第42話 魔導連邦の書状
その書状が届いたのは、獣王国のガロンが去ってから数日後のことだった。魔導連邦の紋章が押された封蝋を目にした瞬間、エルナの表情が、これまで見せたことのないほど硬く強張った。
「魔導連邦から……」
エルナは執務室に呼び出され、レインと共にその書状を前にしていた。差出人は、魔導連邦の中央研究機関を統括する立場にある者だという。書状を運んできた商人ギルドの伝令も、その封蝋の重々しさに、いつになく緊張した面持ちを見せていた。
執務室に流れる空気は、これまでとは明らかに違う張り詰めたものだった。エルナにとって魔導連邦という組織は、単なる一国家という以上の、複雑な感情の入り混じった存在だった。
「開けてもいいかしら」
レインが確認すると、エルナは険しい表情のまま、小さく頷いた。緊張で強張った肩に、レインは静かに視線を向けた。
封を切り、中の文面に目を通したレインは、しばらく黙り込んだ後、静かに口を開いた。
「エルナ、これは……お前個人への引き抜きの打診ではないようだ」
レインは書状の文面を目で追いながら、慎重に言葉を選んで伝えた。
「え?」
エルナは思わず声を上げ、レインの手元を覗き込んだ。これまで魔導連邦から届く書状といえば、決まってエルナ個人への研究者としての引き抜き、あるいは彼女の持つ技術や発見の回収を目的としたものばかりだった。だが、目の前の書状には、これまでとは明らかに違う調子の文言が並んでいた。
「大陸各地で観測されている異変に関する、正式な研究協力の要請――か」
レインは文面を丁寧に読み上げていった。魔導連邦は、これまで各地で報告されてきた大気中の魔力濃度の異常や、その他の異変現象について、アーレントとの間でデータの共有と、対等な立場での研究協力を求めているという内容だった。
「対等な立場での、研究協力……」
エルナは書状を受け取り、自らの目で改めて文面を確認していく。これまで彼女が知る魔導連邦という組織は、成果を出せば横取りし、資金を絶てば黙って従うだろうという、傲慢な姿勢を隠そうともしない組織だった。研究資金を絶たれ、成果を奪われ続けた過去の記憶が、エルナの脳裏に次々と蘇ってくる。
かつて画期的な魔道具の理論を完成させた時、その成果が上司の名で発表されたこと。独自に開発した測定技術が、何の断りもなく他の研究者に転用されたこと。そうした苦い記憶の一つひとつが、今、目の前の書状を読む手を、微かに震わせていた。
「信じられない。あの連邦が、こんな殊勝な態度を取るなんて」
エルナの声には、隠しきれない不信感が滲んでいた。かつて彼女が魔導連邦を去った経緯を知るレインにとって、その不信感の深さは、決して大げさなものではないと分かっていた。
「エルナの気持ちはよく分かる。だが、この書状の内容自体は、これまでとは明らかに性質が違うように見える」
レインは静かにそう指摘した。
「大気中魔力濃度の観測データについて、双方の情報を突き合わせたい、と具体的な提案がある。しかも、一方的な要求ではなく、連邦側からも観測データを提供する用意があると明記されている」
レインは書状の文言を、一字一句丁寧に確認しながら伝えた。
「……本当に?」
エルナは半信半疑の表情で、レインの示す箇所に目を通した。確かに、そこには連邦が独自に集めた観測データの概要が、簡単にではあるが記されていた。
その数値の細かさ、観測範囲の広さに、エルナは思わず息を呑んだ。連邦の研究機関が持つ設備と人員を考えれば、これほどの規模の観測が可能であることは、ある意味で当然のことだった。だが、それを実際に目にすると、研究者としての興味を抑えることは容易ではなかった。
その日の午後、エルナは一人、研究室で書状を何度も読み返していた。クロエが心配そうに声をかける。
「エルナ、大丈夫? さっきから難しい顔をしているけれど」
「……魔導連邦から、研究協力の要請が来たの」
エルナは書状をクロエに手渡した。クロエはそれを丁寧に読み進めながら、静かに頷いた。研究室に差し込む午後の光が、二人の間に落ちる影を静かに伸ばしていた。
「確かに、これまでのあの組織とは違う調子ね。少なくとも、文面上は」
クロエは慎重にそう評しながら、書状を丁寧にエルナへ返した。
「文面上は、ね」
エルナは自嘲気味に笑った。
