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11/26

11 襲撃



 フロンティアを発って、二十九日目の朝。


 遠征隊は、焼けた森の前で足を止めた。


 葉の落ちる季節ではない。それでも前方の木々には緑がなく、黒ずんだ幹と枝だけが、灰色の空へ伸びている。地面では新しい草が生え始めていたが、その隙間には焼け固まった土が残っていた。


 竜が通った跡だった。


 死骸のある谷までは、あと半日ほどだという。


 八十七人と二十三台の荷車は、ここまで一人も欠けていない。最初の迂回以来、経路班の木札に入った黒い刻みも一つのままだった。


 ただし、何事もなかったわけではない。


 増水した川を前に出発を遅らせた日もあれば、大型の魔物を避けるため、夜の火を使わなかった日もある。小さな問題が起きるたび、歩く時間や休憩の取り方を変え、一日分の遅れへ育つ前に埋めてきた。


 ルークも、長い遠征で目を使い続ける方法を少しずつ覚えていた。


 出発した頃は、すべての車輪、すべての馬、道の端にある痕跡まで、同じように詳しく見ようとしていた。三日も続ければ頭が重くなり、夜には手帳の文字まで滲んだ。


 今は、まず隊列全体を広く見る。


 車輪の音が変わった。馬の歩幅が乱れた。鳥の声が一方向だけ消えた。そうした変化を見つけてから、必要な場所へ意識を絞る。


 腰の小袋に入れた蜂蜜飴も、最初の一つを食べた日から減っていなかった。


 それでも、使い分けが身についたとは言えない。


 広く見ようとすれば、関係のないものまで頭へ入る。一つを詳しく見始めれば、今度は周囲への意識が薄くなる。


 どこまで見て、何を捨てるのか。


 その加減は、まだ思うようにならなかった。


「ここからは、昨日までと違うぞ」


 七番車の御者台で、オルドが手綱を握り直した。


「魔物か」


「それもある。馬がこの臭いを嫌がる」


 風が森の奥から吹くたび、獣の脂と、焦げた革を混ぜたような臭いが流れてくる。


 竜が死んでから、二か月近く経っている。


 先に帰還した遠征隊が傷口へ防腐用の樹脂を塗り、周辺で虫除けを焚いている。それでも、谷へ近づけば死骸の臭いまでは隠せない。


「腐肉を食う魔物が寄っているかもしれない」


 ルークが言うと、オルドは白髭を撫でた。


「だから護衛が増えたんだろうな」


 隊列の先頭と最後尾には、いつもより多くの冒険者が集められていた。荷車の間にも二人ずつ護衛が入り、戦えない職人と鉱山技師は、合図があれば車体の陰へ伏せるよう言い渡されている。


 今回、護衛として参加を認められたのはC級以上だけだった。それでも危険を消せるわけではない。討伐から二か月近く経った今、竜の死骸の周辺に何が集まっているか、誰にも分からなかった。


 遠征隊全体を率いるのは、ドラゴンを討ったS級隊長だった。


 隊長と普段から組んでいるA級は三人。その一人が副隊長として隊列の中央に立ち、残る二人が前衛と後衛の小隊を率いている。アレンもA級の小隊長として、いつも組んでいる三人のB級冒険者を率いていた。


 四人のA級と、その上に立つS級。


 これほどの戦力を揃えた理由を、ルークは間もなく知ることになった。


 準備を終えると、先頭の斥候が焼けた森へ入った。


 ルークは七番車の左側を歩いた。


 黒い地面の一部は、硝子のように固まっていた。竜の炎で砂と石の表面が溶けたものだと、アレンから聞いている。薄い場所を踏むと澄んだ音がして、靴底の下へ細い亀裂が走った。


