第8話 未来商会設立
ゴードン・ライトは、想像より若い男だった。
四十代の半ば。がっしりした体格に、日焼けした顔。道普請役人というより、現場で働く職人に見える。実際、辺境伯の屋敷に案内されたとき、彼は中庭の石畳を点検していた。膝をついて目地を指で確かめ、どこかに書き込んでいた。
俺とミーナが名乗ると、ゴードンは立ち上がって手の土を払い、真っすぐ俺を見た。
「辺境伯からは聞いた。カルベン峠の手前、三里分の修繕を引き受けるそうだな」
「はい。基準を確認した上で作業に入りたいと思い、先に伺いました」
「基準ね」ゴードンは少し顎を引いた。「馬車が通れること。雨後に轍が残らないこと。石組みの浮きがないこと。それだけだ。難しくはない。ただ、手を抜けばすぐ分かる」
「監査はどのタイミングで」
「完了の報告を受けてから三日以内に俺が現場を見る。問題なければ確認印を出す」
ミーナが手帳に書き留めている。俺は続けた。
「職人の手配は辺境伯から一部ご提供いただける予定ですが、追加で地元の職人を使いたいと思っています。心当たりはありますか」
ゴードンはしばらく俺を見た。
「……なぜ俺に聞く」
「あなたが現場を知っている人間だと思ったので」
男は少し表情を緩めた。笑ったわけではないが、固さが取れた。
「石工ならレオンという老人がいる。腕は確かだ。町の東の端に住んでいる。俺の名前を出せば話を聞いてくれる」
「ありがとうございます」
「期待はしていないが、やるなら本物をやれ」とゴードンは言った。「この辺境で、ちゃんとした仕事をする者は少ない」
それだけ言って、彼は中庭の点検に戻った。
*
レオンの仕事場は、町の東の端にある小さな石材置き場だった。
七十近い老人で、背は低いが手が大きく、指の節が石のように固い。俺たちが訪ねると、石を砕く作業の手を止めずに「ゴードンの紹介か」とだけ言った。
「はい」
「三里分か」
「主要区間だけです。二ヶ月で完了させたい」
「人は何人出せる」
「領地の職人が数名。追加で必要なら、費用を出します」
レオンはしばらく石を眺めた。それから、ようやく手を止めた。
「今の時期は農作業が落ち着いてる。日雇いを集めれば十人は動かせる。ただし材料費は先払いだ」
「いくら必要ですか」
レオンは少し考えた。「石材と砂利で金貨五枚。手間賃は完了後でいい」
俺は隣のミーナを見た。ミーナは手帳から顔を上げずに、小さくうなずいた。
「分かりました。材料費は明日お渡しします」
「明後日から入れるか」
「お願いします」
レオンはまた石を砕き始めた。話は終わりだという意味らしかった。
俺とミーナは仕事場を出た。
「金貨五枚は痛いか」とミーナが歩きながら言った。
「痛い。だが手持ちはまだある。採掘権が取れれば回収できる」
「修繕が終われば採掘権。採掘権が取れれば鉱石。鉱石が積み上がれば五年後に動く」
「ああ」
「順番は正しい」
「そう思っている」
ミーナは手帳を閉じた。「事務所の交渉は、修繕が終わってからか」
「いや」と俺は言った。「修繕と並行で動く。順番があると言ったが、全部が直列である必要はない」
ミーナは少し考えてから、うなずいた。「……確かに。修繕中に事務所が空いたまま待つ理由がない」
「今日の午後に動く」
「私も行く」
「当然だ」
*
空き物件は、大通りから一本入った路地に面していた。
二階建ての石造りで、一階が土間と広間、二階が居住用の小部屋二つ。外壁は煤けており、木製の雨戸は一枚が外れかけている。だが土台はしっかりしていた。神眼鑑定で確認した通り、構造に問題はない。
家主は七十代の女性で、名をマリアといった。白髪を後ろでまとめ、腰は少し曲がっているが、目は澄んでいた。俺たちを玄関先で迎えると、物件を説明する前にまず俺を眺め、次いでミーナを眺めた。
「商会を作るそうだね」
「はい。アーレントを拠点に、事業を始めています」
「若いね。いくつだ」
「二十二です」
「獣人の子は」
「私が答えます」とミーナが言った。「二十歳です」
マリアはしばらく二人を見比べた。それから、短く言った。「入りなさい」
