18 決断
「二頭いる」
ルークは断言した。
倒木の上に伏せた薄影豹は、まだ動いていない。それなのに、来た道では鳥の声が南から順に消えている。
マルタたちが通ったせいではなかった。三人が歩き過ぎたあとも鳴いていた鳥が、さらに奥から一羽ずつ沈黙していったのだ。
「マルタ、止まれ!」
グレンの声が沢沿いの道を走った。
八歩ほど先にいたマルタが、振り向くより先に幅広の剣を抜く。問い返すことはせず、ローデンを背後へ下がらせた。
ユアンも短槍を構えた。顔には緊張が浮かんでいたが、勝手に前へ出ようとはしない。
「後ろにもう一頭いる。戻ってくるな。その場で守れ。ネスは南を探せ。ラウルは沢を見ろ。ルーク、目の前の一頭を頼む」
誰かが返事をする前に、南の茂みが沈んだ。
風に揺れたのではない。道へ張り出していた葉が、上から押さえつけられたように低くなり、その隙間へ灰褐色の背が現れる。
二頭目は、倒木の上の個体よりわずかに小さい。
それでも肩の高さはユアンの腰を越えていた。右耳には大きな切れ込みがあり、その周りだけ毛が白く生え替わっている。
足音はなかった。
大きな獣が藪を抜けたはずなのに、枝の一本さえ折れていない。
二頭目は、マルタから十歩ほど南へ離れたところで止まった。左右から二本の木が張り出し、一人ずつしか通れなくなった道の狭まりだった。
唸りもせず、牙も見せない。
ただ、帰路を塞いでこちらを見ていた。
「記録に二頭という話は?」
グレンが尋ねた。
「ない」
ネスは身体を倒木へ向けたまま、首だけを巡らせた。
「薄影豹は単独で狩る。繁殖期に同じ縄張りへ入ることはあっても、二頭で獲物を追うとは聞いたことがない」
「なら、今日から記録が変わるな」
グレンが剣を抜いた。
刃の擦れる音に反応し、倒木の上の一頭が初めて頭を上げる。
南の一頭は動かない。
互いの姿を確かめる素振りさえ見せず、一頭が正面を押さえ、もう一頭が退路を塞いでいる。偶然同じ場所へ現れた二頭ではなかった。
ルークは目の前の獣を視界の中央へ置いたまま、周囲の地形を頭へ入れ直した。
道の右には、幅二十歩ほどの涸れ沢がある。雨の時期には濁流が通るらしく、底には丸い石が広がっていた。こちら側は斜めに下りられるが、対岸は大人三人分ほどの高さで切り立ち、上端がわずかに張り出している。薄影豹でも沢底から一息には跳び越せない。土から太い木の根が何本も露出しており、それを足場にすれば身軽な者だけは登れそうだった。
道の左は、木の根と岩が重なる急斜面だ。ローデンを連れて越えるのは難しい。北には倒木の一頭、南には二頭目がいる。
「沢を渡る」
グレンが決めた。
背負っていた荷から、巻いた縄を外してラウルへ渡す。
「先に対岸へ行って、縄を固定しろ。マルタはローデンを沢まで下げる。ユアンはローデンから離れるな」
ラウルは縄を肩へ掛け、沢へ下りた。
石の少ない場所を選んで底を走り、対岸へ取りつく。露出した根をつかみ、足を掛ける場所を一度確かめると、身体を引き上げた。
二頭が同時に動いたのは、そのときだった。
南の薄影豹は、最も近いユアンにも、背を向けたローデンにも飛びつかなかった。
狙ったのはマルタだった。
身体を低くして地面を蹴り、十歩近い距離を一息で詰める。
マルタはローデンを沢の斜面へ押しやり、自分は道へ残った。幅広の剣を身体の前へ立てる。
灰色の前脚が振り下ろされた。
爪と刃がぶつかり、高い音が森へ響く。
マルタは力で受け止めなかった。剣を斜めに傾け、四本の爪を外へ滑らせる。それでも獣の重さまでは逃がしきれず、靴底が土を削って半歩下がった。
同じ瞬間、倒木に張りついていた影が地面へ滑り落ちた。
低く細かった影が、ルークの視界の中で一気に獣の大きさへ広がり、グレンへ迫る。
「前!」
ルークの声に、グレンは身を引かなかった。
爪が伸びきる前に半歩踏み込み、剣の鍔を獣の手首へぶつける。そのまま肩から身体を押し込んだ。
薄影豹の巨体が横へずれる。
爪はグレンの革鎧をかすめ、表面へ四本の白い筋を残した。グレンの剣も毛を浅く裂いただけで、肉までは届いていない。
