12 解体
翌朝、ドラゴンは白い霧の中に横たわっていた。
夜のあいだに谷底へ溜まった冷気が、黒い鱗の隙間を薄く流れている。日の光はまだ山の上にしか届かず、巨大な死骸は昨日よりもさらに大きく見えた。
その周りでは、夜明け前から人が動いていた。
解体職人たちは竜の左側へ足場を組み、太い杭を地面へ打ち込んでいる。鱗を外す者、縄と滑車を確かめる者、刃物を研ぐ者。少し離れた岩壁では、鉱山技師が銀色の筋に沿って番号を書いた木札を置いていた。
護衛の半数は谷の入口と周囲の高所へ散っている。昨日倒した魔物の血と、ドラゴンの臭いに何が寄ってくるか分からないからだ。
ルークは七番車の脇で、自分の指先を開いては閉じた。
震えは止まっていた。額の奥には重さが残っているものの、眠る前のように視界が白く明滅することもない。
「頭は動くか」
経路班長が、細長い木箱を抱えてやってきた。
「問題ありません」
「昨日のお前は、同じことを言って真っすぐ歩けていなかった」
「今日は歩けます」
「なら、今日は記録だけにしておけ」
渡された木箱には、手帳のほかに炭筆、細い麻糸、木製の物差しが入っていた。
「解体場所と鉱脈までの足場を記録しろ。竜の下には入るな。高い場所へ上がるときは、職人に声をかけろ」
「分かっています」
「昨日よりは信用しておく」
経路班長は、野営地の中央に立てられた板へ向かった。
板には、遠征へ出る前に見た木札が掛けられている。横一列に彫られた七つの刻みのうち、最初の一つだけが墨で黒く塗られていた。
往路で崩れた道を迂回した、一日分の遅れ。
残る六つは、まだ木の色をしていた。
◇
「最初に外すのは、鱗じゃない。肉でもない」
解体主任は、竜の腹の前へ集まった職人たちに言った。
「まず、どこへ重さが掛かっているかを調べる。こいつは死んでいるが、死骸だけで家より重い。支えを間違えれば、脚一本動いただけで十人は潰れる」
昨日の戦いで肩を負傷した副隊長も、その説明を少し離れた場所で聞いていた。左腕は布で吊られ、頭にはまだ包帯が巻かれている。剣を持てる状態ではないが、中央の護衛配置を確認するため、自分の足で歩いていた。
竜は腹を下にして倒れている。
右の翼は地面へ広がり、左の翼は山肌へ乗り上げていた。折れた脚と腹の下には隙間があるように見えるが、その奥が岩で支えられているのか、死骸そのものが引っ掛かっているだけなのかは分からない。
職人たちは長い棒を差し込み、内部の深さを確かめた。槌で鱗を軽く叩き、返ってくる音の違いを聞き分ける者もいる。
ルークは少し離れた位置から、その作業を手帳へ写した。
人の立つ場所、張られた縄、竜の身体が地面へ触れている位置。解体を終えたあと、鉱山の調査隊が同じ場所へ入るための記録になる。
「右前脚から始めるぞ」
解体主任の指示で、滑車につながれた縄が引かれた。
六人がかりで縄を引き、地面へ沈んでいた前脚をわずかに浮かせる。空いた隙間へ別の職人が丸太を差し込み、楔で固定した。
竜の脚は、それだけで荷車一台ほどの太さがあった。表面を覆う鱗は一枚ずつ形が違い、大きなものは盾としてそのまま使える。熱を通しにくく、鉄より軽い。傷の少ない鱗なら、上質な鎧を一領作っても余るほどの値がつくという。
牙と爪は武器や大型工具の刃になる。腱は強い弓や巻き上げ機の縄に使われ、骨は削り出せば鉄では耐えられない部分の軸材になる。
頭部は、それらとは別だった。
ドラゴンを討った証であり、領主へ献上される品でもある。角と牙を抜かず、できるかぎり元の形を保ったままフロンティアまで運ばなければならない。
だからこそ、先に胴体を解体し、最後に首を載せる専用の荷台を組む予定になっていた。
「皮を開く。引け」
竜の脇腹には、討伐隊が以前つけた切れ目が残されていた。そこへ長い柄の刃を入れ、三人が押す。別の四人が鉤を掛けた皮を引いた。
乾きかけた肉がゆっくりと開き、深い赤褐色の筋肉が現れる。
臭いが一気に濃くなった。
