第7話 辺境領主と交渉
辺境伯の屋敷は、アーレント領都の丘の上にあった。
石造りの門構えは古く、蔦が壁面を這っている。それでも正面の柱に刻まれた紋章は手入れが行き届いており、領主としての矜持だけは保たれているのが分かった。
俺はクロを屋敷前の繋ぎ場に預け、ミーナと並んで正門に向かった。
面会の申し込みは三日前に済ませてある。商人ギルドを通じた正式な手続きだ。「未来商会代表、レイン・アーク。廃坑の採掘権に関する提案をしたい」という内容で送り、昨日返答が来た。三十分だけ時間を取る、と。
短い。だが断られなかった。それで十分だ。
門番の男に名を告げると、少し待たされてから案内された。屋敷の中は広いが、調度品は最低限だ。壁の燭台は数が減り、絨毯は端が擦り切れている。財政の苦しさは、建物の隅々に滲み出ていた。
通されたのは、応接室ではなく執務室だった。
俺はその事実を、静かに頭に入れた。応接室ではなく執務室。つまり辺境伯は、これを儀礼的な面会ではなく、実務の話として受け取っている。それは悪くない出発点だ。
*
ヴァルド・アーレントは、想像していたよりも小柄な男だった。
年齢は六十代の半ば。白髪交じりの短い髪、落ち窪んだ目、深く刻まれた皺。体格は細く、かつては引き締まっていたであろう肩が、今は少し内側に落ちている。だが目は鋭かった。疲れた目ではあるが、濁ってはいない。
執務机の向こうに座り、俺たちが入るのを静かに待っていた。
俺は礼をした。ミーナも倣った。
「未来商会のレイン・アークと申します。こちらはミーナ・フォックス、商会の共同代表です。本日はお時間をいただきありがとうございます」
辺境伯は俺を見て、次いでミーナを見た。視線が一瞬止まったが、それだけだった。声に出すことはない。
「三十分だ」と辺境伯は言った。「用件を聞こう」
低く、静かな声だった。威圧ではなく、単純に時間を無駄にしたくない人間の声だ。
「はい。単刀直入に申し上げます。アーレント北東の廃坑について、採掘権のご提案に参りました」
辺境伯の目が、わずかに動いた。
「廃坑か。四十年前に掘り尽くされた山の話をしに来たのか」
「掘り尽くされてはおりません。前の業者が諦めた地点から、さらに三十メートル先に、新しい鉱脈があります」
執務室が静かになった。
辺境伯はしばらく俺を見ていた。疑っているのか、測っているのか、判断しかねる目だ。
「それを、どうやって知った」
「私は鑑定士です。鉱脈の探索も、仕事の一つです」
厳密には鑑定士の一般的な職能の範囲を超えているが、嘘でもない。
「採れる鉱石は何だ」
「現在は名称未登録の鉱石です。ただ、五年後に魔道具産業の基幹素材として認定される見通しがあります。今の段階では価値を証明する資料が不十分ですが、埋蔵量は確認しており、品質も確かです」
辺境伯は顔色を変えなかった。
「五年後の話か」
「はい。ただ、採掘そのものは今から始められます。現在価値は低くとも、掘り出して保管しておく意義は十分にあります」
「費用は」
「当方が全額負担します。人員の手配、機材の調達、坑道の補強、すべて未来商会が持ちます。領主様には採掘量に応じた税を納めます」
辺境伯の指が、机の上で一度だけ動いた。
「税率は」
「採掘量の十五パーセントを現物で。あるいは同等の金貨換算で納めることも可能です」
沈黙が落ちた。
俺は続けた。
「加えて、もう一つご提案があります」
*
辺境伯の目が、少し変わった。
提案が一つで終わらないと分かった瞬間の目だ。警戒ではなく、興味に近い。
「北東の街道、カルベン峠への道が傷んでいると伺っています。修繕の入札が出ていましたが、まだ業者が決まっていない」
「……よく調べている」
「当方が修繕を引き受けます。費用は採掘利益から出します。領主様のご負担はゼロです」
執務室がまた静かになった。
今度は先ほどより長い沈黙だった。辺境伯は机の上で指を組み、俺を見ていた。疑うというより、全体を整理している顔だ。
「採掘権を渡し、税を受け取り、街道整備もしてもらう。お前たちには何の得がある」
「鉱脈が当方のものになります。五年後に価値が出たとき、大陸で最初にその鉱石を大量に持っているのが未来商会です。それが得です」
