14 凱旋式
九番車を川原へ落としてから、二十日あまりが過ぎた。
遠征隊は、来たときより一台少ない荷車を連ねて南東へ進んでいた。
襲撃の翌日から、隊長は予定を組み直した。荷車の速度を落とす素材は置き、斥候が進む範囲を狭め、日が沈むより前に守りやすい場所へ陣を作る。道中で狩った獲物はその日のうちに食べ、持ち帰る食料としては数えなかった。
それでも、誰も飢えることはなかった。
傷を負った者も、全員が自分の足か荷車で進んでいる。
最後の丘を越えた朝、ルークは地平の上に灰色の線を見つけた。
フロンティアの城壁だった。
遠くからでは岩山の裾にも見える。だが、日の光が動くにつれて、等間隔に並ぶ見張り塔と、その上ではためく旗が見え始めた。
先頭を歩いていた者が声を上げる。
荷車の間から、次々に顔がのぞいた。
「見えたな」
七番車の御者台で、オルドが目を細めた。
「ああ」
「帰ったら、まず何をする」
「報告書を出す」
「そうじゃない。飯を食うとか、湯を浴びるとか、まともな寝床で寝るとかだ」
「報告書を出したあとなら、寝る」
「若いのに、楽しみの少ない奴だ」
オルドは呆れながらも笑っていた。
その声を聞いた馬が耳を動かす。長旅で肉は少し落ちたが、二頭とも脚取りは悪くない。
城壁が見えてからも、門までは遠かった。
街道の両側に牧草地が現れ、やがて畑と農家が増えていく。人の手が入った水路を越え、石を敷いた道へ車輪が乗った。
行き交う農民や商人は、最初に人数の多さを見た。そのあと、隊列の中央から突き出た二本の角へ気づく。
馬六頭に引かれた八輪の運搬台。
厚い布で覆われていても、中にあるものの形は隠しきれない。
「竜だ」
誰かが言った。
街道を外れた少年が、畑の畦へ駆け上がる。
「竜の首だ!」
声は、隊列より速くフロンティアへ向かった。
◇
北西門の上で、鐘が鳴った。
低く長い音が二つ。そのあとに、短い音が三つ。
素材回収遠征へ出る前、S級隊長たちの帰還を知らせたものと同じ音だった。
ただし今回は、先触れの騎馬が前日に到着している。門前には見物人より先に、荷下ろしを担当する職人と、負傷者を受け入れる治療師が待っていた。
領主の兵が街道の両側へ縄を張り、人の通る場所を空けている。それでも、知らせを聞いた住民がその外側へ集まり、城壁の上にまで人影が並んでいた。
先頭が門をくぐる。
歓声は、隊列の前から順に大きくなった。
ルークが七番車とともに門へ入ったときには、左右から浴びせられる声が重なり、誰が何を言っているのか聞き分けられなかった。
手を振る者がいる。
泣きながら家族の名を呼ぶ者もいる。
帰還者の方も、知った顔を見つけて列を離れそうになる。護衛が押し戻すのではなく、名前を聞いて家族のいる場所を教えていた。
隊列はまだ終わっていない。竜の頭を門の内側まで運び、荷車を決められた集積場へ入れるまでが遠征だった。
「ルークさん!」
聞き覚えのある声が、人垣の向こうから飛んできた。
ユアンが張られた縄の外で跳ねるように手を上げていた。新しい革鎧ではなく、普段着の上に短槍だけを背負っている。
「生きてた!」
「見れば分かる」
「百日を越えたんですよ。途中で何があったか、知ってますか」
「途中にいたから知っている」
「そういう意味じゃなくて、都市では全滅したとか、竜が生き返ったとか、遠征隊同士で喧嘩して戻れないとか、いろいろ――」
「どれも違う」
ユアンは安心したように笑った。
そのまま列へ近づこうとして、兵に縄の外へ戻される。
「あとでギルドに行きます!」
「今日は報告が先だ」
「じゃあ、終わるまで待ってます!」
「終わるのは夜になる」
「それでも待ちます!」
返事をする前に七番車が進み、ユアンの姿は後ろへ流れていった。
門の内側には、ギルド職員が長い机を並べていた。
出発時の名簿と帰還者を照らし合わせ、負傷者、行方不明者、途中の砦へ残った者を確認している。
隊列が止まると、赤みのある栗色の髪をまとめた受付嬢が、書類を抱えて近づいてきた。
「上位C級枠、経路班。ルークさん」
セラは名簿を読み上げ、それから顔を上げた。
「帰還を確認しました」