「連邦にいた頃、何度も同じような言葉に騙されてきた。対等な協力、公正な評価――そう言われて差し出したものが、結局は都合よく利用されるだけだったことが何度もある。最初の頃は、私も素直に信じていたのよ。でも、そのたびに裏切られてきた。だから、今回も素直には喜べない」
クロエは静かに耳を傾けながら、エルナの言葉を遮ることなく聞き続けた。
「でも……」
エルナは書状に記された観測データの概要を、改めて見つめた。
「このデータの精度、正直、無視できない。私たちがここ数週間かけて集めてきたものより、はるかに広範囲かつ詳細な観測を、連邦は既に行っているみたい」
エルナは悔しさと興奮の入り混じった表情で、そう漏らした。
研究者としての本能が、エルナの中で警戒心とせめぎ合っていた。過去の苦い経験から来る不信感と、目の前にある貴重なデータへの純粋な興味。その両方が、彼女の胸の中で激しくぶつかり合っていた。
「エルナ、あなたはどうしたいの?」
クロエの問いに、エルナはしばらく黙り込んだ。窓の外を眺めながら、彼女は自分の中の葛藤と、正面から向き合おうとしていた。研究室に落ちる西日が、彼女の横顔を静かに照らしていた。
「正直、分からない。データは喉から手が出るほど欲しい。でも、また利用されるだけなんじゃないかっていう不安が、どうしても拭えない」
「一つ、聞いてもいい?」
「なに?」
「もし、情報のやり取りを、完全に対等な形に限定できるとしたら、どう?」
クロエは静かに、しかし明確な提案として、その言葉を投げかけた。
クロエの問いに、エルナは顔を上げた。
「対等な形、というと?」
エルナは身を乗り出すようにして尋ねた。
「核心的な独自技術や、聖剣覚醒に関する詳細な研究成果までは渡さない。あくまで、異変解析に関するデータのみを、双方が同じ条件で共有する。そういう形になるなら、悪い話ではないと思うわ」
クロエは淡々とした口調ながら、要点を的確に整理してみせた。
クロエの提案に、エルナはしばらく考え込んだ。
「……限定的な協力、ということね」
エルナは静かに繰り返しながら、その言葉を自分の中で噛み砕いていった。
「ええ。全てを差し出す必要はない。必要な部分だけを、慎重に選んで共有すればいい。あなたが積み上げてきた成果まで、無防備に渡す必要はどこにもないわ」
クロエの言葉は、いつものように簡潔だったが、その一言一言に、エルナへの確かな気遣いが込められていた。
エルナは書状を改めて見つめながら、静かに考えを巡らせていた。クロエの提案は、これまで彼女が抱えていた不安に、一つの現実的な解決策を示してくれるものだった。
「そもそも、なぜ連邦は急にこんな提案をしてきたのかしら」
エルナがふと疑問を口にすると、クロエは冷静に分析を始めた。
「おそらく、連邦自身も、この異変の正体を掴みかねているんだと思う。これまでのように、力ずくで他者の成果を奪うだけでは、対応できない規模の現象だと、向こうも気づき始めているんじゃないかしら」
「……確かに。世界崩壊現象の規模を考えれば、一国だけの研究者で太刀打ちできるものじゃない」
エルナは静かに頷いた。連邦の態度が変わった背景には、彼らなりの切実な事情があるのかもしれない。そう考えると、これまでの不信感一色だった感情の中に、わずかながら理解の余地が生まれてくるのを、エルナは感じていた。
「それに、獣王国が既に各国に使者を送っているという話も、連邦の耳に届いているはずよ。伝承という形で、他国が独自の手がかりを持っていると知れば、連邦としても、これまでのやり方を見直さざるを得なかったのかもしれない」
クロエの分析に、エルナは深く納得した。合理的に物事を捉えるクロエの視点は、感情的になりがちなエルナの思考を、いつも冷静な方向へと導いてくれる。
「連邦の中にも、私と同じように、力による解決に疑問を持っている研究者がいるのかもしれないわね」
エルナがぽつりと呟くと、クロエは静かに頷いた。
「可能性はあると思う。少なくとも、この書状を書いた人物は、あなたが思っているような傲慢な人間ではないかもしれない」
その言葉に、エルナは少しだけ、心が軽くなるのを感じていた。
夕刻、エルナはレインの執務室を再び訪れた。窓の外には、茜色に染まりつつある空が広がっていた。
「レイン、少し考えがまとまった」
「聞かせてくれ」
「魔導連邦の申し出、限定的な形でなら受けようと思う。核心的な独自技術は渡さない。異変解析に関するデータのみを、対等な条件で共有する形で」
レインは静かにエルナの言葉に耳を傾けた。
