第61話 遠征の決断
災害対策局が正式に発足してから、半月ほどが過ぎていた。
カイは実働部隊の要として、街の防衛訓練と並行しながら、いざという時の出動体制の整備に追われていた。エルナとクロエの研究室では、これまで以上に密度の高い議論が交わされ、大陸各地から届く観測データの解析が着実に進んでいた。ミーナの帳場では、災害対策局の運営に必要な予算配分が組み直され、セリアの外交室からは、四大国それぞれに向けた文書が次々と送り出されていた。
ガルドもまた、自警団の訓練メニューを見直し、これまで以上に実戦的な内容へと組み替える作業に取り組んでいた。リリアは医療部門の体制を整えつつ、いつ大きな異変が起きても対応できるよう、薬品の備蓄を進めていた。それぞれが、この半月の間に、自分の役割を確かなものにしつつあった。
それぞれの持ち場で、皆が確かに前へと進んでいる。だが、レインの胸の内には、一つだけ、まだ形になっていない問いが残り続けていた。
――大陸中央部の遺跡。そこに、何があるのか。
あの夜、限界を超えて発動させた神眼鑑定が見せてくれたのは、あくまで断片に過ぎなかった。太古の遺跡らしき影と、そこから発せられる途方もない力の気配。それ以上のことは、何一つ分かっていない。あの遺跡の正体を突き止めない限り、世界崩壊現象という脅威の本質にも、決して近づくことはできないだろう。その確信だけが、レインの中で日に日に強まっていた。
執務室の机には、これまで集めてきた資料が、あの夜以来、片付けられることなく積まれたままになっていた。獣王国の伝承、魔導連邦の観測データ、調査団が持ち帰った亀裂の記録――そのすべてが、まだ答えの出ていない問いを、静かに突きつけ続けている。
窓の外を見やれば、いつもと変わらぬアーレントの日常が広がっていた。商人ギルドには相変わらず隊商が出入りし、難民たちも少しずつこの街の暮らしに馴染み始めている。表面上は穏やかなこの街の空気の下で、レインだけが、まだ見えていない何かに、静かに焦りにも似た感覚を抱き続けていた。
その日の夕方、レインは災害対策局の主要メンバーを執務室に集めた。
「今後の方針について、皆の意見を聞きたい」
レインの言葉に、ミーナ、セリア、エルナ、クロエ、カイ、ガルドがそれぞれ席に着く。ヴァルドとリリアも、少し遅れて姿を見せた。窓の外はすでに茜色に染まり始めており、会議室には落ち着いた光が差し込んでいた。
「あの夜、俺が見た大陸中央部の遺跡について、改めて話したい」
レインは資料の束を机の中央に広げながら、静かに切り出した。
「断片的にではあるが、あの遺跡には、世界崩壊現象の核心に関わる何かがある。それだけは、はっきりと感じ取れた。だが、それ以上のことは、今の俺の力では分からない」
「もう一度、力を使うつもりじゃないでしょうね」
エルナが険しい声で先回りする。前回の一件で、レインが倒れた光景は、まだ皆の記憶に生々しく残っていた。あの時、鼻血を流して崩れ落ちたレインの姿を目の当たりにしたエルナにとって、その記憶は今も鮮明だった。
「いや、その手段は取らない。あの晩、はっきりと思い知った。断片的な情報の積み重ねだけで、遠く離れた場所を鑑定しようとすること自体に、無理があったんだ」
レインは首を振り、代わりに一つの提案を口にした。神眼鑑定という力は、対象への理解が深いほど、より鮮明な像を結ぶ傾向がある。これまでの経験から、レインはそのことを実感として掴んでいた。
「だから今度は、実際にその場所へ行く。俺自身の目で、あの遺跡を確かめる」
部屋に、しばらくの沈黙が落ちた。
「以前、調査団を派遣したことがあったな」
ヴァルドが口を開く。第47話で、カイ、ガルド、エルナの三人を近隣ダンジョンの亀裂へ送り込んだ、あの遠征のことだ。あの時、レインは都市の運営を優先し、自ら同行することはなかった。
「ああ。だが今回は違う」
レインは、はっきりと言い切った。長年この地を見守ってきたヴァルドの言葉には、単なる確認以上の重みがあった。あの時の判断が正しかったかどうかを、レイン自身、今もなお心のどこかで問い続けている。
