第41話 閑話・エルナとクロエの研究室
獣王国の使者ガロンが持参した伝承の写しは、彼が去った後、正式にエルナとクロエの研究室へと届けられた。これまで大気中の魔力濃度の異常を観測し続けてきた二人にとって、この古い記録は、これまでのデータと突き合わせるべき、極めて重要な資料だった。
研究室の机には、これまで街の各所から集めてきた観測データの束と、獣王国から届いたばかりの巻物の写しが並べられていた。窓の外では、いつも通りの穏やかな午後の光が降り注いでいる。エルナが淹れたばかりの茶の湯気が、静かに立ち上っていた。
「世界の傷、か……」
エルナは巻物の写しを机に広げながら、静かに呟いた。獣王国独特の古代文字で記されたその記述を、彼女は苦労しながら読み解いていく。九百八十年前という気の遠くなるような歳月を経てなお、こうして文字として残されている記録の重みに、エルナは改めて身の引き締まる思いを覚えていた。それは、この分野の研究者としての矜持を、静かに揺さぶるものでもあった。
「クロエ、この文字、あなたの方が読めるんじゃない? 昔、古代語の研究にも手を出してたでしょう」
エルナは巻物を指差しながら、期待を込めた眼差しをクロエに向けた。
「少しだけなら」
クロエは眼鏡の位置を直しながら、巻物を覗き込んだ。指先で文字の一つひとつをなぞりながら、これまでの魔道具設計理論の知識と照らし合わせ、慎重に解読を進めていく。しばらくの沈黙の後、彼女は静かに口を開いた。
「基本的な文法は、現代の共通語とそう変わらないみたい。ただ、いくつかの単語が独特ね。おそらく、獣王国特有の概念を表す言葉なんだと思うわ」
「さすがね。私一人だと、半分も読み解けなかったと思うわ」
エルナは素直に感心した様子で、クロエの手元を覗き込んだ。長年の付き合いの中で、こうして互いの得意分野を素直に認め合える関係が、いつしか当たり前のものになっていた。
「これまでの観測データと、伝承の記述を照らし合わせてみましょう」
エルナはそう言うと、机の上に散らばっていたこれまでの観測記録を、一枚ずつ丁寧に並べていった。大気中の魔力濃度の揺らぎ、その周期性、そして街の各所に設置した観測点から届いたデータ。数週間にわたって蓄積されてきたこれらの記録は、今やかなりの厚みを持つようになっていた。改めて見返すと、最初に観測点を設置したあの夜から、随分と長い道のりを歩んできたのだと、エルナは実感していた。
「伝承によれば、九百八十年前の現象は、二年の月日を要したとある。だとすれば、この揺らぎの周期も、もっと長いスパンで見る必要があるかもしれない」
エルナは巻物の記述と手元のデータを何度も見比べながら、慎重に言葉を選んだ。
「一週間や十日の観測データだけじゃ、全体像は掴めない、ということね」
クロエの指摘に、エルナは頷いた。互いの言葉を継ぎ足すようにして、二人の議論はさらに深まっていく。
「そう。もっと長期的な視点で、データを蓄積していく必要がある。これまでの観測点の数も、正直まだ足りないと思う」
エルナは腕を組みながら、これまでの観測記録を改めて見渡した。地道な作業の積み重ねこそが、この見えない脅威の正体を暴く唯一の道だと、彼女は確信していた。
「観測点を増やすなら、周辺の村々にも協力を仰ぐ必要があるわね。ミーナに相談してみましょうか」
クロエはそう提案しながら、既に頭の中で必要な観測機材の数を計算し始めていた。彼女らしい、無駄のない思考の運び方だった。
二人は互いの意見を交わしながら、次第に今後の研究計画を具体化させていった。研究者としての探究心が、まだ姿の見えない脅威に対して、静かに、しかし確かに燃え上がっていくのを、エルナは自分自身の中に感じていた。
「それと、獣王国の研究者との交流も、正式に決まったそうよ。セリアから聞いたわよ」
「それは楽しみね。向こうの伝承研究の知見と、こちらの観測データを組み合わせれば、きっと今まで見えなかったものが見えてくるはずよ」
エルナの声には、久しぶりに聞くような、純粋な研究者としての高揚感が滲んでいた。魔導連邦にいた頃には決して得られなかった、対等な立場での知的交流への期待が、彼女の胸を静かに膨らませていた。長年、成果を横取りされ続けてきた過去を思えば、こうして対等に知見を交換し合える相手が現れることは、エルナにとって何よりも得難いものだった。
「そういえば」
クロエが不意に口を開いた。