「ああ」
セラの視線が、ルークの顔から両肩、腕、脚へと一度だけ動いた。怪我がないか確かめたのだろう。
「怪我はありませんか」
「ない」
セラは手を伸ばし、ルークの右腕へそっと触れた。革鎧の表面に、新しい裂け目が一本残っている。
「これは?」
「革だけだ。腕には届いていない」
そう答えると、セラは小さく息を吐いて手を離した。
「報告は、私が受けると言いました」
「覚えている」
「では、集積場での確認が終わったら、二番受付へ来てください」
いつもの仕事の声だった。
セラは次の名前を呼ぶために名簿へ目を戻す。
その直前、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
七番車が動き始める。
ルークは列へ戻った。
◇
竜の頭から布が外されたのは、集積場へ入ってからだった。
乾燥と防腐処理によって、生きていた頃の艶は失われている。それでも、暗い赤色の鱗は朝日を鈍く返し、閉じた瞼は子供が両腕を広げたほどの長さがあった。
固定具を外す職人が角へ近づくたび、見物人から息を呑む音が上がる。
口は太い縄で閉じられていた。運ぶ途中で重い顎が開けば、荷台も近くにいる人間も傷つけかねない。死んでいても、牙の鋭さまで失われるわけではなかった。
領主の役人は、首の状態を確かめると封蝋を押した札を運搬台へ結んだ。
これで、領主へ献上されるまで勝手に素材を外すことはできない。
別の机では、銀鉱石の標本が箱から出されていた。
灰色の石を割った面に、白く輝く筋が何本も走っている。鉱山技師が採取地点と鉱脈の広がりを説明するたび、役人の筆が速く動いた。
竜を討った証だけではない。
新しい銀鉱山へ続く道と、その周辺の地図も持ち帰った。
この遠征によって、フロンティアの境界は地図の上で大きく北西へ広がる。
昼を過ぎる頃には、二度目の号外が都市へ出た。
――赤竜の首、フロンティアへ到着。
――北西未開域に大銀鉱脈。
――六日後、中央広場にて討伐記念式典。
印刷所の少年が読み上げる見出しを聞きながら、ルークはギルドの二番受付で報告書を広げていた。
経路の変更。
発見した水場。
岩殻蜥蜴と鉤爪猿の群れ。
竜の巣と銀鉱脈。
帰路の襲撃と、失った九番車。
セラは途中で口を挟まず、ルークが書いた記録と経路班の正式な報告を照らし合わせていく。
「大きく違うところはありません」
最後の紙を置いてから、セラが言った。
「違うところはあるのか」
「ルークさんの方が、足跡と地面の状態について細かいです。正式報告には、そこまで書きません」
「必要ないのか」
「必要になったときに、こちらを参照します。そのために個人記録も提出してもらっています」
セラは手帳を書類の横へ返した。
「今日は、ゆっくり休んでくださいね」
「そのつもりだ」
「よかったです。ユアンさんが、下でずっと待っています」
「まだいたのか」
「三度、様子を聞きに来ました」
ルークは手帳を腰へ戻した。
「六日後の式典、行きますか?」
「行く」
答えると、セラが少し意外そうに目を上げた。
「人の多い催しは、あまり好きではないと思っていました」
「隊長が爵位を受ける。アレンたちの功績も正式に発表される」
それだけではなかった。
三年かけて地図の外へ進み、赤竜を討ち、銀鉱山を見つけた者たちが、都市からどのように迎えられるのかを見ておきたかった。
いつか自分も、彼らと同じ場所へ立てるのか。
今の自分との差が、どれほどあるのか。
遠征の中で少し近づいたように思えても、S級とA級の背中はまだ遠い。
「そうですか」
セラは紙の端を揃えた。
「では、当日は中央広場にいます。ギルドの席で、負傷者用の通路を管理していますので」
「仕事なのか」
「誰かが働かなければ、式典はできませんから」
セラは、少しだけ笑った。
◇
階段を下りると、ユアンは広間の長椅子で眠っていた。
背中へ短槍を背負ったまま、壁へ頭を預けている。膝の上には、紙に包んだ丸い焼きパンが二つあった。
ルークが肩を揺すると、ユアンは短槍の柄へ手を伸ばしながら目を開けた。
「敵ですか」
「ギルドの中だ」