腐敗は普通の獣より遅い。それでも、死んで二か月近く経っている。表面に近い肉は黒ずみ、触れれば崩れる場所もあった。使える部分は塩漬けにして研究用に持ち帰るが、肉の大半は谷の外で焼くことになる。
職人たちは顔を布で覆い、作業を続けた。
露出した筋肉の間に、白い腱が何本も走っている。一本が人の腕ほど太く、それぞれが脚の奥へつながっていた。
解体主任が切る場所へ白い粉で印をつける。
二人の職人が大鋸を当て、白い腱を切り始めた。
硬い繊維へ鋸の刃が半寸ほど食い込んだとき、竜の脚を吊っている縄の一本が細かく震えた。
ルークは縄の先を追った。滑車を通り、岩へ打ち込まれた杭につながっている。ほかの縄は動いていないのに、その一本だけ張りが強くなっていた。
その先にある楔へ目を移す。
丸太と地面の間から、土が少しずつ押し出されていた。
「待ってくれ」
大鋸を引こうとしていた二人が手を止めた。
解体主任が振り返る。
「どうした」
「その腱を切ると、右前脚が外へ開く。下の丸太がずれ始めています」
ルークは震えている縄と、楔の根元を指した。
主任はすぐに二人を下がらせ、自分で丸太の横へしゃがんだ。指で土を払い、楔へ槌を当てる。
鈍い音とともに、丸太がわずかに沈んだ。
「補助を二本入れろ。外側にも縄を張る」
職人たちが動き出した。
新しい丸太と楔で脚を支え、反対方向から別の縄を張る。準備を終えてから主任が合図を出し、大鋸が白い腱へ食い込んだ。
半分まで切れたところで、腱が大きく裂けた。
竜の前脚が外側へ動き、滑車の縄が激しく鳴る。だが追加された二本の支えが重さを受け、丸太はその場に残った。
もし最初のまま切っていれば、脚は作業場所へ倒れていただろう。
解体主任は動いた脚とルークを交互に見た。
「昨日、猿の群れを止めたのもお前だと聞いた」
「一人で止めたわけではありません」
「職人も一人では竜を解体できん。だが、今の縄を見ていたのはお前だ」
主任はそれだけ言い、作業へ戻った。
ルークは返事をせず、手帳へ支えの位置と、最初の楔が沈み始めた場所を書き加えた。
◇
昼を過ぎるころ、右前脚から最初の鱗が外された。
鱗と皮の境目へ湾曲した刃を入れ、何度も往復させる。外れた一枚を四人で持ち上げ、敷物の上へ慎重に置いた。
ルークは許可を得て、その断面へ触れた。
表面は石のように硬いのに、内側には薄い層が幾重にも重なっている。剣で正面から斬れば刃が滑り、鱗同士の隙間へ入れても、その下にある皮へ届く前に勢いを失う。
端には、戦闘中についた細い傷があった。
ルークの小指ほどの深さしかない。
「その傷は俺だ」
アレンが、解体した鱗を運びながら言った。
「これが?」
「浅いだろ」
軽い調子だったが、傷は鱗の中央を斜めに走っている。ルークの剣なら、同じ場所へ全力で打ち込んでも、ここまで刃が入るか分からない。
「右の翼を止めたときにつけた。斬った感触はあったんだが、あとで見たらこれだけだった」
「同じ場所を狙わなかったのか」
「狙えればな。竜も黙って立ってはいない」
アレンは鱗を職人へ渡し、竜の右側へ視線を向けた。
「見たいなら、傷をたどってみろ。俺たちがどう戦ったか、少しは残っている」
そう言われる前から、ルークは気になっていた。
右の翼膜には、同じ高さへ並ぶ切り傷がある。後脚の内側には深い裂け目があり、左の脇腹には槍か杭が何度も刺さった丸い傷が残っていた。
それぞれを別々に見ても、戦い方は分からない。
ルークは竜から距離を取り、死骸全体が視界へ入る場所まで下がった。
右の翼を開かせないため、アレンたちは翼膜の根元を繰り返し狙った。竜が左へ回れば、脇腹に残った傷を持つ者が進路を塞いだ。後脚の内側の裂け目は、追跡の途中で動きを鈍らせるためにつけたものだろう。
傷の位置を手帳へ写し、矢印でつなぐ。
竜は谷の奥へ追い込まれたのではない。
逃げる方向を一つずつ減らされ、最後にこの谷を選ばされた。
「右へ行かせたかったのか」
