第4話 奴隷商でミーナと出会う
アーレントの領都は、ロウゲイトとは比べものにならなかった。
といっても、王都の水準で見れば地方の小都市に過ぎない。石畳の大通りが一本、それを中心に商店と民家が並んでいる。市場は週に三日、広場を使って立つ。冒険者ギルド、商人ギルド、教会、宿が数軒。それだけだ。
だが、ロウゲイトの静けさと比べれば、ここは十分に賑やかだった。馬車の往来があり、商人の怒鳴り声があり、子どもが走り回っている。人の気配が、ある。
俺はクロを宿の厩舎に預け、荷物を部屋に置いてから、早速町を歩いた。
神眼鑑定を流しながら、全体の地勢を把握する。
この町の未来を、俺はすでに大筋で把握していた。十年後の姿、主要な変化のタイミング、どこに投資すれば価値が出るか。だが大筋を知っていても、現場に立てば見えてくるものが必ずある。地図と実物は違う。情報と現実も違う。
一時間ほど歩いて、町の輪郭を頭に叩き込んだ。
そして、問題の場所を見つけた。
*
奴隷市は、町の東端にある。
正確には、商人ギルドから許可を得た業者が、空き地に仮設の囲いを作って立てる臨時の市だ。常設ではなく、月に一度あるかないかの頻度で開かれる。
今日がその日だった。
囲いの外から見ても、それとわかる雰囲気があった。木の柵に粗末な幕が張られ、入り口には人相の悪い男が二人立っている。中からは、複数の気配と、低く抑えた声が聞こえてきた。
俺は入り口の男に声をかけた。
「見学できますか」
男は俺を上から下まで眺めた。身なりを値踏みしているのだろう。追放されてから半月以上が経ち、旅の埃をまとった格好ではあるが、着ているものは悪くない。鑑定士として収入があった頃に揃えたものだ。
「銀貨一枚」
「分かりました」
俺は銅貨の内訳で一枚分を渡し、中に入った。
囲いの内側は、思ったより広かった。中央に通路があり、両側に木格子の区画が並んでいる。区画の中に、それぞれ人がいた。
数は十五人ほど。年齢も性別もばらばらだ。共通しているのは、全員が疲弊した顔をしていることと、足首に鉄の輪がはめられていることだった。
俺は神眼鑑定を流した。感情的になっても仕方がない。まず状況を把握する。
区画を順に見ていく。
一人目。壮年の男。元農夫、借金のかたに売られたと思われる。現在価値、労働力として並。未来価値、特に変化なし。
二人目。中年の女性。家事全般に長けている。現在価値、家政婦として標準的。未来価値、特に変化なし。
三人目。若い男。体格がいい。戦闘スキルあり。冒険者崩れか。現在価値、護衛として並。未来価値、三年後に転落していく軌跡が見える。問題を抱えているようだ。
俺は順に目を走らせていった。
そして、囲いの奥の区画に差し掛かったとき、俺の足が止まった。
*
狐耳だった。
薄汚れた灰色の布を身に纏い、区画の隅に膝を抱えて座っている。獣人特有の耳が、細い肩の上でぺたりと伏せられていた。尻尾も、体に巻きついたまま動かない。
年齢は俺と同じくらいか、少し下か。顔立ちは整っているが、今は疲弊と警戒で硬くなっている。
俺は神眼鑑定を向けた。
狐獣人の少女。年齢、推定二十歳。現在の状態――奴隷、三ヶ月以上の拘束、栄養不足、精神的疲弊。スキル、交渉術・中級、数値把握・上級、市場分析・中級。適職――
適職の情報が展開されるのを、俺は静かに待った。
商人。大商人。……大陸商会長。
将来の価値――十年後、未来商会の主要幹部として、大陸全土に渡る交易網の構築に中心的な役割を果たす。商才の評価、天賦。覚醒可能性――高。世界への影響――レイン・アークの事業を支える根幹となる。
俺は一度、目を閉じた。
間違いない。この子だ。
だが、手帳に書いた情報と、実際に目の前にしたものは、やはり違う。情報として知っていても、こうして見れば、ただの疲れた若い女性がそこにいるだけだ。商才が天賦だとか、十年後に大陸商会長になるとか、そういうことは今の彼女の顔には何も映っていない。
ただ、囲いの中にいる。
俺は視線を落とし、少し考えた。
感情で動く気はない。ただ、計算は合う。この子の商才を正しく使えれば、俺の事業の速度は格段に上がる。そして彼女にとっても、ここにいるよりは明らかにいい未来がある。双方にとって意味のある取引だ。
俺は業者の男を探した。
*
業者は囲いの入り口近くに陣取っていた。四十代の太った男で、胸に商人ギルドの仮鑑定士の徽章をつけている。
「あの奥の狐獣人を見せてもらえますか」