獣は着地すると、すぐに向きを変えた。
今度はルークへ飛び込む。
前脚が来るより先に肩が動く。ルークは斜め後ろへ下がり、獣の顔ではなく着地する前脚へ剣を置いた。
爪が胸元を通り過ぎるのと同時に、刃が左の前脚を浅く切る。大きな傷ではない。それでも灰褐色の毛へ血がにじみ、薄影豹は初めてルークを正面から見た。
薄影豹は追わず、二人の間を抜けようとした。
グレンが回り込み、片手剣で進路を塞ぐ。
獣は急停止すると、木の幹を蹴って再びルークへ向きを変えた。
一度の跳躍ごとに狙いが変わる。
獣は二人の間を繰り返し狙った。どちらかを一歩動かせば、沢へ抜ける隙間が生まれる。
「こいつら、弱い者から来ないのか」
ネスが矢をつがえた。
「隊列を崩す気だ」
ルークは答えた。
マルタを倒せば、ローデンを守る者がいなくなる。グレンを倒せば指揮系統が崩れる。
二頭は、人間の集団のどこを壊せばいいか知っていた。
「相手を選ばせるな」
グレンが薄影豹から目を離さずに言う。
「ネス、南の一頭を右へ追い込め。マルタは沢を背にするな。射線だけ空けろ」
マルタが剣を構えたまま左へずれた。
ネスは獣の胸ではなく、左の地面を狙って矢を放つ。
鏃が前脚の横へ突き立った。
薄影豹は矢を避けて右へ跳ぶ。そこにはマルタの剣が待っていた。
横薙ぎの刃が鼻先をかすめる。
獣がもう一歩下がったところへ、二本目の矢が飛んだ。今度は後ろ脚のすぐ左へ刺さり、逃げる方向をさらに狭める。
ネスとマルタは、二頭目を道の端へ追い込んだ。
だが、薄影豹はそこへ留まらなかった。
後ろ脚で幹を蹴り、マルタの頭上を越える。着地と同時にローデンへ向きを変えたため、マルタは斜面へ戻らざるを得なかった。
その足元へ、ネスの三本目の矢が刺さる。
獣はまた道の端へ逃れたが、その目はマルタではなくローデンへ向いていた。
マルタがすぐに斜面へ戻り、二人の間へ立つ。
黄色い目がローデンからマルタへ移り、またローデンへ戻った。
誰を守っているのか、見抜かれた。
攻撃のたびに、守る側だけが息を使わされていた。
その隙にローデンが沢へ下り、ユアンがすぐ後ろにつく。
「沢底の石は動く。急いでも走るな」
マルタが言った。
「はい」
ユアンは前を見ながら沢底へ下りた。
ラウルはすでに対岸へ上がっていた。縄の片端を太い幹へ回し、二重に結ぶ。残った縄を沢底へ投げ下ろすと、まずローデンを呼んだ。
ローデンとユアンが二十歩の沢底を渡り始める。
沢底にある丸い石は、足を置くたびわずかに動いた。ローデンは急ごうとして二度よろめき、そのたびユアンが肘を支えた。
ユアンは先ほどの指示どおり、ローデンの歩幅に合わせた。
対岸から垂れた縄までは、あと六歩。そこへ届いても、切り立った岸を一人ずつ登らなければならない。
七人全員が渡り切るまで、二頭を近づけさせない。それだけでいいはずなのに、一人が一歩進むたび、別の場所で獣が動いた。
道の端へ退いた南の一頭は、すぐに反撃した。
マルタへ向かうと見せて横へ跳び、ネスとの距離を詰める。ネスが鏃を向けたときには、すでに木の陰へ回っていた。
次の矢が幹へ刺さる。
その音と同時に、薄影豹が反対側から飛び出した。
ネスは弓を引いたまま後ろへ下がる。獣は届く寸前で身体を沈め、前脚を地面へ突いた。砂と枯れ葉が跳ね上がり、ネスの顔を打つ。
視界を奪った一瞬だけで、獣は再びマルタの前へ戻っていた。
右から爪が来る。
マルタが幅広の剣で受け流すと、薄影豹はその刃へ前脚を掛け、体重を乗せた。
剣先が地面まで押し下げられる。
牙がマルタの肩へ迫った。
ネスの矢が獣の頬をかすめる。
薄影豹は噛みつく直前に飛び退いた。傷は浅い。それでもマルタが剣を引き戻すだけの時間が生まれる。
「礼はあとでいい」
ネスが次の矢を抜く。
「言うつもりはない」
マルタは息を整え、再び剣を構えた。
北側では、もう一頭がグレンとルークの周囲を走り続けていた。