中を案内してもらいながら、俺は神眼鑑定を流した。
建物の状態。外壁の一部にひびがある。雨戸の蝶番が三箇所緩んでいる。二階の床板が一枚、踏むと軋む。どれも致命的ではない。修繕費の概算、銀貨二十枚前後。
マリアが言った。「家賃は月に銀貨八枚。半年分の前払いが条件だ」
「修繕を当方で引き受けます」と俺は言った。「外壁のひび、雨戸の蝶番、二階の床板。確認できている範囲で直します。その代わり、当面の家賃を月三枚にしていただけますか」
マリアはしばらく黙っていた。
「……よく見てるね」
「鑑定士です」
「修繕をちゃんとやるなら」とマリアは言った。「月四枚。最初の三ヶ月だけ。その後は六枚に戻す」
俺はミーナを見た。ミーナが手帳に素早く書いた。修繕費の概算と家賃の比較。しばらく考えてから、顔を上げて俺に目配せした。受けていい、という意味だ。
「ありがとうございます。お受けします」
マリアはうなずいた。それから、ミーナを見た。
「あんたが数字を見てるんだね」
「はい」とミーナは答えた。
「しっかりしてる」とマリアは言った。それだけだった。
*
修繕は、レオンの手配した職人たちが予定より早く進めた。
カルベン峠への道は、十八日で三里分の主要区間が仕上がった。石組みを入れ直し、砂利を締め固め、雨水が流れる側溝を掘った。レオンは現場に毎日顔を出し、俺は神眼鑑定で地盤の状態を確認しながら職人たちに指示を補った。
ミーナは現場には来なかった。代わりに宿の部屋で事務所の修繕計画と費用の管理をし、必要な資材を調達し、レオンへの支払いの記録をつけた。俺が現場から戻るたびに、その日の進捗と費用を手帳に反映していた。
二十日目の朝、ゴードン・ライトが現場に来た。
三里分の道を端から端まで歩き、石組みを蹴り、側溝に水を流して確認した。一時間ほどかけて、黙々と見ていた。
それから俺のところに来て、短く言った。
「合格だ」
確認印の入った書類を渡してきた。俺は受け取り、丁寧に折って懐にしまった。
「ちゃんとやったな」とゴードンは言った。
「はい」
「レオンの仕上げは悪くない。あんたが現場を把握していたのも見えた」
「ゴードンさんの名前を出したおかげです」
ゴードンは少し鼻を鳴らした。否定でも肯定でもない。それだけで、彼は帰った。
*
確認印を持って辺境伯の屋敷に向かったのは、翌日の朝だった。
今回は応接室に通された。前回の執務室ではない。それが何を意味するのか、俺には分かった。前回は提案を聞く場。今回は契約を結ぶ場だ。
ヴァルド・アーレントは、前回と同じ落ち着いた表情で俺たちを迎えた。ゴードンの確認印の入った書類を見て、一度だけ目を細めた。
「二十日か。早いな」
「職人の腕と、天候に恵まれました」
「謙遜しなくていい」と辺境伯は言った。「ゴードンが合格を出したなら、それは本物だ。あの男は甘くない」
正式な採掘権の契約書が、机の上に広げられた。ミーナが内容を確認した。条項を一つずつ読み、二箇所ほど俺に目配せした。どちらも許容範囲だという意味だ。
「問題ありません」
「では、署名を」
俺は羽根ペンを取り、契約書に署名した。ミーナも共同代表として署名した。辺境伯が領主の署名と印章を押した。
書類が二部作られ、一部ずつ手元に残った。
辺境伯はしばらく、自分の署名を眺めていた。それから、ふと言った。
「お前の目には、この領地の未来がどう見えている」
俺は少し考えた。
「十年後には、大陸でも有数の交易都市になっています」
辺境伯は静かに俺を見た。疑うでも笑うでもない。ただ、聞いていた。
「その中心に、未来商会があります。ただ、それは俺たちだけで作るものではない。この土地の人間が、この土地の価値に気づいたときに初めて形になる」
「……そうか」
「辺境伯がこの三十年、この地を守ってきたことが、その土台です」
辺境伯はしばらく黙っていた。それから、立ち上がって窓の方へ歩いた。前回と同じ動作だ。窓の外の景色を見た。
「期待している、とは言ったが」と彼は言った。「正直なところ、信じてはいなかった」
「はい」
