第62話 四大国への協力要請
遠征の方針が固まった翌朝、セリアの外交室には、すでに幾つもの書状の下書きが並んでいた。
窓から差し込む朝の光の中、セリアは羽根ペンを手に、慎重に文言を選びながら筆を進めていた。四大国それぞれへの協力要請――それは、単なる事務的な連絡ではない。帝国、魔導連邦、獣王国、そしてこの遠征の意義そのものを、どう伝えるかという、極めて繊細な外交の一手だった。机の上には、これまでの外交記録の写しが何冊も積まれ、過去のやり取りを丹念に振り返った跡が窺えた。
「相手によって、伝え方を変える必要があるわ」
誰へともなく呟き、セリアは机の上に三枚の便箋を並べた。それぞれの国の紋章が刻まれた封筒が、その傍らに置かれている。窓の外では、朝の商人ギルドがすでに活気づき始めており、隊商の呼び声がかすかに聞こえてくる。街の日常はいつも通りに動き続けているが、この一室だけは、これから始まる大きな物語の分岐点として、静かな緊張感に包まれていた。
これまでセリアが手がけてきた外交文書は、数え切れないほどある。だが、今回の書状は、これまでとは違う重みを持っていた。単なる交易協定や情報共有の要請ではなく、大陸そのものの運命を左右しかねない遠征への協力を求めるものだ。一つひとつの言葉選びが、これまで以上に慎重さを求められていた。
扉が開き、レインが姿を見せた。
「進み具合はどうだ」
「思っていた以上に、慎重な作業になりそうです」
セリアは筆を置き、レインに椅子を勧めた。
「四大国は、それぞれ全く異なる姿勢を持っています。帝国は力による制圧、魔導連邦は研究による分析、獣王国は伝承による知恵――第45話で整理した通りの違いが、今回の要請への反応にも、そのまま表れるはずです」
「まず、獣王国について話しましょう」
セリアが一枚目の便箋を手に取る。
「長老ガロンとは、すでに一定の信頼関係を築いています。世界崩壊現象の伝承を共有してくれた相手ですから、今回の遠征についても、比較的協力的な反応が期待できると考えています」
「案内人を、頼めるだろうか」
「それも書状に含めるつもりです。伝承に詳しい者が同行してくれれば、遺跡の理解にも大きな助けになるでしょう」
セリアは羽根ペンを取り、丁寧に文言を書き進めていく。獣王国への書状には、これまでの信頼関係を踏まえた率直な言葉が選ばれていた。伝承の続きを共に確かめたいという、対等な協力への呼びかけだった。長老ガロンが語ってくれた「世界の傷」という言葉、聖剣の使い手にまつわる伝承――それらを大切に受け止めてきたという姿勢が、文面の端々に滲むよう、セリアは注意深く言葉を選んでいた。
「魔導連邦は、どうする」
「エルナとの技術協力が、すでに一定の実績を積んでいます。異変解析データの共有という枠組みが、今回の遠征にも延長できると考えています」
セリアは二枚目の便箋に手を伸ばした。魔導連邦への書状には、研究協力という文脈を強調する内容が選ばれることになる。エルナが築いてきた対等な関係性を損なわないよう、慎重に言葉が選ばれていく。過去に成果を横取りされ続けたエルナの経験を踏まえ、あくまで「対等な情報交換」という一線を、書状の中でも明確に示す必要があった。
「問題は、帝国だな」
レインの言葉に、セリアの表情が、わずかに引き締まった。
「ええ。帝国が最も慎重な反応を示すでしょう」
三枚目の便箋を前に、セリアはしばらく筆を止めていた。帝国という国は、第56話での駐留要求のやり取り以来、アーレントとの間に微妙な緊張を抱えたままだ。あの拒絶が、帝国側にどのような感情を残しているか、正確には読めない部分があった。加えて、第57話で描かれたように、帝国の統治強化から逃れた難民をアーレントが受け入れたことも、帝国にとっては決して喜ばしい出来事ではなかったはずだ。
「それでも、要請自体は送らねばなりません。世界崩壊現象という脅威は、帝国にとっても他人事ではないはずです。第44話で示された、国境地帯への討伐部隊の展開――帝国自身、この異変の深刻さを、すでに認識しているはずですから」