「あなたと出会ったのは、もう二年前になるかしら」
「そんなに経つの? ……もっと最近のことのような気もするけど」
エルナは手を止め、少し驚いたような表情を浮かべた。時の流れの早さを、改めて実感させられる問いだった。
「あなたが装備の調達で未来商会を訪ねてきた時のこと、覚えてる? あの時は、まさか自分がこの街で研究をすることになるなんて、想像もしていなかった」
「ええ。あの頃の私は、パーティーの装備が老朽化していることばかり気にしていたわ。まさか、あの依頼がきっかけで、こんな風に人生が変わるとは思わなかった」
クロエは静かに、しかし珍しく感慨深そうな声で言った。窓の外を眺めるその横顔には、当時を懐かしむような、柔らかな色が浮かんでいた。
「魔導連邦で研究資金を絶たれていた頃の私は、正直、研究者としての未来なんてほとんど諦めかけていた。誰にも成果を評価されず、横取りされ続ける日々に、いい加減嫌気が差していたから」
エルナは当時を思い出すように、遠い目をしながら続けた。
「そんな時に、レインが深藍色の鉱石を見せてくれた。あれを一目見た瞬間、自分の中で何かが弾けるような感覚があったの。長年追い求めてきた研究の核心と、完璧に噛み合う性質を持っていた。あの鉱石がなければ、私は今もどこかで、埃を被った研究資料と向き合っていたかもしれない」
「あなたがアーレントに来てからの変化は、傍から見ていてもよく分かったわ。研究室の棚の位置を勝手に変え始めた時は、さすがに驚いたけれど」
「あれは、私なりのこだわりがあったのよ! あの配置じゃ、実験器具の動線が悪すぎたの」
エルナが少しむきになって言い返すと、クロエは珍しく小さく笑った。
「そうやってすぐムキになるところも、あの頃から変わっていないわね」
クロエは口元にわずかな笑みを浮かべながら、そう指摘した。
「悪い?」
「別に。むしろ、そういうところが、あなたらしくていいと思っているわ」
思いがけない言葉に、エルナは一瞬言葉を失った。普段、感情をあまり表に出さないクロエからのそんな一言は、エルナにとって、何よりも嬉しい類の褒め言葉だった。頬がほんのり赤らむのを感じながら、エルナは慌てて視線を資料へと戻した。
「あなたの方こそ、よく私についてきてくれたわよね。パーティーを離れる時、随分と悩んでいたじゃない」
エルナが尋ねると、クロエは少し間を置いてから答えた。
「ガルドとリリアが去った後、私一人でパーティーに残る意味はもうなかった。それに、レインさんが提示してくれた研究環境は、魔導連邦にいた頃よりもずっと自由で、可能性に満ちていた。合理的に考えれば、選択肢は一つしかなかったわ」
「相変わらず、合理主義ね」
「あなたほどじゃないわ」
軽口を交わし合いながら、二人は互いに小さく笑みを浮かべた。魔道具研究者としての探究心で結ばれた二人の関係は、いつしか、研究パートナーという枠を超えた、確かな友情へと育っていた。
「あの頃の私は、正直、自分の判断が正しいのか、確信が持てなかった。パーティーという居場所を失うことへの不安も、少なからずあった」
クロエが珍しく本音を漏らすと、エルナは静かに耳を傾けた。彼女がこうして弱さを見せることは、これまでほとんどなかったことだった。
「でも、こうして今、あなたと一緒に研究を続けられていることを考えると、あの時の決断は間違っていなかったと思える。合理的な判断だけじゃなく、直感的にも、これでよかったんだって」
クロエは机の上の観測データにそっと目を落としながら、静かにそう続けた。
「珍しいわね、あなたがそんな風に感情的なことを言うなんて」
「たまにはいいでしょう。あなたに影響されたのかもしれないわ」
クロエの言葉に、エルナは思わず声を上げて笑った。この数年で培われてきた二人の信頼関係が、こうした何気ない会話の端々にも、確かに滲み出ていた。
「クロエ、私たちがここまで来られたのは、あなたがいてくれたからだと、心からそう思う」
エルナが不意にそう漏らすと、クロエは少し驚いたように顔を上げた。
「らしくないことを言うのね」
「たまにはいいでしょう。……魔導連邦にいた頃の私は、誰かと本音で語り合うことなんて、ほとんどなかった。研究の話ばかりで、心を許せる相手なんていなかったから」
「私も、似たようなものだったわ。パーティーの中では、いつも冷静な役回りを求められていたから、本音を漏らす機会なんてほとんどなかった」
