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19 刹那



 三歩目を踏み出したとき、グレンの声が背中へ刺さった。


「行くな、ルーク!」


 足は止めなかった。


 止まれば、ユアンを置いて対岸へ向かうことになる。あとから戻るという選択肢はない。二頭の薄影豹が待ってくれるはずもなく、血を流し続けるユアンには、なおさら時間がなかった。


 沢底を走る大きい方が、ルークの動きに気づいた。


 ユアンへ向けていた頭を巡らせ、進路を変える。丸い石を蹴るたび、灰褐色の身体が左右へ揺れた。


 薄影豹とユアンの間には、あと七歩。


 ルークはその間へ入った。


「ルークさん……」


「喋るな。傷を押さえていろ」


 振り返らずに言った。


 ユアンの呼吸は浅く、吸うたびに小さく途切れていた。脇腹から腿へ流れた血は、石の隙間を伝って広がっている。


 大きい方を森へ退かせれば、まだ間に合う。


 傷を負った一頭はマルタが抑えている。目の前の一頭さえ離せば、グレンと二人でユアンを縄の下まで運べる。ラウルの言った不可能は、薄影豹が二頭とも残ることを前提にした話だ。


 一頭を退かせればいい。


 それが簡単ではないから、ラウルは撤退を選んだ。そのことは分かっていた。


 分かったうえで、ルークは剣を正面へ向けた。


 薄影豹が速度を落とす。


 飛びかかるには近すぎ、爪を振るにはまだ遠い。獣はその間合いを保ったまま、沢底を半円に回り始めた。


 左の前脚には、ルークが最初につけた浅い傷がある。脇腹にはグレンの剣が裂いた跡もあった。どちらも動きを止めるほどではないが、血の匂いは獣自身にも届いているはずだった。


