17 影
# 第17話 声の消える順番
東の空が白み始めた頃、牧場を覆っていた朝靄がゆっくりと畑へ流れていった。
森の入口は、納屋の屋根から見るより近かった。
牧草地の向こうに灌木が連なり、その奥から太い木々が立ち上がっている。外側の枝には朝露が光っていたが、木立の中へ目を向けると、数歩先から色が沈んで見えた。
七人は納屋の前で朝食を済ませ、荷物を背負った。
調査に必要のないものは牧場へ置いていく。食料は昼までの分と予備。水、傷薬、包帯、目印の白布。ローデンは地図板と記録道具を革袋へ収め、蓋を二度確かめた。
ラウルの荷物は、七人の中で最も少なかった。灰色の外套は、胸元にある鈍い銀色の丸い留め具で閉じられている。肩紐を直した拍子に金具が回り、表面の細い溝と、斜めに欠けた縁がわずかに光った。
グレンが全員の装備を見回す。
「昨日決めたとおりに並ぶ。ネスが先頭、その後ろにルーク。中央にローデン。右側と全体は俺が見る。左側はラウル。ユアンはローデンの後ろ、最後尾はマルタだ」
細い道では一列になり、開けた場所では互いの間隔を広げる。薄影豹を見つけても追わない。長い笛が一度鳴れば、理由を確かめず撤退する。
グレンは最後にユアンを見た。
「お前が誰かへ知らせに走るのは、命じられたときだけだ」
「分かっています」
「何かを見つけても?」
「先に声を出します」
「声が届かなければ?」
「鳥笛を使います」
返答を聞き、グレンは森へ顔を向けた。
「行くぞ」
ネスが先頭に立った。
◇
森へ入ってしばらくは、人が使っていた道が残っていた。
倒れかけた柵。切り株。苔に覆われた荷車の轍。かつて炭焼き小屋へ薪を運んだ道は、長く使われていない。それでも木と木の間がわずかに広く、地面を覆う草も周囲より低かった。
先頭のネスは、十歩ほど進むたびに足を止めた。
地面だけではなく、目の高さにある枝や、木の幹へ残った傷も確かめている。獣が通った跡を見つけると、自分の足跡で潰さないよう横へ避け、ルークを呼んだ。
ラウルは列の左側を歩いていた。石を踏んでも足音は小さく、立ち止まるときには必ず片足を半歩だけ後ろへ残す。前へも後ろへも、すぐに動ける立ち方だった。
初めに見つかったのは、鹿の蹄跡だった。
三頭分。成獣が二頭と、それより小さい一頭。いずれも森の奥から外へ向かっている。
泥の縁は乾き、底に落ち葉が貼りついていた。数日前のものだ。
少し先には、ラッシュボアの蹄跡が二頭分残っていた。それも向きは同じだった。
「戻った跡がないな」
ネスが腰を落としたまま言う。
「別の道を使った可能性はある」
ルークは答えた。
「だが、この道を避ける理由はなかったはずだ」
鹿もラッシュボアも、人間の古い道を好んで使う。藪を抜けるより歩きやすく、周囲も見渡せるからだ。
森から逃げるときだけ同じ道へ集まり、戻るときには使っていない。
戻っていないのかもしれない。
ローデンが位置と向きを地図へ書き込んだ。
「ここまでは、外で見つかった跡と一致する。問題は、この先だ」
道の右側には、人の膝ほどの高さまでシダが茂っている。左側は緩い斜面になっており、張り出した木の根と灰色の岩が地面を覆っていた。
薄影豹が痕跡を残さず進むなら、選ぶのは左だ。
ルークが斜面を見ると、ラウルも同じ方向へ顔を向けていた。
「先に見てくる」
ネスが道から外れようとする。
「一人では行くな」
グレンが止めた。
「ルークを連れていけ。道から見える範囲までだ」
ネスとルークは、互いに三歩ほど空けて斜面へ入った。
岩の間には落ち葉が溜まっている。乾いているものと、露を含んだものが混じり、踏めば必ず音が鳴った。
ネスは大きな岩の前で止まる。
「どう見る?」
岩の手前には、丸い窪みが一つあった。
