10 出立
夜明け前のフロンティアは、いつもの朝より明るかった。
北西門へ続く大通りの両側で、倉庫や商店の軒先に灯りがともっている。出発する遠征隊へ最後の荷を届ける職人、馬を引く御者、見送りに来た家族が行き交い、空が白み始める前から石畳には車輪の音が響いていた。
ルークが集積場へ着いたとき、二十三台の荷車はすでに出発順に並んでいた。
先頭には経路班と護衛。その後ろに食料と野営道具を積んだ箱車が続き、解体職人と鉱山技師を乗せる車が中央へ置かれている。最後尾には護衛と、荷車を引く馬が負傷したときのための替え馬が数頭続いた。列の端から端までは、北西門前の広場をほとんど使い切る長さになっていた。
昨日まで何度も見た光景だった。それでも人と荷獣が定位置へ収まり、すべての車が同じ方向を向いていると、これから本当に動き出すのだと分かる。
「ルーク。こちらへ」
出発名簿を持ったセラが、門前を行き来するギルド職員の中から呼んだ。
夜明け前の冷え込みを避けるため、ギルドの制服の上に紺色の外套を羽織っている。ほかの職員たちも隊列に沿って歩き、遠征へ出る者の名前とプレートを一人ずつ確認していた。
セラは名簿からルークの名を見つけ、プレートの文字と照らし合わせた。
「上位C級枠、経路班。確認しました」
プレートを返すと、名簿の名前へ印をつける。
後ろには確認を待つ者が並んでいる。ルークが一歩退くと、セラはもう次の名前を呼びかけた。
その途中で、セラはもう一度ルークを見た。
「帰還報告も、私が受けます」
「分かった」
「ですから――必ず帰ってきてくださいね」
最後の言葉には、受付としての確認よりも少しだけ強いものが混じっていた。
「ああ。帰ってくる」
それだけ言い、ルークは列へ戻った。
七番目の荷車の近くでは、白髭の御者が馬の鼻面を撫でていた。今回、ルークが前方確認を担当する荷車の御者で、北西砦より先へ出た経験もあると事前の名簿に書かれていた。使い込んだ革帽子をかぶり、人間へ向けるよりも穏やかな声で馬へ何か話しかけている。
「経路班のルークです。前方の確認を担当します」
声をかけると、御者は馬から手を離した。
「オルドだ。この子と、七番車を預かってる」
オルドはそう名乗ってから、ルークの顔と腰のプレートを交互に見た。
「経路班に、見習い枠なんてあったかね」
「上位C級枠です」
「ああ、これは失礼した」
謝りながらも、オルドはもう一度ルークの顔を見た。疑っているというより、名簿と目の前の姿を結びつけ直しているようだった。
「その若さで上位C級か。ずいぶん早いな」
「早い方だとは言われます」
「百日を超える遠征は?」
「初めてです」
オルドは納得したように白髭を撫でた。
「やはりな」
「何を見て分かった」
「荷のまとめ方は丁寧だが、何でも自分で持とうとしてる。長い旅じゃ、使う物まで班ごとに分けるんだ。水袋も二つ持ってるだろう」
ルークは腰の左右へ提げた水袋を見た。
「一つは予備だ」
「一つ空になったら、近くの補給車で入れてもらえばいい。二つ分の水を毎日運ぶ必要はないさ。ただし補給線を越えたら、また二つに戻す。そこを間違えなければいい」
オルドは七番車の側面を軽く叩いた。飲み水の樽が積まれている場所らしい。
「街の近くと、その先じゃ、正しい荷物の持ち方も変わる。C級まで上がる目があっても、長い遠征のやり方はこれから覚えるんだな」
「覚えておく」
「素直なのは助かるよ。若い上位C級なら、自分のやり方を変えたがらないかと思っていた」
「知らないことは、覚えるしかない」
「それが分かっているなら十分だ」
ルークは予備の水袋を七番車の指定された箱へ移した。
少年扱いされたことに腹は立たなかった。自分が周囲より若いことは知っているし、百日規模の遠征を経験していないことも事実だった。ただ、顔を見ただけで見習いだと思われたことは、少しだけ引っかかった。
荷紐を締め直していると、広場の端にユアンを見つけた。
