第34話 閑話・カイとガルドの休日
その日は、朝から雲一つない晴天だった。街の空気は澄み渡り、遠くの山並みまではっきりと見渡せるほどだった。
自警団の詰所には「本日、カイ・ガルド両名、非番」という一文が張り出されており、いつもは忙しなく人が出入りする建物の裏手で、カイが大きく伸びをしていた。
「こんなに何もない日、久しぶりな気がする」
「贅沢言うな。お前は元々働きすぎなんだよ」
ガルドが欠伸交じりにそう返しながら、詰所の壁に立てかけていた自分の得物を確認する。休みの日だというのに、無意識に武器の手入れを済ませてしまうあたり、元勇者パーティーの剣士としての癖が抜けきっていないのだろう。
「そういうガルドさんだって、非番の日に武器の手入れしてるじゃないですか」
「これは癖みたいなもんだ。手入れしないと、なんだか落ち着かなくてな。長年の傭兵稼業で染みついた性分は、そう簡単には抜けねえもんさ」
カイは苦笑しながら、自分の腰に差した聖剣に目をやった。純白に輝く刀身は、この数ヶ月ですっかり見慣れた重みを持って腰に馴染んでいる。だが、こうして非番の日に眺めると、改めてその特別さを実感させられる気がした。
「せっかくの非番だ。街をぶらつくか」
「いいですね。俺、まだ行ったことのない店とかあるんですよ」
二人は連れ立って、朝の光に照らされたアーレントの大通りへと繰り出していった。空はどこまでも青く澄み渡り、涼やかな風が二人の間を吹き抜けていく。こんな穏やかな朝を、心置きなく楽しめる日が来るとは、少し前まで思ってもみなかったことだった。行き交う人々の顔にも、これといった曇りはなく、いつも通りの活気に満ちた朝だった。
大通りには、朝から活気ある声が飛び交っていた。露店の主人たちが威勢よく客を呼び込み、荷馬車が石畳を鳴らして通り過ぎていく。難民として流れ着いた者たちも、今ではすっかり街に溶け込み、あちこちの店先で忙しく立ち働いていた。
「ここ数ヶ月で、また店が増えたな」
ガルドが感心したように呟く。傭兵として各地を渡り歩いていた彼の目には、この街の発展速度が異様に映るらしい。
「未来商会が色々と手を貸してるみたいです。ミーナさんが、新しく店を出したい人には融資の相談にも乗ってるって聞きました。この間も、難民だった人が念願だったパン屋を開いたって、街中で評判になってました」
「相変わらず、あの狐獣人は抜け目がないな」
「でも、みんな感謝してますよ。俺も、レインさんに拾われてなかったら、今頃どうなってたか分かりませんし」
カイがそう言うと、ガルドは少し複雑そうな表情を浮かべた。彼自身、かつては追放されたレインをどこか見下していた過去がある。今こうしてアーレントで世話になっている身としては、当時の自分の浅はかさを思い出すたび、居心地の悪さを覚えずにはいられなかった。
「……お前は、レイン殿を随分と慕ってるんだな」
「はい。俺にとっては、命の恩人みたいなものですから。あの人がいなかったら、俺は今頃、あの倉庫裏で野垂れ死んでたかもしれません」
軽口を叩き合いながら、二人は市場の一角にある屋台へと足を向けた。串焼き肉の香ばしい匂いが漂ってくる、カイの行きつけの店だ。
「おっ、カイと自警団の兄ちゃんじゃねえか。今日は非番か」
屋台の主人が威勢よく声をかけてくる。カイは笑って頷き、串焼きを二本注文した。焼きたての肉を頬張りながら、二人は市場を練り歩く人々の様子を眺めていた。子どもたちが露店の間を駆け回り、老人たちが縁台で日向ぼっこをしながら世間話に興じている。
「こういう何気ない景色を見てると、この街を守れてよかったって、しみじみ思いますね」
カイがぽつりと漏らすと、ガルドは串を咥えたまま、横目でカイを見た。
「お前、この数ヶ月でずいぶん喋るようになったな。最初に会った頃は、もっと不愛想だったのに」
「そうですか?」
「ああ。まあ、悪いことじゃない」
ガルドはそう言うと、残りの串焼きを一気に平らげた。市場の喧騒に包まれながら、二人はしばらくの間、他愛のない会話を交わし続けた。
昼下がり、二人は市場を離れ、街外れにある小さな酒場へと足を運んだ。非番の昼間から酒を飲むのは少々褒められたことではないが、ガルドの強い勧めで、カイも軽く果実酒を口にすることになった。
酒場の窓からは、傾き始めた午後の光が差し込み、木のテーブルに柔らかな陰影を落としていた。店主が愛想よく二人に声をかけ、簡単なつまみと共に杯を運んでくる。こういう静かな時間を、ガルドはことのほか好んでいるようだった。
