↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/29

18 決断




「二頭いる」


 ルークは断言した。


 倒木の上に伏せた薄影豹は、まだ動いていない。それなのに、来た道では鳥の声が南から順に消えている。


 マルタたちが通ったせいではなかった。三人が歩き過ぎたあとも鳴いていた鳥が、さらに奥から一羽ずつ沈黙していったのだ。


「マルタ、止まれ!」


 グレンの声が沢沿いの道を走った。


 八歩ほど先にいたマルタが、振り向くより先に幅広の剣を抜く。問い返すことはせず、ローデンを背後へ下がらせた。


 ユアンも短槍を構えた。顔には緊張が浮かんでいたが、勝手に前へ出ようとはしない。


「後ろにもう一頭いる。戻ってくるな。その場で守れ。ネスは南を探せ。ラウルは沢を見ろ。ルーク、目の前の一頭を頼む」


 誰かが返事をする前に、南の茂みが沈んだ。


 風に揺れたのではない。道へ張り出していた葉が、上から押さえつけられたように低くなり、その隙間へ灰褐色の背が現れる。


 二頭目は、倒木の上の個体よりわずかに小さい。


 それでも肩の高さはユアンの腰を越えていた。右耳には大きな切れ込みがあり、その周りだけ毛が白く生え替わっている。


 足音はなかった。


 大きな獣が藪を抜けたはずなのに、枝の一本さえ折れていない。


 二頭目は、マルタから十歩ほど南へ離れたところで止まった。左右から二本の木が張り出し、一人ずつしか通れなくなった道の狭まりだった。


 唸りもせず、牙も見せない。


 ただ、帰路を塞いでこちらを見ていた。


「記録に二頭という話は?」


 グレンが尋ねた。


「ない」


 ネスは身体を倒木へ向けたまま、首だけを巡らせた。


「薄影豹は単独で狩る。繁殖期に同じ縄張りへ入ることはあっても、二頭で獲物を追うとは聞いたことがない」


「なら、今日から記録が変わるな」


 グレンが剣を抜いた。


 刃の擦れる音に反応し、倒木の上の一頭が初めて頭を上げる。


 南の一頭は動かない。


 互いの姿を確かめる素振りさえ見せず、一頭が正面を押さえ、もう一頭が退路を塞いでいる。偶然同じ場所へ現れた二頭ではなかった。


 ルークは目の前の獣を視界の中央へ置いたまま、周囲の地形を頭へ入れ直した。


 道の右には、幅二十歩ほどの涸れ沢がある。雨の時期には濁流が通るらしく、底には丸い石が広がっていた。こちら側は斜めに下りられるが、対岸は大人三人分ほどの高さで切り立ち、上端がわずかに張り出している。薄影豹でも沢底から一息には跳び越せない。土から太い木の根が何本も露出しており、それを足場にすれば身軽な者だけは登れそうだった。