 ルークが剣先を左へ寄せると、薄影豹は傷ついた脚を半歩引いた。


 こちらの狙いを理解している。


 なら、同じ場所を狙い続ければいい。深く斬れなくても、脚をかばわせるたびに進路を限定できる。


 背後で石が鳴った。


 ユアンが短槍へ手を伸ばした音だった。


「動くな」


「でも、後ろからなら……」


「いま動けば、そいつはお前を狙う」


 薄影豹の耳が、二人の声を追うように動いた。


 ルークは剣先を下げなかった。


「俺だけ見ていろ」


 通じたのかは分からない。


 薄影豹は尾を一度振ると、地面へ伏せるほど身体を低くした。


 右肩が沈む。


 ルークの意識が、そこへ吸い寄せられた。


 爪の根元に土が入り込む。後ろ脚の筋肉が硬く盛り上がり、鼻先がわずかに左を向く。ルークの右側を抜け、ユアンへ向かうつもりだ。


 踏み切る前に、ルークは右へ動いた。


 薄影豹が地面を蹴る。


 予想した場所へ灰褐色の頭が現れ、続いて右の前脚が伸びてきた。ルークは爪の外側へ剣を当て、その勢いを横へ流す。


 腕が軋んだ。


 力では受けられない。それでも、進む向きを変えることはできる。


 獣の肩が横を通り過ぎる瞬間、ルークは剣を返した。刃が左前脚の傷へ重なり、今度は肉まで届く。


 薄影豹が低く吠え、ルークから距離を取った。


「戻れ!」


 グレンは沢底をこちらへ走っていた。


 しかし、その背後で負傷した一頭が動く。右の前脚を浮かせたまま、マルタの横を抜けようと身体を沈めた。


 グレンが足を止める。


 マルタ一人で抑えられないわけではない。だが、薄影豹がネスや縄へ向かえば、対岸へ移りかけた者まで危険にさらされる。


「グレン、そっちを頼む!」


「だから一人でやるなと言っている!」


「こいつを退かせるまで持たせる!」


 グレンは何か言い返しかけたが、負傷した一頭が動いたため、そちらへ剣を向け直した。マルタと二人で沢沿いの斜面を塞ぎ、縄の下にいるネスへ近づけさせない。


 これで、ルークの前にいる一頭だけが自由に動ける。


 同時に、それを止められるのもルークだけになった。


 大きい方が、再びルークへ歩み寄ってくる。


 一度目より慎重だった。左前脚をかばい、右へ回りながら距離を詰めている。


 傷が増えたことで、獣は警戒を強めている。同時に、ユアンへ近づくにはルークを先に排除しなければならないと理解したらしい。


 黄色い目が剣先からルークの肩へ移り、腰、足元の順に下がっていく。


 こちらが獣を観察しているのと同じように、向こうもルークの動きを測っていた。


 薄影豹が右へ跳ぶ。


 ルークは追わず、ユアンの前へ残った。


 獣は着地と同時に切り返し、今度は左から飛び込んでくる。


 右の前脚を剣で弾く。


 続く牙を半歩下がって避け、伸びた首へ刃を走らせる。剣先が頬を浅く裂いた。


 そのまま踏み込めば、首へ届く。


 ルークは前へ出かけた足を止めた。


 薄影豹の後ろ脚が、腹の下へ折り畳まれている。追えば、身体ごと跳ね上がってくる。


 獣は逃げたのではない。追わせようとしていた。


 ルークが留まると、薄影豹もそれ以上は下がらなかった。


 互いに剣の届かない距離で向かい合う。


 額の奥にあった痛みが、脈に合わせて強くなった。


 浅く広く見る。


 長く戦うために、この遠征で覚え始めたやり方だった。


 だが、いま必要なのは長く耐えることではない。ユアンの血が止まるまで待つことも、薄影豹が諦めるのを待つこともできない。


 ここで退かせる。


 その答えだけを残し、ルークは集中を深くした。


 沢を吹き抜けていた夜風が消えた。


 実際に止んだわけではない。遠くでマルタとグレンの剣が爪を弾き、対岸からネスが何かを叫んでいる。それらの音が、厚い壁の向こうへ離れていった。


 目の前では、薄影豹の胸がゆっくりと膨らんでいる。


 吐き出された息が、口元の毛を一本ずつ揺らした。尾が右へ流れ、後ろ脚の爪が丸い石の表面を滑る。


 石が傾き、獣が踏み切る場所が先に見えた。


 薄影豹が動くより早く、ルークは左へ一歩出た。


 獣の身体が遅れて視界へ入ってくる。


 爪を避け、肩の横をすり抜けながら剣を振る。刃は左の前脚ではなく、内側の柔らかな部分を斜めに裂いた。


 切り口から飛んだ血が一滴ずつ宙へ浮かび、ゆっくりと形を変えていく。


 ルークは着地した薄影豹の後ろへ回った。


 獣の右耳が動いた。振り向かれる前に、後ろ脚へ剣を届かせる。


 切っ先が毛を割り、皮膚へ入った。


 薄影豹が身をひねる。尾が鞭のようにルークの腕を打ったが、その動きさえ遅く見えた。


 あと一歩踏み込めば、首の後ろへ届く。


 踏み込もうとした瞬間、視界の端で灰色の影が膨らんだ。


 負傷した一頭だった。


 マルタの剣を避け、三本の脚だけでこちらへ跳ぼうとしている。グレンが間へ入ったため、すぐには届かない。それでも、目を離せばどこへ動くか分からなかった。


 ルークが二頭目へ意識を向けたのは、ほんの一瞬だった。


 その一瞬で、大きい方の姿が視界から消えた。


 左肩へ衝撃を受けた。


 身体が回り、背中から石の上へ落ちる。息が押し出され、剣を握る指が開きかけた。


 薄影豹は、二頭目へ目を向ける瞬間を待っていた。


 ルークは転がりながら剣を抱え込み、すぐに片膝を立てた。


 左肩が熱い。革鎧には三本の裂け目が走っていたが、腕は動く。爪が深く入る直前に身体を回せたらしい。


「ルークさん、もう……」


 背後から聞こえた声は、先ほどより弱かった。


「まだだ」


 ルークは立ち上がった。


 薄影豹の左前脚から流れる血は増えている。後ろ脚にも傷をつけ、頬も裂いた。


 あと一度、深く入れれば退かせられる。


 違う。


 退かせるだけでは足りない。森へ戻った獣が、ユアンを運び始めたところで再び襲ってくれば終わる。確実に一頭を止めなければ、二人の手を運搬へ回せない。


 ルークは薄影豹の首を見た。


 灰褐色の毛の下には厚い皮と筋肉がある。いまの剣では、正確に当てても骨へ届かない。分かっていた。ラッシュボアを相手にしたときから、ルークの剣には、見つけた急所を一撃で断つだけの力が足りなかった。