日雇いの腕章はもう外している。積み込みを終えたほかの作業員と一緒に立ち、こちらを見ていた。目が合うと、大きく片手を上げる。
ルークも片手を上げて返した。
ユアンは何かを叫んだが、御者たちの声と荷獣の鳴き声に紛れ、言葉までは届かなかった。
やがて、北西門の上で鐘が一度鳴った。
分厚い門扉が、鎖の巻き上がる音とともに内側へ開いていく。先頭の斥候が歩き始め、続いて騎馬の護衛が動いた。
二十三台の荷車が同時に進めるわけではない。先頭が門を抜けたあと、車間を空けながら一台ずつ車輪を回し始める。七番車が動き出した頃には、最初の荷車は城壁の外へ出ていた。
ルークは荷車の左前を歩いた。
門をくぐる直前、一度だけ振り返る。
高い城壁の内側に、倉庫の屋根と見張り塔が重なっている。その間から昇った朝日が、七芒星を染め抜いた旗の端を照らしていた。
セラはまだ門前で、出発者の確認を続けている。ユアンも人の列から動いていない。
次の瞬間には、石造りの門柱が二人の姿を隠した。
◇
フロンティアを出て三日間は、道の両側から人の暮らしが消えなかった。
麦畑の向こうに農村があり、森を抜ければ伐採した丸太を積む作業場がある。街道は二台の荷車がすれ違えるほど広く、雨水を逃がす溝まで掘られていた。
それでも、八十七人と二十三台の荷車が進むとなれば、小さな問題はいくつも起きた。
二日目の昼には、後方の荷車が石を踏んで車輪の留め具を緩ませた。三日目には、慣れない荷獣同士が近づきすぎて足を止め、後ろの三台まで詰まった。
どちらも出発前なら取るに足りない不具合だった。
だが一台が止まれば、その後ろも止まる。先頭が異変に気づかず進めば、長い隊列は前後に分かれる。
ルークは朝と昼の休憩ごとに、担当する七番車の車輪と荷紐を確認した。空荷のときより車軸の音は低いが、同じ重さで回っている間は音の間隔も変わらない。
三日目の午後、左の車輪が轍へ沈むたび、荷台の後ろで水樽がわずかに鳴った。
縄は緩んでいない。
音が出るのは、道の左側を通ったときだけだった。
「オルド。少し右へ寄せられるか」
「前の車輪に合わせると、左を通るしかないが」
「前の六台が通ったあとで、轍の底が崩れている。七番車から深くなった」
オルドが手綱を引き、馬を半歩だけ右へ向けた。
右側の土はまだ硬い。車輪が浅い轍を越えると、水樽の音が止んだ。
ルークは後ろへ手を上げ、八番車の御者にも右へ寄るよう伝えた。その合図がさらに後方へ送られていく。
夕方、野営地で車輪を調べると、左側だけ泥が車軸の近くまで付いていた。もう少し深い場所へ沈んでいれば、抜け出すために人手が必要になっていたはずだ。
「なるほどな」
隣で見ていたオルドが、車輪の泥を木片で落とした。
「若いのに上位C級というのは、間違いじゃなさそうだ」
「まだ三日しか進んでいない」
「百日が初めてだと見抜いた仕返しかね」
「事実だと言っただろう」
「褒められるのに慣れてないだけか」
ルークは答えず、車軸の泥を拭う布を取った。
オルドは笑いながら、自分の持ち場へ戻っていった。
その夜、ルークは焚き火のそばで手帳を開いた。
左の轍が崩れ始めた位置、水樽が鳴った間隔、七番車を右へ寄せたあとに泥が浅くなった場所を書き込む。明日も同じ土が続くなら、先頭から六台目までが通った時点で後方へ進路を変えるよう伝えた方がいい。
書き終えたところで、額の奥に鈍い痛みを感じた。
朝から車輪、馬の歩き方、道の傾きを見続けていた。深く集中したときの痛みとは違う。見えるものを拾い続け、頭へ溜め込んだあとの重さだった。
ルークは腰の小袋から蜂蜜飴を一つ取り出した。
都市から持ってきた数には限りがある。頭が疲れるたびに食べていたら、ドラゴンのいる谷へ着く前になくなるだろう。それでも今日は、包みを開いて口へ入れた。
硬い飴を舌の上で転がす。甘さが広がるにつれて、張り詰めていた意識が少しずつほどけていった。
一日中、深く集中していたわけではない。それでも初めての長期遠征で、何か一つでも見落とせば選ばれた意味がなくなると、無意識に力が入っていたのかもしれない。