 道の左は、木の根と岩が重なる急斜面だ。ローデンを連れて越えるのは難しい。北には倒木の一頭、南には二頭目がいる。


「沢を渡る」


 グレンが決めた。


 背負っていた荷から、巻いた縄を外してラウルへ渡す。


「先に対岸へ行って、縄を固定しろ。マルタはローデンを沢まで下げる。ユアンはローデンから離れるな」


 ラウルは縄を肩へ掛け、沢へ下りた。


 石の少ない場所を選んで底を走り、対岸へ取りつく。露出した根をつかみ、足を掛ける場所を一度確かめると、身体を引き上げた。


 二頭が同時に動いたのは、そのときだった。


 南の薄影豹は、最も近いユアンにも、背を向けたローデンにも飛びつかなかった。


 狙ったのはマルタだった。


 身体を低くして地面を蹴り、十歩近い距離を一息で詰める。


 マルタはローデンを沢の斜面へ押しやり、自分は道へ残った。幅広の剣を身体の前へ立てる。


 灰色の前脚が振り下ろされた。


 爪と刃がぶつかり、高い音が森へ響く。


 マルタは力で受け止めなかった。剣を斜めに傾け、四本の爪を外へ滑らせる。それでも獣の重さまでは逃がしきれず、靴底が土を削って半歩下がった。


 同じ瞬間、倒木に張りついていた影が地面へ滑り落ちた。


 低く細かった影が、ルークの視界の中で一気に獣の大きさへ広がり、グレンへ迫る。


「前!」


 ルークの声に、グレンは身を引かなかった。


 爪が伸びきる前に半歩踏み込み、剣の鍔を獣の手首へぶつける。そのまま肩から身体を押し込んだ。


 薄影豹の巨体が横へずれる。


 爪はグレンの革鎧をかすめ、表面へ四本の白い筋を残した。グレンの剣も毛を浅く裂いただけで、肉までは届いていない。


 獣は着地すると、すぐに向きを変えた。


 今度はルークへ飛び込む。


 前脚が来るより先に肩が動く。ルークは斜め後ろへ下がり、獣の顔ではなく着地する前脚へ剣を置いた。


 爪が胸元を通り過ぎるのと同時に、刃が左の前脚を浅く切る。大きな傷ではない。それでも灰褐色の毛へ血がにじみ、薄影豹は初めてルークを正面から見た。


 薄影豹は追わず、二人の間を抜けようとした。


 グレンが回り込み、片手剣で進路を塞ぐ。


 獣は急停止すると、木の幹を蹴って再びルークへ向きを変えた。


 一度の跳躍ごとに狙いが変わる。


 獣は二人の間を繰り返し狙った。どちらかを一歩動かせば、沢へ抜ける隙間が生まれる。


「こいつら、弱い者から来ないのか」


 ネスが矢をつがえた。


「隊列を崩す気だ」


 ルークは答えた。


 マルタを倒せば、ローデンを守る者がいなくなる。グレンを倒せば指揮系統が崩れる。


 二頭は、人間の集団のどこを壊せばいいか知っていた。


「相手を選ばせるな」


 グレンが薄影豹から目を離さずに言う。


「ネス、南の一頭を右へ追い込め。マルタは沢を背にするな。射線だけ空けろ」


 マルタが剣を構えたまま左へずれた。


 ネスは獣の胸ではなく、左の地面を狙って矢を放つ。


 鏃が前脚の横へ突き立った。


 薄影豹は矢を避けて右へ跳ぶ。そこにはマルタの剣が待っていた。


 横薙ぎの刃が鼻先をかすめる。


 獣がもう一歩下がったところへ、二本目の矢が飛んだ。今度は後ろ脚のすぐ左へ刺さり、逃げる方向をさらに狭める。


 ネスとマルタは、二頭目を道の端へ追い込んだ。


 だが、薄影豹はそこへ留まらなかった。


 後ろ脚で幹を蹴り、マルタの頭上を越える。着地と同時にローデンへ向きを変えたため、マルタは斜面へ戻らざるを得なかった。


 その足元へ、ネスの三本目の矢が刺さる。


 獣はまた道の端へ逃れたが、その目はマルタではなくローデンへ向いていた。


 マルタがすぐに斜面へ戻り、二人の間へ立つ。


 黄色い目がローデンからマルタへ移り、またローデンへ戻った。


 誰を守っているのか、見抜かれた。