「なあ、カイ。お前、俺の昔の話、聞いたことあるか」
「勇者パーティーにいた頃のことですか? ちらっとしか聞いたことないです」
ガルドは杯を傾けながら、遠い目をして語り始めた。
「俺は元々、腕っぷしだけには自信があってな。若い頃は、それだけでどうにかなると思ってた。だから、勇者アレンのパーティーに誘われた時も、二つ返事で引き受けたもんさ」
「アレンさんのことは、あまり聞いたことないですね」
「あいつは……まあ、悪い奴じゃなかった。ただ、プライドが高すぎた。あと、俺たちも似たようなもんだったな。装備を軽視して、勢いだけで難所に突っ込んで、大失敗をやらかしたことが何度もある」
ガルドは杯を傾けながら、遠い目をして語り始めた。ある時は、ろくに下調べもせずに未踏のダンジョンへ突入し、あわや全滅しかけたこと。またある時は、装備の手入れを怠ったせいで、剣が戦闘中にへし折れたこと。話が進むにつれ、カイは思わず声を上げて笑ってしまった。
「へし折れたって、それ、下手したら死んでたじゃないですか」
「そうなんだよ。リリアの回復魔法がなかったら、今頃俺はこの世にいねえ。あの時のリリアの説教は、魔物との戦闘よりよっぽど怖かったな」
ガルドは杯を空にしながら、遠い記憶を懐かしむように目を細めた。若かりし頃の失敗談を語るその表情には、かつての痛みだけでなく、ある種の吹っ切れたような穏やかさが滲んでいた。
「他にも色々あるぞ。クロエの助言を無視して魔物の巣を刺激しちまって、丸一日追いかけ回されたこともあったな。あの時のクロエの呆れ顔は、今でも忘れられねえ。あいつは何も言わずに、ただじっと俺たちを睨んでるだけだったが、それが一番効いた」
「クロエさん、今も冷静ですもんね。想像つきます」
「昔からああだったよ。あいつだけが、まともに周りを見えてた。俺たちが調子に乗ってる間、あいつだけが冷静に、パーティーの機能不全を見抜いてたんだと思う」
ガルドは杯を弄びながら、しばらく黙り込んだ。当時を振り返る彼の表情には、後悔とも呼べる色が僅かに滲んでいたが、それもすぐに、いつもの気さくな笑みへと変わっていった。
「まあ、今更悔やんでも仕方ねえ。あの失敗があったからこそ、今のここでの暮らしがある。そう思うようにしてる。過去は変えられねえが、それをどう受け止めるかは、自分次第だからな」
「ガルドさんが色々教えてくれるからですよ」
「調子のいいこと言いやがって」
ガルドは笑いながらカイの肩を軽く小突いた。かつての失敗を、今はこうして笑い話として語れるようになったこと自体が、ガルドにとって静かな変化だった。過去に蓋をするのではなく、噛み砕いて受け入れ、それを次の世代に伝える糧にする――アーレントに落ち着いてからのガルドは、いつの間にかそんな姿勢を身につけていた。
「なあ、カイ。お前は、聖剣を重荷に感じることはないのか」
不意にガルドが真剣な口調で尋ねた。店内には他に客も少なく、二人の声だけが静かに響いていた。カイは少し考えてから、正直に答えた。
「正直、時々あります。この剣が、思ってた以上に大きなものと繋がってるかもしれないって考えると、怖くなる時も」
カイは杯の中身を見つめながら、少し言葉を選ぶように続けた。窓の外では、酒場の前を子どもたちが笑いながら駆け抜けていく声が聞こえていた。
「獣王国の伝承がどうとか、そういう大きな話を聞くと、自分がとんでもないものを背負わされてるような気がして……正直、実感が湧かない部分もあります。でも、逃げ出したいとは思わないんです。この剣を手にした時から、覚悟みたいなものは決まってる気がして」
「それでいい。怖さを感じられるうちは、まだ大丈夫だ。怖さを忘れた時が、一番危ない」
ガルドの言葉には、かつて勢いだけで突き進んだ末に痛い目を見た、彼自身の経験が滲んでいた。カイはその言葉を、静かに胸に刻み込んだ。
夕方、二人が街の広場を通りかかると、遊んでいた子どもたちの一団がカイを見つけて駆け寄ってきた。
「あ、カイお兄ちゃんだ! ねえねえ、聖剣見せて!」
「また今度な。今日は休みなんだ」
カイが苦笑しながら断ろうとするが、子どもたちは容易には引き下がらない。目をきらきらさせながら、カイの腰の剣を指差してねだり続ける。中には、難民として流れ着いてきた子もいれば、この街で生まれ育った子もいる。出自は様々でも、聖剣を持つ英雄への憧れという一点だけは、みな共通しているようだった。