「あの時は、仲間に託すことを選んだ。それは間違いだったとは思わない。だが今回、俺自身が現地に立たなければ、見えないものがあると感じている。神眼鑑定という力の性質上、対象の近くに立つことで、これまでとは違う精度の像を結べる可能性がある」
カイが、静かに頷く。
「俺も、行きます」
「分かっている。お前には、実戦担当として同行してもらうつもりだ」
カイの表情には、迷いがなかった。聖剣を託されてから、自分がいずれこうした大きな局面に立ち会うことになるだろうという予感は、心のどこかにずっとあった。その時が、ついに訪れようとしている。
「私もです」
ガルドが低い声で続いた。
「お前の護衛は、俺の役目だからな」
かつて勇者パーティーの剣士として、装備の悪さを詰り、判断の甘さを罵った過去を持つガルドにとって、今こうして自分の意志で誰かを守るために名乗りを上げられることは、静かな誇りでもあった。
レインは二人の言葉に頷きながら、改めて一つの決意を胸に刻んだ。前回とは違う。今回は、一人で背負い込むのではなく、仲間と共に歩む遠征にする。それこそが、第60話で自分自身が口にした「一人で見通す時代は終わった」という誓いを、実践に移す第一歩だった。
「ちょっと待って」
ミーナが手を挙げた。
「今度は、私も一緒に行くわよ」
「ミーナ」
「反対されても、聞かないわよ。この街の未来がかかっている遠征に、私だけ留守番なんて」
ミーナの声には、いつもの快活さの奥に、確かな覚悟が滲んでいた。かつて奴隷市で拾われた日から、ずっとレインと共に歩んできた道のりを、この重要な局面で、ただ見送るだけの立場でいたくないという気持ちが、その言葉には込められていた。
レインは、しばらく黙ってミーナの顔を見つめていた。その決意の強さは、痛いほど伝わってくる。だからこそ、レインは静かに、しかしはっきりと首を振った。
「気持ちは分かる。だが、お前には、この街を支える役目がある」
「それは、ヴァルド様や、留守を預かる人たちに任せれば――」
「いや、任せられない」
レインの声には、揺るぎない確信があった。
「ミーナ、お前がこれまで築き上げてきた経済の基盤は、この街の生命線そのものだ。俺たちが遠征している間も、難民の受け入れは続くし、帝国との緊張も続く。物資の管理、財政の維持、そのすべてを、今この瞬間から他の誰かに完全に引き継ぐことは、現実的じゃない」
ミーナは唇を噛んだ。反論しようとして、しかし言葉が出てこない。レインの言っていることが、正しいと分かっているからだった。長年、商会の実務を一手に担ってきた自負があるからこそ、自分が抜けた後の穴の大きさも、誰よりもよく理解していた。
「それに」
レインは、少し声の調子を和らげた。
「兵站という役割は、遠征の成否を左右する、極めて重要な仕事だ。俺たちが現地でどれだけ動けるかは、お前がこの街から送り出してくれる物資と情報にかかっている。お前には、後方から、この遠征そのものを支えてほしい」
その言葉に、ミーナはしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かったわ。でも、絶対に無事に帰ってきてよね」
「約束する」
レインは静かに頷いた。ミーナの表情には、まだ完全には拭いきれない不満の色が残っていたが、それでも彼女は、自分に課せられた役割の重さを、正しく理解していた。先日の夜、帳場でレインに「一人で抱え込むな」と告げられたことを思い出しながら、ミーナは自分自身にも同じ言葉を、静かに言い聞かせていた。
「セリアは、どう思う」
レインが尋ねると、セリアは静かに口を開いた。
「私も、遠征への同行よりも、外交の面から支える方が適していると考えます。四大国それぞれとの協力要請、そして遠征隊の安全な通行を確保するための交渉――それらは、今この場所で行うべき仕事です」
「頼む」
「承知しました。すぐに、各国への協力要請の文書を準備します」