 攻撃のたびに、守る側だけが息を使わされていた。


 その隙にローデンが沢へ下り、ユアンがすぐ後ろにつく。


「沢底の石は動く。急いでも走るな」


 マルタが言った。


「はい」


 ユアンは前を見ながら沢底へ下りた。


 ラウルはすでに対岸へ上がっていた。縄の片端を太い幹へ回し、二重に結ぶ。残った縄を沢底へ投げ下ろすと、まずローデンを呼んだ。


 ローデンとユアンが二十歩の沢底を渡り始める。


 沢底にある丸い石は、足を置くたびわずかに動いた。ローデンは急ごうとして二度よろめき、そのたびユアンが肘を支えた。


 ユアンは先ほどの指示どおり、ローデンの歩幅に合わせた。


 対岸から垂れた縄までは、あと六歩。そこへ届いても、切り立った岸を一人ずつ登らなければならない。


 七人全員が渡り切るまで、二頭を近づけさせない。それだけでいいはずなのに、一人が一歩進むたび、別の場所で獣が動いた。


 道の端へ退いた南の一頭は、すぐに反撃した。


 マルタへ向かうと見せて横へ跳び、ネスとの距離を詰める。ネスが鏃を向けたときには、すでに木の陰へ回っていた。


 次の矢が幹へ刺さる。


 その音と同時に、薄影豹が反対側から飛び出した。


 ネスは弓を引いたまま後ろへ下がる。獣は届く寸前で身体を沈め、前脚を地面へ突いた。砂と枯れ葉が跳ね上がり、ネスの顔を打つ。


 視界を奪った一瞬だけで、獣は再びマルタの前へ戻っていた。


 右から爪が来る。


 マルタが幅広の剣で受け流すと、薄影豹はその刃へ前脚を掛け、体重を乗せた。


 剣先が地面まで押し下げられる。


 牙がマルタの肩へ迫った。


 ネスの矢が獣の頬をかすめる。


 薄影豹は噛みつく直前に飛び退いた。傷は浅い。それでもマルタが剣を引き戻すだけの時間が生まれる。


「礼はあとでいい」


 ネスが次の矢を抜く。


「言うつもりはない」


 マルタは息を整え、再び剣を構えた。


 北側では、もう一頭がグレンとルークの周囲を走り続けていた。


 一度も同じ角度から来ない。正面から跳びかかった直後に幹へ飛び移り、次は枝の下から爪を伸ばす。攻撃を受けられれば、着地を待たずに離れていく。


 ルークには、動き始める瞬間が見えた。


 肩が沈む。爪が土をつかむ。視線が次の足場へ移る。


 それでも、見えたすべてへ剣を合わせることはできなかった。


 右から来ると分かっても、グレンと重なれば振れない。沢へ向かうと分かっても、先に回り込む脚がない。


 見えているのに止められない。


 そのたびにグレンが一歩前へ出て、獣の進路を変えた。


「深く追うな」


 グレンが短く告げる。


「沢へ行かせなければいい」


 ルークはうなずき、剣を身体へ近づけた。


 足を斬ることより、通り道を塞ぐことを優先する。薄影豹が飛び込める幅を残さないよう、グレンと互いの位置を合わせた。


 対岸では、ローデンが縄をつかんで壁を登り始めている。


 対岸の壁は、大人三人を縦に並べたほどの高さがある。ローデンは露出した根へ靴を掛け、ラウルに縄を引いてもらいながら少しずつ身体を持ち上げていた。


 ユアンは下からローデンの足を支えている。


 その様子を見た南の一頭が、再びネスへ向きを変えた。


「来るぞ!」


 マルタが剣を振る。


 薄影豹は刃の下へ潜り込み、沢へ続く斜面を駆け下りた。


 ネスはローデンを援護できる位置へ移ろうとしていた。片足を沢へ下ろしたところで、灰褐色の巨体が斜面を滑るように迫ってくる。


 弓を引く時間はない。


 ネスは長弓を両手で持ち、身体の前へ掲げた。


 爪が弓の上端を砕く。


 乾いた破裂音とともに木片が散り、一本の爪がネスの左肩をかすめた。革鎧が裂け、その下から血がにじむ。


 ネスは沢底へ転がった。


 薄影豹は倒れたネスを追わない。


 折れた弓を一度見たあと、すぐマルタへ向き直った。