 森の中には、竜が残した傷がいくつもあった。


 幹の中央から折れた大木。先端が丸く溶けた岩。地面を深く削り、何十歩も続く三本の溝。


 爪の跡は、ルークが横になっても収まらない幅があった。


 これほど大きなものが走り、翼を広げ、人へ向けて炎を吐いた。


 自分の長剣を抜いたところで、どこまで刃が届くだろう。脚の表面へ傷をつけることさえ難しいはずだ。


 昼を過ぎる頃には、木々の隙間から灰色の岩山が見え始めた。


 谷は、その向こうにある。


 御者も職人も、何度も岩山を見上げていた。ひと月近く歩いた目的地を前にして、隊列の空気がわずかに緩んでいる。


 この日の朝から、ラウルを含む斥候三人は、隊列右手の斜面へ入っていた。竜の臭いに寄ってきた魔物がいないかを調べ、谷へ入る前に合流する予定だった。


 最初の異変に気づいたのは、先頭の斥候だった。


 鳥の声を真似た笛が、鋭く鳴り続けた。


「前方、岩殻蜥蜴! 十四頭!」


 隊列の前で、焼けた岩が次々と動いた。


 灰褐色の巨体が、黒い土を押し上げて立ち上がる。馬ほどの胴体を岩に似た鱗で覆い、硬い額と太い顎を持つC級の魔物だった。


 一頭なら、上位C級が単独で対処できる。


 十四頭が同時に突っ込んでくれば、話は別だった。


 隊列が止まる。ほとんど同時に、最後尾から別の笛が返った。


「後方にも十一頭! 回り込まれています!」


 前に十四頭。後ろに十一頭。


 竜の死骸へ集まった群れが、細長い隊列を獲物と見て挟み込んできた。


「前衛小隊は正面を止めろ! 後衛小隊長は最後尾へ! アレン、三人を連れて後ろを支えろ!」


 S級隊長の命令が飛ぶ。


 前方では、直属のA級小隊長が盾役と槍使いをまとめた。その横をS級隊長が追い越し、群れの先頭へ向かう。


 後方へは、もう一人のA級小隊長が走った。アレンが続き、普段から組んでいる三人のB級も、互いに声をかけることなく左右へ散っていく。


「副隊長、中央を頼む!」


「任せろ!」


 隊長と同じパーティーのA級副隊長が、中央へ残った。


「職人と技師は荷車の内側へ! 護衛は持ち場を離れるな! 前後から抜けた個体だけを止めろ!」


 誰も命令に迷わなかった。


 職人たちが車体の陰へ入り、御者が馬の目へ布を巻く。護衛は荷車の外側へ立ち、前後へ走ろうとはしない。


 戦線は前後に分かれた。それでも指揮はつながっていた。


 前方で、何かが砕ける音がした。


 S級隊長の長剣が一度閃き、群れの先頭にいた岩殻蜥蜴が額から地面へ沈む。その左右ではA級小隊長が味方を動かし、後続を二つへ割っていた。


 後方からはアレンの声が聞こえる。三人のB級は、長く組んできた動きで岩殻蜥蜴を一頭ずつ群れから切り離している。


 ルークは七番車の左側で長剣を抜き、前後だけでなく、左右の森にも目を向けた。


 左手の奥で、黒い枝が揺れた。


 一か所ではない。


 高い枝と低い枝が、離れた場所でほとんど同時に沈む。何かが木々の間を広がりながら、隊列へ近づいていた。


「副隊長、左からも来る!」


 副隊長はすぐに振り返った。


「中央班、左へ備えろ! 盾は車体を背に並べ! 弓手は上へ!」


 命令が終わるより早く、灰色の獣が枝から降ってきた。


 人間より頭一つ大きい身体。長い両腕。その先に伸びる、鎌のような爪。


 鉤爪猿だった。


 一頭、二頭ではない。


 地面へ降りた五頭が左右へ散り、さらに三頭が枝の上を走る。最後に現れた一頭はほかより二回り大きく、右目から口元まで古い傷が走っていた。