すべてを同じ深さで見続ける必要はない。普段は広く浅く周囲を捉え、異変を見つけた瞬間だけ深く集中する。その切り替えができなければ、百日も目と頭がもたない。
「まだ書いてるのか」
アレンが、湯気の立つ木杯を二つ持って立っていた。
「今日の分は終わった」
「その顔で言われても信じにくいな」
差し出された杯を受け取る。乾燥させた香草を湯に入れたもので、冷え始めた指に木杯の熱が伝わった。
「先頭が進めても、最後尾が野営地へ入るまで半刻以上かかる」
ルークは、昼に感じた疑問を口にした。
「前の車をもう少し速く動かせば、全体も進めるんじゃないか」
「先頭だけならな」
アレンは荷車の列を見た。暗がりの中では、最後尾の焚き火は小さな点にしか見えない。
「遠征隊の速さは、一番速い者ではなく、一番遅い荷車で決まる。前だけ急がせれば列が伸びて、中央へ魔物が入ったときに守れなくなる。予定より遅く見えても、隊列が切れていないなら今の速度でいい」
「遅れないために急ぐとは限らないのか」
「止まる事故を起こさない方が、最後には早く着く」
アレンは自分の杯を飲み干した。
「それと、毎晩すべてを覚え直すのはやめろ。百日も続けたら、竜を見る前に頭が動かなくなるぞ」
「必要なことだけ書いている」
「必要なことが多すぎるんだろう」
否定はできなかった。
ルークは明日の確認事項だけを残し、手帳を閉じた。
蜂蜜飴はもう半分ほどに小さくなっていた。次に食べるのは、深く集中したあとだけにする。そう決めて、残った甘さをゆっくり溶かした。
◇
遠征の一日は、鐘の音で区切られた。
まだ暗いうちに一度鳴れば起床。二度目で天幕を畳み、三度目で出発する。昼の休憩にも短く鐘が鳴り、日が傾く前には先頭から野営候補地の報告が戻ってくる。
天幕の位置、火を使う場所、荷獣をつなぐ場所まで、着いた順ではなく担当ごとに決められていた。
最初の数日は窮屈に感じたが、五日目には理由が分かってきた。
八十七人が好きな場所へ荷を下ろせば、必要な箱を探すだけで時間がかかる。夜中に魔物が近づいたとき、誰がどこにいるか分からなければ、人数を確かめることもできない。
食料も、出発時に百日分をすべて積んできたわけではなかった。
北西砦までの十日間は、途中の村と共同倉庫で補給する。砦を越えたあとは、荷車に積んだ穀物、豆、干し肉を主食にし、狩猟班が獲物を得られた日には消費を減らす。水は川や泉で補い、馬には草を食ませる。放牧できない土地に備えた飼料だけは運ぶが、すべてを都市から持ち込めば、それだけで荷車が埋まってしまう。
予定どおり進んだ場合に必要な食料とは別に、七日分の非常食が一日単位で分けられ、封をして積まれている。経路班の木札にある七つの刻みは、その余裕があと何日残っているかを、全員が同じように把握するためのものだった。
ただし、狩りの成果は最初から食料の計算へ入れない。雨が続けば獲物を追えず、魔物の縄張りでは採取のために隊列を広げることもできない。現地で得られた食料は、あくまで予定分を長くもたせるための上積みだった。
ルークの経路班は、本隊が休む前に翌朝の出発方向を確認し、夜明けには先頭の二人が先行する。
先頭の斥候が見るのは、道そのものだった。
ルークともう一人の確認役は、その後ろを歩き、車輪が通れる幅と地面の硬さ、道の外から近づく獣の痕跡を見る。伝令の二人は本隊と経路班の間を往復し、進む速度と野営場所を知らせる。
同じ方向へ進んでいても、六人が見ているものは違った。
七日目の朝、街道沿いの林で新しい蹄の跡を見つけた。
鹿に似ているが、二つに割れた蹄の外側へ小さな突起がある。フロンティア周辺では見ない形だった。
足跡は三頭分。街道を横切り、北の林へ入っている。歩幅に乱れはなく、何かに追われた様子もない。
ルークが手帳へ形を写していると、経路班長が隣へしゃがんだ。
「知っているか」
「知らない。蹄の深さから見て、普通の鹿より少し重い。群れは三頭か、それ以上。街道へ出たのは夜明け前だと思う」