 遠くから動きを制限していた武器を壊せば、それでよかったのだ。


「肩は?」


 追いついたマルタが尋ねる。


「浅い。右腕は動く」


 ネスは折れた弓を捨て、腰の短剣を抜いた。


「なら先に渡れ。ローデンを上げたら、お前も縄を使え」


 ユアンがネスへ駆け寄ろうとして、一歩目で止まった。


 誰かを助けたいなら、まず自分が勝手に持ち場を離れるな。


 昨日から何度も言われたことを思い出したのだろう。


「何をすればいいですか」


 声は震えていた。それでも、勝手に動く代わりに指示を求めた。


「ローデンを上げろ。終わったらネスを支える。お前は最後だ」


 マルタが答えた。


「はい」


 ユアンはローデンの足元へ戻った。


 焦っている。怖がってもいる。それでも、初めて会った夜とは違った。


 見えたものへすぐ飛びつかず、自分の役目を聞き、言われた場所に残っている。


 森を出たら、そのことはきちんと伝えよう。


 ルークはそう思った。


 都市へ帰れば、今回の動きを一緒に振り返ることもできる。次の依頼でどこまで任せるか、考えてもいい。


 いつかC級になったら一緒に組んでほしいと頼まれたとき、返事を濁したままだった。


 今度は、もう少しまともに答えようと思った。


 その未来が、ひどく近いものに感じられた。


 ローデンの手が対岸の上へ届いた。


 ラウルが腕をつかみ、最後のひと引きで身体を引き上げる。


「ネス、渡れ!」


 グレンが指示を出した。


 ネスが沢底を走り出す。


 マルタはその後ろへ下がり、ユアンもローデンがいた場所から離れた。二人で南の一頭を牽制しながら、対岸へ向かう。


 あと少しだった。


 ネスは軽傷だ。ローデンも対岸へ上がった。薄影豹を倒せなくても、全員でここを離れられる。


 北の一頭が、低い枝の集まる木の根元へ下がった。


 グレンとルークは、沢へ向かう進路を左右から挟んでいる。獣がどちらへ動いても、片方の剣が届く距離だった。


 ルークは、これなら沢へは抜かれないと判断した。


 獣が伏せる。


 身体から余計な力が抜け、頭が前脚の高さまで下がった。


 次の瞬間、その姿が消えた。


 見失ったのではない。


 ルークの目には、後ろ脚が地面を蹴るところまで見えていた。


 それでも、剣を動かす前に獣は二人の間を通り抜けていた。


 さっきまでの速さとは違う。


 最初の一歩で身体が伸び、二歩目には灰褐色の輪郭が流れた。グレンの剣がその後ろを薙ぎ、毛を数本散らす。


 薄影豹は振り返らない。


 沢の斜面へ飛び込み、丸い石を弾きながら底へ駆け下りる。二十歩ある沢幅の半分を、三度の跳躍で越えた。


「ユアン!」


 ルークとグレンが追う。


 だが、最初の数歩でついた差が縮まらない。


 あれほどの瞬発力を持ちながら、薄影豹はこれまで一度も使わなかった。人間側の配置が崩れ、確実に獲物を切り離せる瞬間まで隠していたのだ。


 獣の先には、対岸へ向かっていたユアンがいる。


 さらにその先では、片腕を傷めたネスが縄へ手を伸ばしている。崖の上にはローデンとラウルがいた。


 ユアンは逃げなかった。


 自分が退けば、薄影豹はネスへ届く。


 短槍を両手で握り、獣の進路へ立った。


「右へ避けろ!」


 ルークの声が届く。


 薄影豹の右肩が沈んでいた。


 ユアンも見ていた。


 右の前脚が振り上げられるより早く身体をずらし、短槍を引き戻す。四本の爪が胸元を通り過ぎ、服の表面だけを裂いた。


 避けた。


 赤牙狼の牙をかわしたときと同じ、目で捉えてから身体を動かすまでの速さだった。


 ユアンの顔に、ほんの一瞬だけ安堵が浮かぶ。


「まだだ!」


 ルークが叫んだ。


 薄影豹は振り下ろした前脚へ体重をかけていない。