「協力を得られる可能性は」
「正直なところ、五分五分だと考えています。駐留要求を拒絶されたことへの反発があれば、この要請も冷淡にあしらわれるかもしれません。一方で、第44話で示唆された穏健派の存在――軍事一辺倒の対応に疑問を持つ者たちが、内部で発言力を強めているとすれば、話は変わってくるでしょう」
セリアは、帝国内部の力関係について、これまで集めてきた断片的な情報を頭の中で整理していく。強硬な統治手法を推し進める勢力と、それに疑問を持つ穏健派――その均衡が、今回の返答にどう影響するのか、正確に予測することは難しかった。それでも、この要請そのものが、帝国内部の議論に何らかの影響を与える可能性は、決して小さくないはずだった。
セリアは、慎重に言葉を選びながら、帝国への書状を書き上げていった。挑発とも懇願とも取られないよう、あくまで対等な立場からの、率直な協力要請という体裁を保つ。文言の一つひとつに、これまでの外交経験のすべてが注ぎ込まれていた。
書き進める手を止め、セリアはふと窓の外に目をやった。かつて宮廷にいた頃、こうした緊張感のある文書を幾つも目にしてきた。だが今、自分自身の手でそれを書いているという事実に、不思議な感慨を覚える。あの頃は、ただ状況に翻弄されるだけの立場だった。今は違う。この街の未来を、自分の言葉で切り開こうとしている。
三通の書状が書き上がると、セリアはすぐさま商人ギルドの伝令網を通じて、それぞれの国へと送り出す手配を整えた。ダグラスが手際よく伝令の手配を行い、それぞれの書状は、その日のうちに専用の使者へと託されていった。
「これで、あとは返答を待つだけです」
「早いところで、いつ頃届く」
「獣王国からは、おそらく数日のうちに。魔導連邦も、比較的早い反応が期待できるでしょう。帝国は……分かりません。返答自体が来ない可能性も、視野に入れておくべきかと」
レインは頷きながら、窓の外を見つめた。四大国それぞれの対応の違いが、こうして遠征の準備段階から、はっきりと浮かび上がってきている。これまで幾度となく目にしてきた、帝国=力、魔導連邦=研究、獣王国=伝承という三者三様の姿勢が、今回もまた、それぞれの国の本質を映し出す鏡のように、返答の速さや内容に反映されることになるだろう。
「セリア、これまでよくやってくれた。この街の外交は、お前がいなければ成り立たなかった」
不意にかけられた言葉に、セリアは一瞬、目を瞬かせた。
「……ありがとうございます。ですが、まだ結果が出たわけではありません。この要請が実を結ぶまで、気を緩めるわけにはいきません」
「それでも、その積み重ねが、今のこの街を作ってきたことに変わりはない」
レインの静かな言葉に、セリアは小さく微笑んだ。かつて護衛もなく身の危険にさらされていたあの頃、レインが差し伸べてくれた手がなければ、今この場所に立っている自分はいなかった。その恩に報いるためにも、この外交の一手を、必ず良い形で結実させたいという思いが、改めて胸の内に湧き上がってくる。
三日後、最初に返答が届いたのは、獣王国からだった。
商人ギルドの伝令が、獣王国の紋章が押された書状を持ち込んでくる。セリアは急ぎ内容を確認し、その足でレインの執務室へと向かった。息を弾ませながら扉を開ける様子は、いつもの冷静なセリアには珍しいものだった。廊下を駆け抜けてきたのか、その頬にはうっすらと赤みが差していた。
「良い報せです。獣王国は、遠征への協力を快諾しました」
「案内人については」
「長老ガロンの推薦で、伝承に詳しい案内人を同行させるとのことです。名は――ノアと記されています」
書状には、獣王国側の丁寧な文言が連ねられていた。世界崩壊現象という共通の脅威に対し、共に立ち向かう機会を得られることへの、率直な喜びが滲んでいる。窓から差し込む午後の光が、書状の文字を静かに照らしていた。