幅は、昨日見た足跡とほぼ同じ。爪の跡はない。
薄影豹らしき足跡は、その一つだけだった。
岩の向こうには、地面から浮き上がった木の根が続いている。さらに先には倒木が横たわり、その幹が別の岩へ届いていた。
「ここから根へ乗った」
ルークは窪みの向きを確かめた。
「そのまま倒木まで進めば、二十歩以上は土を踏まずに行ける」
「だが、足を乗せた跡が見えない」
「見えないように歩いている」
根の表面には苔がついていた。
普通に踏めば潰れる。爪を立てれば傷も残る。それらしい跡はなかったが、根の端にある朝露だけが、掌ほどの幅で薄くなっていた。
すべて消えたわけではない。
毛に触れた水滴が細かく散り、日の当たらない側へ残っている。
「足裏全体を置いていない」
ネスが目を細めた。
「根の高いところだけを選び、体重を移しながら進んだか」
「たぶん」
追われることを警戒しているだけなら、速く遠ざかればいい。
この獣は違う。
どこを踏めば人間が見失うかを知り、その場所だけを選んでいる。
ネスが根の先を目で追った。
「記録どおりなら、間違いなさそうだな」
「まだ足跡が一つだけだ」
「慎重だな」
「別の大型猫でも、同じ歩き方を覚えるかもしれない」
「そんな面倒な獣が二種類もいてほしくはないが」
ネスは立ち上がり、道にいるグレンへ片手を上げた。
全員が斜面へ集まることはしなかった。ローデンだけが足跡の近くまで来て大きさを測り、形を紙へ写し取る。残る者は道から周囲を警戒している。
ユアンも持ち場を離れなかった。
足跡を見たそうに首を伸ばしたものの、マルタが何も言わず前を指すと、すぐに向き直った。
ルークはそれを見ていたが、声はかけなかった。
隊列が動き出して間もなく、左の斜面から石が転がり落ちた。
拳ほどの石が木の根へぶつかり、乾いた音を立てる。
正体を確かめるより先に、三人のB級が動いていた。ネスは片膝をついて斜面の上へ弓を向け、マルタはローデンとユアンの前へ出る。グレンは中央から動かず、前後の両方を見られる位置で剣へ手をかけた。
互いに指示は出していない。それでも三人が同じ場所へ集まることも、守るべき者を一人にすることもなかった。
ラウルだけは、すぐに石の転がってきた斜面を見なかった。
先に道の右側へ目を走らせ、次に来た道を振り返る。音と反対側に別の動きがないことを確かめてから、ようやく斜面を見上げた。
明らかな物音へ全員の注意が集まることを、最初から危険と考えている。
ルークがそこまで見たときには、ラウルの足はすでに元の位置へ戻っていた。
茂みの奥から、小さな栗鼠が走り去った。
ネスが弓を下ろす。
「あれが石を落としたかどうかまでは分からんな」
「確かめるために登る必要はない」
グレンが歩き始めると、マルタもすぐ最後尾へ戻った。
ユアンは何もできなかったことが不満らしく、わずかに眉を寄せていた。しかし、自分だけ遅れて動こうとはしなかった。
「いまのは、何をすればよかったんですか」
歩きながら、小声でマルタへ尋ねる。
「私の邪魔をしないことだ」
ユアンの顔が曇った。
「悪く言ってるんじゃない。守る相手が急に横へ飛び出せば、敵より厄介になる。指示がなければ伏せて周りを見ろ。私が倒れたら、そのとき走れ」
「分かりました」
「納得できなくても覚えておけ。森を出る頃までには、分かるかもしれない」
マルタは前を向いたまま言った。
◇
森へ入って一刻ほど経つと、古い道は急に細くなった。
炭焼き小屋が使われていたのは、そこまでだった。
崩れた石積みと、土に埋もれた黒い炭が残っている。道は小屋跡の先で二つに分かれ、片方は北へ、もう片方は東の斜面へ続いていた。
ローデンが地図板を出す。
「記録にある道は北だけだ」