 九頭。


 傷のある大猿だけでも、B級指定を受ける強さがある。


 九頭の群れなら、A級を中心に討伐隊を組む規模だった。


「盾三人、前へ! 槍は隙間を埋めろ! 弓は木の上の三頭を近づけるな!」


 副隊長は最初に飛び込んだ一頭の爪を剣で外し、その首を返す刃で斬った。


 残り八頭。


 その一撃を見ても、群れは止まらなかった。


 地上の四頭が盾役へ殺到し、木上の三頭が別々の荷車へ回り込む。右目に傷のある大猿だけが少し遅れて動き、副隊長の死角へ入った。


 車輪の陰へ入ろうとしていた鉱山技師が、荷物につまずいた。


 枝の上から一頭が、その背中へ飛ぶ。


 副隊長は技師を突き飛ばし、鉤爪を剣で受けた。


 そこへ、傷のある大猿が横から突っ込んだ。


 副隊長は自分へ迫る腕を見ていた。それでも背後には、まだ立ち上がれていない技師がいる。避ければ爪が届く。


 受け止めるしかなかった。


 剣の腹と前腕で鉤爪を止めた瞬間、刃が大猿の左肘を浅く裂いた。だが、もう片方の腕が副隊長の肩を打った。


 身体が横へ飛び、荷車の車輪へぶつかる。後頭部を木枠へ打ちつけ、副隊長は剣を落とした。


「副隊長!」


 近くの護衛が駆け寄ろうとする。


「盾を空けるな!」


 別のC級が叫んだ。


「先に副隊長を運べ!」


 二つの声が重なった。


 前衛と後衛の小隊長は、二十五頭の岩殻蜥蜴を止めている。アレンも最後尾だ。ラウルたちは右斜面から戻っていない。


 中央から、命令を出す者だけが消えた。


 傷のある大猿が吠えた。


 八頭が一斉に動く。


「小隊長が戻るまで、中央は自分がまとめる!」


 ルークは声を張った。


「盾三人、七番車を背に半円! 槍は盾の間! 弓手二人は荷台へ! 職人二人で副隊長を内側へ運んでくれ!」


 階級を確かめている時間はなかった。


 最初に応じた盾使いが七番車の前へ立ち、残る二人を呼ぶ。槍使いが盾の隙間へ入り、弓手が荷台へ上がった。


 全員、上位C級以上の冒険者だった。何をすべきか決まりさえすれば、動きは速い。


 地上の四頭が半円の左右へ広がる。木の上の三頭は荷車を挟んで別方向へ移り、傷のある大猿が正面から盾を叩いた。


 木板が軋み、盾使いの足が土を削る。


「正面は受けるだけでいい! 右の槍、右端を回る一頭を止めろ!」


 盾使いが大猿の一撃を受けた瞬間、その陰を使って別の一頭が右端へ走った。槍使いは正面へ穂先を向けたまま、柄を滑らせるように突き出す。穂先が回り込んだ猿の腿を裂き、跳躍を止めた。


 頭上で、焼けた枝が小さく鳴った。

 枝に積もっていた灰が、荷台にいる弓手の肩へ落ちる。


 ルークが見上げた。真上に一頭いる。


「弓手、伏せろ! 中央の盾は上だ!」


 木の上にいた一頭が、荷台へ飛び降りる。


 弓手が伏せ、中央の盾使いが一歩下がりながら盾を跳ね上げる。鉤爪が木板を削り、猿の身体が横へ弾かれた。


「左の槍、盾に弾かれた一頭の肩を!」


 穂先が肩へ入り、片腕の動きを止める。


 そのまま倒し切る余裕はなかった。


 残る猿が、盾の左右と荷車の上から同時に入ってくる。


「盾は追うな! 車輪の前から出るな!」


 左の盾使いが二頭の爪を続けて受ける。右端では、槍を避けた一頭が盾使いと七番の荷車との間へ身体をねじ込もうとしていた。正面の大猿がもう一度腕を振り上げ、木の上に残った二頭は弓手が顔を上げる瞬間を待っている。