「今度は、利用されるだけの立場じゃない。対等な条件で渡り合ってみせる」
エルナの声には、これまでの不信感を乗り越えようとする、確かな決意が宿っていた。過去の自分と決別し、新しい形で連邦と向き合おうとする、その覚悟が、レインにもはっきりと伝わってきた。
「わかった。エルナがそう判断するなら、俺はそれを尊重する」
レインは静かに、しかし迷いのない声でそう答えた。
レインの言葉に、エルナは少し驚いたような表情を見せた。
「反対しないの?」
エルナは思わず問い返した。これまでの経験上、誰かが自分の判断に、こうもあっさりと信頼を寄せてくれることは、決して当たり前のことではなかった。
「お前が、これまでの経験を踏まえた上で、それでも前に進むと決めたんだ。その判断を、俺が横から口を出す必要はない」
レインは静かに、しかし確かな信頼を込めてそう言った。
「エルナの成長を、俺は静かに見守っている。全面的に、お前の判断に委ねるつもりだ」
その言葉に、エルナは胸の奥が温かくなるのを感じた。かつて誰にも自分の判断を信じてもらえなかった日々を思えば、この信頼は何よりも得難いものだった。
「一つだけ、条件を付けさせてほしい。もし少しでも連邦側が約束を違えるような素振りを見せたら、即座に協力を打ち切る。それでいいか」
「ええ、もちろん。私も、そのつもりよ」
エルナはきっぱりとそう答えた。かつての自分であれば、こうした強気な条件を口にすることすら、躊躇っていたかもしれない。だが今は、対等な立場で交渉することへの確かな自信が、彼女の中に根付いていた。魔導連邦という組織の看板の大きさに怯むことなく、一人の研究者として、堂々と条件を提示できる自分がいる。その事実に、エルナは静かな誇らしさを感じていた。
「それと、もう一つ」
レインが付け加えた。
「もしこの協力を通じて、連邦側が誠実な姿勢を見せ続けるようなら、いずれはもう少し踏み込んだ関係も築けるかもしれない。焦る必要はないが、その可能性は頭の片隅に置いておくといい」
「……そうね。少なくとも、今すぐには信じきれないけれど、いつかそんな日が来るなら、それはそれで悪くないと思う」
エルナは静かにそう答えた。過去を完全に忘れることはできなくても、少しずつ前を向いていくことはできる。そんな確かな手応えを、エルナはこの日、静かに感じ取っていた。
その夜、研究室に一人残ったエルナは、机の上に広げた書状を、改めて見つめていた。
過去の苦い記憶は、簡単には消えない。だが、今のエルナは、あの頃とは違う。アーレントという確かな居場所があり、共に歩む仲間たちがいる。そして何より、対等に渡り合うだけの実力と自信を、この数年で確かに積み上げてきた。
「今度こそ、利用されるだけの立場には戻らない」
エルナは静かに呟くと、返信のための文面を書き始めた。限定的な協力の条件、共有するデータの範囲、そして今後の連絡体制。一つひとつを慎重に、しかし確かな筆致で書き記していく。
ペンを走らせながら、エルナはふと、これまでの自分を振り返った。魔導連邦を追われるようにして去った日、自分にはもう研究者としての未来などないのではないかと、絶望しかけた夜があった。あの頃の自分に、今のこの状況を伝えたら、きっと信じられないと言うだろう。
深藍色の鉱石を手にしたあの日から、今日この瞬間まで、本当に多くのことがあった。長年追い求めてきた研究の核心と噛み合う鉱石との出会い、アーレントでの新たな研究環境、クロエという得難い研究パートナーとの出会い、そして聖剣覚醒という大きな成果。どれもが、あの日絶望していたエルナには、想像すらできなかったものばかりだった。
「私は、もう昔の私じゃない」
エルナは書き終えた返信の文面を、改めて読み返した。そこには、かつての卑屈さも、過剰な警戒心も見られない。ただ、対等な立場で知恵を交わし合おうとする、確かな研究者としての矜持だけがあった。
窓の外には、静かな夜のアーレントが広がっている。かつて研究資金を絶たれ、成果を横取りされ続けた日々からは想像もできないほど、今のエルナは確かな足場の上に立っていた。この街で得た信頼と実力を武器に、エルナは今、かつての自分を縛り付けていた過去と、静かに向き合おうとしていた。
返信の文面を封筒に収めながら、エルナは静かに、しかし確かな決意を胸に刻んでいた。この一通の書状のやり取りが、これから訪れるであろう大きな戦いにおいて、確かな一歩になることを、彼女は信じていた。