 闘気があれば届く。


 薄影豹は傷ついた左前脚を前へ出した。かばうことをやめ、頭を低くする。


 痛みを感じなくなったわけではない。獣もまた、次の一撃で決めるつもりだった。


 ルークは息を吸い、腹の奥へ意識を沈めた。


 熱が胸から右肩へ上がる。腕へ流れ込んだところで、肘の内側が焼けるように痛み、そこでほどけかけた。


 腕の角度をわずかに変える。


 熱は肘を越え、今度は手首で滞った。柄を握り込んでいた指を緩めると、細い流れが剣へ入り、刀身をかすかに震わせる。


 白い揺らぎが刃全体へ広がった。


 ルークは、その端を追った。揺らぎが崩れかけるたびに呼吸を変え、手首を返し、剣先へ寄せていく。


 やがて白い揺らぎは、刃先に沿った一本の線だけになった。


 左肩にも、足にも、身体を守る力は残っていなかった。


 対岸から、縄が幹を擦る音が聞こえた。


 ラウルが動いたのだと分かったが、ルークは目を向けなかった。


「来るぞ!」


 ラウルの声が沢へ落ちる。


 大きい方が正面から走り出した。


 丸い石を蹴り、傷ついた左前脚へ構わず速度を上げる。ルークの目には、肩の上下も、開かれていく顎も、一本ずつ伸びる爪も見えていた。


 避けるだけなら難しくない。


 しかし、それでは獣を止められない。


 ルークは動かず、薄影豹が最後の一歩を踏むまで待った。


 左前脚が、わずかに内側へ沈む。


 重ねた傷に、獣自身の重さがかかった。


 薄影豹の身体が傾く。


 ルークは爪の下へ踏み込んだ。


 右の前脚が左肩をかすめ、革鎧の裂け目をさらに広げる。熱い痛みが走ったが、目は閉じなかった。


 傾いた獣の顎下へ、両手で剣を突き上げる。


 硬い皮へ刃が触れた。


 刃先の白い線が、一瞬だけ強くなる。


 切っ先は止まらなかった。灰褐色の毛を割り、喉を斜めに貫いて首の奥へ達する。


 薄影豹の身体がルークへぶつかった。


 押し倒されながらも、剣だけは離さない。両手で柄を握り、残っていた力をすべて使って刃をさらに押し込んだ。


 獣の爪が沢底を削る。


 一度、二度と石を引っかいたあと、前脚から力が抜けた。


 重い頭がルークのすぐ横へ落ちる。


 薄影豹は喉の奥で血を鳴らし、やがて動かなくなった。


 ルークはその下から身体を抜こうとした。


 右腕に力が入らない。


 右肩から指先まで、感覚がほとんど残っていなかった。握ろうとしても、指は柄の上でわずかに震えるだけだった。左肩も、二度目の爪を受けて血が止まらない。


 それでも、倒した。


 自分の剣で、一頭を止めた。


 グレンが何かを叫んだ。


 声の意味を捉えるより先に、森を震わせるような鳴き声が上がった。


 もう一頭の薄影豹だった。


 動かなくなった大きい方を見た瞬間、黄色い目から人間を測るような冷静さが消えた。


 番を失った獣は、目の前にいるマルタも、退路を塞いでいたグレンも見ていなかった。


 大きい方を殺したルークだけを見ていた。


 マルタが幅広の剣を振るう。


 刃は薄影豹の脇腹を深く裂いた。それでも獣は止まらず、傷ついた右前脚を浮かせたまま、残る三本の脚でグレンの横を抜ける。


 速さは最初より落ちていた。


 ルークには、その進路も、飛びかかる場所もはっきり見えている。


 見えているだけだった。


 剣は大きい方の喉へ刺さったまま、右腕は持ち上がらない。左腕で身体を起こそうとしても、傷ついた肩が支えられなかった。


 薄影豹が沢底を蹴る。


 身体を横へ転がせば、最初の爪だけは避けられる。だが、その先には倒れたユアンがいる。


 ルークは動かなかった。