「五年後の話を確信を持って語るのは、なぜだ」
「私の目がそう見えているからです」
辺境伯はしばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「鑑定士の目、か」
「はい」
「……お前、王都から来たな」
俺は少し考えてから、答えた。
「アストリア王国の出身です。ただ、現在は王国とは関係がありません」
「追放されたか」
「はい」
辺境伯の口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
「正直な奴だ」と彼は言った。「誤魔化さないのか」
「誤魔化しても、すぐ分かることです」
「……そうだな」
辺境伯は立ち上がり、窓の方へ歩いた。窓の外には、丘の下に広がる領都の街並みが見える。小さく、静かな街だ。
「この領地を預かって、三十年になる」と辺境伯は言った。独り言のような声だった。「最初の十年は良かった。交易路が活きていて、鉱山も動いていた。だが道が傷み、鉱山が尽き、若い者が出ていく。残るのは老人と、動けない者ばかりだ」
俺は黙って聞いていた。
「財政が苦しいのは分かっているだろう。ギルドに行けば誰でも知っている話だ。今さら隠す気もない」
「はい」
「お前の提案は、確かに理には合っている」と辺境伯は言った。「ただ、名前も知らぬ商会に、領地の土地の権利を渡す判断は、簡単ではない」
「当然のことです」
辺境伯が振り返った。
「条件を一つ加える」
「聞かせてください」
「街道の修繕を先に行え。採掘権はそれが完了してから渡す」
俺は少し考えた。
街道の修繕には時間がかかる。資金も先払いになる。今の手持ちは金貨十二枚だ。カルベン峠への道の修繕費を神眼鑑定で概算すると、金貨十五枚前後になる。手持ちでは足りない。
だが。
俺は横に目をやった。ミーナがいる。ここまで黙って聞いていた彼女が、俺の視線を受けて、静かに前を向いた。
「一点、確認させてください」とミーナが口を開いた。
辺境伯が、初めてミーナを正面から見た。
「修繕の完了とは、どの状態を指しますか。全線か、主要区間か」
辺境伯は少し目を細めた。「……主要区間でいい。峠の手前、三里分だ」
「工期は」
「二ヶ月以内に完了すれば認める」
「監査はどなたが行いますか」
「領地の道普請役人だ」
「名前を伺えますか。事前に連絡を取り、基準を確認した上で作業に入りたいと思います」
辺境伯はしばらくミーナを見ていた。
それから、俺を見た。
「……この娘が数字を仕切っているのか」
「共同代表です」と俺は答えた。「商会の実務はミーナが管理しています」
「獣人の商人か」辺境伯は一度だけ息を吐いた。「珍しい組み合わせだな」
「実力のある人間と組んでいるだけです」
辺境伯はしばらく黙っていた。窓の外の景色を見ているのか、思考を整理しているのか、判断しかねた。
そして、ゆっくりと執務机に戻った。
*
引き出しから一枚の書類を取り出し、机の上に置いた。
「道普請役人の名はゴードン・ライト。明日の午前中なら屋敷にいる。話を通しておこう」
俺は静かに息を吸った。
「それから」と辺境伯は続けた。「修繕の費用が足りなければ、領地から職人を出す。手間賃は修繕完了後、採掘税から差し引く形にする」
「……それは」
「お前たちに倒れられても困る。街道が整備されれば、領地にも利がある。折半だ」
俺はミーナを見た。ミーナは手帳に何かを書きながら、小さくうなずいた。計算が合う、という意味だ。
「ありがとうございます。謹んでお受けします」
辺境伯は書類に一行書き込み、署名をして、俺の方へ差し出した。
「仮合意書だ。修繕完了後に正式な採掘権の契約書を交わす。ゴードンの確認印をもらってから持ってこい」
「承知しました」
俺は書類を受け取り、丁寧に折って懐にしまった。
辺境伯は俺たちを見て、短く言った。
「三十分、ちょうどだな」
「お時間をいただきありがとうございました」
「一つだけ聞かせてくれ」
俺は顔を上げた。
「五年後に価値が出る、というのは、本当に見えているのか」
俺は少し考えた。見えているかどうか、という問いに対して、正確に答える必要があった。
