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追放された鑑定士ですが、本当の能力は"未来の価値"が見えることでした。王国が滅びてももう遅いので、辺境で商会を作ります  作者: まつたけひめ
第4章

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第33話 商人たちの噂

 商人ギルドの一室に、ダグラスは朝から詰めていた。机の上には各地から届いた報告書が山積みになっている。窓の外では、いつも通り荷馬車が行き交い、商人たちの活気ある声が響いていた。書類を一枚めくるごとに、彼の眉間の皺が深くなっていった。


「またか……」


 ダグラスは小さく呟き、報告書の束から一枚を抜き出した。カルベン峠の西に位置する小規模なダンジョンで、この一週間のうちに二度、魔物の氾濫が発生したという記録だ。通常であれば、その規模のダンジョンで氾濫が起きるのは数ヶ月に一度あるかないか。それが立て続けに、しかも季節外れの時期に起きている。


 ダグラスは辺境伯領の文官として、これまで数え切れないほどの報告書に目を通してきた。作物の不作、街道の陥没、盗賊の出没――どれも珍しいことではないが、それぞれには必ず、季節や地形といった相応の理由があった。だが、今この手の中にある報告書の数々には、その「相応の理由」がどこにも見当たらない。


 目を通し終えた報告書を脇に置き、次の一枚を手に取る。今度は北方の別の街道沿いのダンジョンからの報告だった。内容は先ほどのものとほぼ同じ、通常よりも高い頻度での氾濫の兆候。ダグラスはさらに別の報告書に目を通す。三枚目、四枚目と続けて確認しても、似たような内容が繰り返されるばかりだった。


 報告書の日付を並べてみると、この十日ほどの間に、大陸各地で確認された氾濫の兆候は実に七件に上っていた。過去の記録と照らし合わせても、これほど短期間に集中した例は見当たらない。ダグラスは羽根ペンを取り、それぞれの発生地点と日付を、手元の地図に書き込み始めた。


「これは、偶然で片付けられる数じゃないな」


 文官として長年アーレントの情報収集網を支えてきたダグラスの勘が、これはただの偶然ではないと告げていた。地図に記された印は、まだ明確な規則性を示してはいない。だが、これだけの数が同時期に集中していること自体が、既に十分な異常だった。ダグラスは椅子から立ち上がり、窓の外に広がる何気ない街の日常を、しばらくの間、黙って見つめていた。



    



 商人ギルドの談話室では、行商人たちが数人集まり、世間話に花を咲かせていた。昼過ぎの陽射しが窓から差し込み、テーブルの上に置かれた麦酒の泡がゆっくりと消えていく、いつも通りの穏やかな光景だった。ダグラスは書類仕事の合間、耳を澄ませてその会話に聞き入る。


「なあ、聞いたか。カルベン峠の向こうの村で、収穫前の畑が突然しおれちまったって話」


「ああ、聞いた聞いた。うちの取引先の農家も同じこと言ってたぞ。原因が分からんまま一晩で駄目になったってな」


「それだけじゃない。北の方じゃ、井戸の水が急に濁ったって話も聞くし、獣王国近くじゃ、海の色が変わったって噂もある」


「俺が聞いた話じゃ、東の方の街道でも、夜になると獣どもが妙な鳴き方をするようになったらしい。宿場町の連中は気味悪がって、夜の外出を控え始めてるって話だ」


「そういやうちの商隊も、この間、いつもの野営地で馬が異様に怯えて、なかなか大人しくならなかったんだ。あんなことは初めてだった」


「なんだか、世界がおかしくなってきてる気がするな……」


 最後に呟かれたその一言に、談話室にいた他の商人たちも、なんとなく頷き合っていた。誰も確証があって言っているわけではない。だが、各地から流れてくる小さな異変の噂が積み重なるほどに、漠然とした不安が商人たちの間に静かに広がっているのが、ダグラスにも肌で感じ取れた。


「世界が変わりつつある、か」


 ダグラスは椅子に座り直し、談話室の様子を静かに観察し続けた。商人たちの噂話というのは、時に公式な報告書よりも早く、そして正確に、大陸の実情を映し出すことがある。長年の経験からそれを知っているダグラスは、この漠然とした噂の広がりを、決して軽視すべきではないと判断した。


 談話室を後にしながら、ダグラスは商人たちの言葉を一つひとつ手帳に書き留めていった。畑の異変、井戸水の濁り、獣たちの怯え、海の変色――どれも単体では、天候不順や季節の変わり目で説明がつきそうな些細な出来事だ。だが、これほど広い範囲から、これほど短い期間に集中して報告が上がってくるとなれば、話は別だった。