一度も同じ角度から来ない。正面から跳びかかった直後に幹へ飛び移り、次は枝の下から爪を伸ばす。攻撃を受けられれば、着地を待たずに離れていく。
ルークには、動き始める瞬間が見えた。
肩が沈む。爪が土をつかむ。視線が次の足場へ移る。
それでも、見えたすべてへ剣を合わせることはできなかった。
右から来ると分かっても、グレンと重なれば振れない。沢へ向かうと分かっても、先に回り込む脚がない。
見えているのに止められない。
そのたびにグレンが一歩前へ出て、獣の進路を変えた。
「深く追うな」
グレンが短く告げる。
「沢へ行かせなければいい」
ルークはうなずき、剣を身体へ近づけた。
足を斬ることより、通り道を塞ぐことを優先する。薄影豹が飛び込める幅を残さないよう、グレンと互いの位置を合わせた。
対岸では、ローデンが縄をつかんで壁を登り始めている。
対岸の壁は、大人三人を縦に並べたほどの高さがある。ローデンは露出した根へ靴を掛け、ラウルに縄を引いてもらいながら少しずつ身体を持ち上げていた。
ユアンは下からローデンの足を支えている。
その様子を見た南の一頭が、再びネスへ向きを変えた。
「来るぞ!」
マルタが剣を振る。
薄影豹は刃の下へ潜り込み、沢へ続く斜面を駆け下りた。
ネスはローデンを援護できる位置へ移ろうとしていた。片足を沢へ下ろしたところで、灰褐色の巨体が斜面を滑るように迫ってくる。
弓を引く時間はない。
ネスは長弓を両手で持ち、身体の前へ掲げた。
爪が弓の上端を砕く。
乾いた破裂音とともに木片が散り、一本の爪がネスの左肩をかすめた。革鎧が裂け、その下から血がにじむ。
ネスは沢底へ転がった。
薄影豹は倒れたネスを追わない。
折れた弓を一度見たあと、すぐマルタへ向き直った。
遠くから動きを制限していた武器を壊せば、それでよかったのだ。
「肩は?」
追いついたマルタが尋ねる。
「浅い。右腕は動く」
ネスは折れた弓を捨て、腰の短剣を抜いた。
「なら先に渡れ。ローデンを上げたら、お前も縄を使え」
ユアンがネスへ駆け寄ろうとして、一歩目で止まった。
誰かを助けたいなら、まず自分が勝手に持ち場を離れるな。
昨日から何度も言われたことを思い出したのだろう。
「何をすればいいですか」
声は震えていた。それでも、勝手に動く代わりに指示を求めた。
「ローデンを上げろ。終わったらネスを支える。お前は最後だ」
マルタが答えた。
「はい」
ユアンはローデンの足元へ戻った。
焦っている。怖がってもいる。それでも、初めて会った夜とは違った。
見えたものへすぐ飛びつかず、自分の役目を聞き、言われた場所に残っている。
森を出たら、そのことはきちんと伝えよう。
ルークはそう思った。
都市へ帰れば、今回の動きを一緒に振り返ることもできる。次の依頼でどこまで任せるか、考えてもいい。
いつかC級になったら一緒に組んでほしいと頼まれたとき、返事を濁したままだった。
今度は、もう少しまともに答えようと思った。
その未来が、ひどく近いものに感じられた。
ローデンの手が対岸の上へ届いた。
ラウルが腕をつかみ、最後のひと引きで身体を引き上げる。
「ネス、渡れ!」
グレンが指示を出した。
ネスが沢底を走り出す。
マルタはその後ろへ下がり、ユアンもローデンがいた場所から離れた。二人で南の一頭を牽制しながら、対岸へ向かう。
あと少しだった。
ネスは軽傷だ。ローデンも対岸へ上がった。薄影豹を倒せなくても、全員でここを離れられる。
北の一頭が、低い枝の集まる木の根元へ下がった。
グレンとルークは、沢へ向かう進路を左右から挟んでいる。獣がどちらへ動いても、片方の剣が届く距離だった。
ルークは、これなら沢へは抜かれないと判断した。
獣が伏せる。
身体から余計な力が抜け、頭が前脚の高さまで下がった。
次の瞬間、その姿が消えた。
見失ったのではない。
ルークの目には、後ろ脚が地面を蹴るところまで見えていた。
それでも、剣を動かす前に獣は二人の間を通り抜けていた。
さっきまでの速さとは違う。
最初の一歩で身体が伸び、二歩目には灰褐色の輪郭が流れた。グレンの剣がその後ろを薙ぎ、毛を数本散らす。