 獣は着地する前に腰をひねり、避けたユアンへ肩からぶつかった。


 ユアンの身体が横へ飛ぶ。


 その先へ、もう一頭が走り込んできていた。


 南の薄影豹は、ネスを追うふりをして沢底へ入ったあと、流れのない川床を下流側から回っていたのだ。


「伏せろ!」


 マルタの声が飛ぶ。


 ユアンが頭を下げる。


 牙は髪をかすめた。


 しかし前脚までは避けきれない。


 灰色の爪が、ユアンの右脇腹から腿へ斜めに走った。


 革鎧が裂ける。


 遅れて血が噴き、沢の石を赤く濡らした。


 ユアンは声も出せず、その場へ倒れた。


 何が起きたのか分からないように、自分の右側を見る。


 裂けた革鎧の下で、服が急速に赤く染まっていく。傷を押さえようと手を伸ばしたが、触れる寸前で指が止まった。


 それから、手放した短槍を探した。


 穂先は三歩先に落ちている。


 ユアンが肘をついて起き上がろうとした瞬間、傷口が開いた。その痛みでようやく息が戻り、喉の奥から短い声が漏れる。


「槍はいい! 身体を起こせ!」


 グレンが叫ぶ。


 ユアンは左手を地面へついた。しかし右半身へ力が入らず、肘が震えるばかりだった。


 二頭目がとどめを刺そうと頭を下げる。


 傷ついたユアンしか見ていなかった。


 右の前脚が深く踏み出され、肩が伸びきっている。飛び退くなら左。だが、首を下げたいまだけは、右肩の内側ががら空きだった。


「マルタ、右肩だ!」


 ルークの声に、マルタが横から飛び込んだ。


 薄影豹が気づいて顔を上げる。


 幅広の剣が、伸びきった右前脚の付け根へ斜めに食い込んだ。毛と肉を深く裂き、刃の半ばで止まる。


 薄影豹が初めて甲高い声を上げた。


 振り向きざまの左爪がマルタを襲う。マルタは剣を引き抜きながら身体を沈めた。爪は左腕の革当てを裂いたが、肉へは届かない。


 獣は三本の脚で跳び退いた。


 右の前脚は地面につかず、肩口から血が流れている。すぐには倒れなかったが、先ほどまでの速さでは動けない。


 ルークの指示とマルタの一撃が、一頭から最大の武器だった速さを奪った。


 大きい方も、すぐにユアンへ向きを変える。


 追いついたグレンが片手剣で牙を受けた。


 噛み合った刃が軋み、グレンの腕が押し下げられる。グレンは身体を横へずらし、剣を噛ませたまま獣の顎を外へ押した。薄影豹は刃を放し、次の斬撃が来る前に横へ跳ぶ。


 その着地点へ、ルークが踏み込んだ。


 最初につけた左前脚の傷を狙い、剣を下から振り上げる。薄影豹は脚を引いて刃を避けたが、そのぶんユアンから離れた。


 負傷した一頭は、マルタが抑えている。


 ルークはそちらへ向かわず、グレンの右へ並んだ。


 大きい方が二人の間を抜けようとする。グレンが正面から剣を合わせ、ルークが横へ回って後ろ脚を狙う。薄影豹は身をひねり、沢の石を蹴って距離を取った。


 追わない。


 ルークはユアンへ続く進路を塞ぎ、薄影豹が再び踏み込んでくるのを待った。


 獣が選んだのはルークだった。


 低い姿勢から右の前脚が跳ね上がる。肩の沈みは見えた。ルークは剣を斜めに立て、爪を刃の外へ滑らせる。


 腕へ重い衝撃が走った。


 次に来た左の前脚は、最初の一撃に隠れていた。ルークは身体を後ろへ投げ、丸い石の上を転がる。爪が革鎧の胸をかすめ、留め具を一つ弾き飛ばした。


 薄影豹が追いすがろうと頭を下げる。


 そこへグレンの剣が横から入り、脇腹の毛と皮を裂いた。


 獣は飛び退き、ルークではなく二人をまとめて見るようになった。


 ルークはすぐに起き上がった。右腕が痺れていたが、剣は離していない。


 グレンが正面を押さえ、ルークが横から脚を狙う。ルークが一歩詰めれば薄影豹は進路を変え、その先にはグレンの剣がある。二人が離れればユアンへ走ろうとし、詰めれば木の根元へ退く。