 グレンはまだ届かない。マルタも振り切った剣を戻せていない。対岸ではネスが短剣を投げようとしていたが、傷めた肩では狙いが定まらない。


 誰の手も間に合わなかった。


 薄影豹の身体が宙へ上がる。


 開かれた前脚の向こうに、四本の爪が見えた。どの爪が首へ届くのかまで分かるのに、防ぐための腕が動かない。


 そのとき、切り立った崖の下で石が鳴った。


 ラウルはすでに沢底へ降りていた。


 ルークが闘気を剣へ集め始めたとき、縄へ身を預けていたのだ。最後の高さから飛び降りた勢いを殺さず、腰の剣を抜きながらこちらへ走ってくる。


 それでも、間に合う距離ではなかった。


 少なくとも、ルークの目にはそう見えた。


 ラウルが剣を下から振り上げる。


 刃は、薄影豹の胸へ届いていない。半歩ぶんの隙間が残っていた。


 その空間で、獣の胸毛が一斉にへこんだ。


 剣が空を切る音と、何かが破裂するような低い音が重なる。


 薄影豹の巨体が、ルークの頭上で横へ弾き飛ばされた。


 地面と平行に宙を飛び、沢壁へ背中から叩きつけられる。乾いた土が崩れ、灰褐色の身体を半ば覆った。


 同時に、剣先の下にあった砂と枯れ葉が広がった。


 剣の振られた方向だけではない。刃の届かなかった一点を中心に、四方へ押し出されていた。


 その一部は、沢を抜ける夜風に逆らってルークの足元まで転がってくる。


「ユアンを運べ!」


 ラウルの声で、音が戻った。


 グレンとマルタが駆け寄ってくる。


 二人の位置からは、ラウルの背に隠れて剣先が見えていなかった。対岸のローデンとネスも、舞い上がった土に目を覆っている。


 剣と獣の間に空間が残っていたことを見たのは、極端に引き延ばされた時間の中にいたルークだけだった。


 沢壁へぶつかった薄影豹は、崩れた土の中から身体を起こした。右前脚と脇腹から血を流しながらも、倒れた番へ近づこうとする。


 ラウルがその間へ立ち、剣を向けた。


 薄影豹は足を止めた。


 喉を鳴らし、ラウルと、動かない番を交互に見る。


 やがて低い鳴き声を一度残し、沢沿いの斜面へ跳んだ。


「追うな!」


 グレンが剣を下ろさずに叫んだ。


 一頭ぶんの足音は、すぐに聞こえなくなった。斜面には血が残っていたが、追跡する余裕はなかった。


 グレンは数秒だけ暗い森へ剣を向け続け、戻ってこないことを確かめてからユアンへ駆け寄った。マルタは沢底に落ちた短槍を拾い、獣が消えた方角との間へ立つ。


 ルークは剣を大きい方の喉へ残したまま、ユアンのそばへ膝をついた。集中が途切れた途端、遅く見えていたものが一斉に本来の速さへ戻り、激しい頭痛と吐き気が押し寄せる。


 それでも、いま倒れるわけにはいかなかった。


「布をよこせ。長いやつだ」


 マルタがローデンの荷から清潔な布を引き出す。裂けた革鎧を開き、折り畳んだ布を傷へ強く押し当てた。


 ユアンの身体が跳ねる。


「痛くても我慢しろ。押さえないと止まらない」


「はい……」


 返事はほとんど息だけだった。


 グレンが腿の傷へ別の布を巻く。結び目へ短剣の鞘を差し込み、回して締め上げた。


 それでも、脇腹へ当てた布の白い部分がみるみる減っていく。押さえるルークの指の間からも血がにじみ、袖口まで濡らした。


「上へ運ぶぞ」


 グレンがラウルを見た。


「縄は使えるか」


「使える。ローデン、上で輪を作れ。ネスは片腕でいい、縄を引く準備をしろ」


 ラウルはそう答えると、ユアンの顔を見た。ほんのわずかに目が細くなったが、それだけだった。


 すぐに沢壁へ向き直り、吊り上げるための縄を手繰り寄せる。