    



 夕刻、ダグラスは集めた情報を整理し、未来商会本部のレインの執務室を訪ねた。手には、この数日でまとめた報告書の束を抱えている。


「レイン殿、少しお時間よろしいでしょうか」


「ああ、ダグラス。どうぞ」


 レインは書類仕事の手を止め、椅子を勧めた。ダグラスの表情がいつになく硬いことに気づき、レインは僅かに姿勢を正した。ダグラスは報告書を机の上に広げながら、これまでに集めた情報を順を追って説明していく。


「ここ最近、周辺のダンジョンで魔物の氾濫が、季節外れの頻度で発生しているという報告が相次いでおります。カルベン峠周辺だけでも、この一週間で三件。北方の街道沿いでも、同様の報告が二件」


 レインは報告書に目を通しながら、静かに頷いた。


「それだけではありません。商人たちの間では、農作物の突然の異変や、井戸水の濁りといった、些細ながらも不可解な出来事についての噂が、あちこちで語られ始めております。一つひとつは取るに足らない話に思えますが、これほど広範囲から似たような話が集まってくるとなると……」


「無視できない、ということだな」


 レインの言葉に、ダグラスは静かに頷いた。


「はい。行商人たちの間では、『世界が変わりつつある』という言葉が、漠然とした噂として広まりつつあります。根拠のある話ではありませんが、市井の実感としては、決して軽いものではないように思われます」


 レインは報告書を一枚ずつ丁寧に確認していった。ダグラスの整理した情報は、地域ごと、時系列ごとに几帳面にまとめられており、断片的な噂の集合体が、少しずつ一つの輪郭を帯びていくのが見て取れた。


「これは……」


 レインの脳裏に、ここ数日夜ごと見ている、あの断片的な映像がよぎった。大地が裂ける光景、空が変色していく光景。カイが感じた禍々しい気配。エルナとクロエが観測している、大気中の魔力濃度の異常。そして今、ダグラスが持ち込んだ、大陸各地からの小さな異変の噂。どれもが単独では取るに足らないように見えて、それでも一つの大きな流れの中にあるように、レインには思えてならなかった。


「ダグラス、率直に聞きたい。お前は、これをどう見ている」


 レインの問いに、ダグラスは少し考えてから答えた。


「文官として長年、様々な報告に目を通してまいりましたが……これほど広範囲かつ、種類の異なる異変が同時期に集中する例は、記憶にございません。天候不順や作物の不作といった、個別の説明がつく話ではないように思われます」


「そうか」


「もう一点、気になることがございます。商人たちの間では、こうした噂話が広まるほどに、根拠のない不安が先行し、買い占めや値上げといった実害に繋がることが少なくありません。特に食料や薬草といった生活必需品は、噂だけで値が跳ね上がることもございます。異変そのものへの対応と同時に、噂の広がりそのものへの目配りも必要になるかと」


 ダグラスの言葉に、レインは静かに頷いた。文官としての実務的な視点は、いつもレインの判断に堅実な裏付けを与えてくれる。


「ダグラス、この情報は非常に助かる。今後も、周辺各地からの報告には引き続き注意を払ってくれ。些細なことでも構わない。何か気になる噂があれば、すぐに知らせてほしい」


「承知しました」


 ダグラスが一礼して部屋を出ていくと、レインはしばらくの間、机の上に広げられた地図をじっと見つめ続けていた。報告書の束は、これまでレインが受け取ってきたどんな情報とも違う手触りをしていた。国家の未来という、いずれ神眼鑑定で答えの出せる問いとは異なり、これは今この瞬間も、大陸のどこかで静かに進行している現在進行形の異変だった。



    



 その後、レインはミーナを呼び、ダグラスから受け取った報告を共有した。ミーナは報告書に目を通しながら、次第に表情を険しくしていった。


「氾濫の頻発は、交易路にも直接響くわ。カルベン峠周辺で氾濫が続けば、荷馬車の護衛を増やさないといけなくなる。護衛費が嵩めば、当然、取引にも影響が出る」


「ああ。その点は、こちらも懸念している」


「それに、こういう噂って、変な形で広がると商人たちの間に不安が伝染するのよね。実害が出る前に、変に足元を見られたり、買い占めが始まったりする。物流を預かる立場としては、なるべく早く実情を把握しておきたいところだわ」