「いいじゃねえか、少しくらい」
ガルドがからかうように口を挟むと、カイは根負けしたように肩をすくめた。
「わかったわかった。抜きはしないぞ。柄だけな。ここで抜いたりしたら、レインさんに怒られちまう」
カイが鞘の柄に触れると、子どもたちは歓声を上げた。純白の柄に刻まれた繊細な意匠を、目を輝かせながら覗き込む子どもたち。その無邪気な様子を見つめながら、カイはふと、自分がかつて同じように誰かに憧れを抱いていた頃のことを思い出していた。孤児として倉庫裏で眠っていたあの日、レインに拾われる前の自分には、憧れる対象すらなかった。
「カイお兄ちゃんも、英雄になるの?」
子どもの一人がそう尋ねると、カイは少し考えてから、静かに答えた。
「英雄になりたいわけじゃない。ただ、この街を守れる人間でいたいだけだ」
その言葉に、子どもたちは半分も理解していないような顔をしていたが、それでも何かを感じ取ったのか、素直に頷いていた。中の一人が「じゃあ、カイお兄ちゃんはこの街の英雄だよ!」と屈託なく言い放つと、周りの子どもたちも我先にと同調し始める。カイは苦笑しながらも、その率直な言葉を素直に受け止めた。
子どもたちが再び遊びに戻っていくのを見送りながら、ガルドがぽつりと呟いた。
「いい答えだ」
「え?」
「英雄だからとか、そういう理由で戦うんじゃない、って意味だよ。お前はちゃんと、自分の言葉でそれを言えるようになった」
カイは少し照れくさそうに視線を逸らしたが、その顔にはどこか誇らしげな色が浮かんでいた。
「ガルドさんだって、昔はきっと、誰かに憧れられる剣士だったんじゃないですか」
「どうだかな。今のガキ大将よりは、いくらか腕は立ったかもしれねえが」
ガルドは苦笑しながら答えたが、その言葉の端々には、確かな自負が滲んでいた。若い頃の失敗を経て、今こうして次の世代に何かを教える立場になった自分を、ガルド自身、決して悪くないと思い始めているようだった。
夜、詰所への帰り道、二人は夕焼けに染まる街並みを並んで歩いていた。
「今日は、いい休日だったな」
ガルドがしみじみと呟く。
「はい。ガルドさんの昔話、面白かったです。また今度、聞かせてください。今度はクロエさんの呆れ顔の話、もっと詳しく」
「あんまり自慢できる話じゃないんだがな。まあ、聞きたいなら付き合ってやるよ」
夕焼けに染まる石畳を踏みしめながら、カイはふと、この街に流れる時間の穏やかさを噛みしめていた。世界崩壊現象という言葉こそまだ知らないが、ここ数日、街のあちこちで漂う漠然とした不穏の気配は、カイの肌にも届いていた。だからこそ、こうした何気ない一日の価値を、以前にも増して強く感じずにはいられなかった。
「なあ、ガルドさん。もし、この先何か大きなことが起きても……こういう日常は、守れると思いますか」
不意にこぼれたカイの問いに、ガルドは少し驚いた顔をしたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「守れるかどうかは、正直分からねえ。だが、守ろうとする奴がいる限り、簡単には崩れないもんだ。俺たちみたいなのが、今日みたいな休日を積み重ねていくこと自体が、この街を守ることの一部なんだと、俺は思ってる。難しいことは分からねえが、それだけは確かだ」
「……そうですね」
カイの胸に、ガルドの言葉が静かに染み渡っていった。ガルドという先輩がそばにいてくれることの心強さを、改めて実感する瞬間だった。
「あんまり深く考えすぎるな。今日みたいな日は、ただ楽しめばいい。深刻な話は、必要な時にすればいいんだからよ。今のお前には、休む時にしっかり休む器用さも必要だ」
「はい」
二人は軽口を交わしながら、詰所への道を歩き続けた。何気ない一日ではあったが、師弟としての、そして先輩と後輩としての絆が、静かに、しかし確かに深まっていく一日だった。
街灯りが一つ、また一つと灯り始める中、二人の背中を、穏やかな夕暮れの光がいつまでも照らしていた。その光の向こうに、まだ姿の見えない何かが静かに近づいていることを、この時の二人はまだ知らなかった。だがそれでも、こうして積み重ねられる何気ない日常の一つひとつが、これから訪れるどんな困難に対しても、確かな支えになっていくはずだった。この街に暮らす誰もが、そう信じられるような、穏やかな夜だった。