「危険度は」
「分からない。逃げた跡も、人を追った跡もない」
班長は頷いた。
「それでいい。場所と向きだけ記録して先へ進む」
「追わないのか」
「今の仕事は、新種を捕まえることじゃない。帰路で数が増えていたら、そのときは警戒する」
ルークは足跡の位置を地図へ書き込んだ。
知らないものを見つけても、すべてをその場で確かめるわけではない。何が分からないのかを残し、今の目的に必要な判断だけをする。
会議室でラウルが言っていたことを思い出した。
見つけた事実と推測を分ける。
ラウルはすでに足跡の横を通り過ぎ、林の奥を見ていた。
「何かあるのか」
ルークが尋ねると、ラウルは木々から視線を戻した。
「三頭ではない」
「何頭だ」
「少なくとも七頭。小さい個体が四頭いる」
地面に残っている明確な跡は三頭分だけだった。ルークは林の縁へ近づき、折れた草と枝の高さを順に見る。
低い位置に、細い枝が擦れた跡があった。その近くでは、柔らかい苔が四か所だけ押されている。大きな個体の足跡へ重なるように進んだため、道には三頭分しか残らなかったらしい。
「子どもを、大きな個体の間に入れて歩かせているのか」
「そう見える」
「最初から気づいていたなら、なぜ言わなかった」
「君たちが確認していたからだ。三頭でも七頭でも、今は追わない」
ラウルはそれだけ答え、先へ歩いた。
判断は変わらない。それでも、見えている情報は増えた。
ルークは手帳の三頭という文字を消さず、その横に「七頭以上。幼獣四頭の可能性」と書き加えた。
夜の報告では、経路班長がその手帳を確認した。
「最初の三頭を消さないのか」
「道に残っていた明確な足跡は三頭分です。七頭以上というのは、林の痕跡とラウルの指摘を合わせた判断なので、分けて残します」
「帰路でまた同じ跡を見たとき、最初から七頭いたと決めつけないためか」
「はい。別の群れが増えた可能性もあります」
班長は手帳を返した。
「若い割に、慎重すぎるくらい慎重だな」
「悪いことですか」
「いや、その慎重さはお前の強みになる。足を止める場所さえ間違えなければな。今日のような跡を一つ調べるために隊列を止めれば、長所がそのまま危険へ変わる」
見つけたものを詳しく調べることと、八十七人を予定どおり進ませること。その両方が常に一致するわけではない。
ルークは手帳の余白へ、短く書き加えた。
――確かめるために使える時間も、記録する。
◇
九日目、最後の開拓村を通過した。
村の外れには、北西へ向かう者のための共同倉庫がある。遠征隊は穀物と干し肉を受け取り、代わりにフロンティアから運んできた鉄製の農具と薬を下ろした。
そこから先も街道は続いていたが、畑はなくなった。すれ違うのは砦を往復する兵と荷車だけになり、道端へ立つ距離標も少しずつ傷んでいく。
十日目の昼前、北西砦へ着いた。
砦は石壁に囲まれ、兵舎と倉庫、それに馬を休ませる厩舎がある。都市の城壁よりずっと小さいが、門の外には深い空堀が掘られ、木製の見張り台から二人の兵が周囲を見張っていた。
フロンティアから定期的に物資が届く、最後の場所だった。
遠征隊はここで一日を使い、馬の蹄鉄、車輪、食料、水を改めて確認した。途中で消費した分は砦の倉庫から補い、帰路に受け取る予備物資の箱には封をする。
ルークは空にした水袋を七番車から受け取り、二つとも満たした。
「ここからは二つだ」
オルドが言った。
「分かっている」
「結構。十日前より遠征者らしい顔になった」
「顔のどこが変わった」
「そうやって細かく聞き返すところは変わってないよ」
翌朝、砦の北門が開いた。
門の外にも、しばらくは道らしいものがあった。
轍が二本、草地の中を北西へ伸びている。砦から木材を取りに出る荷車と、周辺を巡回する兵が使う跡だった。
半日ほど進むと、轍は浅くなった。
やがて片方が途切れ、残った一本も川沿いの草へ紛れていく。石を積んだ距離標も、排水のための溝も、その先にはなかった。
先頭の斥候が足を止めた。