二人はしばらくの間、無言のまま、それぞれの過去に思いを馳せていた。窓の外には、夕暮れから夜へと移り変わっていく空が広がっている。橙色から藍色へと静かに変わっていくその空の色は、二人が歩んできたこれまでの日々を、そっと見守っているかのようだった。
「これから、もっと大変なことになるかもしれないわね」
クロエがぽつりと呟くと、エルナは静かに頷いた。窓の外の空は、いよいよ夜の色に染まりつつあった。
「ええ。世界崩壊現象なんて、正直まだ実感が湧かない部分もある。でも、少なくとも一つだけ、はっきりしてることがある」
エルナは巻物と観測データを見比べながら、静かに続けた。
「何?」
「あなたと一緒になら、どんな困難にも立ち向かえる気がする、ということよ」
エルナは照れくささを隠すように、少し早口でそう言い切った。
エルナの言葉に、クロエは一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻った。
「合理的とは言えない発言ね。でも……悪くないわ」
その短い返答に込められた確かな信頼を、エルナは静かに受け止めていた。
深夜、研究室にはまだ灯りが点いていた。観測データの整理と、伝承の記述との突き合わせに没頭していたエルナとクロエは、いつしか作業の疲れからか、机に突っ伏すようにして眠り込んでしまっていた。机の上には、書きかけの計算式や、開いたままの巻物が散らばっている。
見回りの途中で研究棟に立ち寄ったカイが、灯りの点いたままの窓に気づいて顔を出したのは、そんな時だった。夜風が冷たく吹き抜ける中、研究棟の窓だけがぼんやりと光を灯していた。
「……また、こんな時間まで」
カイは苦笑しながら、静かに研究室の扉を開けた。机に突っ伏して眠る二人の姿は、いつもの研究者らしい鋭さとは違う、どこか無防備な様子を見せていた。エルナの手には、まだ羽根ペンが握られたままだった。
カイは物音を立てないよう気をつけながら、詰所から持ってきた毛布を、そっと二人の肩にかけた。エルナが小さく寝言のようなものを呟き、クロエが微かに身じろぎしたが、二人とも目を覚ます様子はなかった。
「無理しすぎですよ、二人とも」
カイは小さく呟くと、机の上に散らばった資料を、邪魔にならないよう静かに整えた。伝承の巻物、観測データの記録、細かな計算式の書かれた紙束。この一枚一枚が、これから訪れるかもしれない大きな脅威に立ち向かうための、確かな足がかりになっているのだと、カイは改めて実感していた。二人の研究がなければ、自分の聖剣が今の姿になることもなかったのだと思うと、その資料の一枚一枚が、いつも以上に重みを持って感じられた。
資料を整理しながら、カイはふと、この数ヶ月の二人の姿を思い返していた。深夜まで熱心に議論を交わし、時に意見をぶつけ合いながらも、着実に成果を積み重ねてきた二人。その姿は、聖剣の力とはまた違う種類の、確かな強さを持っているように、カイには思えた。
思えば、聖剣覚醒の儀式を成功させたのも、この二人の研究があったからこそだった。錆びた剣の内部に眠っていた力を引き出し、カイに新たな道を開いてくれた恩人でもある。そんな二人が、今また新たな脅威に向き合うため、こうして夜を徹して研究に打ち込んでいる。その事実に、カイは改めて深い感謝の念を抱いていた。
「二人とも、俺なんかよりずっと、この街のために頑張ってるんだよな」
カイは静かにそう呟くと、灯りを少しだけ落とした。研究室に差し込む月明かりが、眠る二人の穏やかな表情をやわらかく照らし出していた。ここ数ヶ月、街のために奔走し続けてきた二人にとって、こうしたささやかな休息もまた、必要なものなのだろうと、カイは静かに思った。
扉を閉める間際、振り返って見た二人の穏やかな寝顔に、カイは思わず小さく微笑んだ。
この街に集う一人ひとりが、それぞれのやり方で、この見えない脅威に立ち向かおうとしている。その事実が、カイの胸に、静かな、しかし確かな心強さをもたらしていた。
夜のアーレントは、いつもと変わらぬ静けさに包まれている。研究室の窓辺では、まだ二人の穏やかな寝息だけが、静かに、そして優しく続いていた。窓の外に広がる夜空には、数え切れないほどの星々が瞬いている。その静かな光景の下で、この街に暮らす人々のそれぞれの想いが、確かに、次の一歩へと繋がっていくのだった。