男は値踏みするような目で俺を見た。
「お目が高い。あれは珍しい品でしてね。獣人は労働力として優秀ですし、あの娘は特に」
「価格は」
「金貨五枚です」
俺は少し考えた。手持ちは金貨十八枚ほど。払えなくはないが、ここから商会を立ち上げるための元手だ。使えば痛い。
だが、神眼鑑定が示す未来を考えれば、この投資の回収は早い。
「鑑定を先にさせてもらえますか。私は鑑定士です」
「どうぞ」
男が囲いの扉を開けた。俺は中に入り、少女の前に膝をついた。
少女は顔を上げた。警戒した目だ。狐の耳が、わずかに動いた。
「怖がらせるつもりはない」と俺は言った。「鑑定をしたい。いいですか」
少女は答えなかった。だが逃げようともしなかった。
俺は改めて神眼鑑定を行使し、今度は詳細に情報を引き出した。スキルの内訳、成長速度、過去の経緯。
三ヶ月前まで、この少女は行商人の補助として働いていたらしい。雇われの身だったが、雇い主が借金を抱えて夜逃げし、その穴埋めのために売られた。本人に非はまったくない。
働いていた期間は二年弱。その短い間に、数値把握と市場分析のスキルが中級まで伸びている。通常では考えられない速度だ。
俺は立ち上がり、業者の男に向き直った。
「金貨三枚にしてもらえますか」
男の顔が変わった。「なりません。五枚が相場です」
「この子のスキルは確かです。ただ、獣人奴隷の現在の市場価格は金貨三から四枚が標準帯です。五枚は高い」
「ご存知なら、優良品ということもご存知でしょう」
「四枚なら出します」
男はしばらく俺を見てから、首を横に振った。「四枚半」
「四枚と、情報を一つ」
「情報?」
「この町の東側に、来月から新しい街道が通ります。物流が変わる。今のうちに東側の倉庫を押さえておくと、半年後に値が上がります」
俺が神眼鑑定で得ていた情報だ。嘘ではない。
男は少し考えた。商人の目になっていた。
「……四枚で手を打ちましょう」
*
手続きが終わり、俺たちは奴隷市の外に出た。
少女は俺の半歩後ろを、黙ってついてきた。足首の鉄輪は外され、代わりに解放証明の書類が俺の手にある。制度上は、俺が買い取ったという形だ。
町の広場まで来たところで、俺は立ち止まって振り向いた。
「名前を聞いていなかった」
少女はしばらく黙っていた。それから、静かに答えた。
「……ミーナ」
「ミーナ。俺はレイン・アークだ。鑑定士をしている」
「……知ってる。あの中で、聞こえてた」
「そうか」
俺は少し考えてから、続けた。
「一つ、確認したいことがある」
「何を」
「お前は俺に、何かを負っていると思っているか」
ミーナが顔を上げた。警戒の色が少し変わった。
「……思ってる。四枚出してもらった。返せるあてはない」
「返さなくていい」
「は?」
「俺はお前を買ったわけじゃない。正確には、俺はお前に仕事の提案をしたい。受けるかどうかは、お前が決めることだ」
ミーナは黙って俺を見ていた。狐の耳が、今度は少し立っている。
「俺はこの辺境で商会を立ち上げるつもりだ。まだ何もない。金はあるが、人手がない。お前のスキルを見た。商才がある。一緒にやらないか」
「……なんで、私に」
「価値があると見えたから」
ミーナは少しの間、俺の顔を見ていた。値踏みするような目だった。疲弊しているはずなのに、その目は鋭かった。
「信じる理由が、ない」
「ない」と俺は認めた。「ただ、ここで断っても、お前には今夜泊まる場所がない。飯もない。まず今夜の宿と食事を用意する。それだけ保証する。その上で、話を聞いてから決めてくれ」
ミーナはしばらく黙った。
それから、短く言った。
「……分かった」
*
宿の食堂に席を取り、夕食を頼んだ。
ミーナはスープと黒パンが来ると、一瞬だけ手を止めた。それから、ゆっくり食べ始めた。急いでいないように見せているが、三口目あたりからペースが上がった。腹が減っていたのだろう。
俺は自分の分を食べながら、話を切り出した。
「商会の事業は、まず鉱石と農産物から始めるつもりだ。この辺境には、まだ誰も気づいていない価値がある。俺にはそれが見える。ただ、俺は交渉と流通が得意じゃない」
「……鑑定士なのに、商売をするのか」
「鑑定士だから、商売ができる。価値が見えれば、あとは動くだけだ」
ミーナはスープを一口飲んでから、俺を見た。
「あなたの言う、私の価値って何」
「数値把握と市場分析が中級まで伸びている。二年足らずで。普通じゃない」