「見えています。ただ、未来というのは条件次第で変わります。私の目に見えているのは、現時点での最も確度の高い可能性です。保証はできません」
「正直だ」
「嘘をついても仕方がありません」
辺境伯はしばらく俺を見ていた。それから、短く言った。
「期待している」
それだけだった。
*
屋敷を出ると、外は昼の光に満ちていた。
俺とミーナは丘を下りながら、しばらく黙って歩いた。クロが繋ぎ場で待っていた。耳を動かしたが、鳴かなかった。
「うまくいった」とミーナが言った。
「ああ」
「職人の提供は想定していなかった」
「俺もだ。神眼鑑定でもそこまでは見えていなかった。辺境伯自身が判断した」
「……実務家だった。あなたの言った通り」
「種族より中身で判断すると言っただろう」
ミーナは少し黙った。
「最初、目が止まった」
「ああ」
「でも話し出したら変わった」
「そういうものだ」
ミーナは手帳を開き、今日の交渉内容を書き始めた。歩きながら書ける人間だと、俺は初めて知った。
「道普請役人に会いに行くのは明日か」
「午前中がいいと言っていた。明日の朝に行く」
「私も行く」
「当然だ」
ミーナはしばらく書き続けた。それから、顔を上げずに言った。
「修繕が終われば、採掘権が手に入る」
「ああ」
「採掘が始まれば、鉱石が積み上がる」
「五年かけてな」
「五年後に、エルナ・シルフィードという研究者が価値を示す」
俺は少し考えた。ミーナが手帳にその名前を書いていたことは知っていた。廃坑で俺が口にしたとき、彼女はすぐに記録していた。
「そうだ」
「その研究者に、こちらから接触する手はないか」
俺はしばらく黙った。
それは、俺がまだ手帳に書いていない問いだった。いつか縁が繋がる、という見通しは持っていた。だがミーナが言うように、こちらから動く手を考えてはいなかった。
「……場所が分かれば、動ける」
「探す手はあるか」
「魔道具の研究者だ。魔導連邦か、それに近い地域にいる可能性が高い。研究者の登録名簿を当たれば、名前が出るかもしれない」
「商人ギルドのネットワークを使えるか」
「ダグラスに頼めば、広域の情報を流してもらえる可能性はある。窓口契約がある」
ミーナは手帳にそれを書いた。
「次の取引で信用を積む。そのうち聞いてみる」
「先を考えているな」
「当たり前だ」とミーナは言った。「あなたの目が五年後を見ているなら、私は今から五年後への道を作る。それが私の仕事だ」
俺はしばらく、ミーナの横顔を見ていた。
三週間前、奴隷市の囲いの中で膝を抱えていた。足首に鉄の輪があった。狐の耳は伏せられていた。
今は歩きながら手帳に書いて、五年後の手を考えている。
変わったのは環境だけだ。この子はずっとこうだったのだと、俺には分かっていた。
「レイン」
「何だ」
「商会の事務所、そろそろ必要じゃないか。宿の部屋では手狭になってきた」
「ああ」
「場所の目星はあるか」
「大通りの少し外れに、空き物件がある。家主は高齢で、建物を持て余している。条件を出せば貸してもらえるはずだ」
「家賃は」
「月に銀貨八枚が相場だ。ただ、修繕費を俺たちが持つ代わりに、当面は月三枚に抑えてもらえると見ている」
「交渉するか」
「修繕役人に会いに行った後でいい。順番がある」
ミーナは小さくうなずいた。それから、手帳に一行書いた。
俺は横から覗き込んだ。
事務所候補、確認。修繕後に交渉。
几帳面な字だった。
「字がきれいだな」
「行商の記帳で鍛えた」とミーナは言った。「汚い字は読み返せない。記録は読めないと意味がない」
「それは正しい」
ミーナは手帳を閉じ、懐にしまった。
丘の下に、アーレントの領都が広がっていた。昼の光の中で、石畳の大通りがうっすらと輝いている。小さな街だ。だが三週間前より、少しだけ大きく見えた。
俺の目には、この先が見えていた。
採掘権。街道修繕。事務所。そしてその先に続く、街の成長と商会の拡大。
一つずつ積み上げていけば、必ず形になる。
神眼鑑定が見せる未来は、努力の先にある。棚から落ちてくるものではない。今日積んだものが、明日の土台になる。それだけのことだ。
「戻るぞ」と俺は言った。
「ああ」とミーナが答えた。
クロが鼻を鳴らした。
三人で大通りへと歩きながら、俺は静かに明日の段取りを考えていた。