薄影豹は振り返らない。
沢の斜面へ飛び込み、丸い石を弾きながら底へ駆け下りる。二十歩ある沢幅の半分を、三度の跳躍で越えた。
「ユアン!」
ルークとグレンが追う。
だが、最初の数歩でついた差が縮まらない。
あれほどの瞬発力を持ちながら、薄影豹はこれまで一度も使わなかった。人間側の配置が崩れ、確実に獲物を切り離せる瞬間まで隠していたのだ。
獣の先には、対岸へ向かっていたユアンがいる。
さらにその先では、片腕を傷めたネスが縄へ手を伸ばしている。崖の上にはローデンとラウルがいた。
ユアンは逃げなかった。
自分が退けば、薄影豹はネスへ届く。
短槍を両手で握り、獣の進路へ立った。
「右へ避けろ!」
ルークの声が届く。
薄影豹の右肩が沈んでいた。
ユアンも見ていた。
右の前脚が振り上げられるより早く身体をずらし、短槍を引き戻す。四本の爪が胸元を通り過ぎ、服の表面だけを裂いた。
避けた。
赤牙狼の牙をかわしたときと同じ、目で捉えてから身体を動かすまでの速さだった。
ユアンの顔に、ほんの一瞬だけ安堵が浮かぶ。
「まだだ!」
ルークが叫んだ。
薄影豹は振り下ろした前脚へ体重をかけていない。
獣は着地する前に腰をひねり、避けたユアンへ肩からぶつかった。
ユアンの身体が横へ飛ぶ。
その先へ、もう一頭が走り込んできていた。
南の薄影豹は、ネスを追うふりをして沢底へ入ったあと、流れのない川床を下流側から回っていたのだ。
「伏せろ!」
マルタの声が飛ぶ。
ユアンが頭を下げる。
牙は髪をかすめた。
しかし前脚までは避けきれない。
灰色の爪が、ユアンの右脇腹から腿へ斜めに走った。
革鎧が裂ける。
遅れて血が噴き、沢の石を赤く濡らした。
ユアンは声も出せず、その場へ倒れた。
何が起きたのか分からないように、自分の右側を見る。
裂けた革鎧の下で、服が急速に赤く染まっていく。傷を押さえようと手を伸ばしたが、触れる寸前で指が止まった。
それから、手放した短槍を探した。
穂先は三歩先に落ちている。
ユアンが肘をついて起き上がろうとした瞬間、傷口が開いた。その痛みでようやく息が戻り、喉の奥から短い声が漏れる。
「槍はいい! 身体を起こせ!」
グレンが叫ぶ。
ユアンは左手を地面へついた。しかし右半身へ力が入らず、肘が震えるばかりだった。
二頭目がとどめを刺そうと頭を下げる。
傷ついたユアンしか見ていなかった。
右の前脚が深く踏み出され、肩が伸びきっている。飛び退くなら左。だが、首を下げたいまだけは、右肩の内側ががら空きだった。
「マルタ、右肩だ!」
ルークの声に、マルタが横から飛び込んだ。
薄影豹が気づいて顔を上げる。
幅広の剣が、伸びきった右前脚の付け根へ斜めに食い込んだ。毛と肉を深く裂き、刃の半ばで止まる。
薄影豹が初めて甲高い声を上げた。
振り向きざまの左爪がマルタを襲う。マルタは剣を引き抜きながら身体を沈めた。爪は左腕の革当てを裂いたが、肉へは届かない。
獣は三本の脚で跳び退いた。
右の前脚は地面につかず、肩口から血が流れている。すぐには倒れなかったが、先ほどまでの速さでは動けない。
ルークの指示とマルタの一撃が、一頭から最大の武器だった速さを奪った。
大きい方も、すぐにユアンへ向きを変える。
追いついたグレンが片手剣で牙を受けた。
噛み合った刃が軋み、グレンの腕が押し下げられる。グレンは身体を横へずらし、剣を噛ませたまま獣の顎を外へ押した。薄影豹は刃を放し、次の斬撃が来る前に横へ跳ぶ。
その着地点へ、ルークが踏み込んだ。
最初につけた左前脚の傷を狙い、剣を下から振り上げる。薄影豹は脚を引いて刃を避けたが、そのぶんユアンから離れた。
負傷した一頭は、マルタが抑えている。
ルークはそちらへ向かわず、グレンの右へ並んだ。
大きい方が二人の間を抜けようとする。グレンが正面から剣を合わせ、ルークが横へ回って後ろ脚を狙う。薄影豹は身をひねり、沢の石を蹴って距離を取った。
追わない。
ルークはユアンへ続く進路を塞ぎ、薄影豹が再び踏み込んでくるのを待った。
