、いまはそれでいい」


 右腕を固定した布の内側で、指を曲げようとする。


 まだ動かなかった。


「ユアンを置いていけと言ったのに、なぜ俺は助けた」


「状況が変わった」


「何が変わった」


「一頭が死んだ。もう一頭も傷を負っていた。俺が入れば、グレンとマルタを運搬へ回せた」


「それだけか」


「判断に、それ以上の理由がいるのか」


 ラウルの声は変わらない。


 二頭が一頭になった。それだけなら、話は通る。


 だが、ラウルは崖を下り始めていた。


 ルークが一頭を倒す前から。


「あのとき、まだ薄影豹は二頭とも立っていた」


 ラウルは答えない。


「俺が剣へ力を集めたときには、もう縄を下りていた。状況が変わる前だ」


 階段の下から、職員の足音が近づいてくる。


 ラウルはそちらを一度見てから、声を落とした。


「できることと、していいことは違う」


「何の話だ」


「そのままの意味だ」


 足音が角を曲がる。


 ラウルはルークの横を通り過ぎた。


「今日は休め。明日になっても同じものが見えたと思うなら、そのときまた聞け」


 灰色の外套が階段の下へ消えていく。


 胸元の丸い金具が灯りを返した。縁の一か所だけが欠け、表面には細い溝が並んでいる。


 ルークは、その背中を追わなかった。


     ◇


 治療室へ戻っても、眠ることはできなかった。


 寝台の脇には、セラが用意した水と、薄い粥が置かれている。ひと口も減らないまま、表面から湯気だけが消えていた。


 ルークは左手で手帳を開いた。


 字はひどく歪んだ。


 ――薄影豹の血。


 一行書き、手を止める。


 前脚へ剣を入れた瞬間、赤い滴が宙へ浮かんだ。


 獣の次の足。ユアンまでの距離。肘でほどける熱。手首に残ったもの。剣先に浮かんだ白い線。


 一滴が石へ落ちるまでに、そのすべてを見た。


 血が遅かった。


 薄影豹も、自分の腕も遅かった。


 遅くなっていなかったのは、何だ。


 ルークは次の行へ、疑問符だけを書いた。


 答えは出なかった。


 別の頁を開く。


 そこには、調査へ出る前に考えた隊列が残っていた。


 ユアンの名の横には、短槍、伝令、反応が速い、と書いてある。その下には、まだ本人へ話していない役割が二つ続いていた。


 左手の指が止まる。


 頁を破ることはできなかった。


 閉じることもできず、そのまま前の頁へ戻る。


 疑問符の下へ、もう一つ書いた。


 ――ラウルの剣と薄影豹の間に、隙間があったように見えた。


 さらに、その下へ続ける。


 ――胸の毛がへこみ、砂が一点から広がった。


 まるで、見えない何かを打ちつけたように。


 ルークは余白へ「風」と書いた。


 しばらく眺めたあと、その一字を横線で消した。



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