セリアの声には、迷いがなかった。かつて政争に敗れ、身を隠していた自分を保護してくれたレインへの恩を、今度は外交という自分の持ち場で返す時が来た――そんな確かな意志が、その表情には宿っていた。四大国それぞれとの関係を、これまで一つひとつ丁寧に築き上げてきた経験が、今こそ真価を発揮する時だった。
「エルナとクロエは、後方支援に回ってほしい。これまで積み上げてきた観測データの解析と、遠征隊との情報のやり取りを担ってもらいたい」
「分かってる。私たちの出番は、これからよ」
エルナが、いつもの調子で応じた。だがその声には、遠征そのものへの不安と、それでも仲間を信じて送り出そうとする覚悟が、静かに滲んでいた。隣に座るクロエもまた、静かに、しかし確かに頷いていた。
「リリアには、医療班として同行を頼みたい」
「はい」
リリアが、迷いのない声で答える。難民の受け入れを通じて培ってきた経験は、遠征先でもきっと大きな力になるはずだった。かつて聖女として王都で人々を癒していた頃とは違う、地に足のついた確かな覚悟が、その表情には宿っていた。
会議の終わり、レインは改めて皆の顔を見渡した。
「四大国への協力要請、遠征隊の編成、物資の準備――これから詰めるべきことは多い。だが、方針は固まった。俺たちは、大陸中央部の遺跡へ向かう」
その言葉に、部屋にいた全員が、静かに、しかし確かな覚悟を持って頷いた。
夜、執務室に一人残ったレインは、手帳を開いた。ペンを取り、静かに一行を書き記す。
「大陸中央部の遺跡への遠征を決断。前回とは違い、今度は俺自身が現地に赴く。ミーナ、セリア、エルナ、クロエは本国側でこの遠征を支える。カイ、ガルド、リリアが同行する。一人で見通す時代は終わった――その誓いを、今度こそ実践する時が来た」
外の空気は、すっかり夜の静けさに包まれていた。遠くから、自警団の見回りの足音がかすかに聞こえてくる。それは、いつもと変わらぬこの街の穏やかな夜を伝えていた。
書き終えたところで、レインはしばらくペンを止めた。この街を発つことへの不安がないと言えば、嘘になる。留守を預かる皆に、大きな責任を負わせることにもなる。それでも、この遠征を成し遂げなければ、世界崩壊現象という脅威の正体に、いつまでも近づくことができない。その確信が、レインの決意を静かに、しかし確かに支えていた。
窓の外には、いつも通りの穏やかなアーレントの夜が広がっていた。だが、その静けさの奥で、この街の物語は、また新たな一歩を踏み出そうとしていた。遠く、大陸中央部に横たわる太古の遺跡が、まだ誰にもその全貌を明かすことなく、静かにその存在を主張し続けている。
レインは、これまでのすべての出来事を振り返った。追放された日、辺境への旅、ミーナとの出会い、未来商会の設立、王国の崩壊、都市国家アーレントの独立、そして世界崩壊現象という新たな脅威との対峙――そのすべての先に、この遠征がある。一つひとつの選択が、確かにこの瞬間へと繋がっている。
鑑定士として追放されたあの日、自分がこうして仲間たちと共に、大陸の運命を左右する遠征に臨む日が来るとは、想像もしていなかった。それでも今、この場所に立っている自分がいる。それは、決して自分一人の力によるものではない。ミーナ、セリア、エルナ、クロエ、リリア、カイ、ガルド、ヴァルド、ダグラス――この街に集った一人ひとりとの出会いと信頼の積み重ねが、今の自分を作り上げてきたのだと、レインは静かに実感していた。
明日からは、遠征に向けた具体的な準備が本格的に始まる。四大国への協力要請、遠征隊の編成、物資の手配――やるべきことは山積している。それでも、方針が固まった今、レインの胸の内には、これまでにない確かな手応えが、静かに広がっていた。
レインは手帳を閉じ、静かに窓の外を見つめた。これから始まる遠征が、どのような困難を伴うものになるのか、今はまだ分からない。それでも、これまで積み上げてきた仲間たちとの絆があれば、きっと乗り越えられる――そう信じて、レインは静かに、しかし確かな決意を胸に、夜の帳が下りるアーレントの街を、いつまでも見つめ続けていた。