獣が選んだのはルークだった。
低い姿勢から右の前脚が跳ね上がる。肩の沈みは見えた。ルークは剣を斜めに立て、爪を刃の外へ滑らせる。
腕へ重い衝撃が走った。
次に来た左の前脚は、最初の一撃に隠れていた。ルークは身体を後ろへ投げ、丸い石の上を転がる。爪が革鎧の胸をかすめ、留め具を一つ弾き飛ばした。
薄影豹が追いすがろうと頭を下げる。
そこへグレンの剣が横から入り、脇腹の毛と皮を裂いた。
獣は飛び退き、ルークではなく二人をまとめて見るようになった。
ルークはすぐに起き上がった。右腕が痺れていたが、剣は離していない。
グレンが正面を押さえ、ルークが横から脚を狙う。ルークが一歩詰めれば薄影豹は進路を変え、その先にはグレンの剣がある。二人が離れればユアンへ走ろうとし、詰めれば木の根元へ退く。
いまはまだ、相手を選ばせていない。
しかし、マルタの側では負傷した一頭が三本の脚で立ち直ろうとしていた。ユアンから目を離せば、大きい方の肩が沈む。大きい方へ踏み込めば、視界の端で負傷した一頭の尾が動く。
戦いながら二頭を見続けるうちに、額の奥へ鋭い痛みが走った。
木々のざわめきが遠ざかり、飛び散った砂や獣の毛先までが異様なほど鮮明になる。それでも、ルークの身体は目に映る速さでは動かなかった。
「ユアン、立てるか!」
グレンが爪を弾きながら叫んだ。
ユアンは両手を地面につき、身体を起こそうとした。
右足へ力を入れた途端、膝が折れる。脇腹から腿までを伝った血が、石の間へ流れ込んでいた。
「無理、です」
声はかすれていた。
ラウルが対岸の上から傷を見た。
「あの脚では崖を登れない」
大きい方がグレンへ飛び込む。
グレンは爪を剣で外へ流し、マルタがいる側へ回り込ませなかった。
「沢底にいる三人が歩けるなら、交代であいつを止めながら縄まで下がれる。だがユアンを運べば二人の手が塞がる。残る一人では止められない」
「まだ死んでいない!」
マルタが怒鳴る。
「分かっている」
ラウルは声を荒らげなかった。
負傷した一頭が右の前脚を地面へつこうとした。肩が崩れ、すぐに脚を浮かせる。それでも逃げず、低い唸り声を上げている。
「傷を負った方も、まだ生きている。もう一度飛び込んでくる前に決めろ」
「何を言っている」
ネスが対岸の壁へ片手を掛けたまま尋ねた。
「ユアンを置いていく」
答えは短かった。
ユアンを縄の下まで運ぶには二人必要になる。その間、残った一人だけでは薄影豹を止められない。崖へ着いても、縄につかまれないユアンを結び、上まで引き上げる時間が要る。
ネスは左肩を傷め、ローデンは戦えない。重傷を負った一頭が再び動き出せば、逃げ切れる可能性はさらに低くなる。
大きい方がグレンの剣を避け、その横からユアンへ入ろうとした。
「左だ!」
ルークの声に、マルタが剣を横へ引く。薄影豹は刃が来る前に地面を蹴り、二人の間合いから逃れた。
「あと何度も防げない」
ラウルが言った。
「決めろ。六人を帰すなら、いましかない」
グレンは答えなかった。
救助と退路のどちらも捨てずに済む手を探している。
その間にも、大きい方は沢底を走り続け、負傷した一頭も再び腰を上げようとしていた。
ルークは、昨夜手帳へ書いた文字を思い出した。
速さを生かせる役目。
経験を積んだ先の戦い方。
明日の調査には必要のないことまで書いていた。いつか一緒に組むつもりがなければ、考えるはずのないことだった。
都市へ帰れば、今回の動きを一緒に振り返るつもりだった。
C級になったら組んでほしいという頼みにも、今度はまともに答えようと思っていた。
その相手が、十歩ほど先で血を流している。
ここで背を向けて、あとから正しい判断だったと納得できるのか。
できなかった。
「ルーク、下がれ」
グレンの声がした。
いまなら、まだ対岸へ走れる。
ラウルが固定した縄を使えば、六人は沢を越えられる。
ルークは剣を握り直した。
「ルーク、戻れ!」
聞こえていた。
それでも、ユアンへ向かって一歩踏み出した。
二歩目は、止めなかった。