「東は獣道だな」
ネスが答えた。
東へ続く細い道には、鹿の毛が枝へ引っかかっている。足元にも古い蹄跡があった。
「ここまで、予定より時間を使っている」
ローデンが木々の隙間から太陽を見上げた。
「水場まで進んで調べた場合、正午までに森を出られると思うかね」
「何も起きなければ間に合う」
ルークは少し考えて答えた。
「ここまで七度止まった。足跡を写した二度を除けば、止まっていたのは合わせて四半刻より短い。水場まで同じだけ進むとしても、帰りは痕跡を調べない。正午より半刻ほど前には入口へ戻れる」
「怪我人が出たら?」
「一人を二人で支えて歩くなら、その余裕はほとんど消える。担架を使うなら、ここで引き返しても正午を過ぎるかもしれない」
ローデンは地図板へ落としていた視線を上げた。
「歩きながら数えていたのかね」
「止まった回数は覚えていた。時間は鐘と太陽から大体だ」
ローデンはルークと太陽を見比べ、地図板の余白へ帰還の見込みを書き込んだ。
ラウルは北側へ進み、二本の木の間から下を見た。
「涸れ沢はこっちだ」
「見えるのか?」
ルークには、木々の先に別の木々が見えるだけだった。
「地面の傾きが変わっている」
言われて目を凝らす。
確かに、遠くの木は根元がわずかに低い。だが、初めて来た場所で迷わず見つけられるほど分かりやすい変化ではなかった。
「来たことがあるんじゃないのか」
「さっきも聞かれたな」
「答えを聞いていない」
「仕事で入ったことはない」
同じ答えだった。
ラウルは北の道へ入り、涸れ沢へ下りられる場所を探し始めた。
グレンは止めなかった。
「あいつのことはいい。周りを見ろ」
ルークへだけ聞こえる声で言う。
「信用しているのか」
「S級隊長はしている」
「グレンは?」
「役に立つ判断は使う。信用するかどうかは、そのあとで決める」
それは、ラウルについて何も疑っていない者の答えではなかった。
ルークは北へ続く道へ視線を戻した。
鳥の声がする。
高い枝から、短い鳴き声が三度。少し離れた場所では、小鳥の群れが互いを呼んでいる。足元の草むらから虫の羽音も聞こえた。
森は静かではない。
静かでないからこそ、音が消えたときに分かる。
◇
涸れ沢は、ラウルが示した場所にあった。
幅は五歩ほど。雨の多い季節には水が流れるのだろうが、いまは白い小石と折れた枝が底へ溜まっている。両側の岸は腰ほどの高さで、根が土から突き出していた。
先頭のネスが沢底へ下りる前に、小石を一つ投げた。
石は乾いた音を立てて二度跳ねた。
獣が動く気配はない。
「俺が下りる。ルークは上から見ていろ」
ネスは斜面へ足を掛け、ゆっくり沢底へ下りた。
長弓を背中へ回し、短剣の柄へ手を置いたまま周囲を確かめる。それから対岸へ渡り、低い枝の下でしゃがみ込んだ。
「毛がある」
声を張らずに告げる。
グレンの許可を受け、ルークも沢へ下りた。
枝の先に、灰褐色の毛が三本絡んでいた。
陽の下で見れば、灰色より茶色に近い。少し離せば、枯れた樹皮とほとんど見分けがつかなくなる。
ルークは革手袋をつけ、毛を一本だけつまんだ。
先端が二つに裂け、根元に近い部分は細い。
ギルドの記録で見たものと同じだった。
「薄影豹だ」
ネスが低く言った。
今度は、ルークも否定しなかった。
毛が引っかかっていた枝の高さは、ルークの腰より少し上だった。身体を低くして枝の下を通ったとしても、大型の個体で間違いない。
「いつ通った?」
岸の上からローデンが尋ねた。
ルークは枝を見た。
折れた部分はまだ白く、乾いていない。毛にも朝露がついていなかった。
「夜が明けてからだ」
「どれくらい前かね」
「そこまでは分からない。ただ、昨日ではない」
ネスは沢底を見回し、対岸に残った浅い窪みを指した。