数度瞬きをしてから、ユアンは周囲を見た。
「……終わりました?」
「ああ」
「三回しか聞きに行ってませんよ」
「回数は聞いていない」
ユアンは膝から落ちかけた包みをつかんだ。
「一つ、ルークさんの分です。帰ってきたら腹が減ってると思って」
「冷えている」
「百日待ったんですから、半刻くらいは我慢してください」
「待ったのは今日だけだろう」
焼きパンの中には、刻んだ肉と玉葱が詰められていた。表面は冷えていたが、中にはまだわずかに温かさが残っている。
ルークが半分ほどを続けて食べると、ユアンが目を丸くした。
「そんなに腹が減ってたんですか」
「朝から何も食べていない」
「帰ったら報告書より先に飯でしょう」
「オルドにも言われた」
「まともな人ですね」
ユアンも自分の分を開き、隣で食べ始めた。
広間には帰還した冒険者と家族が行き交っている。酒場へ連れていかれる者もいれば、長椅子へ座ったまま泣いている者もいた。再会できなかった家族のために、職員が別室へ案内する姿も見える。
ユアンはしばらく、遠征で死んだ者がいるのかとは聞かなかった。
「竜は、どれくらい大きかったですか」
代わりに、そう尋ねた。
「翼を広げれば、この広間には入らない」
「ギルドごと壊せそうですね」
「息を吐くだけで、地面が硝子みたいに固まっていた」
「火で?」
「砂と石が溶けていた」
ユアンは焼きパンを持ったまま、想像するように天井を見た。
「そんなのを、剣で倒せるんだ」
「隊長一人で倒したわけじゃない。アレンたちが翼と脚を止めて、最後に隊長が首を落とした」
「でも、最後には前へ出たんでしょう」
「そうだな」
「俺も、いつか行けますか」
今すぐ連れていけとは言わなかった。
少し前のユアンなら、階級さえ上がれば行けると思っていたかもしれない。
「今回の隊には、B級でも選考で落とされた者がいた」
「じゃあ、何ができればいいんです」
「分からないことを分からないと言えること。進めないときに、戻ると言えること。それでも行くなら、帰るために必要なものを自分で考えられることだ」
「剣が強いだけじゃ、駄目ですか」
「剣も強くなければ困る」
「増えたじゃないですか」
「未踏域へ行けば、必要なものは増える」
ユアンは難しい顔で最後の一口を食べた。
「でも、無理だとは言わないんですね」
「行けるかどうかは、お前が決めることだ」
そう答えると、ユアンは紙包みを小さく畳んだ。
「じゃあ、まずC級になります」
「まず、明日の依頼を無事に終わらせろ」
「明日は休みです」
「なら、武器を手入れして寝ろ」
「帰ってきたばかりの人に言われたくないな」
ユアンは笑って立ち上がった。
ルークも長椅子から腰を上げる。
宿へ帰れば、久しぶりに自分の寝床がある。報告も終わり、明日の朝まで起きる理由はもうなかった。
◇
六日後、フロンティアの中央広場は、朝から赤と銀で埋まっていた。
商人組合が用意した赤い布が建物の軒から垂れ、銀色に塗った木製の竜が通りの入口へ飾られている。屋根の上では、七芒星を染め抜いた国旗が東から西へ伸びていた。
広場の北側には、領主の館へ続く石段がある。
その前へ式台が組まれ、両側に背の高い飾り柱が立っていた。柱の間には、七芒星と交差する二本の剣を彫った大きな木製の紋章が、太い縄と鉄の金具で吊られている。
竜の頭を載せた運搬台は、式台の下に置かれていた。
今回は顎を固定していた縄も外され、牙の並んだ口が半分開いている。鱗へ油が薄く塗られ、遠征隊が持ち帰った日の朝より赤色が深く見えた。
周囲には兵が立ち、子供が触れられないよう柵が組まれている。
「本当に持って帰ってきたんですね」
隣でユアンが、何度目か分からない感想を漏らした。
「門でも見ただろう」
「あのときは布がかかってたじゃないですか。こんなに大きいとは思いませんでした」
「巣で見たときは、胴体も翼もついていた」
「それも見たんですよね」
「見た」
「触りました?」
「鱗と骨は調べた」
「硬かったですか?」
「俺の剣なら、まともに斬れば刃の方が欠ける」
ユアンは竜の首を見上げたまま、しばらく黙った。
「隊長は、それを剣で斬ったんですよね」