近くを通ったアレンへ尋ねる。
「何の話だ」
「最後の戦いだ。右の翼を使わせず、左から攻撃していた。竜をこの谷へ入れるために」
アレンは手帳をのぞき込み、ルークが引いた線を目で追った。
「途中までは合ってる」
「途中?」
「谷へ入れたかったのは逆だ。俺たちは、こいつがここへ来るのを止めようとした」
アレンは崩れた岩壁を指した。
「巣に戻れば、傷をかばって動かなくなると思った。実際には、銀の混じった岩を食って傷口へ塗り始めた。理由は分からない。だが、少しずつ血が止まった」
ルークは銀色の筋と、竜の爪元に固まった灰色の塊を見比べた。
鉱石を食べ、傷へ塗る。
傷だけを見ていれば、竜が追い込まれたようにしか見えなかった。巣へ戻ったあとの行動を知らなければ、逆の結論になる。
「だから七日もかかったのか」
「ああ。動きを止めるまでに六日。最後の一日で、また動き始めた」
アレンの右手が、無意識に長剣の柄頭へ触れた。藍色の組紐が、風に小さく揺れる。
「傷は嘘をつかない。でも、残らなかったものまでは教えてくれない」
ルークは手帳に書いた矢印を一本消した。
見えたものを正しく拾っても、知らないものを勝手に埋めれば答えを間違える。
経路を読むときと同じだった。
◇
竜の首の周りでは、頭部を運ぶための作業が始まっていた。
首はすでに胴体から切り離されている。だが、そのままでは大きすぎて一台の荷車へ載らない。職人たちは持ち込んだ太い梁を並べ、二台分の車輪と車軸を使って長い台を組んでいた。
角と顎を縄で固定し、首の切断面を布で覆う。空いた部分へ塩を詰め、その上から温めた防腐樹脂を塗り重ねる。樹脂が冷えると、黒い膜ができた。
切断面の近くには、まだ外されていない鱗が一枚残っている。
解体主任と職人二人が、刃を入れる位置について話していた。鱗の下へ道具を差し込む隙間がなく、首を余計に傷つけず外すには時間がかかるらしい。
「傷のない鱗は、一枚あればいいのか」
S級隊長が歩いてきた。
昨日と同じ長剣を腰に差している。鞘にも柄にも新しい飾りはなく、鍔の欠けた部分もそのままだった。
「見本に一枚、傷のないものが欲しい。だが首の形は崩したくない」
解体主任が答える。
「場所を決めてくれ」
「切る気か」
「その方が早い」
主任はしばらく隊長の剣を見たあと、鱗の根元へ白い線を引いた。
「線より内側へ刃を入れるな。下の骨まで傷が届けば、献上品の価値が落ちる」
「分かった」
周囲の職人が下がった。
ルークも作業の邪魔にならない位置まで離れ、隊長の右側へ立った。
長剣が鞘から抜かれる。
隊長は刃を上段へ振り上げなかった。右足を半歩前へ出し、剣先を低く下げる。狙っているのは白い線の端、鱗と鱗が重なるわずかな段差だった。
ルークは目を凝らした。
肩が動く。肘が遅れてついてくる。握りは強くない。刃が鱗へ触れる直前にだけ、腰と手首が同じ方向へ加速する。
一度、乾いた音がした。
長剣は白い線を通り、鱗の根元とその下の厚い皮をまとめて断っていた。
切り分けられた鱗が、黒い布の上へ滑り落ちる。
隊長は剣を止めるために足を踏み替えることもなく、刃先を地面へ触れさせることもなかった。血脂を布で拭い、欠けていないことを確かめてから鞘へ戻す。
振ったのは一度だけだった。
力任せには見えない。それでも、あれだけ硬い鱗が切れている。
ルークは今見た動きを、頭の中でもう一度なぞった。
足の位置も、刃の角度も分かる。どこで速さが増したのかも見えた。
自分の身体で同じように動けば、刃が鱗へ届く前に姿勢が崩れる。仮に当てられても、剣か手首のどちらかが耐えられない。
見えなかったのではない。
見えたうえで、できないと分かった。
「何が違った」
隊長が尋ねた。
いつから見られていたのか分からず、ルークは顔を上げた。
「全部です」
「それでは分からん」
「剣が当たる瞬間だけ速さが変わった。けれど、その速さを出しても姿勢が崩れていません。俺が同じ角度で振れば、剣を止められない」