「……普通かどうかは知らない。やってたら伸びた」
「それが才能だ」
ミーナは少し黙った。
「なんで私を奴隷市から出した。商会員を雇う方法は他にもあったはずだ」
俺は正直に答えた。
「お前の未来の価値が見えた。あそこにいるのは無駄だと判断した」
「無駄」
「お前がいるべき場所じゃないという意味だ」
ミーナはしばらく俺の顔を見ていた。
それから、ふっと小さく息を吐いた。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。何かを受け入れたような、そういう顔だった。
「……一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「その『未来が見える』っていうのは、本当か」
「本当だ」
「証明できるか」
俺は少し考えた。
「今すぐは難しい。ただ――」
俺は食堂の窓の外を見た。夕暮れの広場に、数人の商人が荷物をまとめているのが見える。その中の一人、青いマントを着た男に神眼鑑定を向けた。
「あそこに青いマントの商人がいる。明日の朝、あの男は馬の蹄が割れてここを発てなくなる。宿で一日足止めを食う。そのとき、俺たちが持っている換え蹄鉄を売れば、通常の三倍で買う」
ミーナが窓の外に目を向けた。
「……三倍で買うのか」
「足止めを食えば焦る。馬具を持っていないことが分かれば、相場より高くても買う。明日の朝、確認してくれ」
ミーナは窓の外の商人と、俺の顔を交互に見た。
「……換え蹄鉄は、どこで買う」
「今夜のうちに馬具屋で仕入れる。一枚銅貨十二枚。四枚で一組だから、銅貨四十八枚だ。明日三倍で売れれば、金貨換算で少し足が出る」
ミーナはしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……やってみる」
「決めたのか」
「今夜だけじゃない。商会の話も、乗る。ただし」
ミーナは俺を真っすぐ見た。疲れた顔の中に、今初めて別の光が宿っていた。
「対等にやりたい。使われるんじゃなく、一緒にやる。それが条件だ」
俺は少し考えてから、うなずいた。
「構わない。むしろその方がいい」
「……分かった」
ミーナはパンをちぎって口に入れた。それから、窓の外の商人に目を向けたまま、小さく言った。
「その蹄鉄、私が交渉する。三倍より高く売れるか、試してみる」
*
翌朝。
青いマントの商人は、果たして宿の前で立ち往生していた。馬の蹄が割れ、出発できなくなっている。男の顔には焦りがあった。今日中に次の町に着かなければ商談に間に合わないらしく、御者に向かって怒鳴り散らしていた。
俺は少し離れた場所で様子を見ていた。
ミーナが前に出た。
「旅のお困りのようですね」
商人が振り返った。ミーナを一目見て、値踏みする目になった。
「馬具屋は今日は休みです。お急ぎでしたら、私どもがお手伝いできます」
「蹄鉄があるのか」
「一組、持ち合わせています」
「いくらだ」
「銅貨百二十枚で」
俺は心の中で計算した。仕入れ値の倍半だ。俺が言った三倍よりは低い。
だが次の瞬間、ミーナが続けた。
「ただし、こちらの蹄鉄職人に打ち直しもお願いすれば、今日中に出発できるよう仕上げます。職人の手間賃込みで、銅貨百五十枚でいかがでしょう」
商人はしばらく考えた。
「……百五十で頼む」
ミーナが俺を振り返った。目で「職人の手配を」と言っている。
俺は昨夜のうちに宿の主人から聞いておいた馬具職人の場所を思い出し、すぐに動いた。
手配が終わり、商人が去ったあと、ミーナが俺の隣に来た。
「百五十枚になった」
「分かった」
「文句あるか」
「ない。なぜ百五十にした」
「職人を手配するなら手間賃が乗る。それを最初から含めた方が、交渉の手間が減る。商人は時間を買いたいんだから、金額より速さが先だ」
俺はしばらくミーナを見た。
昨日まで囲いの中にいた人間が、今朝には商談を動かしている。
「筋がいい」
「……そんなことを言う人間は、あなたが初めてだ」
ミーナは短くそう言って、顔を背けた。狐の耳が、少しだけ傾いた。
照れているのか、あるいは別の感情なのか、俺には判断できなかった。だがどちらでもよかった。
俺には見えていた。
この瞬間が、未来商会の本当の始まりだということが。
商会の名前はまだない。看板もない。事務所もない。構成員は二人だけだ。
だが、価値あるものを正しく評価する場所は、もうここから動き始めていた。