「向こうにも一つある。同じ獣のものか?」
対岸の跡は半分ほど崩れていた。形と幅は似ているが、こちら側に残った足跡より古い。進んだ向きも逆だった。
「同じ一頭が、時間を空けて沢を往復した可能性はある」
「二頭が別々に通った可能性もだな」
ルークはうなずいた。
右前脚の外側だけが深い跡を探したが、どちらも崩れ方が大きく、比較には使えなかった。大きさが近いだけでは、一頭とも二頭とも決められない。
「数を知るには、もう一組の痕跡が必要だ」
「並んで歩いてくれれば楽なんだがな」
「痕跡を残さない獣が、そんな歩き方をするとは思えない」
ネスは苦い顔で息を吐いた。
「薄影とは、よく名づけたものだ」
グレンの表情が変わった。
森へ入ったのは夜明けから間もない。薄影豹が朝になってからここを通ったなら、遠くへ離れていない可能性がある。
「目的は一つ終わった」
グレンが言う。
「存在は確認した。頭数と行動範囲は、これ以上危険を増やさず調べられる範囲までだ。水場へ近づき、周辺を一度見たら戻る」
誰も異論を挟まなかった。
ユアンも黙ってうなずいている。
沢沿いを北へ進むと、地面に湿り気が増えた。
水そのものは見えない。だが、石の裏には濡れた苔がつき、土から細い草が生えている。古い水場が近いことは分かった。
途中で、半分だけ土をかけられた鹿の死骸が見つかった。
成獣だった。
腹と後ろ脚の肉が食われ、残りは低い窪みへ押し込まれている。上には枯れ草と落ち葉が薄くかぶせられていた。
腐敗はほとんど進んでいない。
「食い残しを隠したのか」
マルタが周囲を警戒しながら言った。
「あとで戻るためだろう」
ネスは死骸へ近づかず、風下から様子を確かめた。
「俺たちは、食事場へ踏み込んだらしい」
ユアンの手が短槍へ伸びた。
すぐに抜かなかった。
マルタとの距離を確かめ、グレンの指示を待っている。
「全員、間を詰めろ」
グレンの声が低くなる。
「ローデンを中央へ。ネスは前、マルタは後ろのまま。ルークは痕跡を見るな。いまは周囲だけ見ろ」
ルークは手帳へ伸ばしかけた手を止めた。
鹿の死骸には、薄影豹の歯形が残っているはずだ。食べた量が分かれば個体の大きさも絞れる。死後どれほど経っているかも調べられる。
しかし、それを調べるために下を向けば、近くにいるかもしれない獣から目を離すことになる。
目的は討伐ではない。
ルークは死骸から視線を外した。
そのとき、一羽の鳥が鳴くのをやめた。
◇
最初に止まったのは、沢の東側にいた鳥だった。
短い声を繰り返していたのに、途中で不自然に途切れた。
人間の隊列へ気づいただけなら、もっと前から黙っていてもおかしくない。ルークたちはすでに、鳥のいる場所から見える沢底を歩いていた。
ルークは東へ顔を向けた。
枝が揺れている。
風は沢に沿って南から吹いていた。揺れた枝は、風を受ける側ではない。何かが触れたように、葉の内側から外へ動いた。
次に、その北側で鳴いていた小鳥が黙った。
さらに遠くで、羽ばたく音がした。
鳥の群れが一斉に逃げたのではない。
近いものから順に、声が止まっている。
何かが、東から北へ動いている。
「右だ」
ルークが声を出すより先に、ラウルは東側を見ていた。
剣は抜いていない。
だが、立っている場所が変わっている。
さっきまでローデンの左にいたはずが、いまは沢から古い道へ戻る斜面の前にいる。薄影豹が横から飛び込んできても、調査隊の退路へ直接入れない位置だった。
いつ動いたのか、ルークは見ていなかった。
「止まれ」
グレンが片手を上げる。
全員の足が止まった。
ネスが弓を構え、マルタが幅広の剣を抜く。ユアンは短槍へ手をかけたまま、前へは出なかった。
「どこだ」
グレンが尋ねる。