「今は少し、違う」
それだけだった。だが俺には、その言葉の重さが分かった。
*
事務所の修繕は、街道工事と並行して進んでいた。
外壁のひびを埋め、雨戸の蝶番を取り替え、二階の床板を張り直した。マリアは職人が出入りするたびに一階の窓から確認していたが、何も言わなかった。仕上がりに文句がないということだ。
採掘権の契約が終わった翌日、俺とミーナは事務所に荷物を移した。
広間に机を二つ置いた。棚を一つ。壁に地図を貼った。アルディア大陸全図と、アーレント辺境の詳細図。二枚を並べると、この土地が大陸のどこに位置するのかが一目で分かる。
ミーナは自分の机に手帳と算盤を置いた。それから、少しの間、部屋を見回した。
「……広いな」
「宿の部屋よりは」
「二人には広すぎる」
「そのうち埋まる」
ミーナは俺を見た。「人を増やすつもりか」
「必要になる。採掘が始まれば、管理する人間がいる。修繕の記録も残す必要がある。ダグラスとの窓口も、そのうち一人では回らなくなる」
「どんな人間を入れる」
「数字を読める人間。現場で動ける人間。それから――」
俺は壁の地図を見た。
「この辺境の外を知っている人間」
ミーナはしばらく黙っていた。それから、手帳を開いた。
「採用の条件、書いておく」
「頼む」
俺は窓を開けた。路地の空気が入ってきた。石と土の匂い。どこか遠くで馬の蹄の音がする。
神眼鑑定を静かに流した。
事務所の建物。現在価値、適正な賃料物件。未来――三年後、この建物は未来商会の本拠として、大陸規模の取引の起点になる。その頃には手狭になり、隣の空き地も取得することになる。
隣の空き地。現在価値、ゼロ。未来価値――確かに。
俺は手帳を取り出し、隣の空き地の家主を調べることを書き留めた。
「何を書いた」とミーナが聞いた。
「三年後の話だ」
「三年後」
「今は動かない。ただ、覚えておく必要がある」
ミーナは少し考えてから、自分の手帳にも一行書いた。「隣の空き地、家主確認。時期を見て」
俺はそれを横から見て、小さく息を吐いた。
この子は、俺が言ったことを自分の言葉で書く。そのまま写すのではなく、判断を加えて記録する。それが、才能というものだと思った。
*
夜、事務所の広間で俺は一人、手帳を開いた。
ミーナは二階の部屋に上がっていた。宿から移ってきた初日だ。疲れているのだろう。
ランタンの光の中で、今日までのことを書き留めた。
採掘権、契約完了。事務所、取得。修繕費の収支。街道工事の記録。ゴードンの評価。辺境伯の言葉。
それから、別のページを開いた。
王都を出た日から数えて、一ヶ月と少しが経つ。
追放された日、俺は宿の天井を眺めながら、怒りや恨みに時間を使うほど暇ではないと思った。今もそれは変わらない。変わっていないが、今日このページに向き合うと、あの夜より少し遠くが見えている気がした。
ミーナに出会った。カイに保証人になった。廃坑の鉱脈を確認した。辺境伯と契約を結んだ。事務所を得た。
何もないところから、少しずつ積み上げてきた。まだ何も完成していない。だが、土台は出来た。
俺は手帳にゆっくりと書いた。
未来商会、設立。
それだけを書いて、ペンを置いた。
窓の外、アーレントの夜は静かだった。宿場の喧騒もなく、ただ風が路地を抜けていく音だけがある。
この静けさが、いつか変わる。
十年後、この路地に人が溢れ、荷馬車が行き交い、未来商会の看板が風に揺れる。そのとき俺は、この夜のことを覚えているだろうか。
覚えているかどうかは分からない。ただ、手帳が覚えている。それで十分だ。
ランタンを消した。
暗くなった広間の中で、俺は目を閉じた。
明日、採掘の人員手配を始める。廃坑の坑道補強に必要な資材も調達する。ダグラスへの次の取引の段取りもある。エルナ・シルフィードの消息を探す件も、そろそろ動いていい頃だ。
やることは山ほどある。
だが今夜はここまでだ。
土台は出来た。あとは積み上げるだけだ。
目を閉じたまま、俺は静かに息を吐いた。
辺境の夜は、長い。だが、明けない夜はない。
それだけのことだ。