止まれという合図が、伝令から伝令へ渡り、二十三台の荷車が順番に車輪を止める。
ルークは先頭近くまで呼ばれた。
草の中に、古い杭が一本立っている。風雨で灰色になった表面へ、北西を示す矢印が刻まれていた。
三年前の遠征隊が残した標識だった。
経路班長が杭の傾きを直し、周囲の草を刈った。
「ここから先は、地図と標識を使う。道が見えると思うな。先頭が安全を確かめるまで、荷車を進ませるな」
後方の御者たちへ伝令が走る。
ルークは振り返った。
砦はもう見えない。それでも戻ろうと思えば、轍をたどって半日で着ける。
目の前には、草原と疎らな森が広がっていた。どこを見ても進めそうで、どこにも道はない。
先頭の斥候が古い地図と方角を照らし合わせ、北西へ向けて歩き出した。
荷車の車輪が草を倒し、新しい轍を作った。
◇
補給線を越えて二日目の午後、最初の予定変更が起きた。
地図では、川沿いの緩やかな斜面を進むことになっていた。三年前の往路でも、ひと月前にS級隊が帰還した際にも使われた経路だった。
しかし先行した斥候から、停止の合図が届いた。
ルークが経路班長と前へ向かうと、山側の斜面が大きく崩れていた。
土と岩が川岸まで押し出され、進路を塞いでいる。崩れた範囲は荷車十台分より長く、上には根をむき出しにした木が何本も引っかかっていた。
土砂の上を人が越えるだけなら難しくない。
だが荷車を通すには岩をどけ、傾斜を削り、車輪の幅に合わせて地面を固める必要がある。作業中に上の木が落ちれば、逃げる場所も少ない。
経路班長は崩れた斜面を見上げた。
「帰還隊が通ったあとに崩れたらしいな」
「三日以内だと思います」
ルークは土砂の端を指した。
「雨に濡れた土の上へ、乾いた石が落ちています。あの木の葉もまだ枯れきっていない」
「上は動いているか」
「小石が落ちています。今も少しずつ崩れている」
斜面へ道を作る案は、その時点で消えた。
川側を通るには、水深と川底を調べなければならない。幅の狭い場所でも、荷車を引く馬の腹近くまで水がある。
経路班長が伝令へ隊長を呼ぶよう命じた。
待っている間に、ルークは地図を開いた。ここから南へ下れば川幅は広がるが、流れは緩くなる。反対に北側は岩壁が続き、荷車の通れる場所は描かれていない。
「南に浅瀬があれば、そちらを探すしかない」
「ある」
声は、ルークの少し後ろから聞こえた。
ラウルだった。
灰色の外套の裾に草の種をつけている。先ほどまで隊列の中央にいたはずだが、いつ先へ来たのかは分からなかった。
「見てきたのか」
「ここから南へ半日ほど下ったところに、馬の膝より浅い場所がある。向こう岸の土も固い」
「荷車は通れる?」
「岸を少し削れば。ただし、渡った先で北西へ戻るのに一日かかる」
経路班長は地図へ指を置き、距離を測った。
「斥候を二人出す。浅瀬と、その先の地形をもう一度確認する」
「それがいい」
ラウルは異論を挟まなかった。
まもなく、S級隊長とアレンが騎馬で到着した。
経路班長が崩落の状態を説明し、ルークが崩れた時期と現在も斜面が動いていることを報告した。
隊長は崩落を一度見上げただけで、ラウルへ顔を向けた。
「南は」
「渡れる。荷車のために岸を削る必要がある。遅れは一日」
「周囲は」
「大型の足跡はない。東の林に小型の群れがいるが、こちらへ寄る様子もない」
「そうか」
それだけで話が通じた。
隊長は経路班長へ向き直る。
「確認に出した二人が戻り次第、南へ移る。今日は浅瀬の手前で野営する」
「分かりました」
アレンは後方へ伝える指示を書き留め、騎馬の伝令へ渡した。
誰も、ラウルがなぜ浅瀬の場所を知っていたのか尋ねなかった。
隊長とラウルの会話には、説明を省いたというより、何度も同じ手順を繰り返してきた者同士の短さがあった。
ラウルが隊長から経路班候補の見極めを任されていた理由も、少し分かった気がした。
階級はC級。それでも隊長は、判断を聞く相手としてラウルを扱っている。
なぜそこまで信頼されているのか。その答えは、まだ分からなかった。
◇