 誰も命令を聞き返さなかった。


 それでも、八頭すべてを止め続けることはできない。


 一頭へ意識を絞れば、別の一頭を見失う。


 全体を広く見れば、爪が動く直前の小さな変化を拾えない。


 集中の深さを切り替えなければならない。


 分かっている。それでも今は、切り替えが追いつかなかった。


 盾が崩れれば職人へ爪が届く。弓手を失えば木の上へ対抗できない。左右の一頭でも抜ければ、馬が暴れて隊列そのものが壊れる。


 何を捨てればいい。


 選べなかった。


 なら、全部を見るしかない。


 ルークは息を吸い、止めた。


 瞬きが消える。


 視界から色が薄れ、動くものの輪郭だけが鋭くなった。


 盾へかかった指。槍を受けた猿の沈む左膝。大猿が次に踏む地面。弓手が弦を引く速度。木の上から落ちる灰。怯えた馬の鼻から垂れる泡。


 すべてが、ひどく遅く見えた。


 身体が速くなったわけではない。目と頭だけが、周囲を置き去りにしていく。


 額の奥が熱を持つ。それでも止めなかった。


 八頭は、それぞれ勝手に動いているように見えた。


 違う。


 大猿が攻める方向を決めているのではない。


 ほかの七頭が動く直前、必ず木の上にいる小柄な一頭へ耳を向けていた。人の耳には似た鳴き声でも、短い声と長い声で、攻める場所を変えている。


 小柄な猿の胸が膨らむ。


 口を開くと、顎の下から喉へ続く毛が左右へ分かれた。その中央だけ、皮膚が露出する。


 急所が見えた。


「弓手、左上の小さい一頭を狙え! まだ射るな!」


 二人の弓手が弓を向ける。


「口を開いた瞬間だ!」


 傷のある大猿が盾へ腕を振り下ろす。


「中央だけ半歩下がれ! 左右は動くな!」


 中央の盾使いが下がった。大猿の爪が空を切り、勢い余った上体が盾の間へ入る。


「槍、左肘だ! 副隊長の斬った傷へ重ねろ!」


 一本目が副隊長の剣傷を深くえぐり、二本目が肘の内側へ食い込んだ。大猿の左腕から力が抜け、だらりと垂れ下がる。その巨体が初めて後ろへ下がった。


 小柄な猿が顔を上げた。


 胸が膨らみ、口が開く。


「今だ!」


 二本の矢が放たれた。


 一本は頬をかすめ、もう一本が開いた口の下から喉へ突き立つ。


 鳴き声が途切れた。


 群れの動きが止まる。


 ほんの一瞬だった。


「盾、前へ!」


 三人の盾使いが同時に踏み込んだ。片腕を傷つけた一頭を押し倒し、腿を刺された一頭を荷車から引き離す。


 右にいた一頭が包囲を避け、ルークへ向かって跳んだ。


 長い腕が伸び、湾曲した爪が顔を狙う。


 右肩が上がる。爪は斜めに下りる。その下をくぐれば胸が空く。


 身体へ動けと命じた。


 思考より身体は遅い。それでも、相手が跳ぶ前から動き始めていた分だけ間に合った。


 爪が髪の先を切る。


 ルークは懐へ入り、剣を胸へ突き立てた。傷口を押し広げるように刃を捻り、そのまま横へ抜く。


 鉤爪猿は二歩進んだところで崩れた。


 槍使いたちも、盾の前へ入り込んだ一頭を仕留める。


 残りは五頭。


 合図を失った群れが、ばらばらに森へ退こうとした。


「追うな! 陣形を崩すな!」


 そのとき、右手の斜面から三人の斥候が駆け戻ってきた。


 先頭は、灰色の外套を着たラウルだった。


 ラウルは倒れた副隊長と、荷車を背にした半円の陣形を一目で確かめる。


「状況は」


「残り五頭! ラウル、右へ逃げる二頭を戻せ! ほかの二人は盾の左右へ!」


「分かった」


 ラウルは指揮を問い直さなかった。


 逃げる二頭の前へ斜めに入り、最初の一頭の爪を剣で弾く。倒しに行かず、進路だけを変えて盾の正面へ押し戻した。合流した斥候二人も、ルークの指示どおり陣形の穴を埋める。