「ああ」
「やっぱりS級だ」
単純な感想だった。
だが、ルークにもそれ以上うまい言葉は見つからなかった。
隊長の剣を近くで見た。振ったのは一度だけで、資料用の鱗を切り分けた。アレンから、竜の首を落としたときも一度だったと聞いた。
動きが見えなかったわけではない。
見えたところで、同じことはできなかった。
広場の前方には、遠征へ参加した者たちの席が設けられている。ルークにも座る場所はあったが、式典が始まる前にユアンへ捕まり、今は一般の観客が集まる場所に立っていた。
「席へ行かなくていいんですか」
「名前を呼ばれる者は前にいる」
「ルークさんだって遠征隊でしょう」
「経路班全員の名前まで読み上げたら、日が暮れる」
「俺なら呼んでほしいですけどね」
「お前ならそうだろうな」
ユアンは否定しなかった。
式典を知らせる鐘が鳴る。
広場の声が少しずつ収まり、領主の兵が槍の石突きを地面へ揃えて打った。
最初に石段を下りてきたのは、辺境伯だった。
濃紺の正装の肩へ銀の飾り布を掛け、胸には七つの角を持つ星形の徽章をつけている。王都から来た使者と文官が後ろへ続いた。
遠征隊の代表者が式台へ上がる。
S級の隊長。その直属のA級三人。少し間を空けて、アレンと、調査や解体を率いた者たちが並んだ。
隊長は、式典用の新しい剣を帯びていなかった。
腰にあるのは、鍔の欠けた、いつもの長剣だった。黒い礼装の襟から、左の首筋に残る古い火傷が少しだけ見えている。
歓声を受けても、隊長は観客へ手を振らなかった。
式台へ上がると、最初に頭上の紋章を見て、次に左右の柱と石段を確かめた。それからようやく辺境伯の前へ立つ。
書記官が、三年に及んだ北西大遠征の記録を読み上げた。
調査した土地。
新たに記された川と山。
築かれた補給拠点。
赤竜を追った七日間。
そして、巣の下で発見された銀鉱脈。
広場の反応が最も大きかったのは、銀鉱脈の推定規模が告げられたときだった。
商人たちが顔を見合わせ、職人街から来た者が拳を上げる。
鉱山が開けば、採掘する者が必要になる。道を作る者、鉱石を運ぶ者、道中を守る冒険者も必要になる。銀は王都へ送られるが、その仕事と富の一部はフロンティアへ残る。
竜を一頭倒しただけの祝いではなかった。
この先、何十年も都市を支えるかもしれない道を、遠征隊は見つけたのだ。
王都の使者が、一歩前へ出た。
国王の名で記された文書が開かれる。
赤竜討伐と北西未開域の開拓、その双方の功績により、S級冒険者である遠征隊長へ、一代限りの男爵位を授ける。
爵位とともに、銀鉱山へ至る街道の整備について、辺境伯へ直接意見する権利も認められた。
隊長が片膝をつく。
辺境伯から剣を受け、短い宣誓を返した。
立ち上がると、広場を揺らすほどの歓声が上がった。
「男爵ですよ」
ユアンが声を張る。
「聞こえている」
「S級で、竜殺しで、男爵です。英雄って、ああいう人のことを言うんでしょうね」
隊長は歓声が収まるまで待った。
辺境伯から発言を促される。
「俺一人の功績ではない」
低い声は、広場の端まで届くようには作られていなかった。それでも、前に立つ書記官が同じ言葉を大きく繰り返した。
「地図に線を引いた者がいる。橋を架け、荷を運び、傷を縫い、俺が眠っている間に火を見張った者がいる」
一言ごとに、書記官が声を広場へ渡していく。
「帰らなかった二人もいる。この場にいない者の働きを、俺の名だけで残すつもりはない」
先ほどまで騒いでいた者たちが静かになった。
隊長は、遠征隊の席へ顔を向ける。
「爵位をもらっても、俺の仕事は変わらない。まだ地図の先が残っている」
最後の言葉だけは、書記官が繰り返すより先に歓声へ呑まれた。
ユアンが両手を叩く。
ルークも、前に立つ隊長を見ていた。
爵位を受けても、城へ残るとは言わなかった。
都市の誰も知らない場所がある限り、また外へ出るつもりなのだ。
その隣で、アレンがこちらを見つけた。
遠く、人の頭がいくつも間にある。
それでも目が合うと、アレンは一度だけ右の拳を上げた。
昔、木剣の勝負に勝ったときと同じ仕草だった。
ルークも拳を上げて返す。