 ルークはユアンの脇腹を押さえ続けた。


「聞こえるか」


 ユアンがうなずく。


「都市へ戻る。治療師に診せるまで眠るな」


「ルークさん」


「喋るなと言った」


「いま言わないと……たぶん、言えないから」


 ルークは口を閉じた。


 ユアンは何度か息を吸い、そのたびに眉を寄せた。


「向こうで死んで、こっちへ来たんです」


「ああ」


「だから……ここで死んでも、またどこかへ行くだけだと思ってました」


 唇の端が、わずかに上がる。


「神様に選ばれたんだって。前の世界じゃ何もできなかったけど、こっちなら、すごい冒険者になれるって」


 途中で息が詰まり、言葉が止まった。


 ルークは布へ力を込めた。


「まだ死なない。続きは帰ってから聞く」


「最初は、本当にそう思ってたんです。でも、何人も死んだって聞いて……D級になっても、思っていたほど強くなれなくて」


 ユアンの目が、ルークの顔へ向いた。


「怖かったです」


 声にすると、それは驚くほど幼かった。


「一人で依頼に出るのも、誰にも必要とされないまま死ぬのも。怖いって言ったら、選ばれた人間じゃなくなる気がして……言えませんでした」


「選ばれたかどうかなんて、関係ない」


「ルークさんなら、そう言うと思ってました」


 弱い笑い声が漏れた。


「C級になったら、一緒に組んでくれって言っただろ」


「はい」


「帰ったら答えるつもりだった」


 ユアンは少しだけ目を見開いた。


「なんて?」


「一緒に行こうと思っていた」


 言葉にした途端、胸の奥が強く痛んだ。


 もっと早く言えばよかった。


 返事を先延ばしにする理由など、どこにもなかった。


「それ……先に聞きたかったな」


 ユアンは目を閉じかけ、思い出したようにもう一度開いた。


「でも、よかったです」


「目を閉じるな」


「はい」


「ユアン」


「聞いてます」


「もうすぐ縄の準備ができる」


「はい」


 三度目の返事はなかった。


 ルークは名を呼んだ。


 肩を揺らし、もう一度呼んだ。


 ユアンの胸は動かなかった。


 傷へ押し当てた布から、温かさだけがゆっくり失われていく。


 誰も、すぐには言葉を発しなかった。


 沢壁の上で、ローデンが縄を握ったまま俯いている。ネスは傷めていない方の手で口元を押さえ、マルタは血に濡れた両手を見ていた。


 グレンがルークの肩へ手を置く。


 ルークは顔を上げなかった。


 あと一度、深く斬れていれば。


 最初から限界まで集中していれば。


 ユアンを対岸へ送る順番を変えていれば。


 いくつもの考えが浮かび、そのすべてが、すでに遅かった。


「運ぶぞ」


 グレンの声は低かった。


「置いてはいかない」


 ルークは答えず、力の抜けたユアンの手を包み、開いた指をそっと閉じさせた。


 立ち上がろうとして、足元が傾く。


 ラウルが腕をつかんだ。


「座っていろ」


「今のは、何だ」


 ラウルの指が、ほんの少し強くなる。


「何の話だ」


「剣は届いていなかった」


 ラウルは答えなかった。


 薄影豹を弾き飛ばした剣には、血も毛もついていない。


 ルークは沢底へ目を落とした。


 夜風は北から南へ流れ、草の先を同じ方向へ揺らしている。


 けれど、あの瞬間だけは違った。


 ラウルの剣が届くより先に獣の毛がへこみ、砂と枯れ葉が、何もない一点から四方へ走った。


 風のないはずの場所から、風が生まれていた。



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