「ガロン殿の一族は、代々この伝承を語り継ぐ役目を負ってきたと聞いています。その一族から案内人を出すというのは、獣王国にとっても、決して軽い決断ではなかったはずです」
書状の末尾には、ガロン自身の言葉として、「この機会を、伝承が真に意味を持つ時と捉えている」という一文が添えられていた。単なる形式的な協力ではなく、獣王国にとってもこの遠征が、大きな意味を持つ出来事として受け止められていることが、その言葉から伝わってきた。
レインは書状を受け取り、静かに目を通した。獣王国の実利的でありながら、同時に確かな誠実さを持った姿勢が、その文面からも伝わってくる。
「頼もしい味方が、また一人増えたな」
「ええ。魔導連邦からの返答も、そう遠くないうちに届くはずです」
その言葉通り、翌週には魔導連邦からの返答も届いた。
「魔導連邦からは、観測機材の提供が申し出られています。それに加え、優秀な観測技師を一人、遠征に同行させるとのことです」
エルナが、その報せを聞いて執務室に駆け込んできた。研究室から急いで駆けつけたのか、その手にはまだ計測器具が握られたままだった。
「本当に? どの技師が来るのか、分かる?」
「詳細は、まだこちらには」
「私の後輩の誰かだといいけど……いえ、誰であっても、きちんと協力してもらわないと」
エルナは複雑な表情を見せながらも、その声には隠しきれない期待が滲んでいた。かつて成果を横取りされ続けた過去を持つ彼女にとって、魔導連邦との関係は、今も完全に信頼しきれるものではない。それでも、対等な協力という形が、少しずつ実を結び始めていることを、エルナ自身、実感し始めていた。傍らのクロエも、静かに、しかし興味深そうに、その報せに耳を傾けていた。
「これで、獣王国と魔導連邦、二カ国からの協力を得られたわけだ」
レインの言葉に、セリアが頷く。
「あとは、帝国です」
窓の外には、すでに夕暮れの気配が漂い始めていた。二つの国からの快い返答を受け、執務室には確かな手応えの空気が満ちていたが、同時に、帝国という最後の壁の存在が、皆の胸のどこかに重く残り続けていた。
その日の夜、レインとセリアは、執務室で二人、静かに話し合っていた。
「帝国からは、まだ何の返答も届いていません」
「予想通りか」
「ええ。それでも、返答が来ないこと自体が、悪い兆候とは限りません。帝国内部で、慎重な議論が続いている可能性もあります」
セリアの声には、まだ確かな希望が残っていた。かつて宮廷で政争の機微を肌で学んできた彼女にとって、沈黙という反応もまた、一つの重要な情報だった。即座の拒絶がないという事実は、少なくとも、帝国内部で何らかの検討が続けられていることを示唆している。
「もし、協力が得られなければ」
「その場合は、帝国領内を迂回するルートを検討する必要があります。時間はかかりますが、決して不可能ではありません」
レインは頷きながら、窓の外に広がる夜空を見上げた。獣王国と魔導連邦、二つの国からの協力は、確かにこの遠征にとって大きな支えになる。だが、帝国という大国の動向が、依然として一つの不確定要素として残り続けていた。
「セリア、引き続き頼む」
「はい。必ず、良い形での返答を引き出してみせます」
セリアの声には、静かな決意が宿っていた。四大国それぞれの姿勢が、こうして遠征の準備を通じて、より具体的な形で浮かび上がってきている。この先、帝国がどのような答えを返してくるのか――その行方が、遠征そのものの成否を左右する重要な鍵になろうとしていた。
夜が更けていく中、執務室の灯りは、しばらくの間、消えることがなかった。四大国それぞれとの関係を、これからどう築いていくか。その答えを探る作業は、まだ始まったばかりだった。二つの国からの確かな協力を得られたことは、間違いなく大きな前進だった。だが、帝国という最後の一国が、この遠征の行方を大きく左右することになるだろう。その予感を胸に、レインとセリアは、静かに、しかし確かな決意を新たにしていた。窓の外に浮かぶ月が、二人の横顔を静かに照らしていた。