 いまはまだ、相手を選ばせていない。


 しかし、マルタの側では負傷した一頭が三本の脚で立ち直ろうとしていた。ユアンから目を離せば、大きい方の肩が沈む。大きい方へ踏み込めば、視界の端で負傷した一頭の尾が動く。


 戦いながら二頭を見続けるうちに、額の奥へ鋭い痛みが走った。


 木々のざわめきが遠ざかり、飛び散った砂や獣の毛先までが異様なほど鮮明になる。それでも、ルークの身体は目に映る速さでは動かなかった。


「ユアン、立てるか!」


 グレンが爪を弾きながら叫んだ。


 ユアンは両手を地面につき、身体を起こそうとした。


 右足へ力を入れた途端、膝が折れる。脇腹から腿までを伝った血が、石の間へ流れ込んでいた。


「無理、です」


 声はかすれていた。


 ラウルが対岸の上から傷を見た。


「あの脚では崖を登れない」


 大きい方がグレンへ飛び込む。


 グレンは爪を剣で外へ流し、マルタがいる側へ回り込ませなかった。


「沢底にいる三人が歩けるなら、交代であいつを止めながら縄まで下がれる。だがユアンを運べば二人の手が塞がる。残る一人では止められない」


「まだ死んでいない!」


 マルタが怒鳴る。


「分かっている」


 ラウルは声を荒らげなかった。


 負傷した一頭が右の前脚を地面へつこうとした。肩が崩れ、すぐに脚を浮かせる。それでも逃げず、低い唸り声を上げている。


「傷を負った方も、まだ生きている。もう一度飛び込んでくる前に決めろ」


「何を言っている」


 ネスが対岸の壁へ片手を掛けたまま尋ねた。


「ユアンを置いていく」


 答えは短かった。


 ユアンを縄の下まで運ぶには二人必要になる。その間、残った一人だけでは薄影豹を止められない。崖へ着いても、縄につかまれないユアンを結び、上まで引き上げる時間が要る。


 ネスは左肩を傷め、ローデンは戦えない。重傷を負った一頭が再び動き出せば、逃げ切れる可能性はさらに低くなる。


 大きい方がグレンの剣を避け、その横からユアンへ入ろうとした。


「左だ!」


 ルークの声に、マルタが剣を横へ引く。薄影豹は刃が来る前に地面を蹴り、二人の間合いから逃れた。


「あと何度も防げない」


 ラウルが言った。


「決めろ。六人を帰すなら、いましかない」


 グレンは答えなかった。


 救助と退路のどちらも捨てずに済む手を探している。


 その間にも、大きい方は沢底を走り続け、負傷した一頭も再び腰を上げようとしていた。


 ルークは、昨夜手帳へ書いた文字を思い出した。


 速さを生かせる役目。


 経験を積んだ先の戦い方。


 明日の調査には必要のないことまで書いていた。いつか一緒に組むつもりがなければ、考えるはずのないことだった。


 都市へ帰れば、今回の動きを一緒に振り返るつもりだった。


 C級になったら組んでほしいという頼みにも、今度はまともに答えようと思っていた。


 その相手が、十歩ほど先で血を流している。


 ここで背を向けて、あとから正しい判断だったと納得できるのか。


 できなかった。


「ルーク、下がれ」


 グレンの声がした。


 いまなら、まだ対岸へ走れる。


 ラウルが固定した縄を使えば、六人は沢を越えられる。


 ルークは剣を握り直した。


「ルーク、戻れ!」


 聞こえていた。


 それでも、ユアンへ向かって一歩踏み出した。


 二歩目は、止めなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。