 傷のある大猿が、片腕を引きずりながらラウルへ向きを変えた。


「大猿を盾の前へ寄せろ! 動く左脚を狙え!」


 ラウルが一撃を受け流し、半歩ずつ下がる。大猿が追う。踏み込んだ左脚へ槍が入り、体勢を崩した巨体へ三枚の盾がぶつかった。


 地面へ倒れたところへ、剣と槍が集中する。


 残る四頭も、陣形を崩さず一頭ずつ囲んだ。


 最後の一頭が動かなくなるまで、長くはかからなかった。


 副隊長が倒れたあとの負傷者はいない。御者も職人も無事で、荷車と馬にも被害はなかった。


 前後の戦闘も終わりつつあった。


 前方の十四頭は、S級隊長とA級小隊長が群れを割り、護衛たちが仕留めていた。後方の十一頭も、後衛小隊長とアレン、それに三人のB級が一頭も中央へ通していない。


 三十四頭の魔物に三方向から襲われ、それでも死者は出なかった。


 ルークは全員を確かめたあと、止めていた息を吐いた。


 視界が白く明滅した。額の奥で脈が打ち、遅れて強い痛みが押し寄せる。


 膝へ力が入らない。剣を地面へつき、どうにか立ったまま耐えた。


「副隊長は」


 前方から戻ったS級隊長が、最初に尋ねた。


「意識は戻りました。左肩と頭を打っていますが、命に別状はないと治療師が」


 職人の一人が答えた。


 七番車の陰では、治療師が副隊長の肩を板で固定し、頭へ包帯を巻いている。傷を塞ぐ光も、痛みを消す魔法もない。副隊長は顔をしかめながら、それでも自分で身体を起こしていた。


 隊長は九頭の鉤爪猿と、爪痕の残った盾を見た。


「こいつが倒れたあとの指揮は」


 盾使いの一人がルークを示す。


「ルークです。小隊長が戻るまで中央をまとめると言って、それからは全員、こいつの指示で動きました」


 隊長の視線がラウルへ向く。


「自分が戻ったときには、すでに陣形ができていた」


 ラウルは淡々と答えた。


「残り五頭への指示もルークだ。自分は従っただけだ」


「そうか」


 隊長はルークへ向き直った。


「お前を連れてきてよかった」


 褒め言葉だと分かるまで、少し時間がかかった。


「副隊長が最初の一頭を倒し、陣形も決めてくれたからです。それに、一人で倒したわけではありません」


「一人で倒す必要はない」


 隊長は、荷車を背に並ぶ盾と槍を見た。


「副隊長が倒れた直後、前後の指揮が戻るのを待っていれば中央は崩れていた。だが、お前は指揮を奪おうとはしなかった。小隊長が戻るまでだと役目を区切り、必要な命令だけを出した」