「東から北へ回った」
ルークは答えた。
「一頭か?」
「分からない。鳥の声が止まったのは一つずつだ」
ネスがゆっくり弓を動かす。
視線の先には、灰色の幹と垂れ下がった蔓、その奥に重なる葉があるだけで、獣の姿は見えない。
見つけられないのではなく、まだ見えていないだけだ。
ルークは一つの場所へ集中しそうになる意識を押しとどめた。
枝の揺れだけを追えば、足元から近づかれる。
地面だけを見れば、木の上を使われる。
東だけに敵がいると決めれば、ほかの方向を捨てることになる。
広く見る。
深く見ようとするたび、視野の外側が暗くなる。その手前で意識を戻し、次の場所へ移す。
木の根元から幹の途中、枝と枝の重なる場所へ視線を移しても、何も見つからない。
敵がいないのではなく、見ている場所が多すぎるのだ。
どこか一つを選ばなければ、どれも浅いままになる。
ルークは鳥の声を思い返した。
最初が東。次が北東。そのあと、少し遠い北。
獣は一直線に進んでいない。こちらとの距離を変えず、円を描くように回っている。
なら、次に通る場所は限られる。
「北の倒木だ」
ルークが告げた。
ネスの弓が動く。
太い倒木が、沢をまたぐように横たわっていた。
樹皮は灰褐色に枯れ、上へ細い枝の影が落ちている。
その影の一つが、ゆっくりと膨らんだ。
最初に見えたのは、目だった。
黄色く光っているわけではない。木々の隙間から差した朝の光を、二つの瞳が一瞬だけ返した。
次に、額から背中へ続く輪郭が浮かんだ。
灰色と茶色が混じった毛は、倒木の樹皮と同じ色をしている。黒い斑点も、枝が落とす影へ紛れていた。
身体を伏せているにもかかわらず、頭の高さだけで人間の腰に近い。背中は、倒木の幅からはみ出していた。
薄影豹は、こちらを見ていた。
口を閉じ、唸り声一つ漏らさない。胸の上下さえ、すぐには分からなかった。
記録にあった「浅い呼吸」の意味を、ルークは初めて理解した。
息をしていないのではない。
獲物に動きを読ませないほど、小さく呼吸している。
「長く一度だ」
グレンが言った。
ユアンが鳥笛を吹く。
撤退を知らせる細長い音が、森の中を抜けた。
薄影豹は動かなかった。
「ローデンから下がれ。マルタ、先に連れていけ。ユアンも行け」
マルタは異論を挟まず、ローデンを沢の南へ向かせた。
ユアンが一歩遅れる。
薄影豹から目を離すことへ、身体が抵抗したようだった。
「行け」
ルークが言う。
ユアンはうなずき、ローデンの後ろについた。
グレンとネスが武器を構えたまま後退する。ルークも二人に合わせて歩き、ラウルは退路へ続く斜面の前を離れない。
薄影豹は追ってこなかった。
倒木の上へ伏せ、こちらが遠ざかるのを見ている。
一歩ずつ慎重に下がり、三歩目でようやく距離が開き始めた。
ルークは目を細めた。
追ってこないのなら、それでいい。
存在は確認した。新しい痕跡も見つけた。ここで全員が帰れば、調査は成功になる。
四歩目を下がったときだった。
沢の南側で、鳥の声が止まった。
先に下がったマルタたちの、さらに後ろ。
来た道の方角だった。
ルークは振り返らなかった。
倒木の上には、いまも薄影豹がいる。
その輪郭を見失わないまま、声だけを聞いた。
南から、鳥が一羽ずつ黙っていく。
調査隊の退路へ近づくように。
前を見続ければ、後ろの仲間へ近づくものを確かめられない。振り返れば、倒木の上の一頭から目を離すことになる。先ほどまで残されていたはずの退路が、前後からゆっくり狭められていた。
目の前にいる一頭を見たまま、グレンが低く尋ねた。
「ルーク。後ろにもいるのか」
答えは出せなかった。
見えている薄影豹は、まだ一度も動いていない。
それでも森の声は、背後から順に消えていた。