隊長は少し考え、自分の右手を開いた。
「最初は止められなかった」
「隊長でも?」
「剣を持ったこともなかった」
隊長が別の世界から来た人間であることは、フロンティアでは隠されていない。ユアンと同じように、魔物も冒険者もいない世界から突然現れたと聞いている。
だが、その過去と、目の前の一振りがルークの中で結びついていなかった。
「こちらへ来た日に、角狼に追われた。拾った棒で殴ったが、折れた」
「どうしたんですか」
「逃げた。荷車の下へ潜って、通りかかった冒険者が倒すまで震えていた」
冗談を言っているようには見えなかった。
「最初に覚えたのは、戦い方じゃない。逃げ方だ。風向きと足跡を見て、先に獣を避けた。逃げ切れるようになってから、少しずつ戦う相手を選んだ」
隊長は切り分けた鱗を拾い、解体主任へ渡した。
「逃げたことがある者ほど強くなる、という意味ではない。ただ、最初から勝てると思った者は長く残らなかった」
ルークは、都市に残してきた少年を思い出した。
赤牙狼へ迷わず飛び込み、神から与えられた反応の速さがあれば英雄になれると信じている。ユアンがこの場にいれば、今の話をどう聞いただろう。
以前なら、逃げたという部分より、S級も最初は剣を持てなかったという部分だけを喜んだかもしれない。
今度会ったときには、最初から最後まで聞かせたいと思った。
「動きが見えるなら、足りないものも見えるはずだ」
隊長が言った。
「はい」
「なら、一つずつ埋めろ。今日見た一振りを、明日すぐ真似する必要はない」
慰められたとは思わなかった。
届かない距離を、届かないまま正しく測れと言われたのだ。
ルークは、白い線に沿って切られた跡を手帳へ描いた。
◇
解体は、予定どおりには進まなかった。
右前脚を外すだけで一日半を使った。腹の下へ入れた支えの一本にひびが見つかり、竜の身体を持ち上げ直すため、さらに半日が必要になった。
頭部を載せる台も、一度組んだだけでは重さに耐えなかった。首を試しに持ち上げたところで中央の梁が軋み、職人たちはすべての縄を緩めて補強をやり直した。
鉱脈の調査も同じだった。
表面に露出していた銀の筋は細いが、その奥には幅の広い層が続いていた。どこまで伸びているか確かめるには、崩れた岩を除き、人が入れるだけの穴を掘らなければならない。
銀が多いと分かるほど、調べずに帰れなくなる。
三日目の夜、経路班長が二つ目の刻みを黒く塗った。
刻みは、予定から一日遅れるたびに一つずつ黒くなる。往路の迂回ですでに一つ埋まっていたため、これで遠征隊は二日分の余裕を失ったことになる。
誰も異議を唱えなかった。
翌日、鉱山技師が岩壁の奥で別の銀脈を見つけた。二本は途中でつながっており、採掘を始めるなら崩落を防ぐ支柱が必要だと分かった。
調査範囲が広がり、三つ目の刻みが黒くなる。
その日の午後、ルークは鉱山技師に呼ばれた。
昨日、副隊長に突き飛ばされて助かった男だった。転んだときに打ったらしく、右の頬が少し腫れている。だが、足取りはしっかりしていた。
「足場の記録をしているんだろう。こっちも見ておいてくれ」
案内されたのは、竜の巣の最も奥にある裂け目だった。
入口は人が一人通れるほどしかない。内部には油を満たした灯りが置かれ、濡れた岩肌を黄色く照らしていた。頭上には新しい支柱が二本入り、天井から小石が落ちないか、見張り役が絶えず耳を澄ませている。
銀色の筋は、外から見たものより太くなっていた。
技師が鏨を当て、槌を三度振る。欠けた岩を拾って水で洗うと、黒い石の中から細かな光がいくつも現れた。
「銀そのものが、この形で出てくるわけじゃないんですね」
「時には大きな塊もあるが、大半は岩に混じっている。砕いて、選り分けて、炉で溶かす。街へ届く銀貨だけを見ていると、その前にどれだけ石を運ぶかは分からんだろう」
男は洗った鉱石を布へ包んだ。
「これは多い。掘れば、フロンティアの鍛冶場だけでは扱い切れん量が出るかもしれない」