 ミーナは報告書のページをめくりながら、氾濫の発生地点を頭の中で交易路の地図と重ね合わせていた。幸い、今のところ大規模な氾濫はアーレントに直結する主要な街道からは離れた場所に集中している。だが、この頻度で異常が続けば、いずれ主要な交易路にも影響が及びかねない。長年商売の勘だけで生き抜いてきた彼女にとって、こうした「まだ実害の出ていない予兆」を見逃さないことこそが、危機を未然に防ぐ最善の策だった。


「もし本当に世界規模で何かが起きているなら、いずれ物資の供給網そのものが揺らぐことになる。備蓄は多いに越したことはない。鉱石や薬草だけじゃなく、食料の備蓄量も見直しておくべきかもしれないわ」


 ミーナの言葉に、レインは静かに頷いた。


「異変の正体そのものは、まだ何一つ掴めていない。だが、それによる影響は、既に現実として動き始めている、ということだな」


「そういうこと。……レイン、こういう時こそ、あなたの神眼鑑定が頼りなんだけど」


 ミーナの視線に、レインは小さく首を振った。実のところ、この数日というもの、ミーナから同じような期待の眼差しを向けられるたびに、レインの胸には小さな焦りが積み重なっていた。国家運営の実務を一手に担う彼女にとって、レインの力は、これまで幾度となく道を切り開いてきた最後の拠り所だったからだ。


「試してはいるが、相変わらず、はっきりとした像は結ばない。ダグラスの報告と、エルナたちの観測データを合わせても、今の段階で見えるのは断片だけだ。焦る気持ちは俺も同じだが、無理に力を振り絞ったところで、見えないものが見えるようになるわけではないらしい」


 ミーナは小さくため息をついたが、それ以上は追及しなかった。レインの神眼鑑定が万能ではないことは、これまでの付き合いの中で彼女自身もよく理解していた。焦って答えを急かしたところで、見えないものが見えるようになるわけではない。


「とにかく、今できることを積み重ねるしかないわね。私の方は、交易路の予備策と物資の備蓄を、少しずつ前倒しで進めておくわ。鉱業部にも声をかけて、非常時の備蓄用に鉱石の一部を確保させておく」


「頼む。急な変化に対応できるよう、備えておくに越したことはない。国家運営の実務は、お前に任せていれば安心できる」


「そう思うなら、たまには労いの言葉くらいくれてもいいのに」


 ミーナが軽く笑いながら返すと、張り詰めていた執務室の空気が、少しだけ和らいだ。



    



 夜、執務室に一人残ったレインは、ダグラスから受け取った報告書の束を、もう一度最初から読み返していた。地図を広げ、氾濫の起きたダンジョンの位置、異変の噂が語られた村々の場所に、一つひとつ印をつけていく。


 印は大陸のあちこちに散らばっていた。カルベン峠周辺、北方の街道沿い、獣王国近海、そして名前も知らない小さな村々。だが、こうして地図の上に一つひとつ印を刻んでいくうちに、それらが決してでたらめに散らばっているわけではなく、緩やかな傾向を持って分布しているように、レインには思えてきた。


 印が増えるにつれ、それらが大陸の特定の一箇所――中央部と呼ばれる、これまで誰も詳しく調べたことのない地域に向かって、緩やかに集まっているような、そんな錯覚に似た予感が、レインの中に静かに芽生え始めていた。もちろん、今の段階でそれを確信と呼ぶことはできない。情報はまだあまりに少なく、断片的すぎる。地図上の印の偏りも、単に商人ギルドの情報網が届く範囲の偏りに過ぎない可能性もある。


 それでも、些細な違和感の積み重ねが、少しずつ、しかし確実に、不安の輪郭を帯びていくのを、レインは感じないわけにはいかなかった。


「商人たちの噂、か」


 レインは手帳を開き、静かにペンを走らせた。地図の印と共に、これまで集めた情報の要点を書き記していく。氾濫の頻発、大気の異常、農作物や井戸水の異変、そして自らの神眼鑑定に浮かぶ断片的な光景。一つひとつはまだ確証と呼べるものではない。だが、それらを並べて眺めるとき、レインの胸には拭いようのない予感が確かに存在していた。


 まだ答えは見えない。だが、答えに近づくための小さな欠片が、着実に集まりつつあることだけは、確かなように思えた。


 窓の外に広がる夜のアーレントは、今日もいつも通りの静けさに包まれている。街灯りの下を、酒場帰りの職人たちが陽気に笑いながら通り過ぎていく。その平穏な光景を見下ろしながら、レインは静かに思う。この日常を守るためにも、見えない脅威の正体を、少しでも早く突き止めなければならない、と。


 その静けさの向こうで、大陸のあちこちから届く小さな異変の声が、少しずつ、しかし確実に、一つの大きな物語へと収束し始めていた。

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