 ルークは黙って聞いた。


「敵が何をするか見てから応じ続けたんじゃない。敵に好きなことをさせず、こちらが戦える形へ押し込んだ」


 訓練場で、グレンから言われた言葉を思い出した。


 相手に合わせるのではない。戦いの流れを自分で決める。


「今の判断には、B級の適性がある」


 隊長は淡々と言った。


 ルークは自分の手を見た。指先が震え、まだ剣の柄から離れない。


「でも、もう一度同じ敵が来たら、今はできません」


「分かっているならいい。今の一度でB級になったわけではない。一度しのいだあと、次の襲撃で動けなくなるようでは、長い遠征は任せられない」


「はい」


「必要な場所を、必要な深さで見ろ。力を使い切らず、それでも守り切れるようになれ。できるようになれば、お前の目は剣より多くの人間を救う」


 隊長は副隊長の様子を確かめるため、七番車の内側へ向かった。


 ルークは腰の小袋から蜂蜜飴を取り出した。包みを開く指が震え、端が途中で破れる。


 飴を口へ入れても頭痛はすぐには消えなかった。それでも、白く明滅していた視界が少しずつ元へ戻っていく。


「よく、あの場で全員を動かせたな」


 後方から戻ったアレンが言った。長剣を鞘へ収め、倒れた鉤爪猿と半円の陣形を見比べている。


「副隊長が倒れた。誰かが言わなければ間に合わなかった」


「だからといって、誰の言葉でも人が動くわけじゃない」


 アレンは、治療を受ける副隊長へ一度目を向けた。


「お前が迷わず言い切ったから、みんなも動けたんだ」


「迷わなかったわけじゃない。見落とすのが怖くて、全部拾おうとした」


「それで今、立っているのもやっとか」


「……ああ」


「なら、隊長の言うとおりだな。次は余力を残せ」


「できれば、とっくにやってる」


 アレンは笑い、ルークへ手を差し出した。


「肩を貸す」


「歩ける」


「そうか。倒れたら運ぶ」


     ◇


 魔物の死体を道の外へ移し、周辺にほかの群れがいないことを確かめてから、遠征隊は再び動き出した。


 ルークは経路班長から七番車へ乗るよう命じられた。


 歩けると訴えたが、「もう一度襲われたとき、目を開けられない方が困る」と言われれば反論できなかった。


 オルドの隣へ座り、揺れる御者台から道を見る。


 森を抜けると、灰色の岩山が両側から迫ってきた。


 道は谷の間へ入り、少しずつ狭くなる。


 正面から風が吹くたび、古い血と獣の脂が混じった臭いが強くなった。馬たちが落ち着きをなくし、御者が手綱を短く持つ。


 谷が右へ曲がった。


 先頭の荷車が止まる。


 今度は敵ではなかった。


 前を歩いていた者たちが、誰からともなく足を止めていた。


 オルドも手綱を引く。


「着いたぞ」


 ルークは荷車から降りた。


 谷の奥に、黒い壁があった。


 最初は岩だと思った。


 表面に並ぶ一枚一枚が鱗だと気づくまで、少し時間がかかった。


 ドラゴンの胴体が、谷を横切るように倒れている。


 腹を下にし、片方の翼は山肌へ乗り上げ、もう片方は途中から裂けて地面へ広がっていた。翼の端だけでも、フロンティアの大通りを端から端まで塞げるほど長い。


 四本の脚は不自然な方向へ折れ、地面へ食い込んだ爪の周りには、今も抉れた跡が残っている。


 死んでから二か月近く経っていた。


 それでも肉は崩れきっていない。傷口へ塗られた黒い樹脂と、周囲に焚かれた虫除けの跡が、腐敗と食害を遅らせていた。鱗の間から染み出した脂が固まり、鈍い光を返している。


「話で聞くのとは違うだろ」


 アレンが隣に立った。


「ああ」


 それ以上の言葉が出なかった。ルークはしばらく谷を塞ぐ黒い胴体を目で追い、それから竜の頭を探した。


 胴体から離れた谷の奥に、岩へ寄せるようにして置かれている。首だけで荷車を何台も並べたほどの長さがあった。閉じた瞼の上にも硬い鱗が並び、口の隙間から、ルークの腕より太い牙がのぞいている。