「王都へ運ぶんですか」
「その前に道がいる。橋もいる。人が住む場所と、食料を置く場所もだ。鉱山を見つけたからといって、明日から銀が出てくるわけじゃない」
技師は裂け目の奥を灯りで照らした。
岩壁には、竜の爪が何度も食い込んだ跡がある。その下だけ岩が細かく砕け、灰色の粉が床へ積もっていた。
「こいつは、ここを自分で掘ったらしい。銀が欲しかったのか、銀と一緒に混じっている別の石が必要だったのかは分からん。傷へ塗っていたものも持ち帰って調べる」
分からないという言葉を、男は恥じる様子もなく口にした。
昨日、アレンも同じ言葉を使っていた。
未踏域では、知らないことを無理に答えへ変えた者から判断を誤る。
「昨日は助かった。ありがとう」
不意に、技師が言った。
「助けたのは副隊長だ」
「分かっている。副隊長には直接言った。あんたがその後を止めてくれなければ、助けてもらった命をすぐ失っていた」
ルークが答えを探しているうちに、男は先へ歩き始めた。
「礼は働いて返す。ここが本当に鉱山になれば、あんたたちが次に進む道も作れる」
裂け目の外では、経路班の者が谷の傾きを測っていた。
この場所へ来るまで、ルークたちは過去の遠征隊が残した杭と地図を使った。今度は自分たちの記録が、鉱夫や荷車をここまで連れてくることになる。
魔物を倒して終わるわけではない。
人が通り、荷を運び、帰れるようになって初めて、地図の線は道になる。
ルークは裂け目の幅と支柱の位置を書き留め、谷の入口までの高低差をもう一度測り直した。
五日目には、頭部を載せる台の前輪が重さに負けて傾いた。予備の車輪へ替えるだけでは足りず、二台の荷車から車軸を外して組み直すことになった。
四つ目の刻みも埋まった。
そのたびに、食料係は積み荷の前で木札を並べ直した。
往路用として封を切る箱。帰路まで残す箱。狩りができなかった場合にも手をつけない非常食。人の数は減っていないが、滞在日数だけが増えていく。
解体主任の側でも、持ち帰る素材に順番がつけられた。
頭部は必ず運ぶ。角、牙、爪、傷の少ない鱗も残す。腱と骨は積めるだけ積むが、傷んだ鱗と肉は諦める。竜の脂も樽へ移していたものの、荷車の重さが限界を超えれば置いていく。
最初は、すべてを持ち帰るために八十七人が来た。
今は、何を残せば遠征を成功と呼べるのかを決め始めている。
七日目の夕方、長い台へようやく竜の頭が載った。
八つの車輪が地面へ深く沈み、つながれた六頭の馬が落ち着かない様子で鼻を鳴らす。角は厚い布と縄で固定され、首の切断面は塩と樹脂で何重にも覆われていた。
別の荷車には、鱗が一枚ずつ藁を挟んで積まれている。牙と爪は木枠へ収まり、束ねられた腱は油を塗った布で包まれていた。
鉱山技師は、銀鉱石の入った箱と、新しく描いた坑道予定図を隊長へ渡した。
解体主任が最後の荷を確認し、経路班長が帰路に使う荷車の数を書き留める。
「明朝、出発する」
隊長の言葉が、谷に残る全員へ伝えられた。
「ここからが帰路だ。積み荷が増えた分、往路より動きは鈍る。谷を出るまで気を緩めるな」
短い返事が各班から重なった。職人たちは固定した縄をもう一度引き、御者は馬具を端から確かめていく。出発の支度が整っても、作業を終えた空気にはならなかった。
行きよりも重い荷を積み、同じ距離を帰らなければならない。竜の臭いは樹脂や布では隠しきれず、谷の外ではすでに肉を狙う鳥が旋回している。
経路班長が、予定を記した板の前へ立った。
墨を含ませた細い布を指へ巻き、五つ目の刻みをゆっくりとなぞる。木の色が消え、黒い線が一つ増えた。
残っているのは、二つ。
ルークは、黒く並んだ五つの刻みを手帳へ写した。
竜を倒したのは、一度の剣だった。
その竜を持ち帰るためには、数え切れない人の手と、七日分しかない余裕を少しずつ使わなければならなかった。
明日からは、帰り道になる。
だが、まだ黒く塗られていない刻みは、あと二つしかなかった。