誇らしさと、悔しさが同時に胸へ残った。
いつか隣へ立ちたい。
だが、今の自分があの式台へ上がっても、隊長やアレンと同じ働きはできない。
なら、次に何が足りないのかを見つければいい。
◇
式典は、遠征隊への報奨へ移った。
調査員、職人、冒険者の代表が順に呼ばれ、辺境伯から記章と報奨金の目録を受け取る。
広場の緊張がほどけ始め、後方では屋台へ戻る者も出ていた。
ユアンは、式典を見るのか肉串を買うのか決めきれず、何度も通りを振り返っている。
「行ってきてもいいぞ」
「戻ったら終わってるかもしれないでしょう」
「なら見ていろ」
「でも、あの肉、竜の肉らしいですよ」
「違う」
「見ただけで分かるんですか?」
「竜の肉を、あの値段で売れるはずがない」
屋台の看板には、竜焼き串と大きく書かれている。その下に、小さな字で《竜を追った豚》と付け足されていた。
「豚じゃないですか」
「豚だな」
ユアンが文句を言いながら屋台を見ている間に、ルークは式台の端へ立つラウルを見つけた。
遠征隊の代表には選ばれていない。
灰色の外套を着て、兵と職人が出入りする通路の近くに立っている。式典を見るというより、人の流れと、式台へ近づく者を確認しているようだった。
そのラウルが、突然、顔を上げた。
まだ誰も騒いでいない。
式台では書記官が次の名を読み上げ、辺境伯が目録を渡そうとしている。
アレンも観客の方を見ていた。
ラウルだけが、二本の飾り柱の間に吊られた紋章を見ている。
遅れて、金属の擦れる音がした。
紋章を支えていた右側の金具が、柱から外れた。
人の背丈を超える木製の紋章が片側だけ落ち、振り子のように式台の前へ傾く。その真下には、報奨を受け取る者の家族が集まっていた。
「下がれ!」
兵の声が上がる。
アレンが石段を飛び降り、前列にいた子供を抱えて横へ転がった。
同時に、ルークは赤い布が膨らむのを見た。
紋章の右側へ垂らされていた、細長い飾り布だった。
広場の旗は、どれも東から西へ流れている。
だが、その布だけが一瞬、西から東へ膨らんだ。
吊られた紋章が空中でわずかに回る。
真下へ向かっていた下端が人の列から外れ、式台脇の石柵へ激突した。
木が砕ける音に、悲鳴が重なる。
兵が観客を下げ、別の者が残った縄を切る。紋章は石段へ落ち、七つある星の先端のうち二つが折れた。
アレンに抱えられた子供が泣いている。
怪我はないらしい。
紋章の下にいた者たちも、押し合って転んだ者はいるが、直撃は免れていた。
ざわめきの中で、ラウルはすでに紋章から目を離していた。
兵と一緒に人を下がらせ、何事もなかったように倒れた者へ手を貸している。
ルークは、屋根の上の国旗を見た。
今も旗は西へ伸びている。
風向きは変わっていない。
建物の間では、風が巻くことがある。
だが、逆へ膨らんだ飾り布のすぐ下にあった細い旗は動かなかった。石段に積もった乾いた砂も、西から東へは流れていない。
あの布だけだった。
そして、金具が外れる音より先に、ラウルは上を見ていた。
「ルークさん?」
ユアンが呼んだ。
「どうかしましたか」
「いや」
ルークはラウルを見た。
灰色の男は、泣いている子供を母親のところへ戻している。その立ち姿に、特別なものはない。
C級の冒険者が、A級のアレンより早く落下へ気づいた。
それだけなら、偶然でも説明できる。
遠征の帰路で、九番車を狙った男たちを倒したときの速さも、見間違いだったかもしれない。
風も、広場の複雑な形が生んだものかもしれない。
分からないものを、分かったことにはできない。
ルークは腰の手帳を取り出した。
式台の位置と、二本の柱、国旗の向きを簡単な線で描く。
東から西へ、広場全体の風。
西から東へ、飾り布だけを動かした風。
その下へ、金具の音より前にラウルが顔を上げた、と書き加えた。
何が起きたのかは書かなかった。
見たものだけを残した。
折れた七芒星が運び去られると、式典は場所を狭めて再開された。
ほどなく、広場には再び歓声が戻った。
屋根の上で、七芒星の旗が西へなびいている。
ルークの手帳にだけ、それとは逆向きの矢印が残っていた。