 首の切断面は、黒い布と樹脂で覆われていた。


 その端から見える骨が、ほとんど同じ高さで断たれている。


「首を落としたのは、隊長なんだな」


「ああ。七日目の夜明けだ」


 アレンは、少し離れた場所で指示を出すS級隊長を見た。


「俺たちが翼と右脚を止めて、隊長が一度だけ振った」


「一度で、あの骨まで斬ったのか」


「見ていた。俺にも、どうやったのかは分からない」


 A級のアレンが、分からないと言った。


 ルークには剣筋を想像することさえできなかった。


 硬い鱗を割り、その下の肉を断ち、胴ほどもある背骨を一振りで斬る。速さだけでも、力だけでも足りない。


 S級隊長は、竜の前に立っても特別大きくは見えなかった。


 傷の増えた革鎧。何度も布を巻き直した長剣。都市で見たときと変わらない姿で、野営地と解体場所を分けるよう指示している。


 あの男が、この谷を埋めるものを倒した。


 遠くに感じていたS級という階級が、かえって理解できなくなった。


「アレン!」


 鉱山技師の一人が、竜の胴体の向こうから呼んだ。


「見つけたぞ。持ち帰った標本と同じだ!」


 アレンとルークは、竜の翼を回り込んだ。


 谷の奥では、岩壁が大きく崩れていた。


 竜が身体をぶつけたのか、表面を覆っていた暗い岩が剥がれ、その内側がむき出しになっている。


 灰色の岩の間に、白銀の細い筋が何本も走っていた。


 鉱山技師が槌と鏨で一部を欠き、掌に載せる。割れたばかりの面に、金属らしい光が散っている。


 別の技師が標本袋から、遠征隊が先に持ち帰った鉱石を出した。色、重さ、割れ方を見比べ、何度も頷く。


「銀鉱だ」


 最初の技師が言った。


「しかも、この露出している部分はかなり濃い。奥行きと広がりは掘ってみなければ分からんが、採掘する価値は十分にある」


 周囲にいた職人たちから声が上がった。


 銀鉱山ができれば、採掘する者が来る。鉱石を運ぶ道が造られ、砦が増え、道沿いには新しい村ができる。鍛冶師も商人も集まる。


 地図の外だった場所が、人の暮らす土地へ変わっていく。


 その始まりが、目の前の崩れた岩壁にあった。


 ルークは白銀の筋から、谷を塞ぐ竜へ視線を戻した。


 竜がここまで逃げ込み、岩壁を崩したから鉱脈が見つかった。


 その竜を追い、倒した者たちがいたから、人がここまで来られた。


 そして今度は、死骸を解体し、鉱脈を調べ、道をつなぐために八十七人が来た。


 S級の一撃だけで、この遠征が成り立ったわけではない。


 だが、あの一撃がなければ、何一つ始まらなかった。


 ルークの額には、まだ鈍い痛みが残っている。


 自分は今日、八頭の鉤爪猿から中央を守るため、戦いが終わるとまともに歩けなくなるほど頭を使った。


 隊長は十四頭の岩殻蜥蜴が押し寄せる前方を崩しながら、隊列全体の状況まで見ていた。


 その差は、遠征へ出る前に思っていたよりも大きかった。


 悔しさがないわけではない。


 それ以上に、どうすればそこまで届くのか知りたかった。


「明日から解体を始める!」


 S級隊長の声が谷へ響く。


「今日は周囲の安全を確かめ、野営地を作る。鉱山班は日没までに露出部の範囲を記録しろ。竜へ勝手に近づくな。死んでいても、崩れるだけで人は潰れる」


 浮き立っていた声が収まり、それぞれの班が動き始めた。


 ルークも経路班へ戻ろうとしたが、アレンに外套の襟をつかまれた。


「お前は七番車へ戻れ」


「野営地の確認がある」


「隊長にも、次に動けるだけの力を残せと言われただろ」


「今日はもう戦わない」


「それを決めるのは、こちらじゃない」


 アレンは呆れたように笑った。


 ルークは言い返そうとして、やめた。


 今日のところは、休むことも遠征の仕事だった。


 ひと月歩いた先には、谷を塞ぐ竜と、岩壁を走る銀があった。


 そのどちらも、フロンティアにいたままでは大きさを理解できなかっただろう。


 ルークはもう一度だけ、切り落とされた竜の首を見た。


 一振りの剣が、誰にも倒せなかった魔物を終わらせる。


 その先に道ができ、まだ名もない土地の未来まで変わっていく。


 S級とは、そういう力を持つ者なのかもしれない。


 夕暮れの光が、崩れた岩壁の銀を細く照らしていた。



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