翌朝、隊列は予定していた北西ではなく、川沿いを南へ進んだ。
浅瀬そのものは、ラウルの報告どおりだった。
人が歩けば膝より浅い。だが二十三台の荷車を渡すには、両岸の傾斜を削り、川底の大きな石をどける必要があった。
最初に人と道具を渡し、向こう岸から縄を張る。荷車は一台ずつ荷を軽くし、御者のほかに六人がついた。上流側の車輪が流れに取られないよう縄を引き、下流側では横滑りを抑える。
七番車の番が来るまでに、昼を過ぎていた。
「この子は水が嫌いでね」
オルドが馬の首を撫でた。
馬は浅瀬の手前で鼻を鳴らし、前脚を止めている。
ルークは水面を見た。
上流で六台が渡ったため、川底の泥が舞い、石の位置が見えにくくなっている。それでも流れの盛り上がり方を追えば、大きな石がどこにあるか分かる。
「正面より、右へ二歩。そこから左へ戻した方が浅い」
「聞いたかい。濡れるのは少しで済むそうだ」
オルドは馬へ話しかけ、ゆっくり手綱を引いた。
ルークは馬の右前を歩き、進む位置を示した。冷たい水が膝へ当たり、革靴の中まで入ってくる。
荷車の前輪が最初の石を越えた。
後輪が川底の窪みへ落ちると、車体が左へ傾いた。上流側の縄を持つ者たちが引き、ルークも荷台へ肩を当てた。
「そのまま前へ。止めると沈む」
オルドが馬へ声をかける。
馬がもう一歩踏み込み、後輪が泥から抜けた。
対岸へ上がったときには、ルークの外套もズボンも膝から下が濡れていた。荷台の水樽に緩みはなく、車輪にも異常はない。
「助かったよ」
オルドは馬の脚を確かめながら言った。
「その靴のまま歩くなよ。濡れた革で半日歩けば、明日は足の皮がむける」
「野営地へ着いたら乾かす」
「その前に替えへ履き替えろ。乾かすのは今夜だ」
ルークは頷き、荷袋から替えの靴下を取り出した。
最後の荷車が渡り終えた頃には、日が傾いていた。
そこから北西へ戻る道を探し、予定していた経路へ合流したのは、さらに翌日の昼だった。
経路班長は、その日の野営地で六人を集めた。
手には、顔合わせで配られた木札がある。表には経路班を示す一本の斜線。裏には、七つの小さな刻みが並んでいた。
班長は焚き火の炭を小皿の水へ溶き、指先へつけた。
「予定より一日遅れた」
黒く濡れた指で、一つ目の刻みをなぞる。
細い溝へ炭が入り、七つのうち一つだけが黒くなった。
「崩落を予測できなかった責任を数える印じゃない。今、どれだけ余裕を使ったかを全員で同じように見るための印だ。各自、塗れ」
ルークも自分の木札を取り出した。
炭を指へつけ、一つ目の刻みを黒くする。ほかの四人も同じように塗った。
予定分とは別に、七日分の非常食が積んである。箱の封を今すぐ切るわけではないが、帰還までの計算では、そのうち一日分がもう予備ではなくなった。
遅れはまだ一日だった。明日から順調に進めば、取り戻そうと無理に急ぐ必要はない。
だからこそ、遅れていないふりをしてはいけないのだろう。
「六つまでは、予定を変えずに進むのか」
ルークが尋ねると、班長は首を横へ振った。
「違う。一つ増えるたびに、食料と道を見直す。七つになるまで待っていいという印じゃない。全部が黒くなる前に、何を諦めるか考えておけという印だ」
ルークは木札を火へ向けた。
黒い刻みは一つだけだった。
その横には、まだ何も塗られていない六つの溝が並んでいる。
少し離れた場所では、隊長とラウルが明日の経路を確かめていた。
「次の水場は」
「予定どおりなら二日後。明日の野営地から西へ少し外れれば、もう一つある」
「雨が降った場合は」
「西を使う」
地図を間に置きながら、二人の会話はそれだけで終わった。隊長は理由を聞き直さず、ラウルも必要以上に説明しない。
世の中には、こんなC級もいるのか。
ルークは、隊長から判断を預けられる灰色の男を見ながら思った。
ルークは木札を腰の袋へ戻した。
明日も、地図に描かれた線を追う。
その線が、今も道として残っている保証はない。
遠征隊はすでに、人の手で整えられた場所の外へ出ていた。




